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2011年2月

2011年2月14日 (月)

たまにはネタ写真(静岡編)

ここのところ反省的な「ネタ無し写真」ばっかりなんですが、これまでの「ネタ写真」も捨てたわけではなく、もちょくちょく撮ってはいるのです。 言ってみれば「表現の幅」を維持するためでもあるのですが、頭の切り替えがなかなか難しい・・・ とりあえず最近、静岡を訪れた際の成果です。

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シュールレアリスム的なメモ。いやメモ書きというのは、必然的にシュールレアリスムになるのかも知れません。
(静岡市清水区)

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カラフルな無用庇、トタンとの組み合わせも味わい深い。
住所表示板も半分無用物化してます。
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実に堂々とした人物ですが・・・

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院長先生でした・・・
(焼津市)
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空き地の出現によって、見事に切り出されたカタチ・・・

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反対側も切り出されています。
(静岡市清水区)
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このシートは・・・?

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自転車の隠れ家でした。

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素朴ながら芸が細かい・・・
(焼津市)
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ということで、久々にネタ写真にコメントを書いてみると、もはや自分のセンスとしては「古い」ですねw
と思えるのは、ここ最近いろいろ新しい知識を仕入れて新しい試みもして、「自分」というのの内容がそれなりに変化したことのあらわれかも知れません。
いや、単に自分の飽きっぽい性格の表れなのかも知れませんがw
いずれにしろ「古い」と感じるのはぼくの主観であって、他の人が新鮮に面白いと思えばそれで良いのだし、だからぼくも「表現の幅」を維持するためにこの路線はそれとして続けていこうと思っているわけです。

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2011年2月12日 (土)

ややネタ写真

ぼくが言うところの「反写真」とは、像としての「写真」のその向こう側の「ネタ」を重視した写真であって、例えば「路上ネイチャー」や「2コマ写真」などがそれである。
そして、その「反写真」の反省から撮り始めたのが「反ー反写真」であって、これは「何か明確に面白いものが写っている」というようなネタを徹底的に排除した写真である。
で、それらの中間の「ややネタっぽいものが写っている写真」というのもちょくちょく試していて、このブログにもたびたびアップしてたのだが、あらためて並べてみることにした。

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以上、こうして見ると被写体が偏っている(犬と子供が多い?)ように思えるし、「ややネタ」という割には「オモシロ」に偏りすぎているような気もする。
しかし「写真」というものには「ネタ写真」から「ややネタ写真」を経て「ネタ抜き写真」に至るグラデーションがあるというのは、分かってきたような気がする。
もしくは、ネタ写真というのは意味内容(シニフィエ)の写真であり、ネタ抜き写真は記号表現(シニフィアン)の写真、と言えるのかも知れない。
いずれにしろ、そのグラデーションを自在にコントロールして撮り分けることができれば、「多彩な表現ができる写真家」になれるだろうw
もちろん、「写真」の傾向を分類するための軸は「ネタ」以外にも色々あるはずで、いずれ学んでゆく必要はあるだろう。

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2011年2月10日 (木)

静岡市美術館「フォトモワークショップ」

報告が遅れてしまいましたが、静岡市美術館で開催中のワークショップ「フォトモで作ろう!静岡の街」の様子です。

第一回目の1月15日、16日は「フォトモ」の基礎となる「ツギラマ」を製作してもらいました。
しかし当日は忙しすぎて自分ではほとんど記録写真を撮っておらず・・・
こちらの静岡市美術館のブログをご覧ください。

で二回目の1月22日、23日はいよいよ「フォトモ」の製作です。

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まず、ぼくが美術館近くの建物を素材にした「教材用フォトモ」を製作し、これと同じ「練習フォトモ」をみんなで撮影し作ってもらいます。
フォトモの撮影の基本はツギラマにあって、ここで前回の経験が役に立つのです。

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撮影したら写真屋さんでプリントし、作業します。
みなさんものすごく熱中してます・・・

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「練習フォトモ」ができました。
どれも同じ建物を素材にしてますが、それぞれ微妙にかたちが違ってますね・・・
実物をどのようにフォトモにアレンジするかは解釈が様々で、だからこそ奥が深いのです。

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「練習フォトモ」の経験を踏まえ、各自オリジナルフォトモを撮影し制作します。
こんな感じで作業を1月29日、30日、2月19日、20日に行って、その後みんなのフォトモとツギラマ作品を美術館のエントランス無料スペースにてしばらく展示する予定です。
ちなみにワークショップは見学自由ですので、興味のある方は2月19日、20日に覗きに来ていただければと思います。

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反省芸術

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ttwitterとともにブログの更新が一月以上滞ってましたが、そろそろ復活します。
更新できなかったのは、彦坂尚嘉さんのブログを巡って怒りを買ってしまい、「気体分子ギャラリー」のメンバー(取り扱い作家)からも外されてしまい、自分自身が「書く根拠」を失っていたからですね・・・非常に申し訳ありません。
反省して、芸術も「反省芸術」として出直すしかありません。

さて、彦坂さんの自分への指摘は、

1:根底に「幼児的万能感」があるように思われる。
2:人格の大きさが最小の「孤児」である。

ということなのですが、これは言われてみれば心当たりのある、もっともなことのように思われます。
ですからぼくとしては反省してるのですが、反省とは「自分」のままでは不可能であり、「別の自分」にならなければ真の意味で反省することはできません。
そして「別の自分」になるには「自分」を形成する「考え」を変える必要があり、それには本を読むのが方法としては有効です。
それで、ここしばらくは上記にあるような「古典」を読んでいたのです。

始めに読み始めたのは『論語』なのですが、これが実に人が社会で生きる上での「当たり前」が書いてあるわけです。
「当たり前」でありながら自分には身に付いてないことばかりが書かれてあって、恐れ入ってしまいます。
『論語』の教えが「当たり前」のことだと感じるのは、なのは、それが現代の日本社会の基礎をなしているからだと思われます。
社会の基礎というものは、親から子へ、子から孫へと伝えられてゆくものです。
ですからいわゆる「育ちがいい人」は、たとえ『論語』を読んでいなくとも、論語に書かれているような「当たり前」の社会道徳はきちんと身に付けているはずだと思うのです。
逆に言えば、「育ちが悪い人」は『論語』に書かれているような社会道徳が身に付いておらず、だから大人であっても「幼児的万能感」に支配され、親はあっても「孤児」のような振る舞いになるわけです。

社会で生きる上で「当たり前」のことが身に付いていないような「育ちが悪い人」が、それを身に付けるにはどうすればいいのか?
それには『論語』を読めばいいのであって、これは「方法」としてかなり有効性が高いのです。
『論語』は現代の思想書のように特に難解ではなく、平易な日本語に訳されており、文字量も多くなく、読みやすさで言えば新書レベルではないかと思います。
それでいて短い言葉の中に意味が凝縮され、解釈の幅が広く実に味わい深く、読めば患部に塗った膏薬のように、病んだ心に染み入るのです。

『大学』と『中庸』は『論語』と並んで儒教の教典なのですが、実際に読んでみると儒教とは宗教ではなく、哲学でもなく、社会を生きる上での方法論を説いた実用の思想であることが分かります。
その教えは『孫子』の兵法と同じくきわめて現実的、実際的であって、占いや呪術を徹底的に否定しています。
これはまさに人類が都市を形成する「文明社会」の基礎であって、だから二千年以上経ってもその内容は現代においてもなお古さを感じさせないのです。

新渡戸稲造『武士道』は明治に書かれた本ですが、明文化されていない「武士道」の精神を外国人にも分かるように英語で書かれた本(の現代語訳)であり、つまり「育ちのよい」家柄にはそれ相応の素晴らしい教え(儒教、仏教由来)が代々受け継がれていることを示しています。

福沢諭吉『学問のすすめ』は儒教的な教えを踏まえながら、さらにこれを反省的に捉えた「近代社会」の基本が説かれていて、これも非常にためになります。
スマイルズ『自助論』もほぼ同時代の本であり、ここに説かれた「天は自ら助くる者を助く」という教えはまさに「近代社会」を形成する根本思想だと言えます。
と言うことで、自分自身にはこのような「近代人」として生きる上での基礎も欠いていたわけです。

と、以上のように読んだ分だけは反省できたつもりなのですが、もちろんこれで反省が終わりと言うことはありません。
むしろ考えることの本質に「反省」があるのであって、だから芸術の本質も「反省」にあるのであって、そう言うことがようやく分かってきたような気がするのです。
考えてみれば「反ー反写真」と言うコンセプトも、自分の「写真」に対する態度に対する反省が由来の「反省芸術」なのであり、この路線をもっと推し進めて全面展開するしかないのかも知れません。

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