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2011年1月

2011年1月 8日 (土)

味の道くさ

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正月の長野市滞在中、昼食を食べに権堂の「いむらや」へ行ってみた。
なんと言うこともない中華屋なのだが、安いので学生時代に帰省した時など友達と入った記憶がある。
特に美味くはないが、独特の味わいがあったような気がして、それを改めて確認したくなったのだ。

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で、以前の記憶を頼りに「焼きそば」頼んでみたのだった。
パリパリのかた焼きそばで、並盛りで500円。
それが大盛の量で出てきたて、ちょっと驚いてしまった。

で実際の味だが、自分の好みとしてはちょっと甘ったるい味付け。
さらに味わいながら食べ続けると…どうも釈然としない…と思ったら、ほとんど調味料の味しかしない。
具材は白菜、インゲン、キクラゲ、肉も少々などいろいろ入ってるのだが、具材固有の味がほとんどしないのだ。
麺もバリバリした歯応えだけで小麦粉の味がしない。
そして何しろ量が多く、そして量も味のうちだとすれば、これは思った以上に手強い相手である。
けっきょく完食したのだが、なにしろ味がないというか単調なので、大量の水道水を飲んだみたいな感じである。

恐らくこの焼きそばは、焼きそばの「実在」ではなく、焼きそばの「概念」なのかもしれない。
だから概念的には満腹のはずなのだが、心は満たされず空洞のままで、満腹なのにどうも腹が減っているのである。
恐らくニッチ(生態的地位)としてはサイゼリアに近く、ぼくもサイゼリアはよく行くのだが、概念の満腹とは生きる上での「実用」なのである。

と言うわけで、美味しいものもそうでないものにも固有の「味」がある。
そして、店の外観や内装などを含め、トータルで味わうのが真のグルメ道ではないかと思うのだ。

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ちなみにこのような店内で…

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あらためて隣を見るとフーゾクだったりして、味わい深すぎる…
個人的にはまた行ってみたいと思うお店です(笑)

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プラトンの饗宴

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プラトン『パイドン』があまりに良かったので、続いて『饗宴』を読んだのだが、ページ数の少ない本の割にちょっと時間が掛かってしまった。
前半ちょっとたるい感じがして、どうしても眠くなってしまうのだ(笑)
どころが後半から急激にテンションが上がって、哲学の素晴らしすぎる世界が展開する。

この本でまず面白いのは「美」や「愛」をテーマにしながら「美少女」ではなく「美少年」について語っている点である。
ギリシャ文化はホモ文化だというのは人づてで聞いたことはあったのだが、つまり今風に表現すれば「やおい文学」なのである(笑)
この場合の「やおい」とは「最高峰のヤマがあり・どんでん返しのオチがあり・汲めども尽きないイミにあふれる」が語源のとにかくスゴイ書物のことなのだが…

まぁ美少年愛はさておき、この本も哲学の方法論が圧縮された、まさに「哲学の教科書」である。
哲学の教科書といえば、ぼくは中島義道『哲学の教科書』を1995年頃に読んで「哲学者と芸術家は異なり、自分は哲学者にはなれない」と思っていた。
ところが不思議なことにプラトンの著作を読むと、「芸術家はまず哲学者であらねばならず、だから自分にも哲学はできる」というように思えてしまう(笑)

分かりやすく言えば、中島義道さんの主張は、哲学者とは「哲学病」の患者であり、ぼくが思うにそれは「芸術病」とはビョーキの種類が異なっている。
しかしプラトンの著作をによると、「芸術病」は「哲学病」の一種であるように思えるのだ。
さらに分かりやすく言えば、中島義道さんの本を読むと本人が「極度の芸術音痴」であるのが分かるのに対し、プラトンの描くソクラテスははっきりと「美」について語っているのである。

ところで『饗宴』は、のちの一般的な哲学書のように著者の一人称で書かれるのではなく、ソクラテスをはじめとする人々の対話(会話)形式で書かれている。
その対話もプラトンが直接語るのではなく、かの「饗宴」に参列したアリストデモスから聞いた話を、アポロドロスが友人に語る、というちょつと複雑な設定になっている。
さらに『饗宴』の中でのソクラテスは自分がディオティマから聞いたことを話すので、会話の主体が幾重にも入れ子状になっている。

これが意味するところは、まず哲学とは一つの主体だけで行うのは不可能であり、様々な主体の関わりの中でこそ哲学が営まれるのである。
そしてだからこそ、いかに賢人ソクラテスであろうとも、他人(ディオティマ)を先生とし、自分を生徒とし教えを乞うのである。

またこの本は伝聞による記憶だけを頼りに語られるという設定であり、つまり哲学する人は誰でもこの書物を丸暗記して暗唱できるくらいの能力があって当然なのである。
『パイドン』もそうなのだが、プラトンの著作が伝聞による対話形式で書かれてるのは、学問の基礎が「暗唱」にあることを示している。
ぼくは暗唱とか記憶というのは、何となくクリエイティビティと余り関係が無いように思っていたのだが、とんでもない勘違をしてたのである。
…まぁしょうがないんだけど(笑)

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2011年1月 7日 (金)

ミヤタ式読書法

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大学時代からの友人ミヤタさんが、ドストエフスキー『罪と罰』を小学校に上がる前に読んだ、と聞いて驚いてしまった。
子供の頃の彼は、家にあった本を訳も分からないまま片っ端から読んでたそうで、何が書いてあったかの記憶もないらしい。
その友人は小学校五年生くらいから、安い古本を適当に選んで20冊くらい買っては、一日一冊ペースで読みまくり、読んだ端から売り払い、内容はほとんど忘れる…という読書を大人になるまで繰り返してたらしい。
ぼくにとってはあらゆる本は理解しながら読むのが当たり前だったので、この読書法にはちょっと衝撃を受けてしまった(笑)

だが、ラカンの指摘のように<象徴界>が人間の無意識を形成するのであれば、この「訳の分からない大量の読書」もあながち無意味とは言えないだろう。
実際、彼は高校は地元の進学校で、現在はその経歴を活かして塾を経営し、雑談してても頭の回転が早いのが分かるのだ。
このように、彼の読書は何らかの役に立っているように思われる。

ぼくも実は、去年は旧約聖書を読んであまりの訳の分からなさに「こんなの読んで意味あるの?」と思いながら半分まで読んで頓挫していた。
だが<象徴界>という事をあらためて考えると、あながち無意味ではなさそうだし、もう半分も何とか読んでみようかと思う(笑)

また先ごろ読み終えた『饗宴』も文体が硬く読めない漢字もあって、適当に読み飛ばした箇所もあり、きちんと理解しながら読んだとは言えず、内容の大半を忘れている。
しかし、ともかくすごい本だったという「感触」だけは残っており、自分の無意識である<象徴界>への影響もゼロではないだろう。

どの様に無駄な読書も無駄にはならない。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』で「けだし分類整理とは、どのようなものであれ分類整理の欠如に比べればそれ自体価値を持つものである」と書いている。
そして書物とは、すなわち言葉による分類整理なのである。

もしかしてぼくはこれまで「意味の分からない読書」をしなさ過ぎたのかも知れない。
いやたとえ「意味の分かる読書」を目指してもけっきょく分からなかったり忘れたりしてしまうのだ。
だから実は読書の本質とは「意味の分からない読書」にあるのかも知れない。

そう言えば、別の友人は「限られた人生の中で読める本の数も決まっている。だから本選びは慎重にしたい」みたいなことを言っていた。
しかしこれは一理あると思う一方で、そんな風に効率が追求できるものなのか?と疑ってしまう。
それよりも、人生には無駄が付き物だし、量は効率を上回ることもあるかも知れないのだ。

例えば読書をたくさんしていれば、稀に「本当に良い本」にめぐり合う事ができるだろう。
そしてそれさえ読めば、どんなクズ本でも自分の知識に役立てられる様になる。
例えば『孫子』を読めば、トマベチ本からでさえ別の意味を引き出す事ができるのだ(笑)

「意味の分かる読書」を目指すと読むのに時間がかかったり、途中で断念したり、結局は「意味の分からない読書」まで阻害されてしまう。
いっその事、はじめから意味を読み取るのは諦め、息を吸う様に目で文字だけ追って、頭では別の事を考える…というくらいのつもりで「ミヤタ式読書法」の実験をするといいかもしれない。

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2011年1月 6日 (木)

賢者と詐欺師

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賢者は詐欺師のように語り、詐欺師も賢者のように語り、この両者を素人が見分けるのは難しい。
または、賢者は狂人のように語り、狂人も賢者のように語る。
あるいは、賢者は愚者のように振る舞い、愚者は賢者のように振る舞う。
この様に、凡庸な者が極端な者を見分けるのは難しい。

真に誠実な人は詐欺師のように自分の誠実さを疑い、真の詐欺師は自分の誠実さを微塵も疑わないのである。

人間の本質は奴隷なのであり、良い主人に仕えることで「人間」となる。
人間がもし主人の元から開放されて自由の身になるのであれば、それは野山を自由に駆け回る動物と変わらないのである。

哲学者は死を恐れない。
もしくは「死を恐れること」を恐れないのが哲学者である。

肉体への憎悪から形而上学が生じ、それを突き詰めた末に反転して機能主義的な現代思想になる。哲学は小乗的で、現代思想は大乗的なのか…?
小乗仏教と哲学がともに世間体を捨て、大乗仏教と現代思想が反転した態度で世間体と向き合っているのなら、現代美術もまた世間に向き合わなければならない。

普通の人々は、哲学者以上に哲学の下らなさを熟知している。彼らはまた、芸術家以上に芸術の下らなさを熟知している。
だからこれらに一切の関心を寄せないか、さもなくばせいぜい「飾りもの」として扱うのである。

真の哲学者が熱心に飲食の快楽を追求しないのであれば、真の美食家もまた同様である。
なぜなら「真の美食」の追求の上では、本質的に「自らの快楽」は否定されるからである。

極端な人は世間体的には死んだも同然になる。

肉体を通してやってくる快楽があるように、「世間体」を通してやっくる快楽がある。
それは文字通り、世間体に生きる人々にとって重要なのである。

人間の本質は奴隷であり、神に仕える者は世間体には仕えず、世間体に仕える者は神には仕えず、誰にも仕えず自由な者は動物のように扱われる。

ビジネスにおいて大切なのは「自分」を「世間体」からできるだけ切り離すこと。
そして、世間体に分散した自分のあらゆる部分を自分自身へと取り集め、自分自身として凝集するように習慣づけること。
そして、現在においても将来においても、足枷の如きものである世間体から開放されて、自分ができるだけ自分自身だけで単独に生きるように習慣づけること。
少なくともそうしなければ、世間体の中でビジネスを行うことは不可能だろう。

世間体を嫌いながら、世間体に頼らざるを得ない生活を送る者は、やがて腐った臓器の様に世間体から排除されるだろう。

「自分」の「世間体」からの開放と分離が「死の覚悟」と呼ばれるのである。
ヤクザも、哲学者も、芸術家も、ビジネスマンも、この意味での「死の覚悟」がなければ本質的には失格なのである。

「勝つ技術」は「負ける技術」に通じており、「生きる技術」は「死ぬ技術」に通じている。
「死ぬ技術」は「歴史に生きる技術」に通じており、それ故にソクラテスの言葉はブラトンを通じて現代日本にまで語り継がれているのだ。
しかし「世間体」の中で安全かつ平和に生きる人にとっては、これらの面倒な技術は一切不要なのである。

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プラトンのパイドン

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年末から正月にかけてプラトンの『パイドン』を読んだのだが、もっと早く読んでいればと後悔するくらい素晴らしかった。
写真家の友人に「ギリシア哲学は意外に読みやすくて面白い」と言われ気になっていたのだが、まさに予想を上回るインパクトである(笑)

書名のパイドンとはソクラテスの弟子で、この本の語り部。
アテナイから「危険思想」の罪により死刑判決を受けたプラトンが、死刑の前日、弟子たちに囲まれて「魂の不滅」について哲学的な討論する内容が記されている。

まず感動してしまうのは、自らの死を目前にして淡々と哲学を語るソクラテスの態度。
それは「魂の不滅」を確信し、死の恐怖を乗り越えているからなのだが、それは単なる迷信ではなく、あくまで哲学的考察を精緻に重ねた上での「確信」なのだ。

つまりソクラテスは「イメージとしての死の恐怖」に囚われることを戒め、あくまで「理論的整合性」によってのみ思考するその態度を示し、ただそれだけのこと為に自らの命を懸けている。
そしてまさにこれこそが、哲学をはじめとする全ての学問の基本的方法論であり、気概であると思われるのだ。

魂の不滅を証明してみせるソクラテスに、対し弟子達は次々に「反論」を試みる。
つまり自ら納得して死に臨む師匠に対し「あなたの理論は間違いで、だからその死も虚しい」と説得するのである。
これは明らかに「世間体」の倫理観に反している。

世間体で考えるならば(ソクラテスの気が変わっても死刑が撤回されない以上)本人が「魂の不滅」を確信してるならそのまま信じさせてやるのが人情である。
だがもし弟子達がその意味でお追随したのなら、それは哲学的には師への裏切りであり、ソクラテスはさぞかし失望するだろう。

つまり、まず哲学とは一人で行うことができず(その整合性を検証するために)他者との「対話」の中で営まれる。
そして、そのような哲学の営みは世間体から隔絶した外部に存在する。
このことも学問全般の基礎であり、もちろん芸術にも通じている。

『パイドン』には物事を知的に考える上で重要かつ基礎的な「方法論」が、かなり明確に示されている。
確かに、この本に書かれる「魂の不滅」をはじめとする理論そのものは、現代の水準からは不十分に思える。
だが、これは方法論を示すための言わば「例題」なのである。

『パイドン』においてプラトンは、ソクラテスを通じて「魂の不滅」を説き「不滅のイデア」を説いているが、実のところ真に不滅だったのはプラトンの著作であり、そこに示された「思考の方法論」そのものなのである。

もし、芸術の意味が「芸術とは何か」という問いであるならば、まず「思考の方法論」の基礎中の基礎であるプラトンの著作を読むのが一番手っ取り早いのである。
難易度はまさに入門書レベルであり、ボリュームも新書並であり、しかし内容は2400年余りの歴史に耐えるだけの「重み」がある。

哲学をカメラに例えて考えると、昔の金属製機械式カメラは分解するとギアやカムやスプリングが見えて、内部機構のカラクリが素人目にも理解できる。
つまりカメラ設計者の思考や工夫が、素人でも分かるレベルで示されているのだ。

いっぽう現代のデジカメを分解すると、中に複雑なプリント基板が見えるが、具体的にどんな原理で作動しているのか、素人目にはさっぱりわからない。
デジカメの作動には電子基盤以外にプログラムも関わっており、専門の技術者でなければその仕組みや工夫を理解することはできない。

哲学もカメラと同じで(時間のスパンはだいぶ異なるが)、初期の哲学は見事でありながら誰にでも理解しやすい。
それに対して現代の哲学は素人が読むとチンプンカンプンで、専門家にとっても難解なものが少なくない、というくらいに複雑化している。

難解な哲学や現代思想は、原著は読めなくとも適切な「入門書」を読むことでその概念の一部を理解し利用することができる。
しかし古代ギリシア哲学は原著自体が入門書レベルで書かれているため、 誰でも人類最高の叡智に直接(翻訳だが)触れることができる。
こんなことならもっと早く知っておけば良かったと思うが、今だからこそその凄さが分かるのかも知れない(笑)

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2011年1月 5日 (水)

3つの位相

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言葉は本質的に「圧縮効果」がある。
例えば「アレとコレとソレをやらなきゃ…」などと考えると混乱して結局何も出来なかったりするが、「<現実界>で考えるんだ」と一言に圧縮すれば整理が付いて行動に移しやすい。
この場合の<現実界>はラカンの概念を別の形に応用したもので、その簡単形である。

ラカンは<想像界><象徴界><現実界>という3つの世界の「実在」を示したのではなく、言わば人間と世界の関係のあり方を、3つの「位相」に例えたのである。
ラカンの<想像界><象徴界><現実界>が「位相」なのだとすれば、元の定義を離れて様々な事例に応用可能なはずだ。

斎藤環『生き延びるためのラカン』ではラカンの三界をパソコンに例えて、<想像界>はディスプレー、<象徴界>はプログラム、<現実界>はパソコン本体、と説明されている。
しかしこれはあくまで例えであって、ラカン本来の意味で考えるとパソコンは目に見える物体なので<想像界>の産物である。
つまり斎藤環さんは、カランの三界が「位相」であることを利用し、<想像界>そのものをさらに<想像界><象徴界><現実界>の三界に分割して示しているのだ。
この手法はいろいろ応用できる。

例えば書物は文字で書かれているからラカンの概念では<象徴界>なのだか、その中でもイメージを喚起するストーリーが書かれた小説は<想像界>で、法律書など恣意的な決まりごとが書かれたものは<象徴界>で、現象との必然的関連で書かれた物理学の本などは<現実界>、という風に分けられる。

という風に考えると先日読んだ『孫子』には、勝手な想像や単なる慣習に従って判断すれば必ず戦争に負け、現実をよく調べて判断すれば戦いの前に勝利が分かると書いてあり、これは<現実界>の書物なのである。
つまり孫子は戦争においては「<現実界>で考えろ」と説いているのであり、この言葉は「アレとコレとソレをしなきゃ…」という頭の中の混乱したイメージであるところの<想像界>を圧縮する効果がある。

以上のような用語の使い方は、ラカンの専門家からすれば「安直な俗流解釈」なのかも知れないが、との各実際の効果がありさえすれば「正しい」というのが機能主義としての現代思想の立場であり、それはラカンの思想とも共通するはずだと思うのだ。

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2011年1月 1日 (土)

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
去年まではこんなご挨拶はせずに淡々としてたんですが、<象徴界>というのは意味もなく慣習に従うところに意味がある、ということでご挨拶してみました。
ということで、今年もよろしくお願いします。

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