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2010年11月26日 (金)

写真と人類学

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「写真とは何か」は文化人類学的な問題である。
文化人類学とは、自国の文化を「土人の風習」と捉え、これを探究する学問である。

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

文化人類学
その学問から派生してホモサピエンス取扱説明書を作れないものでしょうか。
ちなみに説明書の15ページあたりには、「壁に寄せて積み上げられている布団の、壁と布団の隙間に落ちて挟まると苦しいんだか気持ち良いんだか、でもまたやるんだから気持ち良いんだろう」を記述したいと思います。

投稿: 電気蛙 | 2010年11月26日 (金) 19時10分


縛られてる男とするのが好きってドンだけヘンタイさんですかwww
なんかオレのこと獲物をとらえたー!って感じの目で見てんのよww
縛られたままオレしちったわww縄擦れたとこがちょっと痛かったww
http://iphone5.net/rd5/-ij2oto/

投稿: え、縄ってwwえwww | 2010年11月27日 (土) 01時23分

>その学問から派生してホモサピエンス取扱説明書を作れないものでしょうか。

そもそも学問とは、ヒト種の取扱説明書ですね…
ちょっと前までヨーロッパ人は、自分達だけが詳細なマニュアルを持ち、それ以外の「土人」はチラシみたいな粗末なマニュアルしか持っていない、と信じてました。
ところが人類学者が調査すると、土人とバカにしてた人々が、けっこう詳細で高度な、しかもヨーロッパとは全く違う内容のマニュアルを用いてたので、驚いたのです。
そこでヨーロッパの学者は、自分達のマニュアルを絶対視せず、様々なマニュアルを比較しながら、さらに新たな人類共通の説明書の作成に励んでるわけです。

>ちなみに説明書の15ページあたりには、「壁に寄せて積み上げられている布団の、壁と布団の隙間に落ちて挟まると苦しいんだか気持ち良いんだか、でもまたやるんだから気持ち良いんだろう」を記述したいと思います。

こう言うのは、「現代日本」というローカルな説明書に過ぎないのですが、その感覚を絶対視する態度が自国文化のおごりです。
これを謙虚に捉えて検証すると、我々日本人は、布団を神と崇める「布団教」を信仰してることに気付きますw
もっとも、最近はベットへの信仰も拡がってますが、これこそ「クリスマス教団」の陰謀ですwww

投稿: 糸崎@iPhone | 2010年11月27日 (土) 12時19分

うちの寝室の壁はサンドペーパーのようにザラザラしているので、ちょっと共感できてません(笑)なにかの映画で見たようなお女郎さんが沢山いるおみせの布団部屋のような所を想像しつつ、またやりたくなるようなイメージを膨らませています。

「仕様書」はどうでしょう、J-OSに当然あるだろうと思った機能がなかったりしても、それが仕様、とか、、

投稿: schlegel | 2010年11月28日 (日) 15時16分

>「仕様書」はどうでしょう、

人間は人間による製造物ではなく、その仕様は人間に知りようがない。
という事実の前に、その問題を投げ出さずにどう立ち向かうか? が学問であり、その延長に人類学=構造主義的な「比較」の概念があるのです。
この場合気をつける必要があるのは、比較する各要素が「固定されているか否か?」ということです。

>J-OSに当然あるだろうと思った機能がなかったりしても、それが仕様、とか、、

つまり、J-OS=日本標準仕様みたいなものが普遍的に存在する、と思うのは間違いで、例えば網野善彦『日本の歴史を読み直す』に、「縄文時代に日本は無かった」というように書いてあって、衝撃を受けたことがありますw

J-OSは常にバージョンアップされ続けられますが、そもそも「JAPAN」という区分自体が永遠不滅ではないのです。

投稿: 糸崎@iPhone | 2010年11月29日 (月) 00時50分

そもそもアナロジーとは判り易い説明に使うか、それ以外の用途としては類似点だけをあげつらって、うぅん似ているねぇ、とうっとりする程度のものだと思っているので、ここが違うと言われると、まぁそれもそうだねぇ、としかお答え出来ません(笑)

で、終わると身もふたもないので(笑)僕がうっとり来ている辺りをダラダラと書いてみます。
生物は自己再生産性を持つものであるという定義、からは、糸崎さんは糸崎さんのご両親によって「生産」されたものであり、ご両親もおそらく人間なので人間による製造物と捉える事は可能です。生みの親と育ての親といいますが、個体としてのハードウェアを生産したのが生みの親で、ソフトウェアの初期段階を形作ったのが育ての親、にあたります。もちろんハードウェアについては親は生産には携わったかもしれないけれど、設計には関与していないのだから仕様を知る由もない、と考えることもできます。生命の定義には、「なおかつダーウィン的進化をするもの」とするバージョンもあります。これを解釈すると、糸崎さんを設計したのは生命の発生以来続いてきた一筋の祖先のそれぞれの個体とその進化に影響を与えてきた地球の環境と言う見方も出来ます。アナロジーとしてはこれとても「設計」という言葉のイメージからはほど遠いかもしれませんが、デザインではなく適応という考えにたつと、仕様、というのはまさしく「環境」や「用途」にあわせるものであり、僕的にはしっくりきます。つまり通常いわれる設計仕様というのは、製品が使われる状態を設計者がイメージして策定する訳ですが、進化においては、製品が使われている状態「が」直接製品の形や有り様を決めている訳です。
学問とOSの対比というのも、自然科学がハードウェアを記述する部分、カーネル的なOSの基本部分として言語学や心理学があって、その上のレイヤーとして倫理やら政治やら哲学やら宗教があると思うと個人的には妙に落ち着きが良いように思えたりします。

>J-OS=日本標準仕様みたいなものが普遍的に存在する、と思うのは間違いで、
はなから日本標準があるわけではもちろんなく、日本人の価値観の平均値あるいは共通項みたいなものはあると考えます。なのでOSとして売られている姿なんかをイメージすると確かにアナロジーとしてはダメダメですね。
>例えば網野善彦『日本の歴史を読み直す』に、「縄文時代に日本は無かった」というように書いて
これは読んでないので何の事か判らないです(笑)、たとえば、縄文時代(一万年前後まえ?)には日本が大陸と地続きで地勢学的に日本という区分がなかったとかいう話でしょうか?もし、そんな昔には(日本)固有の文化なんて無かったんだよ、とたかをくくっているのだとしたらそれはかつての西洋人の土人に対する認識と同じとみることもできます。言語体系の分布からはたとえばヨーロッパとはまったく異なる言語を話していた事が推定出来ますし、すくなくとも、その頃には世界の各地でかなりのローカライズした文化や社会規範があったと考えるのが自然です。
>「JAPAN」という区分自体が永遠不滅ではないのです。
言語による隔離はかなり強固だとは思いますが、永遠不滅でないのはたしかでしょうね。まぁ、Japanと言う区分が無くなる前に、人間そのものが無くなるか別のものになる確率が高いかもしれませんね、、

投稿: schlegel | 2010年11月29日 (月) 20時52分

>そもそもアナロジーとは判り易い説明に使うか、それ以外の用途としては類似点だけをあげつらって、うぅん似ているねぇ、とうっとりする程度のものだと思っているので、

まぁ、そんなところだと思いますが、schlegelさんがシャレの通じる人で良かった・・・w

>学問とOSの対比というのも、自然科学がハードウェアを記述する部分、カーネル的なOSの基本部分として言語学や心理学があって、その上のレイヤーとして倫理やら政治やら哲学やら宗教があると思うと個人的には妙に落ち着きが良いように思えたりします。

おぉ、これはラカンの用語に置き換えると「自然科学がハードウェアを記述する部分=現実界」「カーネル的なOSの基本部分として言語学や心理学があって=象徴界」「その上のレイヤーとして倫理やら政治やら哲学やら宗教=想像界」に対応してると言えますね。
いや厳密に考えると問題があるかも知れませんが、いいセン行ってるんじゃないかと思いますw
ラカンの「三界」もアナロジーですが、これはもともと精神分析の概念で、精神分析とは精神病患者をアナロジー(例え話)によって治癒する技法なわけです(乱暴な説明ですがw)。
このあたりの話、自分の理解に基づいてブログに書いてみたいと思っているのですが、なかなか・・・

>もし、そんな昔には(日本)固有の文化なんて無かったんだよ、とたかをくくっているのだとしたらそれはかつての西洋人の土人に対する認識と同じとみることもできます。

もちろん、縄文時代にも「固有の文化」があり、それなりに高度であっただろうことを文化人類学は否定しないでしょう。
栗本慎一郎『縄文式脳内革命』は昔読みましたw
http://www.amazon.co.jp/dp/4062041871

>言語体系の分布からはたとえばヨーロッパとはまったく異なる言語を話していた事が推定出来ますし、すくなくとも、その頃には世界の各地でかなりのローカライズした文化や社会規範があったと考えるのが自然です。

日本人は昔ながらの日本固有の文化を継承してると言えますが、しかし中国や朝鮮やヨーロッパやアメリカからも多量の文化を継承していて、何が「普遍的な日本の固有性」なのかは単純に言えなくなってますね・・・
これを「個体発生は系統発生を繰り返す」に例えて説明すると、「糸崎公朗」という人間は、物心が付く5歳くらいまでは「糸崎家」のしきたりによって育ちますが、幼稚園に行って、小学校に行って、大学行って、社会人になって・・・と言う具合に外部の影響を受けるたびに元の「糸崎家」の要素なんて「無い」に等しくなってしまいます。
いや「ある」と主張する人もいるでしょうが、そう言う人は現代では「親離れしていない」と言われてしまいますw
親離れはともかく「家」にアイデンティティを見出す人は、その源を「国家」を経由して「縄文時代」にまで遡らせるのかも知れませんが・・・ぼくはその立場を取りません。

まぁ、「縄文人は日本人かどうか?」や「平安時代人と現代人は同じ人間なのか?」などという問題は、あくまで「概念」の問題ですから、論じることの「目的」によって定義は変わります。
ぼくは自分の「目的」において「縄文人は日本人ではない」し、「平安時代人は現代人と同じ人間ではない」と考える、というわけです。

>言語による隔離はかなり強固だとは思いますが、永遠不滅でないのはたしかでしょうね。

同じ日本語でも言語による隔離が・・・子供はともかく、いい年した若者にタメ口きかれるとそれだけでドン引き・・・とかいろいろありますw

投稿: 糸崎 | 2010年11月30日 (火) 02時22分

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