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2011年1月 7日 (金)

ミヤタ式読書法

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大学時代からの友人ミヤタさんが、ドストエフスキー『罪と罰』を小学校に上がる前に読んだ、と聞いて驚いてしまった。
子供の頃の彼は、家にあった本を訳も分からないまま片っ端から読んでたそうで、何が書いてあったかの記憶もないらしい。
その友人は小学校五年生くらいから、安い古本を適当に選んで20冊くらい買っては、一日一冊ペースで読みまくり、読んだ端から売り払い、内容はほとんど忘れる…という読書を大人になるまで繰り返してたらしい。
ぼくにとってはあらゆる本は理解しながら読むのが当たり前だったので、この読書法にはちょっと衝撃を受けてしまった(笑)

だが、ラカンの指摘のように<象徴界>が人間の無意識を形成するのであれば、この「訳の分からない大量の読書」もあながち無意味とは言えないだろう。
実際、彼は高校は地元の進学校で、現在はその経歴を活かして塾を経営し、雑談してても頭の回転が早いのが分かるのだ。
このように、彼の読書は何らかの役に立っているように思われる。

ぼくも実は、去年は旧約聖書を読んであまりの訳の分からなさに「こんなの読んで意味あるの?」と思いながら半分まで読んで頓挫していた。
だが<象徴界>という事をあらためて考えると、あながち無意味ではなさそうだし、もう半分も何とか読んでみようかと思う(笑)

また先ごろ読み終えた『饗宴』も文体が硬く読めない漢字もあって、適当に読み飛ばした箇所もあり、きちんと理解しながら読んだとは言えず、内容の大半を忘れている。
しかし、ともかくすごい本だったという「感触」だけは残っており、自分の無意識である<象徴界>への影響もゼロではないだろう。

どの様に無駄な読書も無駄にはならない。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』で「けだし分類整理とは、どのようなものであれ分類整理の欠如に比べればそれ自体価値を持つものである」と書いている。
そして書物とは、すなわち言葉による分類整理なのである。

もしかしてぼくはこれまで「意味の分からない読書」をしなさ過ぎたのかも知れない。
いやたとえ「意味の分かる読書」を目指してもけっきょく分からなかったり忘れたりしてしまうのだ。
だから実は読書の本質とは「意味の分からない読書」にあるのかも知れない。

そう言えば、別の友人は「限られた人生の中で読める本の数も決まっている。だから本選びは慎重にしたい」みたいなことを言っていた。
しかしこれは一理あると思う一方で、そんな風に効率が追求できるものなのか?と疑ってしまう。
それよりも、人生には無駄が付き物だし、量は効率を上回ることもあるかも知れないのだ。

例えば読書をたくさんしていれば、稀に「本当に良い本」にめぐり合う事ができるだろう。
そしてそれさえ読めば、どんなクズ本でも自分の知識に役立てられる様になる。
例えば『孫子』を読めば、トマベチ本からでさえ別の意味を引き出す事ができるのだ(笑)

「意味の分かる読書」を目指すと読むのに時間がかかったり、途中で断念したり、結局は「意味の分からない読書」まで阻害されてしまう。
いっその事、はじめから意味を読み取るのは諦め、息を吸う様に目で文字だけ追って、頭では別の事を考える…というくらいのつもりで「ミヤタ式読書法」の実験をするといいかもしれない。

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