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2010年12月 4日 (土)

大げさに考えなければ「芸術」は可能になる(方法論的反省)

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あくまで「方法論的反省」なのだが、ぼくは「芸術」というものを大げさに考え過ぎてたかもしれない。
ぼくは芸術というものを、何か通常を超え並外れて特別なものだから「芸術」なのだ、と思ってたが、状況から判断するとそうでもないらしい。

岡本太郎の著書『今日の芸術』には、「芸術はここちよくあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」などという芸術の定義が示されている。
だが最近のギャラリーや、アートフェアや、芸術祭など見ると、日本の現代アートは「心地良い作品」「きれいな作品」であふれているように思える。
それらの作品は、少なくともぼくの感覚では「芸術」というよりも、イラストやデザインを拡大したようなのもの見える。
「超越」などという大げさなものではない、日常感覚の延長のような、インテリアにも合いそうな心地良くてきれいな作品・・・これらはを「芸術」と呼べるのか?

しかし、岡本太郎はとっくに亡くなって過去の人であり、『今日の芸術』も実に1954年の刊行であり、そこに示された価値観もとっくに古びているのであり、いつまでも固執しても仕方ないのかも知れない。
いや実際、美大時代ぼくはそうした価値観に囚われすぎて身動きが取れなくなっていた。

美大時代のぼくは、「絵が下手」という思いに囚われて、ほとんど何もできなかった。
「絵が下手」というのはデッサンの問題ではなく「オリジナリティのある絵が描けない」と言うことであり、つまりは「芸術の才能がない」のである。
「写真」もまったく下手であって、とくに「構図」のセンスが全く欠如していると思っていた。

だが卒業後に「ツギラマ」や「フォトモ」の手法を見出し、写真の「構図」の問題を相対化し克服することに成功した。
続いて「非人称芸術」の概念を見い出し、「オリジナリティ」や「才能」の問題も超越してしまった。
言ってみれば、ぼくは自分の「才能の無さ」を反転することによって「新しい芸術」を生み出したのだ。
だが、その認識は果たして正しいと言えるのか…?

ぼくは芸術というものを大げさに考え、つまり「超越」や「境界面」の問題として捉え、その結果「非人称芸術」の概念に至った。
だがそれに基づく「フォトモ」などの作品は、見かけ上はいわゆる「面白アート」でしかなく、そのような作品をして世間に受け入れられている。
いっぽうで、コンセプトとしての「非人称芸術」は全くと言っていいほど評価されておらず、ぼくのように「並のIQ」の人間がコンセプチュアルアートをやろうとしても、深みの無い、前例の繰り返しにしかならない・・・などと冷静に評価するインテリもおられる。
以前、あるアートの専門家から「糸崎さんは作品が面白いんだから、余計なことは言わない方が良い」と言われ、その時は非常に反発を覚えたが、今あらためて「方法論的に反省」すると、そのアドバイスは正しかったかも知れない。

ぼくの認識の間違いは、美大時代の「自分には才能が無い」という思いに遡ることができる。
才能が無い、という認識は正しいのかも知れないが、それは同時に「芸術を大げさに考え過ぎてる」事の反映に過ぎないのかも知れないのだ。
芸術を大げさに考えなければ、自分の才能の無さを問題にする事無く、気軽にリラックスして制作に取り組む事が出来るだろう。
例えば「芸術は新しくなければならない」という岡本太郎の定義に囚われなれば、模倣や流行から自分のアートを始める事が出来る。

だいたい、「芸術は新しくなければならない」というモダンアートの定義自体が、ポストモダンと言われる現在では「古い」のだ。
そのような事は、実際にアートを取り巻く状況を見るとよくわかる。
だから「模倣」や「流行」などを「芸術の禁止項目」などと考える事自体が間違いなのだ。

…と、以上のように最近のぼくは「方法論的反省」をしてみたのだった。
そして、その「方法論的反省」のもとにぼくが取り組んだのが、他人の「写真」の意図的な模倣なのだ。
これは初期には「普通の写真」と名付け、現在では「反ー反写真」として継続しているのだが、意外にもそれなりに上手い写真が撮れるようになってきて、自分でも驚いてしまった。
もちろん特に「新しい芸術」とは言え無いだろうが、「写真」としての一定水準はクリアしてる、と言うことを友人の写真家達も認めてくれている。
このような「実験」の結果、少なくとも「写真が下手」という自己評価は裏切られたことになる。
この分だと、もしかするとかつて自ら断念した「絵画」も描けるようになるかも知れない。
要は多くの人がそうであるように、芸術を大げさに考えすぎなければ、もしくは高尚なものと考え過ぎなければ、芸術は可能になるのである。

いや、芸術を「高尚では無いもの」として貶めるのでは無く、芸術にはダ・ヴィンチやセザンヌの様な「高尚な芸術」から、イラストやデザインのような「心地良くてきれい芸術」まで、その「多様性」を認める事だ。
「芸術」に限らす、ある対象物の多様性を認めるには、少なくともぼくの場合は、「一つの自分」を「複数の自分」へと分割する必要がある。
そのためには、単なる反省ではなく「方法論的反省」が必要になる。
この場合「心から反省する自分」「わざと反省する自分」「反省しない自分」などに分割されるかもしれない。
「方法論的反省」とは、イモムシが反省してサナギを経てチョウになるのではなく、イモムシでありかつサナギであり同時にチョウでもあろうとする態度なのである。

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コメント

僕は写真は素人なので、勝手なことしか言えませんが(笑)僕自身、綺麗な写真とか、見ていて心地よい写真とか技術的に優れた写真を撮りたいという強い願望はあるのですが、それはおいておいて、綺麗な写真って広告写真みたいだな、と思うことは多いですね。風景で言うとポスターやカレンダーに適していたり、カタログやコマーシャルの背景だったり、名曲アルバムのシーンのような(笑)心地よい景色、あるいは写真というのはそういう「目的」のためにとられているという時点で糸崎さんの言われる芸術とは異質の物なのでしょうね。例えば戦場写真でも昆虫写真でも悲惨な状況や、自然の有様といた、何かを伝えるという目的のためにプロフェッショナルな技術が要求され存在するのだと思います。ではそれが芸術家というと、広い意味でのアートには相違ないけれど、少なくとも岡本太郎の言っている芸術とは異質ですね。伝えたい何かがあるからダメなのかも知れないけど、すこし違うような気もします。たとえばものすごく写実的で技術の高い絵画が必ずしも芸術とはいえず、岡本太郎やピカソやマティスのような絵画がよいと感じるなにか、ってなんなんでしょうね?(笑)

投稿: schlegel | 2010年12月 9日 (木) 21時25分

なかなか根源的なスルドイ質問で・・・w

>たとえばものすごく写実的で技術の高い絵画が必ずしも芸術とはいえず、

これは定説ですが、芸術の歴史は「写真」の登場によって大きく変わりました。
つまり、ヨーロッパの絵画はものすごい写実を目指したのですが、ついにはそれが機械化され、写真になってしまいました。
そうなると、画家は用済みになってしまいますが、そこで「写真には撮れない絵を描こう」というわけで、印象派をはじめとする「写実とは異なる絵画」が出てきたのです。

それと近代以前、キリスト教が支配的だった時代のヨーロッパでは、絵画とは主に「キリスト教の挿絵」であり、描くテーマがある程度決まっていました。
しかし近代になると、絵画は「何をどのように描いても自由」になりました。
だから印象派は「宗教的に崇高なテーマ」とは対極的な、人々の日常とか、何気ない街角とか、日の出の印象とか、そのようなテーマを描いたのです。

>例えば戦場写真でも昆虫写真でも悲惨な状況や、自然の有様といた、何かを伝えるという目的のためにプロフェッショナルな技術が要求され存在するのだと思います。
>ではそれが芸術家というと、広い意味でのアートには相違ないけれど、少なくとも岡本太郎の言っている芸術とは異質ですね。
>伝えたい何かがあるからダメなのかも知れないけど、すこし違うような気もします。

言ってみれば芸術とは、「伝えたい何か」と「それを表現する技術」の二つの側面を持ちます。
例えば印象派は「伝統から解放された自由」を「奔放な筆さばき」で表現した、と言えるかも知れません。
ぼくの場合も「虫」とか「路上」といったものを「写真」という技術で表現してるわけです。

ただ、表現の目的が科学であれば科学写真に、報道が目的なら報道写真に、広告が目的ならコマーシャル写真に、趣味が目的なら趣味の写真なりますね。
ぼくの写真は、科学の目的もありますが、あくまでも芸術が主目的ですから、芸術活動のつもりでいるわけです。
芸術としての「写真」とは、絵画のように「写真とは異なる表現」ができませんから、「伝えたい何か」に特化した芸術だと言えるかもしれません。
いやこのあたり、自分でも整理できてないのですが・・・

投稿: 糸崎 | 2010年12月10日 (金) 01時07分

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