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2011年2月10日 (木)

反省芸術

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ttwitterとともにブログの更新が一月以上滞ってましたが、そろそろ復活します。
更新できなかったのは、彦坂尚嘉さんのブログを巡って怒りを買ってしまい、「気体分子ギャラリー」のメンバー(取り扱い作家)からも外されてしまい、自分自身が「書く根拠」を失っていたからですね・・・非常に申し訳ありません。
反省して、芸術も「反省芸術」として出直すしかありません。

さて、彦坂さんの自分への指摘は、

1:根底に「幼児的万能感」があるように思われる。
2:人格の大きさが最小の「孤児」である。

ということなのですが、これは言われてみれば心当たりのある、もっともなことのように思われます。
ですからぼくとしては反省してるのですが、反省とは「自分」のままでは不可能であり、「別の自分」にならなければ真の意味で反省することはできません。
そして「別の自分」になるには「自分」を形成する「考え」を変える必要があり、それには本を読むのが方法としては有効です。
それで、ここしばらくは上記にあるような「古典」を読んでいたのです。

始めに読み始めたのは『論語』なのですが、これが実に人が社会で生きる上での「当たり前」が書いてあるわけです。
「当たり前」でありながら自分には身に付いてないことばかりが書かれてあって、恐れ入ってしまいます。
『論語』の教えが「当たり前」のことだと感じるのは、なのは、それが現代の日本社会の基礎をなしているからだと思われます。
社会の基礎というものは、親から子へ、子から孫へと伝えられてゆくものです。
ですからいわゆる「育ちがいい人」は、たとえ『論語』を読んでいなくとも、論語に書かれているような「当たり前」の社会道徳はきちんと身に付けているはずだと思うのです。
逆に言えば、「育ちが悪い人」は『論語』に書かれているような社会道徳が身に付いておらず、だから大人であっても「幼児的万能感」に支配され、親はあっても「孤児」のような振る舞いになるわけです。

社会で生きる上で「当たり前」のことが身に付いていないような「育ちが悪い人」が、それを身に付けるにはどうすればいいのか?
それには『論語』を読めばいいのであって、これは「方法」としてかなり有効性が高いのです。
『論語』は現代の思想書のように特に難解ではなく、平易な日本語に訳されており、文字量も多くなく、読みやすさで言えば新書レベルではないかと思います。
それでいて短い言葉の中に意味が凝縮され、解釈の幅が広く実に味わい深く、読めば患部に塗った膏薬のように、病んだ心に染み入るのです。

『大学』と『中庸』は『論語』と並んで儒教の教典なのですが、実際に読んでみると儒教とは宗教ではなく、哲学でもなく、社会を生きる上での方法論を説いた実用の思想であることが分かります。
その教えは『孫子』の兵法と同じくきわめて現実的、実際的であって、占いや呪術を徹底的に否定しています。
これはまさに人類が都市を形成する「文明社会」の基礎であって、だから二千年以上経ってもその内容は現代においてもなお古さを感じさせないのです。

新渡戸稲造『武士道』は明治に書かれた本ですが、明文化されていない「武士道」の精神を外国人にも分かるように英語で書かれた本(の現代語訳)であり、つまり「育ちのよい」家柄にはそれ相応の素晴らしい教え(儒教、仏教由来)が代々受け継がれていることを示しています。

福沢諭吉『学問のすすめ』は儒教的な教えを踏まえながら、さらにこれを反省的に捉えた「近代社会」の基本が説かれていて、これも非常にためになります。
スマイルズ『自助論』もほぼ同時代の本であり、ここに説かれた「天は自ら助くる者を助く」という教えはまさに「近代社会」を形成する根本思想だと言えます。
と言うことで、自分自身にはこのような「近代人」として生きる上での基礎も欠いていたわけです。

と、以上のように読んだ分だけは反省できたつもりなのですが、もちろんこれで反省が終わりと言うことはありません。
むしろ考えることの本質に「反省」があるのであって、だから芸術の本質も「反省」にあるのであって、そう言うことがようやく分かってきたような気がするのです。
考えてみれば「反ー反写真」と言うコンセプトも、自分の「写真」に対する態度に対する反省が由来の「反省芸術」なのであり、この路線をもっと推し進めて全面展開するしかないのかも知れません。

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コメント

>1:根底に「幼児的万能感」があるように思われる。
>2:人格の大きさが最小の「孤児」である。

これは僕にも当てはまるし、そういわれて、俺は違う、って言える人は信用できない気がしますね。

投稿: schlegel | 2011年2月11日 (金) 11時40分

そんなことないですよ、「昔は俺もあったな〜」と思うのが普通ですw>万能感

投稿: 自助論 | 2011年2月11日 (金) 21時30分

その「普通」だという根拠は何なのだ?

投稿: 遊星人 | 2011年2月11日 (金) 22時58分

精神構造としては、根底に、というのと、昔は、というのは同義かも知れませんね。「幼児的」といってるのがくせ者ですね。自分の言ってることが正しいと思っている今の僕の態度もそうだけど、1や2のステートメントもある種の万能感が根底にあると思われるのです。

投稿: schlegel | 2011年2月12日 (土) 10時28分

同じ論点なのでまとめて返しますね。


1,いや、多分違いますよ>根底に=昔は

2、言われると思いましたw>普通の根拠
そこ突っ込んでも普通とは何かという広大な無意味に続くだけなので、何がしたいのかわかりませんが、要するにどっちがmajorityであるか、というのは問題ではないです。ここで1の話とつながりますが、問題は「実感」です。中学や高校生のころというのは、大抵の人が万能感を持っていると思うし、僕も持っていました。しかし、ある辛い体験を経たときに、(これは僕の場合ですが)明確に自分を壊さなければならない時点があったのです。その時点で万能感は過去のものとなったのです。その時点というものが、僕の場合明確にあの時だ、と言うことができますが、ほかの人はもっと漠然としているのかも知れません。とにかく、そういう経験を経た人間と、そうでない人間とで明確に別れるタームがあるのです。それが「実感」です。今まさにそうした状況になっていると思いますが、「万能感が過去の幼児期の感覚であった」という発言に対して、ピンと来てない人と、俺もそうだったなwと笑っている人間に別れるのです。それが「実感」です。糸崎さんも1の方も自分を壊さなければならない体験に出会ったことがないのです。だから実感が伴わない。そこでこの万能感に対する思考がすべて空想めくのです。
この話というのは、経験した者にはわかりますが、経験したことの無い人間には永久にわかりません。大抵の話はそうだと思いますが。というわけで、僕の話に正当性があるとは言いません。ごく個人的な僕に限った話なのかもしれませんしね。ただ、彦坂さんの話しを拝見すると、どうやらあの方は「実感」を持っているな、と思うし、僕も同じ感覚に思います。(それもまた誤解かも知れません)。そして思いますが、僕の接する大抵の立派な方々や、尊敬する先輩方はみな、この「実感」を持っているように見えます。とはいえ、それも誤解かも知れませんし、そうした人間は普通ではなくminorityなのかも知れません。多分これらの言っていることも、自分を壊した後に読めばわかると思いますよ。それでは。

投稿: 自助論 | 2011年2月12日 (土) 10時57分

>経験した者にはわかりますが、経験したことの無い人間には永久にわかりません。
塩をなめた事の無い人間に塩の味をどう説明しますかと言った、モルモンの人を思い出します。経験した人の方がエライと言う、一種の陶酔型万能感ですね、實に羨ましいです。

投稿: schlegel | 2011年2月12日 (土) 12時10分

ははは、まあ、そう取るんでしょうねw>陶酔型万能感

残念ながら、今まさにあなたが子供だなあというふうに僕なんかは感じてしまいますよ。まあまあ、そう熱くならずにいいじゃないですかw

投稿: 自助論 | 2011年2月12日 (土) 12時45分

返信の下書きをしているうちに書き込みが・・・お互い挑発するような書き方は「方法論」としてはどうかと思いますが、しかし「火事と喧嘩はブログの華」で盛り上がってくれるのはけっこうだと言えるかも知れませんw

ということで、自助論さんには(多少口は悪くとも)上手く解説していただきまして、まことにありがとうございます。
これをもとに自分を振り返ってみると、

>糸崎さんも1の方も自分を壊さなければならない体験に出会ったことがないのです。

少なくともぼくの場合、人生の中で何度か危機に直面はしてるのですが、その都度「自分」を壊さずに、「幼児的万能感」を維持できるような方法論を見つけてきてしまっていた、と言えるかも知れません。
その方法論とは分かりやすく言えば、現在の自分の「美術家としての方法論」なのですが、しかしそれを根拠にした「万能感」が実際にどれだけのものなのか?と言うことを確認したいとも思っており、それで彦坂尚嘉さんに接近したのです。
彦坂さんは美術家であると同時に「知識人」でもあるのですが、そう言うレベルの人でぼくのことを「まとも」に取り合ってくれる人は、彦坂さんだけでした。
つまり褒めるべきところは褒め、悪いところはきちん指摘するという「批評」を行ってくれるのです。
そんな彦坂さんに、自分の「美術家としての方法論」がどれだけ通用するものなのか?を確認することによって、自分自身の客観的なレベルというものを計ろうと思ったのです。
その結果、ある部分では大変に評価していただいたものの、大枠の人格としては否定され、関係を切られてしまいました。
これは精神分析で言われるところの象徴的な「父の否」であって、ライオンの子供のように自分は彦坂さんに谷底に突き落とされたわけです。
もちろん、彦坂さんはぼくの親ではないしそんなつもりもないのでしょうが(実際にかなりの心理的負担を掛けてしまったようで申し訳なく思ってます)、しかしぼくが谷底から這い上がることができれば、少なくとも自分にとってはそこに象徴的な親子関係が成立するのではないかと思うのです。
ちなみに、ぼく自身の実際の親子関係はどうなのかと言えば、特に甘やかされたわけではなく「怖い父親」とは対立し嫌っていたのですが、しかし父親に谷底へと突き落とされた事に対し、言ってみれば「谷底を歩む方法論」を見出して対処してきたわけです。

>その「普通」だという根拠は何なのだ?

遊星人さんの疑問にぼくなりに答えれば、「普通」とか「マジョリティー」という分類は、「現在の状況」のみで計ることはできないのだと思います。
例えばこのブログの記事に挙げたような「古典」は、現代の日本ではみんなが読んでるとは言えず、その意味では普通ではないしマイノリティーと言えるでしょう。
しかし現代を超えた「歴史」という観点で計ると、例えば『論語』は2400年以上もの長い間人々に読み継がれているわけで、だからそれを読んでいる方が「普通」なのだと言えます。
福沢諭吉も新渡戸稲造もお札になったほど歴史的に評価された偉人ですから、その代表的著書を読んでいるのも日本人としては「普通」であるべきだとも言えます。
そして、これらの古典はいずれも「都市文明で生きるための知恵」が説かれていて、だから孤児や村ではなく「グローバルな視点」を、幼児的万能感ではなく「現実的判断による協調性」を、説いているのです。

>そして思いますが、僕の接する大抵の立派な方々や、尊敬する先輩方はみな、この「実感」を持っているように見えます。

本に示されていることは「方法論」でしかなく、自助論さんがおっしゃるように「実感」を伴わなければ意味がないでしょう。
しかし古典由来のキチンとした「方法論」を教えられなければ、結局はデタラメな方法論を採用するしかないわけで、文明人として必要な「実感」を得るチャンスを逸してしまいます。
まぁ、ぼくが今どれほどの「実感」を得ているかは自分で主張しても仕方がないので、自助論さんをはじめとするみなさんに判断をまかせるしかありません。
ともかく、『論語』をはじめとする古典の思想は、親から子へ、子から孫へと代々受け継がれてゆくのが「普通」だということは、新渡戸稲造の『武士道』を読めば分かるのです。
そしてぼくが育った時代の日本では、どういうわけかその「普通」が崩壊しています。
だから数千年にわたる歴史を重ねた都市文明の「普通」を取り戻すためには、現代人にも分かりやすく書かれた「古典」を読むことは実に有効なのだと思うのです。

投稿: 糸崎 | 2011年2月12日 (土) 13時27分

>経験した者にはわかりますが、経験したことの無い人間には永久にわかりません。
糸崎さんや私が、これから経験する可能性も否定しておられるのですか?

投稿: schlegel | 2011年2月12日 (土) 13時58分

>糸崎さん

そうですね、普通というもの、きちんとした教養を持った普通人というものは崩壊してしまって、もはやminorityなのでしょうね。
しかし、糸崎さんはめげないですね。密かに応援しています。頑張ってください。

>schlegelさん

んーと、そんな風に読めますかね?全然、そんなふうには思っていないですよ。

投稿: | 2011年2月12日 (土) 14時22分

>しかし、糸崎さんはめげないですね。密かに応援しています。頑張ってください。

ありがとうございます。
そう言われると心強いですが、ぼくとしては誰もがやってる「普通」を自分でもやろうとしてるまでのことです。

>schlegelさん

>>経験した者にはわかりますが、経験したことの無い人間には永久にわかりません。
>糸崎さんや私が、これから経験する可能性も否定しておられるのですか?

schlegelさんが引き合いに出されたように、塩の味を知るには実際に塩をなめてみる(経験する)しかありません。
この場合は「塩をなめる」という方法論が示されているのですから、経験の可能性に開かれているわけです。
で、この場合の「塩」とはなにか?というと、例えばぼくが示した『論語』であって、『論語』の内容を経験するには実際に『論語』を読むしかありません。
ただ「論語読みの論語知らず」という言葉があるとおり、そこからどのような「実感」が得られるのかは、その人の「読み方」次第でしょう。
これは「塩の味」にしても同じことで、その意味を読み間違えれば塩分の撮り過ぎで健康を害したりもするわけです。
「経験」は誰でもできますが、そこから何を「実感」できるかは人それぞれで、難しいところだと思います。

>経験した人の方がエライと言う、一種の陶酔型万能感ですね、實に羨ましいです。

「経験したらエライのか?」という疑問はもっともで、ぼくも以前はそのように思っていたのですが、しかし人は経験した分だけは誇ることができるのだと、今では思っています。
逆に言えば、経験していないことを想像で補ってこれを誇ることはできない、ということです。
このバリエーションとして、自分の経験したことにさらに想像を加え、威張りすぎるパターンというのもあります。
まぁ、自分には多分にその傾向があったわけで、反省してるわけなのですが・・・

投稿: 糸崎 | 2011年2月12日 (土) 17時08分

「幼児的万能感」という心理学用語の意味と違うんではないかと言いたかっただけです。

投稿: 遊星人 | 2011年2月12日 (土) 21時39分

>「幼児的万能感」という心理学用語の意味と違うんではないかと言いたかっただけです。
そういう専門用語があったのですね、知りませんでした。その用法に当てはめると僕の言っていたのは全部デタラメです(笑)
>「論語読みの論語知らず」という言葉があるとおり、そこからどのような「実感」が得られるのかは、その人の「読み方」次第でしょう。
口語訳みたいなものを高校生の頃に読みましたが、あまり心に残っていません、お弟子の何人かの名前とキャラクタは思い浮かびますが、儒教の思想自体には今でもあまり共感は感じないですね。ただ、漢字圏の人にとってのコモンセンスとして、西欧圏でのバイブル的な位置を占めてきた事実は見逃せないですね。
>しかし人は経験した分だけは誇ることができる
そうなのでしょうね、ほんとうにそうだとしたら實に羨ましいというのは、まぁ本音です。
遊星人さんにしても、糸崎さんにしても、ご自分の言葉で語っておられるという実感があるので安心できます。

投稿: schlegel | 2011年2月12日 (土) 22時29分

>「幼児的万能感」という心理学用語の意味と違うんではないかと言いたかっただけです。

ぼくの認識では特に違っているようには思えないのですが・・・いちおう検索してこんなページを見つけました。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/40253.html

>●「幼児的万能感」が強いとどんな問題が起こるか?

>上で述べましたように幼児期に万能感が強くなってしまうと,大人になってもなおも強いままになります。
>そして,以下のような傾向が生じます:

>「強い自尊心」,その一方,「自己評価は低い」
>「強い競争心」,「完全主義」
>「各方面のすぐれた才能」,「几帳面」
>「怒りっぽい」

>結果的に,上のような性向は周囲の人との摩擦を生じ,社会への適応に支障を来たします。

こう言うのは全部自分に当てはまるわけですが・・・

>●「幼児的万能感」が強すぎる問題を解決するには?

>できればカウンセリングを受けられることお勧めします
>このキーワード「幼児的万能感」(infantile omnipotence)を認識してカウンセリングを行なえるのは,いわゆる「新フロイト派」(neo freudians)のカウンセラーたちです。

で結果として、ぼくは「ラカン派」である彦坂さんにカウンセリングを受けてたわけですねw
彦坂さんは美術家であって精神分析医ではないし、ぼくも特にその効果を狙っていたわけではないのですが・・・

投稿: 糸崎 | 2011年2月12日 (土) 22時30分

「幼児的万能感」ってフロイト派の文脈を構成する前提概念、つまり、想像界であって、現実界の存在ではないと思うのです、そんなものないと思う人にとっては存在しない。

フロイトは幼児側からの一方的なものとして欲望が母親に向けられ、それが他者(父)に奪い取られることで自己を認識するという考えですよね、これを事実だと思う人にとっては「幼児的万能感」は事実になるでしょう。
それに対してラカンは幼児の欲望は「母親の欲望が自分に向けられていること」であって、それが自分以外にも向けられることを知って他者と対等な関係としての自分を認識すると考えていたように見えます。
たとえば、弟や妹が生まれて母親から自分の座が奪われたときの幼児を考えればなるほどと思いますし、他人から無視されるつらさが他人の欲望が自分に向けられない存在の不安だと考えれば納得できます。
この場合「幼児的万能感」はあまり意味をなしません。

この違いはフロイトが二者対立的な構図なので狭いのに対し、ラカンは多次元構造で考えているからだろうと思います、なので、ややこしくて分かりにくい(笑)

たとえば、私のようにドブを飛び越えられなかったり、崖を飛び降りて痛い目に遭ったりしてでも自分が万能でないことは他人とは無関係に自覚できるわけです(笑)
しかし、フロイトの文脈ではそういうのは説明できません、ラカンの鏡像段階はそこまで含んでいるように見えます。

ただ、カウンセリングの対象になるのは社会に整合していない人ですから、社会が共有している想像界に引き込むことですからフロイトの構図で済むのだろうとは思います。
ラカンは道具としては多機能過ぎて使いこなせない・・・というか取説で挫折する(笑)
まあ、これ以上踏み込むと相手が怒るぞという動物的距離感とたいして変わらない話だったりするかもしれませんが。

投稿: 遊星人 | 2011年2月13日 (日) 12時45分

>schlegelさん

>口語訳みたいなものを高校生の頃に読みましたが、あまり心に残っていません、お弟子の何人かの名前とキャラクタは思い浮かびますが、儒教の思想自体には今でもあまり共感は感じないですね。

高校生の時と今とでは、読んだ印象派変わるはずだとは思います。
多義的な意味が引き出せる古典だからこそ、繰り返し読む必要があるわけで、だから早い時期から読み始めた方が良いのであり、ぼくはちょっと出遅れましたw
ですので「お弟子の何人かの名前とキャラクタは思い浮かびますが」というのも立派な教養で、役に立てることはできると思います。
もっとも、書物に書かれた思想が「考える道具」であるならば、人の考えを具現化したあらゆる「道具」と同様に、それを必要とする人もいれば、必要としない人もいるわけです。
例えば、以前のぼくには携帯電話は必要のない道具であり、他人がその有用性をいかに説こうとも、ぼくにとっては全く無意味でした。
ところが去年の秋に突然意識を変えてiPhone4を買ったら、今ではすっかり「必要な道具」となってしまい、我ながらあきれてるところですw
同じような意味で最近のぼくは「古典」を導入するようになったのであって、それだけのことだと言えるのかもしれません。

>遊星人さん

ぼくの欠点というか限界は、フロイトもラカンも原著は読んでおらず、斉藤環さんや内田樹さんなどの入門書から得た知識でしか語れないことです。
と言う点を踏まえてあえて語ると、

>「幼児的万能感」ってフロイト派の文脈を構成する前提概念、つまり、想像界であって、現実界の存在ではないと思うのです、そんなものないと思う人にとっては存在しない。

フロイトが前提とする「無意識」というのは、五感で感知できる世界であるところの<想像界>ではなく、言葉の自動的作用(シニフィアン連鎖)であるところの<象徴界>なのだ、と指摘したのがラカンである、というのが(斉藤環さんを通じた)ぼくの理解です。
だから「幼児的万能感」も現実に存在する物体ではなく、つまり<想像界>の産物としてではなく、<象徴界>の作用であると理解しなければ意味がありません。
この場合の「意味」とは「機能」のことであり、つまりは「治療の効果」です。
「幼児的万能感」と言う概念は、精神分析という治療の場で必要があって提示されるのであり、それは<象徴界>として理解されなければ意味がないのです。

>ただ、カウンセリングの対象になるのは社会に整合していない人ですから、社会が共有している想像界に引き込むことですからフロイトの構図で済むのだろうとは思います。

ラカンは「現代人は全員精神を病んでいる」と主張しているそうで、それはぼくも同意できます。
例えば、人類は十万年以上も狩猟採集生活を続けながら呪術的世界観に生きていたのであり、だからその状態が本来的であり、普通であり、正常であり、健康なのだと定義することもできます。
そう考えると、そのような状態からあまりもかけ離れた、不自然な人工的環境に生きる現代人は、その全員が精神を病んでいる、と言うことができるのです。
もしくは、人間の「行動プログラム」は、他の動物のように「本能」として固定されておらずフリー(言語を使っていかようにも構築できる)ので、どんな状態が人間にとって正常(健康)なのかが決定不可能で、それによっても「全員が精神を病んでいる」ということができるのです。
そして、それを踏まえると、あらゆる人々の対話というのは、実は精神分析のカウンセリングなのだと解釈することができます。
これは確か内田樹さんがそのように書いていたと思いますが、有り体に言えば、より正常な人間になろうとする人間同士の会話の中には「より正常な物語」が形成され、それが治療の効果をもたらすというわけです。
この場合は「普通」や「正常」や「健康」を<実体=想像界>として捉えるのではなく、<象徴界>として捉えるから「物語」になるのです。

と、半端な知識では何を書いてもしょうがないのかも知れませんが・・・それよりまず誰にでも分かる言葉で書かれた「古典」を読む方が、地に足の付いた考えができますね。
というわけで今はプラトン著『ゴルギアス』を読んでますw

投稿: 糸崎 | 2011年2月14日 (月) 09時45分

schlegelさんが喜びそうな文章ですが私もほぼ同じ考えです、ここまで大胆に言い切る度胸がなかっただけで(笑)
http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis.html

私はフロイトもラカンも思想家として尊敬してますが、信者ではないので結論部分はどうでもいいと思っています、そもそもフロイトは突っ込みどころ満載ですが、重要なのはそんなところではないと思っています。

永井均さんが「ウィトゲンシュタイン入門」の冒頭に書いていることを引用します。
“こう言うと、読者の皆さんは驚かれるかも知れないが、哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否かにある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。
すべての誤解は、哲学者の仕事を既製の問題に対する解答と見なすところから始まるからである。”

これが私が言いたかったことの全てみたいなもので、これを理解できない人とは何を語っても無駄です。
「幼児的万能感」が脳内現実になっている人を否定する気はありませんが、それは永井さんが言う「解答と見なしている人」であり、ほとんど信仰です。
「幼児的万能感」を作業仮説として思考の道具に使うのはアリです、そこから何かが生まれる可能性はあります、しかし、それを客観的事実と誤認していたのでは何も生まれません、科学的に観測できる実体がないからです。

>これは確か内田樹さんがそのように書いていたと思いますが、有り体に言えば、より正常な人間になろうとする人間同士の会話の中には「より正常な物語」が形成され、それが治療の効果をもたらすというわけです。

現実との整合性を求めるのが「正常」であればその通りだと思いますが、オウムのように異常な物語でも当人は治療されたと思っていることを考える必要があります。

>この場合は「普通」や「正常」や「健康」を<実体=想像界>として捉えるのではなく、<象徴界>として捉えるから「物語」になるのです。

ラカン用語を使うのはラカンの枠に拘束されてしまいますが、現実界はどうにもならないものですが、想像界は象徴界によって変え得ることを考える必要があります、だから宗教が成り立つのではありませんか?、私はこれらは不可分と考えます。

>・・・それよりまず誰にでも分かる言葉で書かれた「古典」を読む方が、地に足の付いた考えができますね。

「なんでこいつはこんなことを考えたんだろう?」と考えながら読むことをお薦めします。

投稿: 遊星人 | 2011年2月14日 (月) 22時22分

永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』はぼくも読みましたが、遊星人さんの引用部分とほぼ同じ意味のことを、同じく永井さんの『これがニーチェだ』では「哲学は主張ではない。問いの空間の設定である。」と表現されてますね。
しかしそれはさておき、どうも遊星人さんに誤解されているような気がするのですが・・・ぼくとしては、一貫して「素朴な実在論」にも「素朴な相対主義」にも依拠してるつもりはないのです。
だから「幼児的万能感」もその実在を主張しているのではなく、その概念を受け入れることの「効果」を語っているつもりです。
もちろん、そのような効果にしても「実在」ではありませんから、あくまで「自分にとっては効果があった」という主観を語っているに過ぎないのです。
そしてそのような「主観」は、「実感」として他人と共有されることもあるし、共有されないこともあるだろうし、いろいろだろうと思うわけです。
まぁ、遊星人さんが「「幼児的万能感」なんて言う概念に効果なんか無いんだから、それに囚われるのはやめにした方が良いですよ」と忠告してくれてるのであれば、それはそれで考慮してみますが・・・

投稿: 糸崎 | 2011年2月15日 (火) 13時34分

この言葉を最初に使ったのはD・ウィニコットという人で、北山修がこの人についての本を出していますが高いので買ってません、というか認知科学や脳科学が進歩して精神分析が医学的にはほとんど無意味なのが明らかになってしまったのです。

ただ、人間の心をどう捉えるかを考えるのには読む価値はあるかもしれません、逆に現在の心理学や脳科学はドライ過ぎてそういう役には立ちません。

投稿: 遊星人 | 2011年2月15日 (火) 20時00分

>schlegelさんが喜びそうな文章ですが私もほぼ同じ考えです、
はい、勝手に代弁しない(笑)
でも、まぁよく分かります(笑)哲学の目的についてもほぼ同意します。フロイトの入門書とか読みましたが、現象を説明するための仮説の域をでてないかなというか、もう少し辛い感想を持ったのは事実です。幼児的万能感にしても、魔法の杖をもったおばちゃんとか、「はぁ、」という感じはしてしまいます。糸崎さんはそういう人を見たことあるのですか?僕は小学校に上がる前までは、困ったときには3人のこびとさんとお話をしていたような気はします(笑)
「幼児的万能感」という言葉の「幼児的」という部分について、僕は最初、字面で反応したので、「孤児」という言葉とともに、不当に相手を貶める表現だと思い反発していたのです。彦坂さんという方が糸崎さんにとって大切な方であることは文章の端々から読み取れるので、そこを憚る気持ちはいつもあるのですが、ちょっとやり過ぎというか、過剰に相手を卑下させてコントロールしようとしているだけじゃないの?という感想を持ったのが、最初の書き込みの真意でした。そこが遊星人さんのご指摘で悪意ではない、専門用語だとわかったので、考えすぎ(なさすぎ?)だったと気づかせていただけたのでした。ただ、カウンセリングというのは基本、カウンセラーはクライアントから得た情報を口外しないのが原則と認識してるので、治療行為としては素人療法的で危険、という感想は今でもありますが。まぁ、これもお節介かも知れませんね。
そういうわけで正直に告白しておくと、「陶酔型」は、幼児的その他に対する私の感情的反応です。、、、たいへん失礼致しました。
>「強い自尊心」,その一方,「自己評価は低い」
>「強い競争心」,「完全主義」
>「各方面のすぐれた才能」,「几帳面」
>「怒りっぽい」
これはすごいですねぇ、見事にも僕に当てはまります。「各方面の優れた才能」以外、と書いても矛盾しないのもすごい(笑)「几帳面」はかなりムラがありますが(笑)でも、当てはまるって言う意味では血液型占いと同程度、が実は本音です。もう一つの本音はここに書いてある性質はクリエイティブな仕事にはマイナスとは限らないなのではないかと、、こういう性格を持つエライ人も多いのではないかとも思えますね。スティーブジョブズとか、彼の自己評価は高そうだけど、、(笑)
論語ですが、若いとき読んで多少は影響を受けていた自分に対する周囲の反応は「爺くさい」だったので糸崎さんも気をつけて下さい(笑)冗談抜きで言うとこれをよめって「上」の人が言ったら気をつけた方が良いのです。もちろん心構えとして良いことが沢山書いてありますが、僕の理解では論語を含めた儒教的古典が近代まで読み継がれた最大の理由は封建制を支える倫理的な思想基盤として為政者に好都合だったから、というと辛すぎでしょうか、、

投稿: schlegel | 2011年2月15日 (火) 23時10分

1940年代頃にアメリカで国家的に双子が研究されました、生まれてすぐ別々に育てられた一卵性双生児は環境や教育の違いによる人格形成への影響をしらべる絶好のサンプルなので追跡調査されました。
その結果分かったのは「ほとんど育ちは関係ない」だったのですね、片方が犯罪者に育ったらもう片方も犯罪者になっちゃったみたいな。。。
ところが、この研究を絶対に認めようとしない猛烈な反発が起こったのです、進化論に対する反発と同種のもので、赤ん坊は生まれたときはまっさらで同じはずだ(ブランクボード説)というやつです。まあ、教育関係の人たちにとっては身も蓋もない話しなのもありますが、それ以上に宗教的反発のようです(スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える」NHKブックス)

それでも、このような実験心理学の科学的手法での結果は信憑性が高いわけで精神分析は失墜したのでした。

孔子については小室直樹さんの本でも為政者の論理と書かれていました、庶民側は道教が引き受けていたのだと。

投稿: 遊星人 | 2011年2月16日 (水) 08時06分

>その結果分かったのは「ほとんど育ちは関係ない」だったのですね、片方が犯罪者に育ったらもう片方も犯罪者になっちゃったみたいな。。。

仮説としての可能性は否定しませんが、この手の統計「研究」は基本どちらの立場(共感できるか否かにかかわらず)の物でも100%は信用しないことにしています。サンプルと結果の数にもよりますが、再現性のない統計はどうしても主観に陥るリスクを排除できないというのが、そういう人たちを近くで見ていての感想です。

投稿: schlegel | 2011年2月16日 (水) 08時18分

病的レベルでの話しですので念のため。

あたりまえですが遺伝子決定論になったわけではありません、それまでが先天的な要素を切り分けできていなかっただけです。
誕生後の脳の発育を阻害する環境であれば当然後天的に発達障害になるでしょう。
http://labaq.com/archives/50777124.html
欧米は養子縁組が盛んなのとオープンな家庭が多いのでデータが得やすいのでしょうね。

斉藤環さんは精神分析の将来は絶望的と考えているようですが、トラウマの解消とか心のケアみたいなカウンセリング技術としては需要が残るような気がするのですが。。。

投稿: 遊星人 | 2011年2月16日 (水) 12時18分

>あたりまえですが遺伝子決定論になったわけではありません、
そうですよね、、
僕も何の相関も無いと主張したい訳ではなくて、数値化しにくい性格のようなものと相関があると言う事を示すのは、とても難しいはずと言うことなのです。そのうえ、異なる環境で育った双子、犯罪者というとだいぶ限定的なので、必要なサンプル数を確保するのも難しいはずと思われ、、、まぁ釈迦に説法ですね、

投稿: schlegel | 2011年2月16日 (水) 20時11分

統計的な判定では明らかに有意差があると言えるものを抽出する必要があるので極端なものを選ぶのは正解だと思います、「鬱の傾向がある」などという中途半端なものでは信頼性がありません。
リンクしたやつも50%とか25%の意味が分かりませんし、サンプリングや評価方法が分からないことでは信頼するに足る情報とは言えません。分母と分子は何なのだ?

統計データは数式はごまかせませんがサンプリングと評価で捏造されやすいのはschlegelさんもウンザリするほど御存知ですよね、つごうの悪いデータは測定ミスだったことにして除外したり(笑)
某有名医学博士が男性は思惑通りのデータだったのに女性では逆になったので女性のデータはなかったことにしたという話しもあったりします、なので、私は医学関係の統計データは50%しか信用しません(笑)

投稿: 遊星人 | 2011年2月16日 (水) 21時49分

>50%しか信用しません
良い数値ですね(笑)
>サンプリングと評価で捏造されやすい
この人は犯罪的傾向があるはずと思ってみてしまうと、些細なことでも引っかかるし、逆に見逃すのはもっと簡単なわけで、、
予算をもらって研究していると、成果報告とかをしなくてはいけなくて、そこでなにか意味のあることを言ってやろう、とか思うともうダメです(笑)

>しかし、糸崎さんはめげないですね。
最近若い人と接することもあって、人それぞれ自分の心地よいところがあるのかな、という実感があり、そういう目線で自分を振り返ってみると、例えばここに書いたことを読み返してみても、いろいろあてはまるようです。心の持ち方を自分で変えられるのか、わかりませんが、素直な気持でいろいろ読んだり読み返したりしてみることも大事かも知れませんね、、、論語、読み直しています。

投稿: schlegel | 2011年2月17日 (木) 07時49分

すみません忙しくてなかなか返信出来ずにいました。

それで、どうも遊星人さんとは論点が噛み合わない気がするのですが、その原因を考えると、結局のところ実態論と関係論の立場の違いではないかと思うのです。
ぼくはあくまで関係論のつもりですから、まずは語ることの目的を設定します。
目的が設定されると、そこを立脚点とした関係論が成立します。

しかし遊星人さんの言葉は意味が実態論的に確定していて、それ故に目的から切り離されてフラフラしてるように思えるのです。
つまり、ぼくはこの記事で目的をもって反省しているのに対し、遊星人さんが批判されるのは良いとしてもその目的が確定されていないように見受けられ、それで返答に困ってしまうのです。

投稿: 糸崎 | 2011年3月 3日 (木) 15時09分

悩ませてすみません

まず、私には糸崎さんが「何」を反省しておられるのかよく分かりませんが、「関係論」は複数の言動に常に現れる定型パターンが観察されない限り成り立たないのでは?

レヴィ=ストロースは観察事実から見出された定型的な「関係」のパターンが存在することを述べているわけです、しかし、だからどうだとは言ってません、むしろ他文化に見られる定型パターンとの優劣を比較するのは無意味だと述べているわけです。
まあ、それはヨーロッパ文化の自惚れが反省される結果にはなったのですが、より良い方向性を提示したわけではありません。

糸崎さんが何かを「関係論」で反省しようとしておられるとすれば、それが具体的に何なのかが明確でないと何も申し上げることができません、なので、私のコメントが糸崎さんについての「関係論」ではないことは確かですが「実体論」のつもりもありません。

私がコメントしているのは「幼児的万能感」という概念についてだけです。
かつて、私の身の周りにも精神分析用語を使いたがるやつがいました、なぜか私より上の世代ばかりだったのは過去にフロイトが流行っていたのかもしれませんが、どうも程度が低いのばかりだったので今でも条件反射的にムカツキます(笑)
いちばんよく使われていたのが「フラストレーション」です、性格的なものの原因は何でもフラストレーションという除去不能な内因のせいにしていたわけですが、今はそれを「ストレス」という除去可能かもしれない外因との関係で説明するのがふつうです、おそらく内因で性格を説明するのはトートロジーになってしまうからです。

「幼児的万能感」も私には同じに見えてしまいます、言動という出力は相手との関係によって変わりますし、相手の受け止め方の問題もあります、一方だけの潜在的な性格のせいにしても意味がないように思えるのです。
なので、一段上の視点から俯瞰的に考えた方が「関係」が見やすくてよろしいのではないかということでいろいろ書いたわけです。

投稿: 遊星人 | 2011年3月 4日 (金) 17時41分

例えるなら、「バカとハサミは使いよう」という関係論を前提にハサミの使い方を説明しているのに対し、「そのハサミの使い方は間違ってますよ」という実体論をもとに批判をされても話がかみ合うわけもなく・・・という感じでしょうか?

遊星人さんが俗流の精神分析を批判される立場は何となく理解できましたし、その点でぼくも反省すべきところはあるかも知れません。

投稿: 糸崎 | 2011年3月 4日 (金) 21時57分

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