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2010年12月16日 (木)

平和な時代のチャンバラ劇ー彦坂尚嘉さんとの関係について

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既にお知らせしてるとおり、美術家の彦坂尚嘉さんが主宰される「気体分子ギャラリー」のネットオークションに、作品を出品しています。
入札はこちらから。
101216現在4点出品中で、1点入札ありました、ありがとうございます。

それでいろいろ評論などもしていただいており、ぼくもそれについて何か書きたいのですが、彦坂さんの方が書くのが速いので(笑)、とりあえず以下の記事について書きます。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-12-14

彦坂さんは美術家でもありますが、「気体分子ギャラリー」を運営されるからには「画商」の側面もあるわけで、ぼくはその取り扱い作家になったわけです。
これについての事情説明ですが、実はぼくは作品を美術館で展示したり、ワークショップを開催したり、雑誌や作品集として出版したりしてますが、作品そのものを販売したことがありませんでした。
以前にもブログに書きましたが、ぼくの作品は言わば「見世物」であり、「売り物」とはしてなかったのです。

ぼくはどうも、美術館の学芸員さんはともかく、現代美術のギャラリストとはほとんど縁がありませんでした。
いや去年までは四国のギャラリーアルテさんの契約作家だったのですが、ごく短期間の契約に終わり、作品も売れませんでした。
アルテさんは「フォトモ」をはじめとする作品は評価してくれたのですが、ぼくの言うことについてはほとんど相手にしてせず・・・いやぼくも「非人称芸術」などというおかしなことを口にするので、たいていの現代アートのギャラリーでは相手にしてくれないのです。

それが、ようやく自分の言うことをマトモに取り合ってくれる相手に巡り会った・・・というのが彦坂尚嘉さんです。
「マトモに取り合う」というのは、まずは彦坂さんのブログによるぼくへの「批判」で、これは「悪口」というべきものでもありますが、そういうことを突然書かれたのです(笑)
それでぼくも、反論を長々と書き込むのですが、それについてキチンと返信をくれて、そうするとぼくも長々と反論し・・・ということをしたのです。
つまりここでは「議論」が成立して、議論とはチャンバラのようなもので、真剣を使いながら命をかけて斬り合うのです。
いや、あくまで議論のチャンバラなので命を落とすことはないですが、しかし「おまえの芸術は間違ってる!」と言われ、「そうかも知れない・・・」とうっかり思ってしまったら(笑)、それは芸術家としての「死」を意味します。
もしくは命を落とさないまでも、腕を切り落とされたり、足を切り落とされたり、いずれにしろただでは済まない覚悟で臨むのが、真剣勝負の「議論」というものです。

いやしかし、「議論」の目的は「死」ではなく「創造」です。
そして「創造」とは「死」の後になされるものであり、つまりは自分を殺さなければ「新しい自分」は創造されない・・・真剣勝負の「議論」とは、そう言うものであると思うのです。

ところが日本人の多くは、「議論に負けて、自分が死んだらそれで終わり」と思っているフシがあります。
生物学的な意味での自分の命は、もちろん死んだら終わりです。
しかし議論で負けて死ぬのは「自分とは何か」という定義に過ぎません。
議論の末「自分とは何か」と言う定義が否定されたら、新しい「自分とは何か」という定義を創造すればいいのです。
ところが多くの日本人は「自分とは何か」という定義が絶対のものであると捉えていて、その内容を否定したり変更したりできる、と言う発想そのものがないように思えるのです。
ですので日本人は「議論」というものを避ける傾向にあり、ぼくの言うことをマトモに取り合ってくれるギャラリーもいないのです。

今書いたような、ぼくの「議論」のあり方は、岡本太郎の著作に学んだものです。
岡本太郎は『今日の芸術』で「旧い芸術」を批判し悪口を書きながら「モダニズム」のあり方を示します。
そしてヨーロッパ発祥のモダニズムとは、つまりは「議論による武士道(騎士道)」であり、言葉による真剣勝負であり、概念上の命のやりとりなのです。
まぁ、これは岡本太郎の言葉ではなく、あくまでもぼくの解釈ですが、岡本太郎の姿勢そのものが「チャンバラ」なのです。

ところが日本はどういうわけか、『今日の芸術』が出版された1954年当時から、議論のチャンバラを好まない「平和主義者」が多いのです。
だからこそ岡本太郎は猛然と攻撃したのですが、もしかしたらこの意味での平和主義は、モダンをすっ飛ばした「ポストモダニズム」なのかも知れません。
モダニズム(近代)は「正しさの主張」のために大きな戦争を引き起こし、その反省の上に立つのがポストモダニズムだとすれば、それは「共存」のための平和主義だと解釈できます。
いやぼくは専門家から見れば実に乱暴で適当なことを言ってるのかも知れませんが、その意味で、日本はヨーロッパに先駆けて「新しさ」を獲得していたと言えるかもしれません。

ともかく、平和の時代にチャンバラというのはいかにも時代遅れで、ぼくと彦坂さんはそう言うところで馬が合った・・・と言うのがぼくの解釈です。
もっとも、チャンバラの実力は彦坂さんの方が圧倒的に上ですから、ぼくなんかはもうかなり切り刻まれてしまってるわけです(笑)
しかしヒトデやプラナリアなどのいわゆる下等動物は、切り刻まれるとそれぞれの破片から新たな個体が再生されます。
そして人間の肉体はともかく、精神はプラナリアのごとく切り刻まれると再生され、しかもプラナリアと異なり「新たな別の自分」が再生されるわけです。

もちろん「新たな自分の再生」というのは、彦坂さんの言葉を鵜呑みにすることではありません。
鵜呑みにしようとも、彦坂さんの言葉は独特で難解すぎてほとんど理解不可能だからです(これについては後日書きます)。
ただ、彦坂さんとぼくとでは「構造主義」という概念を共有しており、それが議論を成立させる要因にもなっています。
構造主義の「構造」とは、分かりやすく言えば「関係」のことです。
構造主義ではあらゆる物事を「実体」としてではなく「関係」として捉える、そこから思考をスタートさせます。
例えば、「自分」というものを「実体」と捉えると「自分とは何か」という定義も固定されたものとして捉えられます。
しかし「自分」を「関係」として捉えれば、それはいかようにも組み替え可能なものとして捉えることができます。

ぼくは構造主義については入門書でオベンキョーしてきましたが(笑)、その成果によって「自分を変える」と言うことが評価されたと言えるかもしれません。
ただ、ぼくの「反ー反写真」が何でここまで彦坂さんに絶賛されるのか?ぼくにもわからないところがあります。
だから今後、自分が意図せず彦坂さんの評価から外れていく可能性は十分あって、それは彦坂さんのブログでも釘を刺してあり、それは公正なことだと思うわけです。

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