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2010年12月

2010年12月31日 (金)

2010年の総括と年末のご挨拶

…をしようと思ったんですが、間に合わない…
と言う事で、来年もよろしくお願いします。

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作品落札の報告と額装

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twitterでお知らせして、こちらでの報告がすっかり遅くなってしまいましたが、「気体分子ギャラリー」のネットオークションに出品した作品『反ー反写真』が、4点落札されました。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-12-22
購入された方並びにオークション主宰者である彦坂尚嘉さんにあらためてお礼申し上げます。
原稿料や印税という形以外で、自分の作品が直接売れたのは初めてなので、非常に嬉しく思います。

で先日、彦坂さんにぼくの作品を額装していただいた状態を見せてもらったのですが、自分で言うのも何ですが大変に素晴らしいですね(笑)
額とマットによって、作品の印象がこうも変わるのかと驚いてしまいましたが、自分でも欲しくなってしまいます(笑)
実のところぼくはこれまで額装のことはほとんど考えたてなかったのですが、彦坂さんは長年の蓄積による技術をお持ちで、大変勉強になります。

来年も引き続き「気体分子ギャラリー」のネットオークションに「反ー反写真」を出品予定で、その他にも違った作品も考えておりますので、どうかよろしくお願いいたします。

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2010年12月30日 (木)

「孫子」から学ぶ「自分」分割法

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苫米地さんの本を読んで良かったのは、その後に読んだ岩波文庫『孫子』の素晴らしさが際だって実感できることだった(笑)
まさに雲泥の差以上で、長い歴史を生き残ってきた書物には、それなりの理由があり、適当に書き散らかした新書とは比較にならない。
ということで「古典は良いよ」と複数の友人から教えられたので、たまたま古本で売ってた『孫子』を読んでみたのだった。
これは戦争の仕方について書かれた本なのだが、読んでみると非常に普遍性のある内容で、だからビジネスにも応用できるのだ。

しかし戦争は軍隊という組織で行うものなので、『孫子』に書かれていることを個人で応用するには、「ひとつの自分」に固執せず、「自分」を複数に分割する必要がある。
つまり自分一人で戦わず、自分を分割し増殖させ、大群を組織化して戦うのがビジネス必勝の極意なのである(笑)。
まぁ、大人数に分割するのは無理としても、『孫子』に書かれたことに従い「君主」「将軍」「兵士」の3つには分割できるかも知れない。
逆に言えばぼくはこの3つの要素が未分化で、そう言う状態ではビジネスの世界でこの先生きのこることはできないのである。

「自分」を分割するのは難しそうだが、そもそも自分は肉体的には複数の臓器からなり、さらに無数の細胞からなっている。
クラゲやプラナリアのような原始的な多細胞生物は、細胞ごとの機能が未分化で(各細胞が同じような働きをし)、だから動きが鈍い。
しかし鳥類や哺乳類のように進化した多細胞生物は、細胞ごとの役割がより分化し、細胞で構成された臓器の機能も分化し、それらの異なる要素が協調し合って「ひとつの身体」を形成し、素早く正確な動きを実現する。
人間の組織の場合も同じであり、群衆がただより集っている状態は、クラゲのようにただ右往左往するだけである。
だから国家は「君主」「将軍」「兵士」などの役割に分割されて、素早く確実に軍事行動ができるのである。
同様に「自分」の精神や意識も「ひとつの自分」として未分化のままでは、クラゲのようにボーッとしたままなのだ。
いや、クラゲと人間の精神は比べものにならないとしても、軍隊のように素早く確実に判断し行動することは難しいかも知れない。

さて、「君主」とは国家の主であるので、「自分」に例えればこれは「自分」だと言えるだろう。
同義反復になってしまったが、「君主」が理想の国家をイメージすることで国家が発展するように、「自分」が理想の自分をイメージすることで自分は発展するのである。
「自分」が現状に満足するなら理想の自分をイメージする必要もなく、ビジネスで独立する必要もない。

君主がイメージする理想を実現するために、戦争を実行するのは「将軍」の役目である。
孫子によれば、真に優秀な将軍は実際の戦闘に先立ち「情報」の収集を徹底的に行うのだと説いている。
正確な情報を仕入れておけば、戦う前に勝つことは分かるのであり、そのように勝ちが分かっている戦争以外は仕掛けないのである。
またその逆に不正確な情報によって戦うことを、孫子は戒めている。
例えばただ感情的な勢いだけで戦いを仕掛けたり、戦争のゆくえを占いで判断したりすると、必ず負けると説いている。

さらに、君主は将軍を信頼して戦争のことは一切に任せ、君主自身が戦争に関与してはならない、とも説いている。
つまり孫子は、理想的なイメージを持つ君主が戦争に関与することを戒めているのだ。
君主がイメージによって国家を発展させるのなら、将軍は戦争に勝つためにイメージを一切排除し、冷徹に「現実」を見据えて判断しなければならない。
そのような「役割分担」が勝利をもたらすのである。
だから「自分」を「君主」と「将軍」に分けると言うことは、「理想をイメージする自分」と「現実的に判断する自分」を分けるということであり、これらの意識がごっちゃになっているとビジネスでは勝ち残れないのである。

次に「兵士」だが、孫子は将軍の命令を絶対的なものとして守るべきだと説いている。
兵士は将軍の命令にただ従って行動すればいいのであり、作戦全体の意味や、自分の行動の意味を知る必要はないのである。
もし、前線の兵士が自分の勝手な判断で行動したら、軍全体の統率が乱れて戦争に勝つことができない。
真に優秀な将軍は兵士から絶大な信頼を得ていて、だからこそ兵士を自由に操り戦争を勝利へ導くことができるのである。
「自分」から「兵士」を分割すると言うことは、「実務に没頭する自分」を分けるということであり、一度やると決めた実務は迷わず実行しなければならないのである。
もし迷うなら「将軍」として情報を収集して判断すべきであり、目先の状況に惑わされて感情やイメージで判断してはいけないのである。

以上、ぼくとしては何一つ実行できていないのだが、理屈として辻褄の合うことを書いてみました(笑)

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2010年12月28日 (火)

はじめてのトマベチ

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苫米地英人という人だが、何となく胡散臭いので(笑)以前から興味があり、『テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方』を古本で読んでみた。
まぁ、分かっちゃいたけど色んな意味でスゴイ…参考になりますが…
一言で表すと「気概が無さ過ぎ」で、もう一言加えると「こんなの読んでたらバカになる」(笑)

まず、読書が苦手なぼくが4時間足らずで読了してしまった。
なぜなら新しい知識が何も書いておらず、誰でも知ってる概念を、ただ別の言葉に置き換えているだけなのだ。
『テレビは見てはいけない』には「内部表現」「ラポール」「コンフォートゾーン」「スコトーマ」などの用語か出てくるが、これらは全て「誰もが既に知ってる概念」に、専門用語っぽい名称を与えただけである。
だから書いてあることがウソだとは言えないが、「知識」としては偽物であり、読者に「新たな知識を得た」と錯覚させるカラクリであるに過ぎない。

これに対し、真に新しい知識は「自分」を変えないと理解出来ず、読むのに時間がかかる。
例えば構造主義の<構造>とかラカンの<現実界>などは「誰も知らなかった特別な概念」を示すための専門用語であり、それこそが本物の「知識」だと言える。
この様な知識を理解するには「自分を変える」必要があり、人は「自分を変える」為に、時間をかけ苦労しながら「新たな知識」と格闘する。

苫米地さんの本を読む人は「自分を変えようとしない人」であり、その様な読者を想定して書いている。
「テレビによる洗脳を解いて、自分を変えよう」みたいに苫米地さんは書くが、そんな事をする「気概」のない読者が、同じような内容の苫米地さんの本を何冊も買う…そんなビジネスモデルなのだろう(笑)

苫米地さんの本は、言わば<想像界>の産物で、人々の日常的センスで想像できる範囲の、分かり切った事しか書いていない。
<想像界>とは習慣的で惰性的で変化する事なく安定して持続する世界観であり、そこに安住し留まりたい人に向けて、苫米地さんは「自分を変えよう」とポーズで呼びかけているのだ。

まともな思想書は、例え入門書であっても人々の<象徴界>に働きかけるように書いてあり、だから日常的センスの延長である<想像界>では理解出来ない。
新たな「知識」により自らの<象徴界>が変化をきたすと、<想像界>も一変し、より豊かで広大な世界が見えるようになる。
これは楽な読書ではないが、ぼくは美術家なので、自分の世界観を広げ、作品に幅を持たせるための読書がどうしても必要になるのだ。

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正しいクリスマス

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去る12月24日、狂信的カルト「日本クリスマス教団」の魔の手から逃れるため(笑)、立教大学で行われた「クリスマスミサ」に行ってきた。
ぼくはもちろん部外者だが、物珍しくて面白かった…これぞ正しいクリスマスだと言える。

世の中には「楽しいクリスマス」と「正しいクリスマス」の二種類がある。
楽しいクリスマスは享楽的、迷信的、偶像(物質)崇拝的、アンチキリスト的なサタン(サンタ)の誘惑であり、いわば<想像界>の産物である。

「正しいクリスマス」は儀式を行う事であり<象徴界>の産物である。
儀式=<象徴界>は、人々の自由な行動=<想像界>を抑圧し制限するから、楽しくないのは当たり前だと言える。

楽しさ=<想像界>、正しさ=<象徴界>、と整理すると両者の関係がより明らかになる。
楽しい事ばかりしてたいのが人間だが、それだけだと思わぬ失敗をしたり、喧嘩になったり、カオスに陥いり、楽しさがかえって失われてしまう。
だから楽しさを抑圧しコントロールするための「正しさ」が必要になる。

「楽しさ」は人間の自然な欲求だが、「自然性」だけでは生きてゆけないのもまた人間だ。
人間は自らの自然生を抑圧する「正しさ」によって、動物とは異なる「人間」になる。

人間の自然性を抑圧する「正しさ」は、かつては「宗教」が保証していたが、今はそういう時代ではない。
だからキリスト教も時代遅れなのだが、現在の「正しさ」のルーツであり、温故知新でこれを学ぶ事は無駄ではない。
もちろん、仏教やその他宗教についても同じことが言えますが…

ともかく、ラカンの三界で考えると、自分は<象徴界>の要素に無自覚過ぎたので、この方面に興味が出てきたのだ。
クリスマスミサに出たのもその一環。
その意味で、初めて経験した「正しいクリスマス」は非常に楽しかった(笑)

現代日本の「楽しいクリスマス」の享楽、ケーキとかプレゼントなどの<想像界>的な楽しさは、<象徴界>としての「テクノロジー」が保証している。
テクノロジーとは「手続き」であり<象徴界>の産物である。
かつてはこの<象徴界>としての役目を「宗教」が負っていた。

人々の<想像界>を支える<象徴界>が、「宗教」から「科学」へとシフトしたのが近代だと言える。
現代において「宗教的正しさ」に同意する人はごく一部であり、「科学的正しさ」を疑う人はほとんどいない。

同じ<象徴界>でも「宗教」と「科学」は性質が異なるし、「法律」もまた異なる。
つまり、<象徴界>もまたさらに<想像界><象徴界><現実界>の三界に分けることができるかも知れない。
高田明典さんによると、概念とは「思考の道具」だから、どんどん応用して使うべきなのだ。

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2010年12月25日 (土)

新国立美術館「ゴッホ展」感想tweet

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●これからゴッホ展見ます。
これ見るのに覚悟は…いらないかw

●ゴッホ展会場内だが、これは見るには覚悟がいる…
見通しが甘過ぎた…
腹を括って「自分を殺す」か、自分を生かして逃走するか…
まぁそういう「構造」が判明した以上、実験的にでも「自分を殺す」しかない…
みなさんサヨウナラ〜w

●ゴッホ展は場内あまりの人の多さに容易に見る事が出来ず、頭に来てすぐ帰ろうと思ったのだが、「人混みが嫌いな自分」をぶっ殺してw、大人しく人混みに並んでゆっくり見る事を「決定」し、おかげで全部見られたのですw

●オルテガは、大勢が集まる場所に自分もわざわざ行くのが「大衆」だと言い、ぼくもそれに同意してた。
しかしインテリのオルテガと違い、ぼくは「頭の程度」から明らかに大衆であり、事実人であふれるゴッホ展に来ている。
だから「非大衆を気取る自分」をぶっ殺して、状況への適応を試みたのだ。

●「自分をぶっ殺す」は大袈裟なようだが、それくらいの気分でないと「方法論的反省」による「自分の三分割」は出来ない。
前回トランスフォーメーション展で「分割」に失敗したので、改良してみたのですw

●他人に対して「死ねっ」て思うのは本当の殺意ではなく、翻訳すると「性格変えろ」って意味。
つまり人間死ぬ気にならないと悪い性格は変わらず、他人にそんな過酷な要求ができるほど、自分はエライのか?
と思うと「だったら自分が死ねっ」と鉾先を自分に向けるのが「方法論的反省」の極意w

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東京都現代美術館「トランスフォーメーション展」感想tweet

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Sat, Dec 04

15:39 今からMOTで「トランスフォーメーション」展見ます。これ見るには覚悟がいる…自分を分割する覚悟…今日は三分割を試みようw

17:10 MOTトランスフォーメーション、他全部見終わった…「自分の三分割」は失敗…覚悟を上回る内容…穏便に言うなら今の「自分」は現在の現代アートに適応できていない…正直言うと、つまらな過ぎてヤン・ファーブルあたりでマジ吐き気がしたwこう言う自分の「間違った感覚」は方法論的に反省しないと…

17:30 MOTトランスフォーメーションも常設も、映像展示が多過ぎ…立ち喰い蕎麦みたいに急いで立ち見する映像…一点ならまだしも次から次へと…つまらない絵は一目で判断出来るが、しばらく見た映像がつまらなく精神ダメージ受けた場合、誰が責任を取るのか⁈なので映像は全スルー‼この自分も反省します…

17:42 まぁしかし、MOTトランスフォーメーションは見て良かった…自分がいかに現在の現代アートの波に乗り遅れ、勝手に時代錯誤してたのかが良く分かった…まぁ、つくづく愚かでしかないよね…十分に反省します。そして…信仰します!現代アートを‼方法論において‼‼

17:52 いや、まぁ意識と慣れの問題かと…観客の皆さんは喜んで見てたようでした。映像も皆さんまったりと楽しんでるようでした。ぼくはこらえ性が無いのかもw RT @hwtnv そ、そんなに酷いのでしょうか

18:00 お、反省したら「自己分割」出来た…w

23:13 深川ラボのオープニングで元木みゆきさんに会って、TAPギャラリーの一周年記念パーティー…ちょい飲みすぎw

Sun, Dec 05

01:12 返信遅れた…心から反省する自分、形式的に反省する自分、反省しない自分、の三つです。@akakeem 三つの視点で鑑賞なさるということでしょうか?

01:19 「反省」とは自分を変えることであり、心から変わった自分、形式的に変わった自分、変わらない自分、の3つの視点ですね。結局「変わらない自分」のまま鑑賞し、その後で「形式的に変わった自分」によって「心から変わった自分」が反省しましたw RT @akakeem

16:52 昨日MOTトランスフォーメーション見て腹が立ったのは、自分の意思や努力とは無関係に世の中が動くのを、目の当たりにしたからだろうか?自分が正しいと思ってする事など、全く虚しいのである。と、パスカル読みながら思ったw

17:02 自分の意思や努力とは無関係に変化するものを「自然」と言い、自然の前に個人の存在が虚しいのは当たり前である。自分がコントロール出来ず、翻弄される自然に対して恨むことは虚しく、むしろ祝福し、観察することが有効である。

17:17 10月に見に行った瀬戸内国際芸術祭は、大勢のツアー参加者と一緒だったので、気が紛れて「虚しい自分」に対面しなくて済んだのかも…もし、トランスフォーメーション展の様に一人で行ってたら、同じようにブチ切れてたかもしれないw

17:25 「世界」に拒絶された「虚しい自分」にできることは、「世界とは何か?」を知ろうとする事のみである。と、言うわけで「芸術とは何か?」を知ろうとしなければならない。しかしこの場合の「芸術」は、一つではなく、おそらく三つに分割されるだろう。

17:39 芸術に限らず「正しい答えは一つ」だと思うと行き詰ってしまう。しかし「正しい答えは無限にある」と考えると収集がつかない。だから「正しい答えは三つ」とするのが丁度良いw つまりラカンの三界の応用で「想像界の正しさ」「象徴界の正しさ」「現実界の正しさ」の三つである。

17:55 「方法論的反省」は、ラカンの三界の応用で「心からの反省=想像界」「形式的反省=象徴界」「反省しない自分=現実界」に三分割される。反省しない自分は、形式的な反省を経て、心からの反省に至る。この時系列の変化を同時保存し続けるのが「方法的反省」なのである。

19:13 「ラカンの三界」の応用の一つに「想像界」をさらに三界に分ける方法がある。斎藤環「生き延びるためのラカン」にある、想像界=パソコンモニター、象徴界=プログラム、現実界=パソコンハード、と言う例えがそう。人間にとって認識可能な「想像界」に属するパソコンを、さらに三界に分けているのだ。

21:02 ぼくが言うラカンの「想像界」「象徴界」「現実界」は、彦坂尚嘉さんの言うそれとは関係なく、あくまで自分のために勝手に考えてるだけ…ラカンも斎藤環など入門書しか読んでない。原著を読んでる彦坂さんの「三界」はアレンジがキツくて難解過ぎ。ぼくのは入門レベルでやさしいかも?

21:47 ぼくのTwitterは「小説」なんだから、たまには小説らしい事書かないと…だが小説とは「小説らしい文章」を意味するのか?などと、根源的に考える事は「方法論的反省」においてもうやめよう。すなわち「小説らしい文章」こそが「小説」なのだ。と、またしても小説らしくない事を書いてしまったw

21:57 さっきの小説の問題を「芸術」にシフトすると、「芸術」とは「芸術らしい作品」を指すのであり、そう定義すると、「芸術とは何か?」の問題は、「芸術らしさとは何か?」の問題に置き換わる。

22:22 ぼくは「芸術とは何か」を重視し、意図的に「芸術らしさとは何か」を蔑ろにしてきた。その意味でぼくは中途半端だったと言える。しかし写真については、「写真とは何か」とは別に「写真らしさとは何か」を追求し始めている。これを「芸術」にも適用することが必要だ…

22:34 MOTトランスフォーメーション展も「芸術とは何か」の視点で見たおかげで文脈を見失ったのかも…恐らくあの展示は「芸術らしさとは何か」の視点で企画され、そう思うとしっくりくる。観客もみな「芸術らしさとは何か」を堪能してたのではないかと思う。ぼくもそうすれば良かった…w

22:48 「芸術とは何か」はへそ曲がりの態度であって、大抵のものには満足せず、何にでも腹を立るw 対して「芸術らしさとは何か」は素直な姿勢で、トランスフォーメーション展も「芸術らしい作品」が厳選されてるのだから、素直な気持ちで接すれば十分に楽しめるはずなのだ。

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「キル・ビル」感想tweet

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Wed, Dec 15

18:27 DVD「キル・ビル」1と2一気に見たが、面白過ぎて驚いた‼
なんの予備知識もなかったのでなおさら…映画の引用シーンはほとんど分からなかったが、十分楽しめる。
もっとも、日本人には日本のパロディが理解できるので有利と言える。
もちろんそういう枠からはみ出した面白さこそが肝心なのだが…

18:42 やはり色々見ないと損だ…と「キル・ビル」でつくづく思った…
フランス美女が刀で腕をバッサリ切り落とされ、血を吹き上げながら床をのたうち回るとか…キチガイ過ぎてサイコーw
もちろん映画の演出としてですよ!
犯罪を憎み、表現としてのキチガイ犯罪を創造すると、芸術になるわけです。

18:52 岡本太郎は「芸術は新しくなければならない」と言ったが、新しい芸術は常識に反して新しく、つまりはキチガイとして現れる。
芸術家はキチガイの一方で理性的ビジネスマンでなければならない。
タランティーノ監督がまさにそれ…

19:24 「キル・ビル」にでてくる「刀」「ヤクザ」「殺し屋」は現実のメタファー…
芸術家は本来凶暴で血に飢えており、思い切り誰かとチャンバラで斬り合い命を奪い合いたい…いやこれもメタファーですがw
でも実際アートやってる人はみな大人しく、ぼくがメタファーで斬りかかると逃げる…ような気がしますw

19:46 ビジネスはともすれば「斬り合い」や「戦争」みたいなところがありますが、そういう世界に疲れた人、なじまない人がアートや写真の世界に流れてるのかもしれない。
と思うと納得できるかも?
基本的に平和主義でおとなしい作家…他に流されない「強い精神」の持主とも言えますが…が多い気がします。

20:01 他者との関係とは、基本的に「斬り合い」「戦争」なのかも知れない…自然の世界がまずそうだから…
弱肉強食のパワーバランスが他者との関係の原点で、それは人間にも現れる。
そう考えると「平和」とは人工的な概念で、これを実現するには自然の力に逆らう必要があるのだ。

20:17 「関係」が本質的に斬り合いや戦争を孕むのであれは、人工的な「平和」を実現するためには「関係」を断てばいい。
この場合の関係は「干渉」でありお互い干渉しない事で「平和」が実現される。

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2010年12月24日 (金)

貧乏人が適当に書くw必ず成功する実践ビジネス講座

貧乏人はビジネスセンスがなく、金持ちになるには意識を変えて、ビジネスセンスを鍛える必要がある。
それには例えば、ビジネスに関することのみをブログやツイッターに書き続けるのも方法である。
ビジネスは苦手だし、めんどくさいし、考えたくもない…と言う「考える習慣」を変えるために、柄にも無くビジネスについて書いてみるのである。

さて実際のところ、ビジネスで成功する人の多くが「構造主義」的センスを体得しており、「構造主義」的センスを体得しないままビジネスで成功した人の多くが長続きしていない。
「構造主義」をビジネスに役立てるには、自分の仕事だけでなく、生活全般に渡り「構造主義」を適用する必要がある。

ビジネスは「お金」を扱う行為であり、お金は「関係」であり、だから「関係論」から思考をスタートさせる「構造主義」が役に立つ。
お金を「実在」と考える「素朴な実在論」で思考してもビジネスは成功しない。

お金を「実体」と考えると心が貧しくなる。
お金を「関係」と捉えると、あらゆる関係が豊かになる。

「実体」は硬く、「関係」は柔らかい。
頭の柔らかいビジネスマンはあらゆる物事を関係として捉え、頭の硬い人は関係を実体と錯誤し、ビジネスに失敗する。

自分だけ儲けようとすると儲からず、みんなで豊かになろうと考える人だけが豊かになる。
なぜなら、ビジネスの本質は「交換」だからである。
みんながビジネスセンスを身に付ければ、世界全体が豊かになる。

ビジネスの目的は、お金儲けでは無く、豊かになること。
どんなに大金を儲けても、心が貧しいままの人は、ビジネスの成功者とは言えない。

ビジネスとは異なる人間関係〜例えば家族や友人など〜を意識的に「ビジネスの人間関係」として捉え直してみると、ビジネスセンスが身につく。

ビジネスにおいては、どんなに親しく、あるいは尊敬すべき人であっても、一歩退き傍に立つような気持ちで接すること。
誰に対してであっても、他人に自己同一化するような人は、ビジネスで失敗する確率が高い。

売れるアーティストを目指す事は、アートのゲームとビジネスのゲームとの、複合的なゲームのプレイヤーになる事である。

ビジネスの上では、どうしてもイヤな相手と関わらなければならない場合が、少なからずある。
そんなイヤな相手に対しては、動物行動学的興味を向けると、お猿のように愛することができるし、人類の不思議についての理解も深まる。
つまり、ビジネスマンにとっては動物行動学をはじめとする、あらゆる学問的興味が役に立つのである。

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カメラ操作のワンランクアップ術

カメラ使いの達人は、オートではなくマニュアルモードで使い、更にはオートモードを自在にコントロールする術を身につけている。
また、写真の入門者はカメラを「オートモード」ではなく「マニュアルモード」で使う方が、上達が早い。
一方、写真の上達に興味の無い人は、カメラをオートモードのみで使い、自分のカメラにマニュアルモードが備わっていること自体を知らない。
以上、「カメラ」を「自分」に置き換えても同じことである。

「自分」をオートモードのままで使うと、その思考は「独断論」になる。
独断論は思考ではなく、オートマチックな「習慣」である。
習慣に流されて損をしたり失敗したりしないためには、「自分」をマニュアルモードにして「思考」する必要がある。
とは言え、全ての場合においてマニュアルで思考するとキリがない。
だから習慣と思考を上手く使い分けるのが、「行動」するためのコツだと言える。

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モダニズムと構造主義

モダニズムは<神>という「非実態」について考えるのをやめ、自分という「実体」からスタートする考えなので、誰にでも分かりやすい。
しかし構造主義は、関係という「非実体」からスタートする考えなので、一般には理解されにくい。

「関係論」には二種類ある。
1:「実体」と「実体」の関係を捉える関係論。
2:実体を否定し、全てを「関係」と捉える関係論。
ぼくは後者を心がけるつもり…

「実体」と「実体」の関係を考察しても構造主義にはならないが、ポストモダニズムにはなるかもしれない。
ポストモダニズムはモダニズムの亜流なので、結局はどっちもモダニズムなのだ。

同じように、ポスト構造主義は構造主義の亜流なんだから、どっちも「構造主義」と考えたほうがシンプルで使い勝手が良い。
構造主義は、人類に普遍の「構造」を見い出す方法論。
ポスト構造主義は「構造」に操作を加える方法論。
どっちも「構造」を扱うんだから、どっちも「構造主義」だと理解した方が、かえって混乱しないように思う。

「構造主義」を意図的に選択しない者は、自動的に「素朴な実体論者」になる。
日本で生まれた者が、自動的に「日本人」になるように…

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非人称芸術とアウトサイダーアート

言論の武士道、真剣によるチャンバラの極意は「最大の敵は自分」であり、「敵に向ける刃を自分にも向ける」事であり、「敵が隙を見せたらすかさず切りつけるように、自分が隙を見せたらすかさず切りつける」事であり、それが出来なければ「公正」とは言えないのである。

相手のプライドに止めを刺すような「言論の刃」は、自分にこそ向けるべきである。
相手のプライドを気遣い、そのために収めた刃を、再び引き抜いて自分のプライドをズタズタにする目的で使用する事。それが出来る「技術」と「覚悟」の無い言論人は、ポストモダニズム的に新しいwww

さて、自分にとっては非常に恐ろしい事だか、自分の芸術の根拠である「非人称芸術」が、ヘンリー・ダーガーと同様の「アウトサイダーアート」に過ぎないのではないか?という疑いが出てきた。

引きこもりのヘンリー・ダーガーは、誰に見せる為でもなく、純粋に自分の為だけの「非現実の王国」を描き続けた。
一方、純粋な意味での「非人称芸術」は、原理的に自分以外の鑑賞者が不在であり、故にそれは自分の主観的な「非現実の王国」でしかない。

岡本太郎の「芸術は新しくなければならない」を掘り下げると、新しい芸術は常に「芸術の外部」として認識されると解釈出来る。
そして、その延長上に「作者」の存在を否定した「非人称芸術」のコンセプトが見い出された。
だがそれは文字通りの「アウトサイダーアート」に過ぎない疑いが出てきたのだ、恐ろしい…w

「アウトサイダーアート」はフランス語で「アール・ブリュ=ナマの芸術」と言われるが、この言葉に惑わされてはいけない。
「ナマの芸術」という言葉は「芸術の根源は、理性や知性にではなく、それらを獲得する以前の状態にある」というイデオロギーに支えられているが、その芸術観は妥当なのか?

「アール・ブリュ=ナマの芸術」の芸術観は、岡本太郎の芸術観と符合する。
岡本太郎は「自分を捨てて無心になれば、誰でも真に自由な芸術を描くことが出来る」みたいなことを主張したが、そのような芸術観だからこそ、「曖昧な自分」である知的障害者の作品が「ナマの芸術」として解釈されるのだ。

岡本太郎流のモダンアート=今日の芸術は、伝統の否定、形式の否定、常識の否定であり、それにより「自由」が獲得されるとしている。
これをラカンの概念で解釈すると、<象徴界>を否定することで、<想像界>の自由を獲得する、ということなのかもしれない。
と考えると、ずいぶん無理があるように思える。

ラカンの概念で考えると、<想像界>の多様性は<象徴界>の多様性が保証する。
だから<象徴界>を否定し抑圧し、その多様性を損なうと、<想像界>の多様性も損なうことになり、多様性を損なった状態を「自由」とは呼ばないのである。
つまり岡本太郎的な「自由な芸術」は、結局どれも似てしまう。

ぼくは結局、<象徴界>に支障をきたした人々による、一定の傾向の作品が好きで、それを「芸術」と勘違いしてたのかもしれない。
だからダーガーに惹かれるし、学生時代ぼくがその才能に嫉妬してた友人は、卒業後に「ビョーキ」が治って絵を描かなくなってしまったw

学生時代のぼくは、芸術の根拠を<象徴界>の故障に見い出したのだが、ぼくは<象徴界>が正常な健康人だったので、その意味での「芸術の才能」があるはずもなく、絶望したのであった。
そんな絶望の仕方も別の意味で病的だがw…もちろんラカンの概念は当時は知らず、今あらためて解釈している。

勝手な芸術観により失望していたぼくは、いろいろのたうち回ってた末に、「非人称芸術」の概念に行き着いた。
これはあらためて解釈すると、岡本太郎流の<象徴界>の否定を受け継ぎながら、<想像界>も否定し、<現実界>に根拠を見い出す芸術観だと言える。

「非人称芸術」は、様々な人工物の「それが何であるか」という意味を意図的に忘却することで、目の前に現れる。
これは<想像界>から<象徴界>取り除くという操作を行い、<現実界>そのものへ迫るための技術だとも言える。

「非人称芸術」は、不可知世界である<現実界>と、可知世界である<想像界>との「境界面」として現れる。
だから「非人称芸術」は作品という「実体」として存在しえず、その場限りの刹那的な「関係」として立ち現れ、または<神>のごとく遍在する。

刹那的に出現した「非人称芸術」の記録写真は、作品という「実体」として存在する。
だが、それはあくまで「非人称芸術」の影でしかない。または、「非人称芸術」という「非実体」を利用して制作した、「作品」という「実体」に過ぎない。

岡本太郎流の「芸術は新しくなければならない」の「新しい芸術」は、既知(現在)と、未知(未来)との境界面として立ち現れる。
つまり芸術は新しくある以前に「境界面」であることが本質なのであり、その延長上に「非実体」としての<非人称芸術>が導き出されたのだ。

<非人称芸術>が<象徴界>を否定するのは、レヴィ・ストロースの<構造主義>の影響もある。
レヴィ・ストロースは西洋の「歴史」を、いわゆる未開部族の「神話」と同列に比較することで、その意味を相対化し、絶対と思われていた「西洋の知」の優位性を否定した。

世界説明には「唯一の正解」はなく、異なる視点による様々な解釈の仕方があるのみである。
そして、ひとつの「世界」に対する、様々に異なる解釈のその「差異」の中に、<象徴界>の裂け目としての<現実界>が垣間見える。
この原理を、芸術の方法論として応用したのが<非人称芸術>だと言える。

以上、レヴィ・ストロースとかラカンとか、入門書レベルの知識がごちゃ混ぜになってるが、最近の「非人称芸術」の解釈はそんな感じ。
と言うことで、そこには<象徴界>の要素がゴッソリ抜けていることに、あらためて気がついた。
これは流石にヤバイと思い始めているのだが…アウトサイダー過ぎるw

聖書によると<神>は人間には見ることが出来ず、ただ<神>の存在をありありと感じられる人と、<神>の存在を感じたくても感じられない人と、<神>など知りたくも無い人との3種類がいる。
<神>をラカンの<現実界>に置き換えると、これにも同じ事が言える。

人間の世界認識は「五感」により制限されており、その外部に認識不可能な<現実界>が広がっていると仮定出来る。
このことを理屈として理解する事と、不可知の<現実界>の存在をありありと感じる事とは異なる。

ぼくは自分がありありと感じられる<現実界>への畏れを「芸術」の問題に直結し、そこから<非人称芸術>の概念が生じた。
だが、芸術にとって<現実界>がどれほど重要な要素であろうとも、<象徴界>をすっ飛ばしたその手続きが、その意味で有効かどうかは疑わしい。

<非人称芸術>の明確な欠点は、その経験の蓄積が「教養」に結び付かないことである。
<非人称芸術>の経験は原理的に<象徴界>を欠いているため、他者と共有可能な「教養」とはなり得ないのだ。

はじめに書いたように、<非人称芸術>は主観的経験でしかあり得ず、ただその記録写真だけが実体化され、<想像界>の中で他者と共有される。
だからぼくのコンセプトは誰にも理解されず、作品だけが喜ばれる。これではヘンリー・ダーガーの「閉ざされた心」と大差ないかもしれないw

以上のように改めて反省すると、<非人称芸術>には明らかな欠点があり、アウトサイダーアートである疑いも出てきた。
たが、だからと言って<非人称芸術>には芸術としての真実や有効性が一片も含まれていない、とは未だ断言することは出来ない。

早い話、<非人称芸術>を否定する事は、自分のアイデンティティを否定する事であり、かなり辛い…だからと言って、重大な欠点のある概念に固執したままでは自分がダメになる…

そこで「自分」というものを分割し、「<非人称芸術>を探究する自分」とは別に、「<象徴界>としての芸術を探究する自分」を立てる事にしたのだ。
そしてこの方法論による最初の試みが、「反-反写真」なのである。

<象徴界>とは、人類の歴史であり、知恵と知識の蓄積であり、まずはそれらを素直に学ぶところから「<象徴界>の芸術」は始まる。
レヴィ・ストロースも西洋史の優位性は否定したが、歴史の有効性そのものを否定したわけではない。<構造主義>も人類史の蓄積上に成立しているのだ。

<象徴界>としての芸術の基本は「学ぶこと」であり、学ぶことは「真似ること」でもある。
ということで、ぼくは友人の写真家の真似をした写真を撮ることを思い立ち、それが「反-反写真」なのである。

ぼくが「反-反写真」を始めたのは、友人の写真家達のグループ展を見た際、それらの写真が全く分からず、孤立して寂しい気分になったことも原因の一つだw

<非人称芸術>の思想は「反芸術」であり「反写真」でもあり、だから「写真の良さが分からない」のはコンセプト上当たり前だ。
だがその様に「孤高のアーティスト」を気取っても、それこそダーガーとどこが違うのか?
やはり他人と共有可能な「教養」が無ければ、付き合いは広がらないし、深まらない。

変な話しだが、ぼくは写真家の友人達と交流を深めるため「写真とは何か」を知ろうと決意した。
そして自分の「反写真」をさらに反転した「反-反写真」として、他人の「写真」を形式的に模倣し始めたのだ。
つまり、フォトモやツギラマなどの「反写真」ではなく、普通の「写真」をアートのつもりで撮ることにしたのだ。

だからぼくの「反-反写真」は認識のための写真であり、コミュニケーションのための写真であり、教養としての写真であり、自分の作品となりうる写真であり、「<象徴界>としての芸術」の探究なのである。

また、ぼくは「反-反写真」として路上の何気ない風景を撮っており、だからこれは「フォトモ」や「ツギラマ」と同様<非人称芸術>の記録写真でもある。
実はぼくは「反-反写真」を「平面のフォトモ」のつもりで撮っており、たからフォトモ同様<非人称芸術>を利用した芸術作品でもある。

ということで、今のぼくは芸術を「境界面」の問題として追求しながら、アウトサイダー過ぎる自分の立場の軌道修正を試みている。
まぁいちおう「心掛け」としてであり、実力が伴うかは別ですが…w

「アウトサイダーアート」について再び考えてみると、その定義の一つに「ちゃんとした美術教育を受けていない人の作品」というのがある。
その点ぼくは東京造形大学を出ているから、その事例は当てはまらない。

ところが、ぼくが通っていた当時の造形大は、教授はほとんど何も教えず、ぼくも人にものを教わるのが苦手で、テキトーなことばかりやっていた。
「自由」と言えばそうなのだが、そんな自分が果たして「ちゃんとした美術教育を受けた」と言えるのか?

そんな調子でいちおう造形大を卒業したぼくなのだが、程なくして自分が大学時代あまりにサボり過ぎ、何も学んでこなかったことに焦ってしまったw
それで遅ればせながら勉強を始めたのだが、芸術の勉強をすると自分独自の芸術が出来なくなると思い、芸術以外の分野の勉強をいろいろする事にした。

とは言え別の学校に行き直したのでもなく、自分の興味で思想、哲学、自然科学など、主に入門書で読むようになっただけだ。
これは全く無駄ではないが「ちゃんとした教育を受けた」とも言えない。
そんな勉強の成果が<非人称芸術>なら、それが「アウトサイダーアート」だと言われても返す言葉がないw

<非人称芸術>をアウトサイダーアートで終わらさないためには、ともかくさらに学ぶ必要がある。
それはまぁ自分の問題だからいいとして、じゃあ今の日本のアーティストのうち、誰が「ちゃんとした美術教育」を受けているのか?非常に疑問である。
いや、自分を棚に上げてるのは承知なのですが…w

あくまで自分の見た範囲からの勝手なイメージだが、どうも日本の美大ではちゃんとした美術教育が行われてない気がする。
その原因は岡本太郎に代表される風潮にあって、つまり「芸術家は勉強しなくていい」のであり「それこそが各自の自由な芸術を育む」という思想であり、つまり<象徴界>の軽視である。

<象徴界>の軽視とは歴史の軽視であり、それは岡本太郎の『今日の芸術』からはっきり読み取れる。
そこには「先入観を捨てれば誰でも芸術が描ける」というように書いてある。
つまり岡本太郎は「アウトサイダーアート」を提唱しているのであり、現在の美大も共通の土台に立っているような気がするのだ。

ぼくは美大でサボってばかりいたからそう思うのかもしれないが、どれだけ優等生であっても、美大の教育方針そのものが<象徴界>を軽視してるのであれば、その意味での「アウトサイダーアート」である事には変わらない。
まぁ、ポストモダンは「大きな物語としての歴史」が無効化した時代だと言われるから、芸術全般がアウトサイダーアート化するのは必然だし、正しい事なのかもしれない。

いや、これはあくまで仮説あり、実際のぼくの友人のアーティスト達は、美術家でも写真家でも、自分の専門分野については、ぼくよりはるかに勉強熱心で豊富な知識を持っている。
そもそも美術における<象徴界>を軽視したのはぼく自身であって、アウトサイダーアートの問題も自分の事として考えるべきだろう。

以上、家にあったヘンリー・ダーガー画集をじっとり見て、巻末の解説を読み思った事を書いたのだか、自分は結局ダーガーに惹かれてるのだ。
ただ「ダーガーなんか芸術じゃない」という人もいて、そういう他人の価値観に学ぶのが<象徴界>の思考だと言える。
それに対して、あくまで自然な「自分の好み」に従うのが<想像界>の思考で、いろいろ試行錯誤しているw

ところで、「自分の好み」という概念には気をつけなくてはならない。
なぜなら全ての好み=欲望は「他人の欲望」のコピーなのである。
コピーされた他人の欲望は<想像界>の中で「自分の欲望」として内面化される。
「自分の好み」にこだわる人は、実は「他人の欲望」に踊らされてるだけなのである。

「自分の好み=他人の欲望」に踊らされないようにするにはどうすれば良いのか?
それにはまず自分の好みを「自明=<想像界>」から「対象化=<象徴界>」に転じることが必要だ。
そして、あらかじめ<象徴界>として対象化されている「他人の欲望」を意図的にコピーし、「自分の好み」の世界をより豊かにすればいい。
というのが「勉強」と一般に言われてるものではないかと思われる。
ぼくも今書きながら気づいたのだがw

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2010年12月21日 (火)

正義の技術

「正義」とは個人の欲望の反映なので、「何が正義か?」は人により内容が異なる。
だからこそ、正義を行使するには「技術」が必要であり、技術の無い正義の行使こそが「不正義」となる。
正義とは「何が正義か?」という内容ではなく、「技術」そのものなのである。

自分の正義を「実体」と捉えると、他人の正義の「実体」と衝突し、結果として「不正義」が行使される。
自分の正義を、他人の正義との「関係」と捉えると、それは「技術」の問題になる。

「自分の正義」を遂行する前に、「他人の正義」に耳を傾けなければ「不正義」になる。
正義が「実体」でない以上、それは「真の正義」という単独では存在し得ないのである。
正義とは、自分と他者との「関係」であり、その時、その場に応じた「個別の正義」のみが成立する。

各自にとって「真の正義」は確かに存在する。
だが、それはあくまで「理念」として存在するのであり、「実際の正義」の素材に過ぎない。
「真の正義」は各自にとって自明だが、他者との関係として遂行される「実際の正義」が何であるかは、誰も事前に知る事は出来ない。

「責任」の無いところに「正義」は存在しない。
「技術」を間違えて「不正義」を働いた場合、その責任を負う事だけが「正義」として残される。

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2010年12月20日 (月)

褒め殺しの恐怖

芸術に対する感覚や意見は人それぞれである。
自分の作品が褒められても貶されても、他人の評価は自分の感覚からズレており、意見が異なっている。
見方を変えると、他人は自分の作品について、自分の知らない理由で、褒めたり貶したりしている。
つまり作品に対し、作者の存在は置いてけ堀になる。

芸術作品を観て、誰もが「自分の事」を語る。
評論家は作品を素材に「自分の芸術論」を書く。
作品に対し「実在の作者」は常に置いてけ堀にされる。
だから作品は作者を離れて世界に流通し、作者の死後も残り続ける。

自分の作品が貶された場合、「それは違う!」と反論する事はたやすい。
だが作品が褒められた場合、「それは違う!」と反論するのは難しい。
他人に褒められ「それは違う!」と反論出来ないでいるうちに、いつの間にか褒め殺されてしまう事がある。

生きながら褒め殺され、死んだ途端に忘れ去られ、歴史から抹殺された「巨匠」のなんと多い事か!

同じ作風の似たような作品を作り続ける作家は、皆が褒めるからそうしてるし、だからこそ「巨匠」になる。
しかし自らの情熱を失い、作品を惰性や義務のように作り続ける巨匠は、アーティストとしては生きながら死んでいる。

「褒められる」は「褒め殺される」と紙一重で、殺されない為には「技術」が要る。
特に自分の理解出来ない理由で褒められている時は、要注意だ。
他人の褒め言葉に同調し「分かったつもり」で自分褒めをすると、必ず足元をすくわれる。

褒められるにしろ、貶されるにしろ、自分の内部に「他者の欲望」が侵入しようとしている点では同じ。
拒否するだけでは「自分」は変わらず、受け入れ過ぎても食い物にされるだけ。
バランスを考える必要がある。

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2010年12月16日 (木)

平和な時代のチャンバラ劇ー彦坂尚嘉さんとの関係について

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既にお知らせしてるとおり、美術家の彦坂尚嘉さんが主宰される「気体分子ギャラリー」のネットオークションに、作品を出品しています。
入札はこちらから。
101216現在4点出品中で、1点入札ありました、ありがとうございます。

それでいろいろ評論などもしていただいており、ぼくもそれについて何か書きたいのですが、彦坂さんの方が書くのが速いので(笑)、とりあえず以下の記事について書きます。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-12-14

彦坂さんは美術家でもありますが、「気体分子ギャラリー」を運営されるからには「画商」の側面もあるわけで、ぼくはその取り扱い作家になったわけです。
これについての事情説明ですが、実はぼくは作品を美術館で展示したり、ワークショップを開催したり、雑誌や作品集として出版したりしてますが、作品そのものを販売したことがありませんでした。
以前にもブログに書きましたが、ぼくの作品は言わば「見世物」であり、「売り物」とはしてなかったのです。

ぼくはどうも、美術館の学芸員さんはともかく、現代美術のギャラリストとはほとんど縁がありませんでした。
いや去年までは四国のギャラリーアルテさんの契約作家だったのですが、ごく短期間の契約に終わり、作品も売れませんでした。
アルテさんは「フォトモ」をはじめとする作品は評価してくれたのですが、ぼくの言うことについてはほとんど相手にしてせず・・・いやぼくも「非人称芸術」などというおかしなことを口にするので、たいていの現代アートのギャラリーでは相手にしてくれないのです。

それが、ようやく自分の言うことをマトモに取り合ってくれる相手に巡り会った・・・というのが彦坂尚嘉さんです。
「マトモに取り合う」というのは、まずは彦坂さんのブログによるぼくへの「批判」で、これは「悪口」というべきものでもありますが、そういうことを突然書かれたのです(笑)
それでぼくも、反論を長々と書き込むのですが、それについてキチンと返信をくれて、そうするとぼくも長々と反論し・・・ということをしたのです。
つまりここでは「議論」が成立して、議論とはチャンバラのようなもので、真剣を使いながら命をかけて斬り合うのです。
いや、あくまで議論のチャンバラなので命を落とすことはないですが、しかし「おまえの芸術は間違ってる!」と言われ、「そうかも知れない・・・」とうっかり思ってしまったら(笑)、それは芸術家としての「死」を意味します。
もしくは命を落とさないまでも、腕を切り落とされたり、足を切り落とされたり、いずれにしろただでは済まない覚悟で臨むのが、真剣勝負の「議論」というものです。

いやしかし、「議論」の目的は「死」ではなく「創造」です。
そして「創造」とは「死」の後になされるものであり、つまりは自分を殺さなければ「新しい自分」は創造されない・・・真剣勝負の「議論」とは、そう言うものであると思うのです。

ところが日本人の多くは、「議論に負けて、自分が死んだらそれで終わり」と思っているフシがあります。
生物学的な意味での自分の命は、もちろん死んだら終わりです。
しかし議論で負けて死ぬのは「自分とは何か」という定義に過ぎません。
議論の末「自分とは何か」と言う定義が否定されたら、新しい「自分とは何か」という定義を創造すればいいのです。
ところが多くの日本人は「自分とは何か」という定義が絶対のものであると捉えていて、その内容を否定したり変更したりできる、と言う発想そのものがないように思えるのです。
ですので日本人は「議論」というものを避ける傾向にあり、ぼくの言うことをマトモに取り合ってくれるギャラリーもいないのです。

今書いたような、ぼくの「議論」のあり方は、岡本太郎の著作に学んだものです。
岡本太郎は『今日の芸術』で「旧い芸術」を批判し悪口を書きながら「モダニズム」のあり方を示します。
そしてヨーロッパ発祥のモダニズムとは、つまりは「議論による武士道(騎士道)」であり、言葉による真剣勝負であり、概念上の命のやりとりなのです。
まぁ、これは岡本太郎の言葉ではなく、あくまでもぼくの解釈ですが、岡本太郎の姿勢そのものが「チャンバラ」なのです。

ところが日本はどういうわけか、『今日の芸術』が出版された1954年当時から、議論のチャンバラを好まない「平和主義者」が多いのです。
だからこそ岡本太郎は猛然と攻撃したのですが、もしかしたらこの意味での平和主義は、モダンをすっ飛ばした「ポストモダニズム」なのかも知れません。
モダニズム(近代)は「正しさの主張」のために大きな戦争を引き起こし、その反省の上に立つのがポストモダニズムだとすれば、それは「共存」のための平和主義だと解釈できます。
いやぼくは専門家から見れば実に乱暴で適当なことを言ってるのかも知れませんが、その意味で、日本はヨーロッパに先駆けて「新しさ」を獲得していたと言えるかもしれません。

ともかく、平和の時代にチャンバラというのはいかにも時代遅れで、ぼくと彦坂さんはそう言うところで馬が合った・・・と言うのがぼくの解釈です。
もっとも、チャンバラの実力は彦坂さんの方が圧倒的に上ですから、ぼくなんかはもうかなり切り刻まれてしまってるわけです(笑)
しかしヒトデやプラナリアなどのいわゆる下等動物は、切り刻まれるとそれぞれの破片から新たな個体が再生されます。
そして人間の肉体はともかく、精神はプラナリアのごとく切り刻まれると再生され、しかもプラナリアと異なり「新たな別の自分」が再生されるわけです。

もちろん「新たな自分の再生」というのは、彦坂さんの言葉を鵜呑みにすることではありません。
鵜呑みにしようとも、彦坂さんの言葉は独特で難解すぎてほとんど理解不可能だからです(これについては後日書きます)。
ただ、彦坂さんとぼくとでは「構造主義」という概念を共有しており、それが議論を成立させる要因にもなっています。
構造主義の「構造」とは、分かりやすく言えば「関係」のことです。
構造主義ではあらゆる物事を「実体」としてではなく「関係」として捉える、そこから思考をスタートさせます。
例えば、「自分」というものを「実体」と捉えると「自分とは何か」という定義も固定されたものとして捉えられます。
しかし「自分」を「関係」として捉えれば、それはいかようにも組み替え可能なものとして捉えることができます。

ぼくは構造主義については入門書でオベンキョーしてきましたが(笑)、その成果によって「自分を変える」と言うことが評価されたと言えるかもしれません。
ただ、ぼくの「反ー反写真」が何でここまで彦坂さんに絶賛されるのか?ぼくにもわからないところがあります。
だから今後、自分が意図せず彦坂さんの評価から外れていく可能性は十分あって、それは彦坂さんのブログでも釘を刺してあり、それは公正なことだと思うわけです。

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2010年12月14日 (火)

「気体分子オークション」参加

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twitterでお知らせしましたが、美術家の彦坂尚嘉さんが主宰する「気体分子ギャラリー」がネット上で行う「気体分子オークション」に、作家として出品することになりました。

入札はこちら。

締め切り12/20(月)で、それ以後は通常価格の販売になります。

「芸術分析」および解説はこちら(彦坂尚嘉の《第100次元》アート)。

何だかえらく褒められていて、「芸術分析」って何?という疑問もあるでしょうが、ぼく自身もよく分かっていない難しい問題です(笑)
これについては、ぼくの理解の範囲で解説を書こうと思うのですが、まずはシンプルにご報告だけ、ということにいたします。

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2010年12月 9日 (木)

アーティストと言葉

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「作品をして語らしむ」アーティストは、それだけの「言葉」を持っている。
作品とは一種の「翻訳」だから、言葉を持たないアーティストに語りうる作品を作ることはできない。
作品の意味を問われて「絶句」するようなアーティストの作品もまた、絶句している。

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2010年12月 8日 (水)

「自分」は存在しない(方法論的反省)

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他者への配慮に欠ける人は「自分と向き合う」ことを避けている。
なぜなら「自分」とは、他者たちの反応によって形成されるからである。
このようなことを理解すれば、「自分」が思い上がる必然は無くなる。
また「自分」をわきまえる人は、「自分に対して配慮しない人」こそを配慮する。

「自分」とは大勢の「他者」で満たされた世界に生じた、小さな隙間に過ぎない。

「自分とは何か」という内容を、自分は「他者から学んだ言葉」によって語る。
つまり「自分とは何か」について考え語るのは、自分では無く「他者」なのである。
「自分とは何か」の内容は他者によって決定されており、それを語ることを他者から仕向けられているのが「自分」なのである。

自分は「自分とは何か」を自分で決定することが出来ず、他者たちにそれを任せる他はない。
もし「自分とは何かは自分で決定出来る」と信じる人がいるならば、そように「思い上がった人」として他者たちにより決定されたのだ。
ただし「自分とは何か」を実際に尋ねて回る様な人は、間違いなくウザい(笑)

自分の意思は他者から与えられる。
意思の強い人間は、多くの他者からの意思を背負っており、それゆえに揺るぎない。
一方、意思の弱い人間は、他者との関係が希薄なのである。

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2010年12月 7日 (火)

感情と決断

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彦坂尚嘉さんのブログに、興味深い記述があった。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/index/5

アントニオ・ダマシオというのは、アメリカの脳神経学者・心理学者です。1944年、ポルトガルのリスボン生まれ。その著書『生存する脳―心と脳と身体の神秘』は、世界17カ国でベストセラーになっています。

1848年、米北東部の鉄道施設現場で事故が起き、鉄棒が1人の前頭部を貫通した。それを境にその人物の性格と行動は一変した。
この患者の症例をもとに、人間の脳が感情機能によって決断などの理性作用を作動させていて、デカルトのよう心身2元論があやまりであるという主張を展開しています。

興 味深いのは、決断の遅い人とか、決断のできない人が私の身の回りにもいて、こういう決断のできなさが、実は理性脳の問題ではなくて感情脳の作用で決断の作 用がされているという指摘です。なるほどそうなのか、つまり決断のできない人というのは、実は理性脳だけで考えているから、決断ができないのですね、納 得。

つまり、感情的にムカッとなって、つい暴言を吐いたり暴力を振るったりするとき、人は「決断」してるわけです。
そしてそのような「決断」が公開の元になることを経験的に知る人は、「感情」が鎮まるまで我慢する。
つまり、「決断」の原因となる「感情」を抑え、何も変化が起きないよう、現状維持を守るわけです。
しかし、そのように自分を現状維持していると、周囲の状況変化に対応できず、「決断」が手遅れになってしまう。
だからどうもウジウジと決断できないでいるときは、「ムカッ」と腹を立てるような感じで「決定」するといいもかも知れない。
それでもダメなら、前頭部に鉄棒を貫通させるシリツをするといいかも知れませんw

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麻薬的習慣性

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麻薬的薬物には習慣性があり「悪」とされてるが、そもそもあらゆる「習慣」が麻薬的作用の効果に過ぎない。
例えば「早起きの習慣」はもちろん、「夜が過ぎれば朝がくる」と習慣的に信じる事も麻薬的効果の現れであり、人々はその依存症に陥っている。
哲学とは「習慣」と言う麻薬を断ち切る為の学問であり、科学とは新たな「習慣」を持つ麻薬を生み出し続ける行為である。

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2010年12月 5日 (日)

「方法論的反省」ではなく「反省」

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ぼくの「政治」へのスタンスは、10年以上前に読んだ呉智英の『封建主義者かく語りき』だったか…の受け売りで停止してる。
自分が理解している記憶に基づいて書くと、本来的に「プロフェッショナルな領域」には「素人」が口出しすることは出来ない。
例えば、プロの漁師の仕事ぶりに対し、素人の釣り人が口を挟む余地はまったく無い。
これは政治も同じであり、「政治のプロ」である政治家の仕事に対し、「政治の素人」である我々一般庶民がとやかく言う余地はないはずなのだ。
そもそも、一流大学を出ているわけでもない我々庶民は、プロ政治家を非難できるほど「頭が良い」のだろうか?
これは「一流大学を出ていない自分」を卑下しているわけではなく、「自分をわきまえる」ことを指している。
すなわち、自分をわきまえ、自分自身の「プロ仕事」に誇りを持つ人は、政治は「政治のプロ」に任せ、口出しするのを避けるのではないだろうか?
そう考えると、「政治の素人」であるにもかかわらず「政治のプロ」を非難をする人は、自分自身の「プロフェッショナルな仕事」を全う出来ているのか?疑問に思えてしまう。
自分の仕事に対し「素人の付け入る隙がない」と思えるほどの「誇り」を持つ人は、逆に自分が素人の立場にある「相手のプロの領分」には立ち入らないはずである。
この政治論は、本質的内容は異なるが、中島義道の「自分の専門である哲学以外の政治には一切興味が無い」と言う態度とも共通してて、自分にはしっくりくる。
また、ぼくは「純粋芸術」の立場から、社会風刺を表現したような、芸術を政治の手段に貶めたとおもえる作品が「大嫌い」だった。
と言う風に、ぼくの政治的態度は一貫してたのだが、これは明らかな「思考停止」に他ならず、やっぱり何か考えなきゃ…と思い始めた次第ですw
これは「方法論反省」ではなく、まさしく「反省」なのだが、この「反省」を反転して「方法的反省」に利用することはあるだろうと思う。

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2010年12月 4日 (土)

大げさに考えなければ「芸術」は可能になる(方法論的反省)

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あくまで「方法論的反省」なのだが、ぼくは「芸術」というものを大げさに考え過ぎてたかもしれない。
ぼくは芸術というものを、何か通常を超え並外れて特別なものだから「芸術」なのだ、と思ってたが、状況から判断するとそうでもないらしい。

岡本太郎の著書『今日の芸術』には、「芸術はここちよくあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」などという芸術の定義が示されている。
だが最近のギャラリーや、アートフェアや、芸術祭など見ると、日本の現代アートは「心地良い作品」「きれいな作品」であふれているように思える。
それらの作品は、少なくともぼくの感覚では「芸術」というよりも、イラストやデザインを拡大したようなのもの見える。
「超越」などという大げさなものではない、日常感覚の延長のような、インテリアにも合いそうな心地良くてきれいな作品・・・これらはを「芸術」と呼べるのか?

しかし、岡本太郎はとっくに亡くなって過去の人であり、『今日の芸術』も実に1954年の刊行であり、そこに示された価値観もとっくに古びているのであり、いつまでも固執しても仕方ないのかも知れない。
いや実際、美大時代ぼくはそうした価値観に囚われすぎて身動きが取れなくなっていた。

美大時代のぼくは、「絵が下手」という思いに囚われて、ほとんど何もできなかった。
「絵が下手」というのはデッサンの問題ではなく「オリジナリティのある絵が描けない」と言うことであり、つまりは「芸術の才能がない」のである。
「写真」もまったく下手であって、とくに「構図」のセンスが全く欠如していると思っていた。

だが卒業後に「ツギラマ」や「フォトモ」の手法を見出し、写真の「構図」の問題を相対化し克服することに成功した。
続いて「非人称芸術」の概念を見い出し、「オリジナリティ」や「才能」の問題も超越してしまった。
言ってみれば、ぼくは自分の「才能の無さ」を反転することによって「新しい芸術」を生み出したのだ。
だが、その認識は果たして正しいと言えるのか…?

ぼくは芸術というものを大げさに考え、つまり「超越」や「境界面」の問題として捉え、その結果「非人称芸術」の概念に至った。
だがそれに基づく「フォトモ」などの作品は、見かけ上はいわゆる「面白アート」でしかなく、そのような作品をして世間に受け入れられている。
いっぽうで、コンセプトとしての「非人称芸術」は全くと言っていいほど評価されておらず、ぼくのように「並のIQ」の人間がコンセプチュアルアートをやろうとしても、深みの無い、前例の繰り返しにしかならない・・・などと冷静に評価するインテリもおられる。
以前、あるアートの専門家から「糸崎さんは作品が面白いんだから、余計なことは言わない方が良い」と言われ、その時は非常に反発を覚えたが、今あらためて「方法論的に反省」すると、そのアドバイスは正しかったかも知れない。

ぼくの認識の間違いは、美大時代の「自分には才能が無い」という思いに遡ることができる。
才能が無い、という認識は正しいのかも知れないが、それは同時に「芸術を大げさに考え過ぎてる」事の反映に過ぎないのかも知れないのだ。
芸術を大げさに考えなければ、自分の才能の無さを問題にする事無く、気軽にリラックスして制作に取り組む事が出来るだろう。
例えば「芸術は新しくなければならない」という岡本太郎の定義に囚われなれば、模倣や流行から自分のアートを始める事が出来る。

だいたい、「芸術は新しくなければならない」というモダンアートの定義自体が、ポストモダンと言われる現在では「古い」のだ。
そのような事は、実際にアートを取り巻く状況を見るとよくわかる。
だから「模倣」や「流行」などを「芸術の禁止項目」などと考える事自体が間違いなのだ。

…と、以上のように最近のぼくは「方法論的反省」をしてみたのだった。
そして、その「方法論的反省」のもとにぼくが取り組んだのが、他人の「写真」の意図的な模倣なのだ。
これは初期には「普通の写真」と名付け、現在では「反ー反写真」として継続しているのだが、意外にもそれなりに上手い写真が撮れるようになってきて、自分でも驚いてしまった。
もちろん特に「新しい芸術」とは言え無いだろうが、「写真」としての一定水準はクリアしてる、と言うことを友人の写真家達も認めてくれている。
このような「実験」の結果、少なくとも「写真が下手」という自己評価は裏切られたことになる。
この分だと、もしかするとかつて自ら断念した「絵画」も描けるようになるかも知れない。
要は多くの人がそうであるように、芸術を大げさに考えすぎなければ、もしくは高尚なものと考え過ぎなければ、芸術は可能になるのである。

いや、芸術を「高尚では無いもの」として貶めるのでは無く、芸術にはダ・ヴィンチやセザンヌの様な「高尚な芸術」から、イラストやデザインのような「心地良くてきれい芸術」まで、その「多様性」を認める事だ。
「芸術」に限らす、ある対象物の多様性を認めるには、少なくともぼくの場合は、「一つの自分」を「複数の自分」へと分割する必要がある。
そのためには、単なる反省ではなく「方法論的反省」が必要になる。
この場合「心から反省する自分」「わざと反省する自分」「反省しない自分」などに分割されるかもしれない。
「方法論的反省」とは、イモムシが反省してサナギを経てチョウになるのではなく、イモムシでありかつサナギであり同時にチョウでもあろうとする態度なのである。

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2010年12月 3日 (金)

昔話

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「奴隷」になれない不適格者が「奴隷以下」になり下がる。
「奴隷以下」の人間は、「奴隷」に殺されることに怯えながら生きてゆかなければならない。一方、奴隷の命は「奴隷の主人」によって守られる。
「奴隷」の身分は征服されても奴隷のままだが、「奴隷の主人」は征服されると奴隷になり下がる。
「奴隷以下」の人間に冷酷な態度を取る人間を「奴隷」と言う。

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2010年12月 2日 (木)

芸術と犯罪

「反芸術」とは「芸術」に対する犯罪的行為である。
例えば印象派絵画は、アカデミズム絵画に対する犯罪的行為だといえる。

犯罪的芸術は成立するが、芸術的犯罪は成立しない。
なぜなら、犯罪は芸術になり得ないからである。

犯罪者の匂いのする芸術家による、犯罪の匂いがする芸術作品。
犯罪者の匂いのしない芸術家による、犯罪の匂いがしない芸術作品。
犯罪者の匂いのする芸術家による、犯罪の匂いがしない芸術作品。
犯罪者の匂いのしない芸術家による、犯罪の匂いがする芸術作品。

リアルな犯罪は芸術になり得ないが、リアルな芸術は犯罪的である。
リアルな精神病はリアルな芸術になり得るが、そのような芸術は長続きしない。

犯罪は悪であるが、合法的な範囲で「犯罪的」なことはむしろ善いこととされる場合がある。
芸術に限らず、世の中で大成功している人は、犯罪者ではないのはもちろんだが「犯罪者的」ではある。

犯罪的な善行や、犯罪者的な善人が存在する。
善行的な犯罪や、善人的な犯罪者も存在する。

犯罪者的な芸術家は、リアルな犯罪行為を人一倍憎悪する善意の人でもある。

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2010年12月 1日 (水)

「一発屋」で終わらないための「構造主義」

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アーティストにとっての「構造主義」とは、「一発屋」で終わらないための技術、として捉えることができる。
別な言い方をすると、非構造主義的な「素朴な実在論」に囚われているアーティストは、一発屋で終わる可能性が高い、と考えられる。
アーティストが「最初の成功」の実在生にとらわれる限り、それを変化させ、または否定することは難しい。
構造主義に始まる「相対主義」とは、なんでも相対化するニヒリズム(虚無主義)ではなく、自分を絶対化するのを防ぐ技術なのである。

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