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2010年12月 9日 (木)

アーティストと言葉

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「作品をして語らしむ」アーティストは、それだけの「言葉」を持っている。
作品とは一種の「翻訳」だから、言葉を持たないアーティストに語りうる作品を作ることはできない。
作品の意味を問われて「絶句」するようなアーティストの作品もまた、絶句している。

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アート論」カテゴリの記事

コメント

芸術の目的がオーディエンスに特定の感情を引き出すことだとしたら言葉は無力なのかも、とも思いますが、それは置いておいて(笑)
サイエンティストにとっての作品は論文ということになり、最後は英語で言葉を紡ぎ出さなければならずたいそう辛い作業です(笑)科学はロジックだから言葉に出来て当たり前だろうと思われるかも知れませんが、どうしてなかなか、曖昧に考えていることが多いものなのです。上手く言葉に出来たときには、あぁこういうことだったのかと変な具合に納得したりもしますす。個人的にはこういう曖昧な思考過程が新しい着想には重要だと思っていたりもします。問題をうまく解くのが重要なのではなく、むしろ、いかに良い問題を見つけるかがよい科学者には重要だとよく言われます。本質的には科学者もある種のアーティストというのがあるべき姿なのではないかとも思います。
で、芸術家が作品だけ見てくれ、というのはちょっとかっこいいようでいて、怠慢の一種かも知れない、とも思えますね。

投稿: schlegel | 2010年12月11日 (土) 23時02分

>芸術の目的がオーディエンスに特定の感情を引き出すことだとしたら言葉は無力なのかも、とも思いますが、それは置いておいて(笑)

芸術というものは、本質的には一般の人から見て「分からないもの」だと言えます。
例えば印象派の絵も、「写実画に反発する絵画」「物質ではなく光を描く絵画」といった理論(言葉)を知らなければ、それを「良いもの」として理解することはできないでしょう。
実際、1874年にパリで開催された「第1回印象派展」はマスコミをはじめとする観客から大きな反発を受けました。
しかし現在は、印象派についての情報は一般の人々にも共有されるようになり、誰にでも分かる芸術になりました。
ですから当時描かれた印象派絵画はともかく、今の時代に印象派と同じ絵画を描いたとしても、それを「芸術」と呼ぶことはできません。
そのような「分かりやすいもの」は雑誌やポスターなどのイラストレーションとか、室内に掛ける装飾品とか、そういうものになります。

>問題をうまく解くのが重要なのではなく、むしろ、いかに良い問題を見つけるかがよい科学者には重要だとよく言われます。

まさに芸術も同じであって、「印象派」とか「キュビズム」というのもひとつの「問題」であったわけです。
哲学というのも「問いの空間」の創出だと言われ、「あんたの哲学は間違ってる!」などと反論する人は、じつはその哲学の「問いの空間」にまんまと取り込まれているのです。
同じように、印象派絵画に反発した当時の人々は、「印象派的問題」に取り込まれていたわけです。
ところが現在では、「印象派的問題」は解消され、あるいは乗り越えられてしまっています。
ですから芸術家はさらなる新しい「芸術上の問題」を見つけ出す必要があり、そのような最先端の問題は、一般には「分からないもの」であるのです。
ただ、現在の芸術の状況はそのことが反転していて、「分からないものが芸術である」ということ自体が問題化され、これまでとは反転した「分かりやすいアート」が作られるようになったわけです。

>で、芸術家が作品だけ見てくれ、というのはちょっとかっこいいようでいて、怠慢の一種かも知れない、とも思えますね。

芸術の本質が「問題の提示」だとすれば、それは本来「わからないもの」であり、だからこそ「理解する」あるいは「読み込む」必要があります。
ただ、現在のアートは「問題の提示」そのものが反転して、「見てくれだけのアート作品」が専門家にも許容されるようになった、と言うことができます。
これは確かに一種の怠慢ではありますが、大衆社会という社会構造に合わせて芸術が変化し、娯楽化したわけです。
サイエンスもまた同じで、サイエンスの最先端では一般には難解で高度な研究が行われますが、最終的には「利便性」という怠惰を人々に与えますね・・・もちろんぼくもその恩恵を受けてますが(笑)

>上手く言葉に出来たときには、あぁこういうことだったのかと変な具合に納得したりもします

スイスの言語学者ソシュールは、人間が使う言葉には「記号表現」と「意味内容」という二つの側面があることを指摘しました。
「問題の意味内容」というものも、「記号表現」に結びつかないままどこかに漂っていて(笑)、それを言葉によって探り出す・・・という行為が「考えること」かもしれません。

投稿: 糸崎 | 2010年12月16日 (木) 09時51分

上記の返信ですが、とっくに書いていたのにしばらくブログに返信できないで今した。
なぜか403エラーになってしまって・・・やっと元に戻ったみたいですW

投稿: 糸崎 | 2010年12月16日 (木) 09時53分

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