「今日の私」と「昨日の私」
「今日の私」と「昨日の私」が同じ「私」である根拠は無い。
しかし「昨日の私」が犯した罪の責任を、他者は「今日の私」に負わせようとする。
そのような他者の欲望によって、「私」の同一性は生じる。
「私」に責任を負わせようとする他者が存在しなければ、「昨日の私」が「今の私」と同一であると考える必用は無い。
「罪の責任」を回避したければ「自己同一性」を放棄すれば良い。
「今の自分」は次の瞬間「別の自分」になるから、他者に何をされても平気になるだろう。
例えば、唐沢俊一は責任回避を優先し「自己同一性」を放棄してる。
| 固定リンク
« 前提とか自明とか | トップページ | 洗脳 »
「思想・哲学・宗教」カテゴリの記事
- 2010年3月tweet(2010.03.31)
- 存在と証拠(2014.04.21)
- 自己保身と自己犠牲(2014.04.21)
- 鏡のアフォーダンス(2014.04.20)
- 犯人と証拠(2014.04.19)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント