プラトンの饗宴
プラトン『パイドン』があまりに良かったので、続いて『饗宴』を読んだのだが、ページ数の少ない本の割にちょっと時間が掛かってしまった。
前半ちょっとたるい感じがして、どうしても眠くなってしまうのだ(笑)
どころが後半から急激にテンションが上がって、哲学の素晴らしすぎる世界が展開する。
この本でまず面白いのは「美」や「愛」をテーマにしながら「美少女」ではなく「美少年」について語っている点である。
ギリシャ文化はホモ文化だというのは人づてで聞いたことはあったのだが、つまり今風に表現すれば「やおい文学」なのである(笑)
この場合の「やおい」とは「最高峰のヤマがあり・どんでん返しのオチがあり・汲めども尽きないイミにあふれる」が語源のとにかくスゴイ書物のことなのだが…
まぁ美少年愛はさておき、この本も哲学の方法論が圧縮された、まさに「哲学の教科書」である。
哲学の教科書といえば、ぼくは中島義道『哲学の教科書』を1995年頃に読んで「哲学者と芸術家は異なり、自分は哲学者にはなれない」と思っていた。
ところが不思議なことにプラトンの著作を読むと、「芸術家はまず哲学者であらねばならず、だから自分にも哲学はできる」というように思えてしまう(笑)
分かりやすく言えば、中島義道さんの主張は、哲学者とは「哲学病」の患者であり、ぼくが思うにそれは「芸術病」とはビョーキの種類が異なっている。
しかしプラトンの著作をによると、「芸術病」は「哲学病」の一種であるように思えるのだ。
さらに分かりやすく言えば、中島義道さんの本を読むと本人が「極度の芸術音痴」であるのが分かるのに対し、プラトンの描くソクラテスははっきりと「美」について語っているのである。
ところで『饗宴』は、のちの一般的な哲学書のように著者の一人称で書かれるのではなく、ソクラテスをはじめとする人々の対話(会話)形式で書かれている。
その対話もプラトンが直接語るのではなく、かの「饗宴」に参列したアリストデモスから聞いた話を、アポロドロスが友人に語る、というちょつと複雑な設定になっている。
さらに『饗宴』の中でのソクラテスは自分がディオティマから聞いたことを話すので、会話の主体が幾重にも入れ子状になっている。
これが意味するところは、まず哲学とは一つの主体だけで行うのは不可能であり、様々な主体の関わりの中でこそ哲学が営まれるのである。
そしてだからこそ、いかに賢人ソクラテスであろうとも、他人(ディオティマ)を先生とし、自分を生徒とし教えを乞うのである。
またこの本は伝聞による記憶だけを頼りに語られるという設定であり、つまり哲学する人は誰でもこの書物を丸暗記して暗唱できるくらいの能力があって当然なのである。
『パイドン』もそうなのだが、プラトンの著作が伝聞による対話形式で書かれてるのは、学問の基礎が「暗唱」にあることを示している。
ぼくは暗唱とか記憶というのは、何となくクリエイティビティと余り関係が無いように思っていたのだが、とんでもない勘違をしてたのである。
…まぁしょうがないんだけど(笑)
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コメント
そういえば昨日東工大に行く機会がありましたが、橋爪大三郎さんの講義が誰でも聴けるようですね、関西人としては、やっぱ東京はええなぁ、と思うばかりです(笑)
http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/kouza.html
投稿: schlegel | 2011年1月10日 (月) 11時50分
URL見て思いましたが、日本語をローマ字にすると奇妙な意味感が出るときがあって、時々面白いのがありますね。fascismじゃないけど、hashizmってなんか思想みたいでかっこいい、とか(笑)
投稿: schlegel | 2011年1月10日 (月) 11時56分
schlegelさん、情報ありがとうございます。
せっかく東京にいるなら行かないと・・・旧約聖書なんか一人で読んでても意味無いのは、読んで分かりましたw
思想としてのハシズムはけっこう影響受けましたし。
しかしファシストみたいにハシストって言うと、もとの橋爪から遠ざかっちゃいますねw
投稿: 糸崎 | 2011年1月11日 (火) 09時44分
僕は忍耐力が無くて取っつきにくい本はなかなかよめませんが、こないだニーチェのダイジェスト版(超訳?)みたいな本が出てたので買ってきてよみました。この本の前書きでも、ニーチェはナチスの思想的下地になっているとよく誤解されるが、、みたいなことが書いてありました。僕はファシズムもナチスも擁護するつもりはないですが、哲学を語るときに絶対悪みたいな物の存在を意識するのも何だかなぁ、という違和感は感じたのです。
>しかしファシストみたいにハシストって言うと、もとの橋爪から遠ざかっちゃいますねw
たぶん橋爪さんは意識的にURLを造られているので心配は無いと思います(笑)
投稿: schlegel | 2011年1月16日 (日) 20時45分
>哲学を語るときに絶対悪みたいな物の存在を意識するのも何だかなぁ、という違和感は感じたのです。
ウィキペディアのプラトンの項目によると、
>哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」といった
とありますが、プラトンの著作はまさに「絶対」がテーマのひとつになってますね・・・
旧約聖書の<神>も絶対の存在であって、それは人間の寿命が有限であり、絶対性を欠いている、と言う事実と向き合うことからスタートする思考法ではないかと思います。
投稿: 糸崎 | 2011年1月18日 (火) 00時14分
う〜ん、僕の勝手な思い込みかもしれないですが、絶対の存在をうけいれるのが宗教で、絶対を仮説として論じるのが哲学かと思っています。ついでに言うと絶対を否定するのが科学、かな。去年一部で流行ったサンデルのJustice、僕は3週分くらいしかまだ見ていないですが、学生に善悪の判断が際どい質問を次々にして、答えた学生になぜそちらが正しいのかを聞くときに、(例えば殺人は)絶対悪(categorically wrong)という答えも許すのですが、そういう答えには「本当にそれでいいの?」的な視線を向けていた印象がありました。前にも書きましたが、絶対の許容は見方を変えると思考停止で、思想とか哲学とは本来本質的に相容れない様な気がしています。いや、僕の勝手な思い込みかもしれませんが、、
投稿: schlegel | 2011年1月19日 (水) 23時13分
>絶対の存在をうけいれるのが宗教で、絶対を仮説として論じるのが哲学かと思っています。ついでに言うと絶対を否定するのが科学、かな。
その通りだと思いますが、しかしこの様な区分は科学の概念が確立した近代以降に生じたものです。
プラトンの時代はもちろんその辺りは未分化で、ソクラテスは絶対や永遠にからめて宗教的な神や、死後の世界を語ります。
しかし、その理論の組み立てかたはあくまでも合理的であり、そこに科学的思考の原点を見ることができるのです。
投稿: 糸崎@iPhone | 2011年1月21日 (金) 17時34分