賢者と詐欺師
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賢者は詐欺師のように語り、詐欺師も賢者のように語り、この両者を素人が見分けるのは難しい。
または、賢者は狂人のように語り、狂人も賢者のように語る。
あるいは、賢者は愚者のように振る舞い、愚者は賢者のように振る舞う。
この様に、凡庸な者が極端な者を見分けるのは難しい。
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真に誠実な人は詐欺師のように自分の誠実さを疑い、真の詐欺師は自分の誠実さを微塵も疑わないのである。
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人間の本質は奴隷なのであり、良い主人に仕えることで「人間」となる。
人間がもし主人の元から開放されて自由の身になるのであれば、それは野山を自由に駆け回る動物と変わらないのである。
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哲学者は死を恐れない。
もしくは「死を恐れること」を恐れないのが哲学者である。
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肉体への憎悪から形而上学が生じ、それを突き詰めた末に反転して機能主義的な現代思想になる。哲学は小乗的で、現代思想は大乗的なのか…?
小乗仏教と哲学がともに世間体を捨て、大乗仏教と現代思想が反転した態度で世間体と向き合っているのなら、現代美術もまた世間に向き合わなければならない。
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普通の人々は、哲学者以上に哲学の下らなさを熟知している。彼らはまた、芸術家以上に芸術の下らなさを熟知している。
だからこれらに一切の関心を寄せないか、さもなくばせいぜい「飾りもの」として扱うのである。
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真の哲学者が熱心に飲食の快楽を追求しないのであれば、真の美食家もまた同様である。
なぜなら「真の美食」の追求の上では、本質的に「自らの快楽」は否定されるからである。
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極端な人は世間体的には死んだも同然になる。
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肉体を通してやってくる快楽があるように、「世間体」を通してやっくる快楽がある。
それは文字通り、世間体に生きる人々にとって重要なのである。
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人間の本質は奴隷であり、神に仕える者は世間体には仕えず、世間体に仕える者は神には仕えず、誰にも仕えず自由な者は動物のように扱われる。
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ビジネスにおいて大切なのは「自分」を「世間体」からできるだけ切り離すこと。
そして、世間体に分散した自分のあらゆる部分を自分自身へと取り集め、自分自身として凝集するように習慣づけること。
そして、現在においても将来においても、足枷の如きものである世間体から開放されて、自分ができるだけ自分自身だけで単独に生きるように習慣づけること。
少なくともそうしなければ、世間体の中でビジネスを行うことは不可能だろう。
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世間体を嫌いながら、世間体に頼らざるを得ない生活を送る者は、やがて腐った臓器の様に世間体から排除されるだろう。
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「自分」の「世間体」からの開放と分離が「死の覚悟」と呼ばれるのである。
ヤクザも、哲学者も、芸術家も、ビジネスマンも、この意味での「死の覚悟」がなければ本質的には失格なのである。
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「勝つ技術」は「負ける技術」に通じており、「生きる技術」は「死ぬ技術」に通じている。
「死ぬ技術」は「歴史に生きる技術」に通じており、それ故にソクラテスの言葉はブラトンを通じて現代日本にまで語り継がれているのだ。
しかし「世間体」の中で安全かつ平和に生きる人にとっては、これらの面倒な技術は一切不要なのである。
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コメント
どこまでがプラトンでどこからかイトザキか、凡庸な物には見分けが付かない。それは、プラトンもイトザキも賢者であるためかもしれない。あるいはどちらかが詐欺師である可能性も含んでいる(笑)
世間体、の辺りからでしょうか?
投稿: schlegel | 2011年1月 6日 (木) 08時34分
確かにプラトンを読みながらツイッターしたのを羅列したのですが…
そもそもプラトンの著作にはプラトン自身は登場せず、主に師匠のソクラテスに語らせていて、どこまでがソクラテスでどこからがプラトンか見分けが付きません。
つまり他でも書きましたが、哲学に限らず「考える」ことは「他人の言葉で考える」ことであり、それはプラトンの時代から指摘され続けてることなのです。
だからぼくもそれに倣ったのですが、しかしいくら何でも2300年前の問題をそのまま現在の自分に当てはめることはできません。
例えば『パイドン』でのソクラテスは「魂」の「肉体」からの分離を説きますが、イマドキこんな二分法を真に受けることはできないのです。
ですので適当にアレンジして、魂を「自分」に、肉体を「世間体」に置き換えたりしてるのです。
確かに「自分」は一人で生きられない以上、「世間体」という肉体を必要とします。
でも、哲学や芸術や科学など、学問の営みに必要な人間関係は、本来的に「世間体」とは異なっており、それもプラトンを読んでると分かってきます。
それと、賢者かあるいは詐欺師か狂人か、それが分からない人は具体的には彦坂尚嘉さんですねw
アート業界では後者だとする人も少なくないですが…ぼくはあくまで「中立」かつ「保留」の立場を取ってます。
何しろぼくの今の能力では判断できませんから、こういう状態で肯定するとそれこそ「信者」になってしまうし、彦坂さん自身もそう言う信者は嫌いなんじゃないかと思うのですw
投稿: 糸崎 | 2011年1月 8日 (土) 03時52分