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2010年12月24日 (金)

非人称芸術とアウトサイダーアート

言論の武士道、真剣によるチャンバラの極意は「最大の敵は自分」であり、「敵に向ける刃を自分にも向ける」事であり、「敵が隙を見せたらすかさず切りつけるように、自分が隙を見せたらすかさず切りつける」事であり、それが出来なければ「公正」とは言えないのである。

相手のプライドに止めを刺すような「言論の刃」は、自分にこそ向けるべきである。
相手のプライドを気遣い、そのために収めた刃を、再び引き抜いて自分のプライドをズタズタにする目的で使用する事。それが出来る「技術」と「覚悟」の無い言論人は、ポストモダニズム的に新しいwww

さて、自分にとっては非常に恐ろしい事だか、自分の芸術の根拠である「非人称芸術」が、ヘンリー・ダーガーと同様の「アウトサイダーアート」に過ぎないのではないか?という疑いが出てきた。

引きこもりのヘンリー・ダーガーは、誰に見せる為でもなく、純粋に自分の為だけの「非現実の王国」を描き続けた。
一方、純粋な意味での「非人称芸術」は、原理的に自分以外の鑑賞者が不在であり、故にそれは自分の主観的な「非現実の王国」でしかない。

岡本太郎の「芸術は新しくなければならない」を掘り下げると、新しい芸術は常に「芸術の外部」として認識されると解釈出来る。
そして、その延長上に「作者」の存在を否定した「非人称芸術」のコンセプトが見い出された。
だがそれは文字通りの「アウトサイダーアート」に過ぎない疑いが出てきたのだ、恐ろしい…w

「アウトサイダーアート」はフランス語で「アール・ブリュ=ナマの芸術」と言われるが、この言葉に惑わされてはいけない。
「ナマの芸術」という言葉は「芸術の根源は、理性や知性にではなく、それらを獲得する以前の状態にある」というイデオロギーに支えられているが、その芸術観は妥当なのか?

「アール・ブリュ=ナマの芸術」の芸術観は、岡本太郎の芸術観と符合する。
岡本太郎は「自分を捨てて無心になれば、誰でも真に自由な芸術を描くことが出来る」みたいなことを主張したが、そのような芸術観だからこそ、「曖昧な自分」である知的障害者の作品が「ナマの芸術」として解釈されるのだ。

岡本太郎流のモダンアート=今日の芸術は、伝統の否定、形式の否定、常識の否定であり、それにより「自由」が獲得されるとしている。
これをラカンの概念で解釈すると、<象徴界>を否定することで、<想像界>の自由を獲得する、ということなのかもしれない。
と考えると、ずいぶん無理があるように思える。

ラカンの概念で考えると、<想像界>の多様性は<象徴界>の多様性が保証する。
だから<象徴界>を否定し抑圧し、その多様性を損なうと、<想像界>の多様性も損なうことになり、多様性を損なった状態を「自由」とは呼ばないのである。
つまり岡本太郎的な「自由な芸術」は、結局どれも似てしまう。

ぼくは結局、<象徴界>に支障をきたした人々による、一定の傾向の作品が好きで、それを「芸術」と勘違いしてたのかもしれない。
だからダーガーに惹かれるし、学生時代ぼくがその才能に嫉妬してた友人は、卒業後に「ビョーキ」が治って絵を描かなくなってしまったw

学生時代のぼくは、芸術の根拠を<象徴界>の故障に見い出したのだが、ぼくは<象徴界>が正常な健康人だったので、その意味での「芸術の才能」があるはずもなく、絶望したのであった。
そんな絶望の仕方も別の意味で病的だがw…もちろんラカンの概念は当時は知らず、今あらためて解釈している。

勝手な芸術観により失望していたぼくは、いろいろのたうち回ってた末に、「非人称芸術」の概念に行き着いた。
これはあらためて解釈すると、岡本太郎流の<象徴界>の否定を受け継ぎながら、<想像界>も否定し、<現実界>に根拠を見い出す芸術観だと言える。

「非人称芸術」は、様々な人工物の「それが何であるか」という意味を意図的に忘却することで、目の前に現れる。
これは<想像界>から<象徴界>取り除くという操作を行い、<現実界>そのものへ迫るための技術だとも言える。

「非人称芸術」は、不可知世界である<現実界>と、可知世界である<想像界>との「境界面」として現れる。
だから「非人称芸術」は作品という「実体」として存在しえず、その場限りの刹那的な「関係」として立ち現れ、または<神>のごとく遍在する。

刹那的に出現した「非人称芸術」の記録写真は、作品という「実体」として存在する。
だが、それはあくまで「非人称芸術」の影でしかない。または、「非人称芸術」という「非実体」を利用して制作した、「作品」という「実体」に過ぎない。

岡本太郎流の「芸術は新しくなければならない」の「新しい芸術」は、既知(現在)と、未知(未来)との境界面として立ち現れる。
つまり芸術は新しくある以前に「境界面」であることが本質なのであり、その延長上に「非実体」としての<非人称芸術>が導き出されたのだ。

<非人称芸術>が<象徴界>を否定するのは、レヴィ・ストロースの<構造主義>の影響もある。
レヴィ・ストロースは西洋の「歴史」を、いわゆる未開部族の「神話」と同列に比較することで、その意味を相対化し、絶対と思われていた「西洋の知」の優位性を否定した。

世界説明には「唯一の正解」はなく、異なる視点による様々な解釈の仕方があるのみである。
そして、ひとつの「世界」に対する、様々に異なる解釈のその「差異」の中に、<象徴界>の裂け目としての<現実界>が垣間見える。
この原理を、芸術の方法論として応用したのが<非人称芸術>だと言える。

以上、レヴィ・ストロースとかラカンとか、入門書レベルの知識がごちゃ混ぜになってるが、最近の「非人称芸術」の解釈はそんな感じ。
と言うことで、そこには<象徴界>の要素がゴッソリ抜けていることに、あらためて気がついた。
これは流石にヤバイと思い始めているのだが…アウトサイダー過ぎるw

聖書によると<神>は人間には見ることが出来ず、ただ<神>の存在をありありと感じられる人と、<神>の存在を感じたくても感じられない人と、<神>など知りたくも無い人との3種類がいる。
<神>をラカンの<現実界>に置き換えると、これにも同じ事が言える。

人間の世界認識は「五感」により制限されており、その外部に認識不可能な<現実界>が広がっていると仮定出来る。
このことを理屈として理解する事と、不可知の<現実界>の存在をありありと感じる事とは異なる。

ぼくは自分がありありと感じられる<現実界>への畏れを「芸術」の問題に直結し、そこから<非人称芸術>の概念が生じた。
だが、芸術にとって<現実界>がどれほど重要な要素であろうとも、<象徴界>をすっ飛ばしたその手続きが、その意味で有効かどうかは疑わしい。

<非人称芸術>の明確な欠点は、その経験の蓄積が「教養」に結び付かないことである。
<非人称芸術>の経験は原理的に<象徴界>を欠いているため、他者と共有可能な「教養」とはなり得ないのだ。

はじめに書いたように、<非人称芸術>は主観的経験でしかあり得ず、ただその記録写真だけが実体化され、<想像界>の中で他者と共有される。
だからぼくのコンセプトは誰にも理解されず、作品だけが喜ばれる。これではヘンリー・ダーガーの「閉ざされた心」と大差ないかもしれないw

以上のように改めて反省すると、<非人称芸術>には明らかな欠点があり、アウトサイダーアートである疑いも出てきた。
たが、だからと言って<非人称芸術>には芸術としての真実や有効性が一片も含まれていない、とは未だ断言することは出来ない。

早い話、<非人称芸術>を否定する事は、自分のアイデンティティを否定する事であり、かなり辛い…だからと言って、重大な欠点のある概念に固執したままでは自分がダメになる…

そこで「自分」というものを分割し、「<非人称芸術>を探究する自分」とは別に、「<象徴界>としての芸術を探究する自分」を立てる事にしたのだ。
そしてこの方法論による最初の試みが、「反-反写真」なのである。

<象徴界>とは、人類の歴史であり、知恵と知識の蓄積であり、まずはそれらを素直に学ぶところから「<象徴界>の芸術」は始まる。
レヴィ・ストロースも西洋史の優位性は否定したが、歴史の有効性そのものを否定したわけではない。<構造主義>も人類史の蓄積上に成立しているのだ。

<象徴界>としての芸術の基本は「学ぶこと」であり、学ぶことは「真似ること」でもある。
ということで、ぼくは友人の写真家の真似をした写真を撮ることを思い立ち、それが「反-反写真」なのである。

ぼくが「反-反写真」を始めたのは、友人の写真家達のグループ展を見た際、それらの写真が全く分からず、孤立して寂しい気分になったことも原因の一つだw

<非人称芸術>の思想は「反芸術」であり「反写真」でもあり、だから「写真の良さが分からない」のはコンセプト上当たり前だ。
だがその様に「孤高のアーティスト」を気取っても、それこそダーガーとどこが違うのか?
やはり他人と共有可能な「教養」が無ければ、付き合いは広がらないし、深まらない。

変な話しだが、ぼくは写真家の友人達と交流を深めるため「写真とは何か」を知ろうと決意した。
そして自分の「反写真」をさらに反転した「反-反写真」として、他人の「写真」を形式的に模倣し始めたのだ。
つまり、フォトモやツギラマなどの「反写真」ではなく、普通の「写真」をアートのつもりで撮ることにしたのだ。

だからぼくの「反-反写真」は認識のための写真であり、コミュニケーションのための写真であり、教養としての写真であり、自分の作品となりうる写真であり、「<象徴界>としての芸術」の探究なのである。

また、ぼくは「反-反写真」として路上の何気ない風景を撮っており、だからこれは「フォトモ」や「ツギラマ」と同様<非人称芸術>の記録写真でもある。
実はぼくは「反-反写真」を「平面のフォトモ」のつもりで撮っており、たからフォトモ同様<非人称芸術>を利用した芸術作品でもある。

ということで、今のぼくは芸術を「境界面」の問題として追求しながら、アウトサイダー過ぎる自分の立場の軌道修正を試みている。
まぁいちおう「心掛け」としてであり、実力が伴うかは別ですが…w

「アウトサイダーアート」について再び考えてみると、その定義の一つに「ちゃんとした美術教育を受けていない人の作品」というのがある。
その点ぼくは東京造形大学を出ているから、その事例は当てはまらない。

ところが、ぼくが通っていた当時の造形大は、教授はほとんど何も教えず、ぼくも人にものを教わるのが苦手で、テキトーなことばかりやっていた。
「自由」と言えばそうなのだが、そんな自分が果たして「ちゃんとした美術教育を受けた」と言えるのか?

そんな調子でいちおう造形大を卒業したぼくなのだが、程なくして自分が大学時代あまりにサボり過ぎ、何も学んでこなかったことに焦ってしまったw
それで遅ればせながら勉強を始めたのだが、芸術の勉強をすると自分独自の芸術が出来なくなると思い、芸術以外の分野の勉強をいろいろする事にした。

とは言え別の学校に行き直したのでもなく、自分の興味で思想、哲学、自然科学など、主に入門書で読むようになっただけだ。
これは全く無駄ではないが「ちゃんとした教育を受けた」とも言えない。
そんな勉強の成果が<非人称芸術>なら、それが「アウトサイダーアート」だと言われても返す言葉がないw

<非人称芸術>をアウトサイダーアートで終わらさないためには、ともかくさらに学ぶ必要がある。
それはまぁ自分の問題だからいいとして、じゃあ今の日本のアーティストのうち、誰が「ちゃんとした美術教育」を受けているのか?非常に疑問である。
いや、自分を棚に上げてるのは承知なのですが…w

あくまで自分の見た範囲からの勝手なイメージだが、どうも日本の美大ではちゃんとした美術教育が行われてない気がする。
その原因は岡本太郎に代表される風潮にあって、つまり「芸術家は勉強しなくていい」のであり「それこそが各自の自由な芸術を育む」という思想であり、つまり<象徴界>の軽視である。

<象徴界>の軽視とは歴史の軽視であり、それは岡本太郎の『今日の芸術』からはっきり読み取れる。
そこには「先入観を捨てれば誰でも芸術が描ける」というように書いてある。
つまり岡本太郎は「アウトサイダーアート」を提唱しているのであり、現在の美大も共通の土台に立っているような気がするのだ。

ぼくは美大でサボってばかりいたからそう思うのかもしれないが、どれだけ優等生であっても、美大の教育方針そのものが<象徴界>を軽視してるのであれば、その意味での「アウトサイダーアート」である事には変わらない。
まぁ、ポストモダンは「大きな物語としての歴史」が無効化した時代だと言われるから、芸術全般がアウトサイダーアート化するのは必然だし、正しい事なのかもしれない。

いや、これはあくまで仮説あり、実際のぼくの友人のアーティスト達は、美術家でも写真家でも、自分の専門分野については、ぼくよりはるかに勉強熱心で豊富な知識を持っている。
そもそも美術における<象徴界>を軽視したのはぼく自身であって、アウトサイダーアートの問題も自分の事として考えるべきだろう。

以上、家にあったヘンリー・ダーガー画集をじっとり見て、巻末の解説を読み思った事を書いたのだか、自分は結局ダーガーに惹かれてるのだ。
ただ「ダーガーなんか芸術じゃない」という人もいて、そういう他人の価値観に学ぶのが<象徴界>の思考だと言える。
それに対して、あくまで自然な「自分の好み」に従うのが<想像界>の思考で、いろいろ試行錯誤しているw

ところで、「自分の好み」という概念には気をつけなくてはならない。
なぜなら全ての好み=欲望は「他人の欲望」のコピーなのである。
コピーされた他人の欲望は<想像界>の中で「自分の欲望」として内面化される。
「自分の好み」にこだわる人は、実は「他人の欲望」に踊らされてるだけなのである。

「自分の好み=他人の欲望」に踊らされないようにするにはどうすれば良いのか?
それにはまず自分の好みを「自明=<想像界>」から「対象化=<象徴界>」に転じることが必要だ。
そして、あらかじめ<象徴界>として対象化されている「他人の欲望」を意図的にコピーし、「自分の好み」の世界をより豊かにすればいい。
というのが「勉強」と一般に言われてるものではないかと思われる。
ぼくも今書きながら気づいたのだがw

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