「自分」は存在しない(方法論的反省)
他者への配慮に欠ける人は「自分と向き合う」ことを避けている。
なぜなら「自分」とは、他者たちの反応によって形成されるからである。
このようなことを理解すれば、「自分」が思い上がる必然は無くなる。
また「自分」をわきまえる人は、「自分に対して配慮しない人」こそを配慮する。
「自分」とは大勢の「他者」で満たされた世界に生じた、小さな隙間に過ぎない。
「自分とは何か」という内容を、自分は「他者から学んだ言葉」によって語る。
つまり「自分とは何か」について考え語るのは、自分では無く「他者」なのである。
「自分とは何か」の内容は他者によって決定されており、それを語ることを他者から仕向けられているのが「自分」なのである。
自分は「自分とは何か」を自分で決定することが出来ず、他者たちにそれを任せる他はない。
もし「自分とは何かは自分で決定出来る」と信じる人がいるならば、そように「思い上がった人」として他者たちにより決定されたのだ。
ただし「自分とは何か」を実際に尋ねて回る様な人は、間違いなくウザい(笑)
自分の意思は他者から与えられる。
意思の強い人間は、多くの他者からの意思を背負っており、それゆえに揺るぎない。
一方、意思の弱い人間は、他者との関係が希薄なのである。
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