種蒔く人
長野から戻ると東京は春のような陽気で、基本的にはみなさん落ち着いてふだん通りの生活をされているようです。
節電で夜の明かりは暗いですが、これまでが無駄に明るすぎだったという気もします。
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長野から戻ると東京は春のような陽気で、基本的にはみなさん落ち着いてふだん通りの生活をされているようです。
節電で夜の明かりは暗いですが、これまでが無駄に明るすぎだったという気もします。
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しばらく長野に逃げてましたが、東京に逃げ帰ってきました。
いや真面目に疎開するなら関西とか、沖縄とか、海外に行くべきなのでしょうが、そういう「ズク」がない自分は、結局は住み慣れた東京に戻るしかないのです。
というわけで、新宿ニコンプラザで、中村治写真展「HOME」 を観たあと、エルタワーの窓から撮ったスカイツリーです。
信じられないことに、大震災以降のこの街は放射能汚染の不安に晒されているのです。
街の様子はまだまだ賑やかでしたが、そのうち徐々にHOMEを捨てて移動する人たちが増え、ゴーストタウン化してしまうかも知れません。
今回のような大規模な原発事故の場合、その後処理には何年も何十年も掛かるそうで、放射能汚染も徐々にリアルなものとして感じられるようになるかも知れません。
いや、そんな風に悲観論を語ると、本当にそうなってしまう、という考え方もあります。
だから積極的に楽観論を語り、前向きに生きていこうという考えもあり、日本政府もそれを推奨しているように思えます。
しかし確実に起こりうる悲観的な未来を見据えなければ、真の楽観的な未来は開けないのだとぼくは思います。
「自分」についてもそれは同じであって、「オレはダメだ・・・」と悲観に暮れてばかりだとさらにダメになったりします。
しかし正確に「ダメな自分」と向き合うことができれば、それをベースに真の楽観論が生じるわけで、それこそが「反省」ではないかと思うのです。
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突然ですが、このブログのタイトルを『非人称芸術研究室・糸崎公朗ブログ3』から『反省芸術blog3』へと変更することにしました。
3月11日に発生した東北関東大地震とそれに続く原発事故で、すっかりアタフタしてますが、ここであらためてコンセプトを整えて、方針をはっきりさせようと思います。
まず「非人称芸術」ですが、ぼくとしてはこのコンセプトを捨てたわけではなく、研究は続行してゆきます。
しかし「芸術とは何か?」を考え続けるうちに、「非人称芸術」とはまた別に「反省芸術」という概念が浮上し、どうもこちらの方がより基本的で重要度が高いように思えてきたのです。
■
一般に、芸術と言えば「既成概念の破壊」とか「体制への反発」というイメージがあり、ぼくの「非人称芸術」もその延長にありました。
しかし考えてみると、破壊するところの既成概念とか、反発するところの体制というものは、自分というものの「外部」に存在します。
「既成概念の破壊」とか「体制への反発」という考えは、マルクス主義的な革命思想の延長なのでしょうが、これはつまり「自分」を変えずに「外部」だけを変えようとする革命です。
しかし芸術は芸術家が「自分」がつくるものであり、つまり「自分」を変えなければ「新しい芸術」は生まれないのです。
「自分を変える」あるいは「自分を革命する」というのは、早い話が「反省」ということです。
つまり芸術の本質は「反省」にあるのです。
普通に考えても、アーティストを目指し美大を目指す受験生は、自分の絵が下手なことを「反省」し、デッサンの技術を学びます。
そして美大に入ってみると、ただデッサンが上手いだけではアーティストになれないことが分かり、それを「反省」し、技とデッサンを崩したりして「独自の画風」を追求したりします。
あるいはただ絵を描くだけではアーティストになれないことが分かり、それを「反省」して美術史や現代思想などを学び「コンセプト」を固めたりするわけです。
さて、そのような「反省」を経て念願のアーティストになったとしても、その成功をゴールとみなして「反省」をやめてしまったりすると、その人は「生きながら死んだような」アーティストになってしまいます。
たとえ世間的に大家と言われていても、昔の精彩をすっかり欠いたように見えるアーティストというのは、つまりは「反省」を止めてしまっているのです。
そしてぼく自身、「生きながら死んだような」状態にあることを自覚し始め、それを何とかしようと考えているうちに、あらためていろいろと「反省」しなくてはいけないことに気づいたのです。
■
そもそも人が何かを学ぶとは、すなわち「反省」なのだと言うことが出来ます。
何か新しいことを学んで自分が変わるのであれば、それは今までの自分を「反省」してあらためたことになるのです。
子供はそのようにさまざまなことを「反省」しながら大人へと成長してゆくのです。
逆に「反省」の出来ない子供は、子供っぽい大人になってしまうわけです。
では子供は何を「反省」するのかというと、それは自らの「自然性」です。
生まれて間もない子供は「自然性」によってふるまいますが、それを「反省」することで「人間性」を身に付けてゆくのです。
子供の「自然性」とは「動物的」と言い換えることが出来ますが、子供は「動物的」な自分を反省しながら「理性的」な大人になるのだとも言えます。
ですのできちんと「反省」の出来ない子供は、「自然性」を残したままの「動物的」な大人になってしまいます。
ところがアートの分野に限っては、大人(プロのアーティスト)になっても「子供」だったり「自然性」であることがむしろ推奨されます。
有り体に言えば、精緻なデッサンによる「大人びた絵」よりも、「子供の落書きのように書き殴った絵」の方がより芸術らしい、と評価されたりするのです。
しかしこの認識は本来は間違いなのであって、はじめの例に出したように、まず「子供のままの絵」を反省して「大人としての絵」の技術をマスターし、さらにそれを反省した上で「子供っぽい絵」の技術を独自に開発するのです。
ですからたまに「天才子供アーティスト」みたいな子がテレビで話題になったりしますが、そういう子はたいていフェードアウトするか、少なくとも子供のまま(反省なし)ではアーティストになれないのではないかと思います。
また、アーティストの人格について、多少子供っぽく非常識にふるまっても「アーティストだから仕方がない」とか「それこそアーティストらしい」などとして許される風潮もあります。
しかしこれも本来はおかしいのであり、アーティストに限らず自己鍛錬して「反省」を過剰に繰り返す人は、結果として「世間体」からはみ出のであり、決して「子供のままの大人」ではないはずです。
そう考えると、ぼく自身は実のところ「アーティストの人格は多少子供っぽくても構わない」という世間的イメージに囚われて、どうも「反省」を欠いたまま来てしまったような気がするのです。
同時にそのことが、作品やコンセプトの行き詰まりにもリンクしているように思えたのです。
■
そこでまずはじめたのが「反ー反写真」なのですが、最初のうちは特に意識してなかったのですが、だんだんとそれが「反省芸術」であることが自覚されたのです。
さらにこの2月に、彦坂尚嘉さん主宰の「気体分子ギャラリー」を破門になってしまい、「反省」が決定的に促進されることになりました。
破門の理由は、言ってみれば『論語』の以下の一節のようなものです。
孔子曰く「女と小人だけは扱いにくいものだ。これを近づければ不遜になり、これを遠ざければ恨む」
というわけで「これを遠ざければ恨む」だけは止めようと思って「反省」しようと決心したわけで、これが方法論としての「反省芸術」です。
そもそも「芸術は反省である」という考え方自体、彦坂尚嘉さんの受け売りなのです。
そして、大震災に続く原発事故以来、ぼくが妙にアタフタしていたのも、実のところ一連の「反省」のあらわれだったりするのです。
これはあくまでぼく自身のこととして語りますが、もし無反省で「自分」が変化しないのであれば、周囲で何が起きても落ち着いていられたのかも知れません。
しかし「反省」を心掛ける自分としては、普通だったらバカバカしいとして退ける「陰謀論」も、つい「信じてみようかな」という気になって、しかし十分に信じ切ることは出来ずに振り回されてしまうのです(笑)
これだけなら単なる馬鹿話ですが、ともかく今回の件で自分の「情報収集力と分析力の無さ」があらためて反省させられ、反省しきれずにアタフタしているのです。
その「アタ」と「フタ」の振幅はやがて「中庸」に落ち着くことを目指しているのですが、そんな感じでこのブログはぼくの「反省文」になるのではないかと思います。
そして「その反省を絵に描いてみろ!」と言われ、絵が描けないので写真で表現した作品が、ぼくの「反省芸術」になるのではないかと思います。
と言うことで、今後ともよろしくお願いいたします。
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ぼくの情報収集能力は大したこと無いのですが、とりあえずリンク集を作ってみました。
新しい情報や間違いなどあったらお知らせいただければと思います。
それによって、項目の追加や削除など行います。
■計測関連
ドイツのシュピーゲル紙による13-17日の福島第一原発からの放射能推定飛散状況のGIFアニメ、だそうです。
■ブログ、ウェブ日記
■動画
地震発生から1週間 福島原発事故の現状と今後(大前研一ライブ579)
「大震災原発事故 想定外でいいのか1/6 」愛川欽也パックインジャーナル3/19(土)
3/17 福島原発の現状と、今後予想される危険~後藤政志さん
■資料など
福島原発の放射能を理解する物理と工学からの見地(pdfファイル)
福島原発の放射能を理解する物理と工学からの見地(htmlバージョン)
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以下、友人からのメールです。
画像のソースは、「茨城県放射線テレメーター・インターネット表示局」からですが、各地で同様の波形がみられます。
このデータをもとにした彼の推測と言うことで、ご覧いただき、各自で判断していただければと思います。
__
○○です
同報で複数の方にお送りします。添付のグラフ朝4時から5時のピーク。
状況からして3号機のドライベントを秘密で少し行ったこと危惧されます。
ご周知の通り、3号機はMOX燃料ですからプルトニウムが飛散します。
時速30キロとすると0時くらいに何かが起こっています。
東京はすでに、長野で10時くらいに到達する可能性があります。上記は私のあくまでも推測です。
添付のグラフを見て考察してください。外出されないことをおすすめします。
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更新が遅れて申し訳ありません。
実は、17日木曜の夜から実家の長野に滞在しています。
その理由というのは、原発の被害を避けて・・・というのとはちょっとだけですが違います。
東京と長野では、福島原発からの距離がさほど変わらないのです。
で、本当の理由というのが、全くバカな話なんですが「陰謀論」です(笑)
ぼくは陰謀論には興味もないしよく知らなかったのですが、陰謀論好きの友人(仮にHさんとしておきます)がリチャード・コシミズのブログをソースに「東京は危ないからすぐ離れた方が良い」とメールで何度も警告してきたのです。
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201103/article_64.html
ぼくはHさんを友人として非常に尊敬しているのですが、正直この種の陰謀論だけはバカバカしいと思っていて、いつも適当に受け流していました。
しかし17日はHさんから何度もメールが送られてきて、「馬鹿話ではあるけれど、真剣にぼくのことを心配してくれているのも確かなので、騙されたと思ってHさんの指示に従ってみよう」と思い、最小限の荷物を急いでまとめ、夕方国分寺を発ったのでした。
で、長野に着いた夜に「関東で地震発生」のニュースがあってギョッとしたのですが、震度はたしか3〜4程度で大したことはなく、完全な取り越し苦労というか、陰謀論に踊らされた間抜けな人になってしまいました(笑)
しかし結果として、Hさんに従って帰省した事自体は良かったと思っています。
陰謀論はともかく、現実的に原発がどうなるか分からないことだけは事実です。
そんなときに独り身の自分が、母親と妹家族に会えたのは良かったと言えるかもしれません。
それで家族と話し合った結果、高校生と中学生の甥だけは、とりあえず名古屋の親戚宅にしばらく行かせることにしました。
関東甲信越から避難する人はまだほとんどいないようですが、例えば美術家の彦坂尚嘉さんはすでに藤沢のアトリエから京都に疎開しています。
http://hikosaka4.blog.so-net.ne.jp/2011-03-16-2
(4月には自分の責任を果たすため、東京に戻るというように書いています。)
http://hikosaka4.blog.so-net.ne.jp/2011-03-18
友人のHさんもほぼ同様の理由により、(まだ疎開はしてませんが)長野県内の自宅から家族ですぐ脱出できるように、自家用車に発電機をはじめとする荷物を積み込んで、スタンバイしているそうです。
Hさんは実のところ陰謀論にはまってるだけの人ではなく、ビジネスマンとして日頃からさまざまな情報収集を行っており、陰謀論はその一部に過ぎないのです。
原発関連の情報も当然集めていて、ぼくにもいろいろと教えてくれるのです。
Hさんと彦坂尚嘉さんに共通しているのは、日頃から勉強熱心でさまざまな情報収集をしており、危機管理を怠らない点です。
そのような生活態度だからこそ、有事の際にすばやく的確に判断し、行動できるのです。
その両者の共通意見は「今回の原発事故は先の予測が不可能で、その場合は取り越し苦労をするくらいでちょうど良い」というもので、それがリスクマネージメントの基本でもあるのです。
でぼくの方はといえば、いろいろ考えているように見せかけて、実は肝心な部分がゴッソリ抜けていて、ダメダメだと今回の件であらためて思いました(笑)
ぼくはいまのところ、Mさんや彦坂さんや、その他ネットの情報にただ振り回されてオタオタしている状態です。
与えられた情報を、十分に咀嚼して、自分なりに再構築することが、今ひとつ出来ていないのです。
これをするにはそれなりの頭脳力と努力が必要で、日頃から鍛錬していない自分にとって突然やれと言われてもキツいのです。
もちろん、これから訓練して身に付けることは出来るかもしれませんが、果たして危険が迫ったときまでに間に合うかどうか・・・
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地震が起きると、そんなときにブログやツイッターに何を書き込むかでその人の「人間性」が分かる・・・とあらためて思うのだが、その点自分がまったくダメダメなことも自覚できるのだった。
ぼくは地震が起きたときは近所の屋外にいて、かなり揺れたけど周囲の街はさしたる被害はないようで、ビックリしたけど割とのんきな気分でいたのだった。
それで道すがら、「防災ずきん」を被って下校する小学生を撮ったりしつつ自宅に戻り、ツイッターの書き込みからNHK放送画面のUST中継(広島の中二男子による)を知り、被害状況の深刻さを知ったのだった。
それで、あらためて気づいたのが自分の「空間認識」の狭さであり、ぼくは自分の周囲に被害がなかったことに安心し、そこから「延長」された世界がどのような状況にあるのか?に全く想像力が働かなかったのである。
そのような認識の狭さは他人から「孤児的である」と批判されても仕方がないし、そのようにカテゴライズされるパターンにものの見事にはまっているように、自分でも感じる。
さらに、そのように反省したとして、ではツイッターやブログに何を書けばいいのかと言えば、それが全く思いつかない。
日頃はやれ「構造主義」だの「現代思想」だの「古典」だのとエラソーに書いているのくせに、いざというときに何も書くことが思いつかないのだ。
いや、必ずしも気張って書く必要もなく「さらっと触れるだけ」でもいいだろうし、「書かない」という選択肢もありだろう。
しかしいずれにしろ、自分の思想信条に基づき「これだ」という選択ができないでいることが問題だ。
つまり「空間認識が孤児的である」というのは、自分が直接眼にしない他人への想像力の欠如を示しており、全くその通りでしかない「自分」をそこに再発見するのだった。
それでとりあえずは他人の真似をして、ツイッターから他人に役立ちそうな書き込みを「公式リツイート」してみたのだが、そんなのはお為ごかしだろうといわれても仕方がない。
もちろん「幼児的万能感」に基づいて「何が何でも自分が何かの役に立つべきだ」と思うのははた迷惑でしかないのだろうが、しかしツイッターでもブログでも「空間認識が広い人」の対応はやはり違うなと、あらためて思ってしまった。
「空間認識が広い人」とは「国家の成員としての自覚がある人」ということであり、言ってみれば当たり前の普通の人を指している。
それに対してぼくは圧倒的に「基礎」を欠いているのであり、それを補完するため今はプラトン著『国家』を読んでいるのだが、イザというときにその成果が現れないのではしょうがない。
*改題、テキスト変更、コメント欄参照。
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最近は路上を歩きながら「反ー反写真」モードになっているか、「歩行読書術」モードになっているのだが(笑)、「超芸術トマソン」も見かけたら撮るようにしている。
これは両国で見つけた「高所ドア」・・・
ドアを開けると階段があるようで、実は別の階段室の屋根が空しく横たわっている。
次は静岡市由比で見つけた「純粋階段」・・・・
全体は遺跡のような佇まいの駐車場で、ちょっとインガのピラミッドぽくもある。
以上、二つのトマソンを「2コマ写真」で表現してみたが、この手法は「現物の伝達」が第一の目的で、そのために「写真」としての完成度はスポイルしているのであり、その意味で「反写真」的だと言えるのだ。
これに対し、例えば先日プレイスMで見た旭大地さんの写真展は、「面白い物件」を選んで撮っているにもかかわらず、同時に「写真」としての完成度も求めているため「物件の伝達」が多少なりともスポイルされてしまっている。
だからぼくとしては同じ物件の別角度や、引いて撮った全体写真も見たくなってしまい、そのあたりをご本人にちょっと突っ込んでみたりしたのだ(笑)
まぁぼくとしても「現物至上主義」に偏りすぎた自分の態度を反省し、「反ー反写真」や「ややネタ写真」なども試しているのだが、これらと平行し「2コマ写真」も続けていこうとは思っている。
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ぼくはこれまで、現代アートの本質は「正道」に反する「邪道」にあると思っていた。
現代アートの起源が、19世紀フランスのアカデミズム絵画(正確な写実絵画)という「正道」に対する反逆だとすれば、印象派も、キュビズムも、シュルレアリスムも、本質的には「邪道」なのであり、その系譜は現代にまで続いている、と考えることができる。
岡本太郎は「芸術は上手くあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」「芸術はいやったらしい」と説いたが、この言葉もアートの本質が「邪道」にあることを示しているように思われる。
また、アートの専門家が評価する作品は素人には理解が難しいとされるが、つまり世間の人々は「正道」を好み、「邪道」を理解しないのである。
アーティストとは本質的に「邪道」を追求するのであり、それゆえに「世間体」の価値からずれている。
そしてぼく自身も、アーティストとして「邪道」を追求すべく、「写真の正道」に対してフォトモやツギラマを開発し、「芸術の正道」に対して「非人称芸術」を提唱したのだった。
しかし最近のぼくは、アーティストとして見聞を広げるために「正道とはなにか?」ということにあらためて興味を持っている。
「写真の正道」とも言えるモノクロスナップ写真を撮るのもその一環で、「反ー反写真」というタイトルも、自らの「邪道」なありかたを反転させた「正道」を表しているつもりだ。
読書もこれまでは「構造主義」を中心とした現代思想の入門書が多かったのだが、最近はギリシアや中国の「古典」ばかりを読んでいる。
そしてそのような「古典」を読むうちに、どうもアートの基本(現代アートも含む)は「邪道」にあるのではなく、「正道」にあると思えるようになってきたのだ。
いや、アートについて直接の記述があったわけではないが、『論語』や『荘子』やプラトンの著作を読むと、哲学や思想の基本はあくまで「正道」にあり、だからアートの基本もやはり「正道」にあるのではないか、と思えてきたのだ。
「古典」に登場する賢者は、孔子もソクラテスもみな「徳」や「正義」などの「正しいこと」を真正面から徹底追求している。
ところが賢者が「正道」を追求すればするほど、結果として「世間体」からずれてゆくのである。
『論語』の中の孔子は、世間の人々が「正しくない」事についてしきりに嘆いている。
またプラトンが描くソクラテスは「正しいこと」を説いたために、世間の人々から「死刑」の宣告を受けることになる。
「正しい人」が世間から迫害を受けるというモチーフは『聖書』でもお馴染みである。
つまり「世間体」とは必ずしも「正道」であるとは言えず、それは「同じ常識を持つ人が大勢いる」という状況であるに過ぎず、それはむしろ「邪道」に傾きがちである、と古典には記されている。
「世間体」に生きる人の眼は、同じ場所同じ時代を生きる「目の前の他者たち」に向けられており、価値の物差しが短く判断を誤り「邪道」に傾く。
これに対し「世間体」に染まらない賢者の眼は、時空を超越した「大文字の他者」に向けられており、価値の物差しが長大でありそれゆえに「正道」なのである。
「正道」としての賢者の言葉は「大文字の他者」に向けられているからこそ、現代日本人である我々に対しても語りかけてくる。
この考えをアートに当てはめると、「優れたアート」が時として「世間体」から評価されないのは、その作品が決して「邪道」だからなのではなく、「正道」なのがその理由なのである。
「正しい考え」と同じように「正しいアート」は世間からは理解されにくいものなのである。
そして思想や哲学の「邪道」が思慮が足りず浅はかなのと同じく、「邪道」としてのアートも思慮が足りず浅はかであるに過ぎないのだ。
また孔子もソクラテスも「極端」に偏ることを退け、「中庸」の道を追求すべきだと説いている。
「極端」に偏ることもまた思慮が足りず浅はかなのであり、「中庸」は実に豊かで奥深く高度なのであり、「世間体」からは理解されにくいのである。
そう考えるとむしろ「極端」なアートは分かりやすく偏っているだけに、「世間体」からは理解されやすいし好まれやすいのである。
もしくは一見「極端」に見える現代アート作品であっても、文字通り「極端」で浅はかに過ぎない作品と、「中庸」として高度であるがゆえに「世間体」からずれている作品の、二種類が考えられるのである。
というように考えると、「フォトモ」にしろ「非人称芸術」にしろ、ぼくのアートはまず「邪道」を追求したために浅はかであり、この点を反省すべきなのである。
そして「邪道」から「正道」へ、「極端」から「中庸」へと方向転換すべきなのだ。
別な言い方をすれば、ぼくはアートの「基礎」をすっ飛ばして「応用」から先に入ったのである。
ぼくのアートは基礎を欠いているがゆえに、ある種の脆弱性を抱えているのだ。
だから「基礎」の部分をあらためて学んで補強すれば、「応用」として先に身に付けた要素もより確かなものとして活かすことが可能になるかも知れない。
アートにとっての「基礎」とは何か?はいろいろと考えられるだろうが、「写真の基礎」のひとつに「路上スナップ」があり、「概念としてのアート」の基礎は思想や哲学の「古典」にあり、まずはそのあたりから手を付け始めているのだ。
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こちらのブログでもたまにはカメラの話題を振ってみようと思うのだが、富士のFinePix X100である。
写真家のO西みつぐさんが持っていた「試作機」を、J.サイパルさんが撮影しているところで、この時は「ひみつ」と言われたのだが、発売日も過ぎたのでもう解禁だろう。
ちょっといじった感じでは期待に違わぬ素晴らしいカメラであった。
いや、デジカメは実際に写してみないとその良さは分からないのかも知れないが、しかしこの手のハイエンドデジカメは写りが良いのは当たり前なので、メカ的な「ギミック」や操作性こそが興味の対象になる。
その点、このX100は(写りとは直接は関係ない)ファインダーに最大の特徴があって面白い。
ライカM3を元祖とする「ブライトフレーム式ビューファインダー」と、最近の液晶技術とのハイブリッドであり、まさに「温故知新」の技術と言えるだろう。
光学ファインダーとしての見えはクリアで、ブライトフレームは液晶だけあって明るくシャープで、撮影情報の表示も豊富だ。
そして撮影すると、光学式ファインダーが一瞬にして液晶のプレビュー画面に切り替わるところも面白い。
まぁ、真面目に実用性を考えたら今さら「光学式」にこだわる必然はないのだが、しかし覗くだけで面白い、あるいは気持ちの良いファインダーというのはそれだけ「撮る気」にさせてくれるわけで、これもひとつの機能だと言えるだろう。
ただ、X100でぼくがちょっと気になった欠点は、AFを解除してMFに切り替えた際「距離情報」が表示されないことだ。
これだと例えば「ピント5m」に固定してさくさくスナップ撮影する・・・という用途には使えない。
この点はぼくが使っているオリンパスE-P1などマイクロフォーサーズカメラも同じであって、ちょっと不便だと思うことがある。
AFでピントを合わせると、その作動のための間が必ず空いてしまうのだ。
この点、リコーGXRはMF時に距離情報が表示されるので、ピント固定のスナップを楽しむことができる。
と言う点もあるのだが、X100は非常に野心的なカメラであり、ぼくもさらなる新しさを追求しなければ・・・と刺激を受けるのである(笑)
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友人で写真家の平井正義さんがぼくのtwitterの書き込みを引き合いに出して、なかなか興味深い記事を書いておられる。
http://d.hatena.ne.jp/hateno/20110228
で、そちらのブログにコメントしようと思ってたのだが、書いているうちに長くなったし、元の記事から離れ自分の主張が出過ぎてしまったので、こちらのブログ記事としてアップすることにした。
さて、平井さんのブログからの引用だが、
いわばガラスの器を引き立てるために、そのなかに注ぐ液体は何にするか、色はどうするか、発泡性のほうが効果的か、湯気が立つほうがいいのか氷が適切か、などとあれこれ迷っているようなものである。一般的には何を飲むかという中身のほうが重要とされるわけだが、器が先にくる局面がたまにはあってもいいではないか。写真のそうした可能性を頭ごなしに否定するのは偏狭すぎる。
写真を「器」と「中身」に分ける例えはなかなか面白い。
前回までこのブログで話題にした「縁側」とはまたちょっと違う切り口である。
平井さんのブログには平井さん自身の写真作品がアップされていないので(ぼくは見せてもらってるのだが)ここで何を言おうとしているのかはっきりしないかも知れないが、ぼくの作品でいえば「フォトモ」とか「ツギラマ」などの手法そのものが、平井さんの言う「器」に相当する。
しかしぼくの場合は実のところ「器」よりも「中身」を重視しており、むしろ「中身」に合わせて「器」をしつらえている。
つまりぼくの場合は「非人称芸術」という対象物が先にあり、その形状に合わせて「フォトモ」なり「ツギラマ」などの技法を開発したのである。
さらに「非人称芸術」のコンセプトに忠実に従うと、実は肝心の「中身」さえあれば「器」など必要ないのである。
つまり「非人称芸術」は路上で現物を鑑賞して歩く事が肝心なのであり、その作品化はあくまで副産物に過ぎない、と考えるのだ(その是非は今後も考えるとして)。
ところが平井さんはぼくの立場とは逆で、まず「器」があり(それは非常に特殊な写真なのだが)、言わばその「器」だけで作品を成立させようと試みているように思われる。
恐らく、平井さんにとっては「中身」は本質的に邪魔なものであって、それをいかにゼロに近づけるかということに腐心されている。
そもそも、例えではない実際の「ガラスの器」は中身に何も注いでいない空っぽの状態で存在できるのに対し、「形式としての写真という器」は「中身」が無くては存在できない。
だからどんな形式の写真であっても、結局のところ「何を撮るのか」という問題から逃れることはできないのだが、平井さんはそのハードルを越えようと試みておられるのかも知れない。
もし「器としてだけ成立する写真」があるとすれば、ぼくが思いつく限りではニエプスの「世界最初の写真」がそうなのかも知れない。
ニエプスの写真は「写真として写ったこと」のみが問題なのであり、像が不鮮明なこともあって「何が写っているか」の内容はあまり問題にされない。
しかしこの意味での「純粋写真」はニエプスのこの一枚限りであり、それ以降は現在に至るまで「器としての写真に何を注ぐか」が問題となっているのは周知の通りである。
あるいは、先日江戸東京博物館で見た横山松三郎の「写真油絵」も、「中身」を問題としない「器」だけの写真と見ることが出来るかもしれない。
「写真油絵」とはその名の通り、幕末に渡来した「写真」と「油絵」を融合した技術で、写真のエマルジョンを剥がし裏から油絵で色づけした、当時の欧米でも類を見ない「カラー写真」なのである。
ここに示したのは、横山松三郎の「写真油絵」の中でももっとも前衛的な作品で、中央に「写真油絵」がコラージュされ、その脇に油絵で西洋人の絵描きが描かれている。
しかしこうして見てもその「中身」は実に他愛のないもので、アートとして話題にすべき内容は何もない。
それだけに「ガラスの器」だけが問題となるのだが、しかしこの作品はアートというよりも科学的実験のようなものであり、横山松三郎という人もアーティストというよりも技術者であり発明家なのである。
横山松三郎の「写真油絵」は技術が先行した「面白アート」でしかなく、それゆえに後継者もなく日本美術史(あるいは写真史)から忘れ去られてしまったのである。
それを考えると、「器」だけで写真をアートとして成立させることが、非常に困難なことであるように思えるのだ。
さらに「器」と「中身」をアート全般の問題として捉えると、デュシャンの「レディ・メイド」こそは「ガラスの器」そのものと言えるかもしれない。
デュシャンは「レディ・メイド」について「何を選ぶかは問題ではない」とし、さらに「数を制限しなければならない」としていた。
つまりデュシャンは「レディ・メイド」がアートの技法として一般化し、それが「内容を注がれるための器」として目的化されることを阻んでいたのだ。
そのおかげでデュシャン自身の「レディ・メイド」は神格化され、それ以外のアーティストが真似をしてレディ・メイドを作ることが非常に困難になってしまった。
「レディ・メイド」の真似なんて簡単なようでいて、下手にそれを扱おうとするアーティストはたいてい「手痛い目」に合うのであり、ぼくの場合も例外ではなかったりする(笑)
以上、平井さんのつもりとは関係なく、その言葉に触発されて勝手な思いつきを書いてしまった。
平井さんは写真家としてぼくと共通点がありながら間逆の要素もあって、「自分の研究」のためにも興味をそそられてしまうのだ。
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「縁側」はヒラメやツギラマだけではなく、ご覧のように「写真」にも存在する。
これは35mmフィルムをデジカメで複写したものだが、通常はこの「縁側」部分をカットした部分のみプリントする。
この意味で、デジカメで撮影した写真には「縁側」が存在しない。
ところが・・・
最近のオリンパスE-PL2などのデジカメには「アートフレーム効果」と称して、デジタル写真にフィルム写真のような「縁側」を付加するモードが搭載されてたりする。
フィルムの縁側を少し残してプリントすると、アートっぽいカッコイイ写真になり、その効果をデジタルでシミュレーションしているのだ。
しかしこのように「縁側」を残そうともカットしようとも、「写真」をアートとして考える限りこの「縁側」は避けて通れない問題なのである。
つまり「額装」の問題なのだが、「写真」をアートとして流通させるには額装しなければならず、つまり「縁側」を付加することになるのだ。
この「反ー反写真」の額装は彦坂尚嘉さんに丸投げでお願いしてみたのだが、「馬子にも衣装」という感じで驚いてしまった。
料理に置き換えて考えると、フランス料理でヒラメの縁側をカットしたとしても、キレイなお皿にキチンと盛りつけることで「縁側」を付加させる。
「縁側」がキチンとしてこそ成立するのが「高尚な文化」としての料理であり、写真を含めたアートもまた同じだと言える。
ただしぼくはこれまで「縁側」の問題をなおざりにし過ぎていて、その点は反省しなければならない。
ぼくはこれまで、美術館などで「自然のままの縁側」が付いたツギラマを「むき身」で展示することが多かったのだが、これは「新鮮な食材をナマのまま提供する」という感覚に近いかも知れない。
しかしナマの食材はいかに新鮮であっても扱いに困ってしまう。
実際、金沢21世紀美術館で展示したツギラマの大型作品は、展示後に撤去してしまったのである。
これに限らず、ぼくのツギラマは美術館で展示する「見世物アート」として機能しているが、「タブロー」としてアートマーケットには流通していないのである。
いや、本当のことを言えば、「非人称芸術」の概念に忠実に従う限り、アートを食物に例えるとそれは調理の必要すらなく、木の実や獣など自然物を狩ったその場で齧り付くのがいちばん美味いし、「食の本質」により近づけるのである。
もちろん、例えではなく実際の食物でそれを実行することはできないが、アートに置き換えて実行するとそれは「非人称芸術」になる。
路上のさまざまなオブジェクトを絵に描いたり写真に撮ったりせずに、それを生で見ながら「非人称芸術」として鑑賞しながら歩き回る。
この場合、本質的にはフォトモやツギラマなどを含めた写真を撮る必要は全くないのだが、「副産物」としてそのような写真を撮ることも可能だろう。
そして「副産物」として得られた写真を展示する際は、もとの「非人称芸術」の鮮度がなるべく損なわれないように「むき身」のままの方が良いだろうと、そのように判断していたのだった。
しかしあらためて考えると、そのような展示のあり方は「方法論のひとつ」としてはアリなのだろうが、やはり「多数ある方法論のひとつ」でしかなく、それはあらゆる可能性の中から選択されるべきでなのである。
ぼくは「非人称芸術」という単一のコンセプトに縛られすぎて、他の可能性をスポイルしてきたのだった。
もしくはさまざまな可能性を含めて考えてこそ、「非人称芸術」のコンセプトがより深まるはずである(それが否定される可能性も含め)。
そもそも矛盾しているのは、自分は「非人称芸術」によって「作品製作」を本質的には否定していながら、結局は「作品製作」を食い扶持にしていることである。
しかしだからといって「非人称芸術」と「作品製作」のどちらかを止めてしまう必要もないだろう。
「反ー反写真」について書いたように、自分の中で複数の矛盾する要素を共存させることは可能なのだ。
だからこそ「作品製作」についてあらためて考え直し反省する必要がある。
それがつまり「縁側」の問題なのである(笑)。
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前回の記事「ツギラマは四角くなくなくていい」の続きだが、いただいたコメントを元に、ツギラマの矩形からはみ出す部位を「ツギラマの縁側」と名付けることにしたw
と言うわけで、今回もツギラマの縁側についての研究を続けてみるのだが、まずは元のツギラマ。
こちらは縁側を切り落としたツギラマ。
ちなみに上のツギラマの縁側をそのまま切り落とすと画面が小さくなってしまうので、空や地面の縁側部分を補完したうえでカットしている。
実は、このツギラマについて「縁側をカットした方が良い」とアドバイスをくれたのは彦坂尚嘉さんで(その時はまだこの用語はなかったがw)、さらに「縁側を残したツギラマの外形は、言わば成り行きでできた形であり、それゆえに必然性に乏しく美しくないし、だから四角くカットした方が断然良くなる」と理由も述べていただいた。
だがぼくとしては「自分の才能の足りないところは自然に身を任せて補う」という方法論を採用しており、だからツギラマの「成り行き的外形」にも意味があり、何より縁側もツギラマの重要な要素だと考えていた。
だから彦坂さんのアドバイスは一理あると思うものの、全面的に納得しかねていたのだった。
しかし前回の記事にも書いたように、最近は気分が変わってきている。
プラトンや儒教などの「古典」を読むようになったのも理由だし、自分で「反ー反写真」を撮るようになったのも理由なのだが、「伝統」というものを重視するようになってきた。
これまでのぼくは「自然」を重視し「伝統」を軽視してきたのだが、この態度を「反省」するようになったのだ。
勿論自然は偉大なのだが、だからといって人間の文化や歴史を軽視する理由はないわけで、ともに「偉大なもの」として崇拝すればよかったのだ。
と考えると「才能の足りないところは自然に身を任せて補う」の他に「才能の足りないところは伝統に身を任せて補う」という方法論も有効なのであり、適宜使い分ければいい。
ツギラマの縁側が自然のなりゆきで上手く造形できなければ、「四角」という伝統に任せてカットすればいいのだ。
もう一点、こちらは縁側付きのツギラマ・・・
縁側をカットしたツギラマ・・・
実は上のツギラマは全体の形に変化を付けるため、写真の並べ方をちょっと工夫している。
この路線をさらに突き詰めれば、ツギラマの縁側で「間」としての造形が可能になるのかも知れないが、この研究もまた続ける必要はあるだろう。
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写真は四角くなくてもいい!
と思って撮ったツギラマだが・・・
やっぱ四角くなくなくてもいいかも?と思い四角くしてみた・・・・
最近、ぼくは中国やギリシアの古典をいろいろ読んでいて、文明の「基本」と言うことに興味がある。
そのような「基本」を重んじる感覚で考えると、「四角」とは芸術の基本である以前に文明の基本なのであって、簡単に否定していいものだろうか?ということにあらためて気づくのだ。
加工したツギラマは文明の基本に沿って「四角」を受け入れてはいるが、しかし相変わらず「一点透視法」は否定している。
ツギラマに一点透視法まで取り入れてしまったら、それは単なる「写真」になってしまうからだ。
それに基本と歴史を重んずる感覚で考えてみても、「一点透視法」も絵画の基本のひとつではあるが、「四角」に比べると格段に歴史が浅くそれだけに重要度は低いと言えるのだ。
その証拠に印象派以降「一点透視法」を捨てた絵画はいくらでもあるが、しかし平面でありながら「四角」を捨てた絵画というのはほとんど無いのである。
ぼくはそのように「四角を重んじる風潮」に反発するために、「四角」を否定したツギラマの技法を採用した。
しかしその態度は、オルテガが指摘する「反何々」のパターンにはまっていて、結局のところ「四角とは何か?」をよく知らないまま「四角」というものを否定しているに過ぎないのだ。
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プラトンの著書『ゴルギアス』は、弁論家の大家とされるゴルギアスと、哲学者であるソクラテスによる対話編である。
弁論家は人々を思うがままに説得するための「弁論術」を体得しているが、ソクラテスは弁論術とは人々に対する「迎合」にすぎず、「最善」を無視して快楽のみを与えているのだ、と非難してる。
ソクラテスはまた、弁論術は料理法や化粧法と同様に「経験」の積み重ねに過ぎず、医術や体育術のように体系的理論に裏付けられた「技術」とは区別すべきだ、と説いている。
この様にソクラテスが示す概念を、「芸術」に当てはめて考えてみる。
すると「人々に迎合して快楽を与え、経験的に制作される作品」と、「最善を目指し、理論に裏付けられた技術により制作される作品」の二つの極を考える事ができる。
しかし、どうも今の日本では「迎合、快楽、経験」のアートが一般的であるような気がするし、ぼくのこれまでの作品群も、結局はこの系譜だったのかもしれない。
それだけに「最善、理論、技術」のアートとは何か?と考えると、これが難しい。
特に芸術にとって最善とは何か?が難しい。
反対に、芸術と快楽を結び付ける方が理解しやすいし、それだけに快楽と結びつかない芸術を考えることもまた難しい。
岡本太郎は「芸術は心地よくあってはならない」と言ったが、しかし快楽そのものを否定しているわけではない。
ソクラテスの言葉に戻ると、医術の最善には患者の苦痛が伴うが、快楽を優先して苦い薬や痛い手術を拒めば、最悪の結果がもたらされる、と『ゴルギアス』の中で言っている。
体育術も同様で、苦痛を伴うトレーニングを拒んでは強健な肉体を得る事はできない。
しかし医術や体育術の最善とは、苦痛に耐えることで得られる「より大きな快楽」に過ぎないとも言える。
ところが『ソクラテスの弁明』の中でのソクラテスは、弁論術に扇動された大衆に死刑判決を受けた際、快楽ではなく「最善」のために死刑を受け入れる。
その様な意味での「最善」が、果たして芸術にとって存在するのか?
ソクラテスが自らの死刑判決を受け入れたのは、ハデスの国(死後の世界)に赴いた後も「最善」でいられるようにするためだ。
「ハデスの国」とは今の感覚で考えると荒唐無稽だが、要するにソクラテスの「最善」とは同時代同地域の「目の前の他者」に向けられているのではなく、それを超えた「大文字の他者」に向けられているのだ。
だからその言葉も「目の前の他者」を超えた「大文字の他者」に向けられている。
ソクラテスの言葉が(プラトンの著作を通し)時代も地域も超えて読み継がれ、ぼくのような現代人日本人にまでも語りかけるのはそのためだ。
古代ギリシアの大衆は、快楽と迎合を求め最善を拒否した。
だからソクラテスは「大文字の他者」に向かって最善を尽くした。
そう捉えると、芸術にとっての最善とは、まず「目の前の他者」ではなくそれを超えた「大文字の他者」に向かうことだと言えるかもしれない。
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実は「反ー反写真」の個展を企んでて、先日はギャラリー審査のための写真セレクトについての相談を、先輩写真家にしてたのだった。
長年「反写真」の立場にいたぼくは「写真」については全くの初心者であり、写真家の話を聞くのは非常に勉強になる。
で、その先輩写真家の、ぼくの「反ー反写真」への評価だが「普通にうまい写真だけどそれ以上でもなく、既に写真家として活躍してる人たちに比べ構図などがユルい感じ…」と言うような感じでなかなか厳しい。
こういう率直なアドバイスをしてくれる方は信頼できるし、実に有難い。
ところで、写真は誰でも簡単に撮れるので、写真家が撮る「写真」は素人が見てもその良さ分からない。
前回の記事を受けて言えば、それだけ「圧縮率」の高い写真を写真家たちは撮っている。
だから鑑賞者には自前の「解凍ソフト」が必要なのであり、それがいわゆる「目を鍛える」ことなのである。
というわけで、ぼくも「写真を見る目」を鍛えるため、自分でも「写真」を撮ってみることを思い立ち、そのシリーズを「反ー反写真」と名付けた。
つまりこれは認識のための写真でもあるのだが、まぁ、写真の入門者なら誰でもやってることだとも言えるだろう(笑)
で、作品セレクトについてだが、ぼくのこれまでの「反写真」はどのシリーズも特徴がハッキリしてたので、個展用のセレクトも迷いが少かった。
だが「反ー反写真」は多くの写真家が撮るのと同じような路上スナップで、作品セレクトが難しい。
他の写真家と極めてデリケートな勝負になることに、改めて気付くのだ。
そう言えば、ぼくはこれまで他の写真家に対し、微妙な差異で争う事を避けてきたのだった。
しかしそれは素人から見て「微妙な差異」に過ぎず、あくまで玄人目には「大きな差異」なのであり、その様な高度なレベルを写真形は競っているのだ。
自分も遅ればせながら、そういう世界に参入する事になるのだが…
結局、今回の写真セレクトは悩んだあげく締め切りに間に合わず、ギャラリーの応募は次回に持ち越すことになった(笑)
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書きたい要素が沢山あるのに掲載スペースの文字数が限られてる場合。
出来るだけ要素を減らさないよう、うまく文字数を減らすと「圧縮率の高い記事」になる。
要素を削ることで文字数を減らすと「容量が同じで圧縮率の低い記事」になってしまう。
イメージとしてはJPEG画像なのだが、つまりディテールを損なわずにできるだけ容量を減らす技術がテキストにもある。
もちろんテキストも画像と同じく、圧縮率上げすぎると意味が伝わらなくなる。
と考えると、JPEGみたいな文章の自動圧縮技術が開発されたら便利かもしれない。
ダラダラ書いた長文を、自動で規定の文字数に減らして、大事な意味はちゃんと残すというような…
こんなソフトがあったらライターはいらなくなり、みんなますますバカになるだけかもしれないが(笑)
そう言えば、岩波文庫の『論語』は漢文を解凍した読み下し分と、それを解凍した現代語訳が載ってて、さらにそれを解凍した『ビジネスに役立つ論語』みたいな本がたくさん売られている。
中国、インド、ギリシアなどの「古典」は、少ない文字数で多様な解釈を生み出すからかなりの高圧縮率だと言える。
いや、ソフトによって解凍されるデータ量やファイル内容が大きく異なるのが、高圧縮率テキストの特徴である。
例えばラカンのテキストはデータ量が多い上に圧縮率の高さも桁外れで、自分のスペックでは全く解凍することができない。
また、苫米地センセイの本なんかはJPEGをZIPに変換するほどの圧縮率しかない。
機械の取扱説明書は圧縮率ゼロで、明快で解釈の幅が無いテキストが望ましい。
現場で起きた事故や事件というのはデジカメのRAWデータみたいなもので、裁判の判決はJPEGの不可逆圧縮データみたいなものである。
テキストというものに対し圧縮率という言葉を二つの異なる意味で使ってしまったが、前者はJPEGで後者はZIPである。
後者の意味において、より優れたテキストはより圧縮率が高いのであれば、より優れた芸術もより圧縮率が高いはずである。
例えばモナリザの「謎の微笑み」という様な形容は、圧縮率が高いことを示している。
圧縮率の高い芸術は、素人には分かりにくい。
そもそもそれは圧縮データなのだから、鑑賞者が自前のソフトを使って解凍する必要があるのだ。
例えば、ぼくはセザンヌの良さが長い間全く分からなかったのだが、ある時突然「物凄くイイ!」と思えるようになって、そうなると同時代のヨーロッパ絵画の中でセザンヌだけが突出して凄いようにも思えてくる。
つまり桁外れの高圧縮率で、だからこそ初めは取っつきにくいのだ。
芸術に詳しくない素人がパッと見て良いと思えるような作品は、良し悪しとは別に圧縮率が低いのだと言える。
さらに、製品マニュアルのイラストは、解釈の幅を持たせず分かりやすく描く必要があり、圧縮率ゼロでなくてな意味がない。
というように考えると、圧縮率が低いほど絵画はイラストに近づき、圧縮率が高くなるほど高度な芸術になる、と言えるかも知れない。
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1月12日に書いたtwitterのまとめで、自分の考えとしては早くも古びているような気もするが(笑)自分のメモ用の意味で一応アップしてみる。
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シュルレアリスムが示す「超現実 」とラカンの<現実界>の関係を自分なりに考えてみる。
例えば夢の世界が覚醒時と異なり辻褄が合わないのは、イメージを指し示す言葉の秩序が壊れてるから…
つまり<象徴界>の亀裂の向こうに<現実界>が垣間見える、という状況が「超現実」なのだと言えそう…
シュルレアリスムの<超現実>と、ラカンの<現実界>では「現実」という言葉の意味が違うのでややこしいが…シュルレアリスムで言う「現実」は、むしろラカンの示す<想像界>に相当する。
その<想像界>を成立させる<象徴界>が壊れると、シュルレアリスムで言う<超現実>が出現する。
睡眠時の夢とは<象徴界>の亀裂であり<超現実>なのだが、覚醒後に「変な夢を見た」などと思い出した時点で、全ては<想像界>に還元される。
同じように<超現実>を描いたシュルレアリスム絵画は、あくまで<想像界>の産物でしかない。
シュルレアリスム絵画はあくまで<想像界>の産物に過ぎないが、しかしそれ自体が<想像界>のその向こう側を指し示す「矢印」の機能を持つ。
例えばマグリットの絵画がなぜペンキ絵のように薄っぺらく描かれているのかというと、その意味が「描かれたイメージ」にあるのではなく、その存在自体が「矢印」に過ぎないからなのである。
ぼくはマグリットやエルンストなどシュルレアリスム絵画が好きなのだが、それらをあくまで「矢印」として捉えており、そして、それが指し示す「<想像界>としての現実」の向こう側に<非人称芸術>を見い出したのだった。
<非人称芸術>とは、夢を見るのではなく、狂気に陥るのでもなく、<象徴界>に亀裂を生じさせることのできる方法論である、と言えるだろう。
<非人称芸術>という言葉は、<象徴界>の亀裂を指し示す「矢印」として、ぼくがそう名付けたのだった。
そして「フォトモ」「ツギラマ」「反ー反写真」などの作品は全て同様の「矢印」として制作している。
ぼくの作品は<非人称芸術>を指し示す「矢印」であり、<非人称芸術>そのものではない。
これはシュルレアリスム絵画が<超現実>を指し示す「矢印」であり、<超現実>そのものではない、という事と同様である。
もしかすると芸術の本質は「矢印」なのであり、だとすれば「矢印の向こう側」を鑑賞する人と、「矢印そのもの」を鑑賞する人の二種類がいるのかも知れない。
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今さらでなんなのだが、1月9日に見に行った神奈川県立近代美術館葉山館『プライマリーフィールド2』展の感想を、ツイッターの書き込みを元にまとめてみる。
7人の現役アーティストによる企画展だが、絵画として分かりやすい作品ばかりで、自分としても特に悩むことなく素直に観ることができた(笑)
全体の印象としては、とにかく軽い感じで、芸術ならではの難解さや重厚さを否定しているようにも思える。
言ってみれば、雑誌『イラストレーション』のコーナー「ザ・チョイス」にでも載ってるみたいなオシャレで軽いイラストを、アートの形式に置き換えたような感じ。
また、この企画展は写真を元に描いた絵画が多くて、その意味でも参考になった。
実は、ぼくは最近「反ー反写真」に続いて「反ー反絵画」を描こうと企んでおり、自分で撮った写真を絵にしたらどうだろう?なんて事を考えていたのだ。
ぼくは芸術家としてのオリジナリティーが無く、インスピレーションも湧かず、絵画の道は断念してしまった。
ついでに構図が取れないので、真っ当な写真の道も断念してしまった(笑)
だが美大受験のためデッサンをやったので、写真を見ながらそっくりに描く事は一応できる。
しかも最近は「構図が苦手」が克服され自分でも「写真」が撮れるようになってきたのだ。
ただ、技術だけでセンスの無い自分みたいな人間が写真を見て描くと、際限無く精密に描き込むしかなくて非常に時間が掛かってしまう。
絵は描きたいけど、そこまで手間のかかる描き方はとてもやる気がしない…
と言う観点で『プライマリー・フィールド2』の作品を観ると、特に高橋信行さんの作品は、写真を元に描きながら大胆に図式化、省略化され、少ない工程で軽やかに描かれている。
そしてこの独特の抜き加減が「芸術」として肩肘張った前時代的態度と異なるオシャレで軽やかな「アート」になっている。
「現実が密に写し出された写真から、いかにして大胆に要素を削って絵画を成立させるか?」というように考えると、漠然としたオリジナリティーやインスピレーションなどという概念とは違う方向で、自分が描くべき絵画を考える事ができるかもしれない。
他には小西真奈さんと三輪美津子さんも写真を元に描いていて、高橋信行さんよりはだいぶリアルに描き混んでいるが、しかし粗いタッチで軽快に描かれている。
というか、小西さんと三輪さんは共に描き方がとてもよく似ている。
小西真奈さんと三輪美津子さんの絵は、どちらも一見写真のようにリアルで、近づくと粗いタッチで遠近感がわからなくなる感じに見える。
実物ではなく写真を見ながら描いた絵特有の薄っぺらさがあり、これも軽快な心地よさを観客に与える一因なのかもしれない。
意外だったのは小西真奈さんと三輪美津子さんともにタッチが達筆というわけではなく、どちらかと言えばグチャグチャと塗りが汚く思えた事だ。
ぼくは似たような絵でも、印刷前提のイラストはそれほどきれいな塗りではなく、芸術絵画はさすが達筆に描かれる、と認識してたのだがその決め付けがもはや時代遅れかもしれない。
ともかく小西真奈さんと三輪美津子さんは描法が良く似てて、モチーフが異なっているように思える。
という意味で極めて「写真的」だと言えるかも知れない。
つまりぼくも両人のような描法で自分の「写真」を見て描けば、絵画を成立させられるかも知れない。
いや、あくまで想像的な案でしかないですが…(笑)
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遅ればせながら、2月20日に終了した静岡市美術館で開催のフォトモワークショップの報告です。
生徒作品は現在静岡市美術館の無料スペースで展示中です。
詳細は美術館のブログ記事をご覧ください。
さて、最後の追い込みの作業風景ですが・・・
由比駅前のフォトモですが、次の日ぼくも由比駅に行ったら全く同じ風景があって驚きました、あたりまえですが・・・w
野心的な夜景フォトモ・・・
作品ができあがって、これから講評会するところです。
展示は静岡市美術ロビーの「多目的室」にて、4月中旬頃まで行われるそうです。
眼を近づけるとこんな風に見えたり・・・
こんな風に見えたりします。
この漁船、なんと開くと飛び出すポップアップ形式のフォトモです!
いや、機構はぼくが考えたのですがw・・・生徒さんが撮影した素材のツギラマは「ツギメーション」としてこちらのブログにあります。
会場には、ワークショップ初日に制作した「ツギラマ」も展示してます。
大作揃いで見応えがあります。
最後、打ち上げの飲み会で、漫画家の逆柱いみりさんにサインをいただきました。
唐突になぜ・・・というと、実はご夫婦でワークショップに参加していただいたのですw
ということで今回は、ぼくとしては初めての試みとして、計5回延べ10日の日程のワークショップを行いましたが、時間を掛けただけあって非常に素晴らしい作品ができました。
生徒さんには単なるぼくの技術的トレースだけではなく、それそれ独自に工夫して作品作りを楽しんでいただけたように思います。
それだけに、ぼくの方もいろいろな発見や刺激があり、非常に有意義でした。
参加者のみなさん、美術館のスタッフのみなさんにあらためてお礼申し上げます。
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