3つの位相
言葉は本質的に「圧縮効果」がある。
例えば「アレとコレとソレをやらなきゃ…」などと考えると混乱して結局何も出来なかったりするが、「<現実界>で考えるんだ」と一言に圧縮すれば整理が付いて行動に移しやすい。
この場合の<現実界>はラカンの概念を別の形に応用したもので、その簡単形である。
ラカンは<想像界><象徴界><現実界>という3つの世界の「実在」を示したのではなく、言わば人間と世界の関係のあり方を、3つの「位相」に例えたのである。
ラカンの<想像界><象徴界><現実界>が「位相」なのだとすれば、元の定義を離れて様々な事例に応用可能なはずだ。
斎藤環『生き延びるためのラカン』ではラカンの三界をパソコンに例えて、<想像界>はディスプレー、<象徴界>はプログラム、<現実界>はパソコン本体、と説明されている。
しかしこれはあくまで例えであって、ラカン本来の意味で考えるとパソコンは目に見える物体なので<想像界>の産物である。
つまり斎藤環さんは、カランの三界が「位相」であることを利用し、<想像界>そのものをさらに<想像界><象徴界><現実界>の三界に分割して示しているのだ。
この手法はいろいろ応用できる。
例えば書物は文字で書かれているからラカンの概念では<象徴界>なのだか、その中でもイメージを喚起するストーリーが書かれた小説は<想像界>で、法律書など恣意的な決まりごとが書かれたものは<象徴界>で、現象との必然的関連で書かれた物理学の本などは<現実界>、という風に分けられる。
という風に考えると先日読んだ『孫子』には、勝手な想像や単なる慣習に従って判断すれば必ず戦争に負け、現実をよく調べて判断すれば戦いの前に勝利が分かると書いてあり、これは<現実界>の書物なのである。
つまり孫子は戦争においては「<現実界>で考えろ」と説いているのであり、この言葉は「アレとコレとソレをしなきゃ…」という頭の中の混乱したイメージであるところの<想像界>を圧縮する効果がある。
以上のような用語の使い方は、ラカンの専門家からすれば「安直な俗流解釈」なのかも知れないが、との各実際の効果がありさえすれば「正しい」というのが機能主義としての現代思想の立場であり、それはラカンの思想とも共通するはずだと思うのだ。
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