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2011年3月22日 (火)

「非人称芸術」から「反省芸術」へ

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突然ですが、このブログのタイトルを『非人称芸術研究室・糸崎公朗ブログ3』から『反省芸術blog3』へと変更することにしました。
3月11日に発生した東北関東大地震とそれに続く原発事故で、すっかりアタフタしてますが、ここであらためてコンセプトを整えて、方針をはっきりさせようと思います。

まず「非人称芸術」ですが、ぼくとしてはこのコンセプトを捨てたわけではなく、研究は続行してゆきます。
しかし「芸術とは何か?」を考え続けるうちに、「非人称芸術」とはまた別に「反省芸術」という概念が浮上し、どうもこちらの方がより基本的で重要度が高いように思えてきたのです。

一般に、芸術と言えば「既成概念の破壊」とか「体制への反発」というイメージがあり、ぼくの「非人称芸術」もその延長にありました。
しかし考えてみると、破壊するところの既成概念とか、反発するところの体制というものは、自分というものの「外部」に存在します。
「既成概念の破壊」とか「体制への反発」という考えは、マルクス主義的な革命思想の延長なのでしょうが、これはつまり「自分」を変えずに「外部」だけを変えようとする革命です。
しかし芸術は芸術家が「自分」がつくるものであり、つまり「自分」を変えなければ「新しい芸術」は生まれないのです。
「自分を変える」あるいは「自分を革命する」というのは、早い話が「反省」ということです。
つまり芸術の本質は「反省」にあるのです。

普通に考えても、アーティストを目指し美大を目指す受験生は、自分の絵が下手なことを「反省」し、デッサンの技術を学びます。
そして美大に入ってみると、ただデッサンが上手いだけではアーティストになれないことが分かり、それを「反省」し、技とデッサンを崩したりして「独自の画風」を追求したりします。
あるいはただ絵を描くだけではアーティストになれないことが分かり、それを「反省」して美術史や現代思想などを学び「コンセプト」を固めたりするわけです。

さて、そのような「反省」を経て念願のアーティストになったとしても、その成功をゴールとみなして「反省」をやめてしまったりすると、その人は「生きながら死んだような」アーティストになってしまいます。
たとえ世間的に大家と言われていても、昔の精彩をすっかり欠いたように見えるアーティストというのは、つまりは「反省」を止めてしまっているのです。
そしてぼく自身、「生きながら死んだような」状態にあることを自覚し始め、それを何とかしようと考えているうちに、あらためていろいろと「反省」しなくてはいけないことに気づいたのです。

そもそも人が何かを学ぶとは、すなわち「反省」なのだと言うことが出来ます。
何か新しいことを学んで自分が変わるのであれば、それは今までの自分を「反省」してあらためたことになるのです。
子供はそのようにさまざまなことを「反省」しながら大人へと成長してゆくのです。
逆に「反省」の出来ない子供は、子供っぽい大人になってしまうわけです。

では子供は何を「反省」するのかというと、それは自らの「自然性」です。
生まれて間もない子供は「自然性」によってふるまいますが、それを「反省」することで「人間性」を身に付けてゆくのです。
子供の「自然性」とは「動物的」と言い換えることが出来ますが、子供は「動物的」な自分を反省しながら「理性的」な大人になるのだとも言えます。
ですのできちんと「反省」の出来ない子供は、「自然性」を残したままの「動物的」な大人になってしまいます。

ところがアートの分野に限っては、大人(プロのアーティスト)になっても「子供」だったり「自然性」であることがむしろ推奨されます。
有り体に言えば、精緻なデッサンによる「大人びた絵」よりも、「子供の落書きのように書き殴った絵」の方がより芸術らしい、と評価されたりするのです。
しかしこの認識は本来は間違いなのであって、はじめの例に出したように、まず「子供のままの絵」を反省して「大人としての絵」の技術をマスターし、さらにそれを反省した上で「子供っぽい絵」の技術を独自に開発するのです。
ですからたまに「天才子供アーティスト」みたいな子がテレビで話題になったりしますが、そういう子はたいていフェードアウトするか、少なくとも子供のまま(反省なし)ではアーティストになれないのではないかと思います。

また、アーティストの人格について、多少子供っぽく非常識にふるまっても「アーティストだから仕方がない」とか「それこそアーティストらしい」などとして許される風潮もあります。
しかしこれも本来はおかしいのであり、アーティストに限らず自己鍛錬して「反省」を過剰に繰り返す人は、結果として「世間体」からはみ出のであり、決して「子供のままの大人」ではないはずです。

そう考えると、ぼく自身は実のところ「アーティストの人格は多少子供っぽくても構わない」という世間的イメージに囚われて、どうも「反省」を欠いたまま来てしまったような気がするのです。
同時にそのことが、作品やコンセプトの行き詰まりにもリンクしているように思えたのです。

そこでまずはじめたのが「反ー反写真」なのですが、最初のうちは特に意識してなかったのですが、だんだんとそれが「反省芸術」であることが自覚されたのです。
さらにこの2月に、彦坂尚嘉さん主宰の「気体分子ギャラリー」を破門になってしまい、「反省」が決定的に促進されることになりました。
破門の理由は、言ってみれば『論語』の以下の一節のようなものです。

孔子曰く「女と小人だけは扱いにくいものだ。これを近づければ不遜になり、これを遠ざければ恨む

というわけで「これを遠ざければ恨む」だけは止めようと思って「反省」しようと決心したわけで、これが方法論としての「反省芸術」です。
そもそも「芸術は反省である」という考え方自体、彦坂尚嘉さんの受け売りなのです。

そして、大震災に続く原発事故以来、ぼくが妙にアタフタしていたのも、実のところ一連の「反省」のあらわれだったりするのです。
これはあくまでぼく自身のこととして語りますが、もし無反省で「自分」が変化しないのであれば、周囲で何が起きても落ち着いていられたのかも知れません。
しかし「反省」を心掛ける自分としては、普通だったらバカバカしいとして退ける「陰謀論」も、つい「信じてみようかな」という気になって、しかし十分に信じ切ることは出来ずに振り回されてしまうのです(笑)
これだけなら単なる馬鹿話ですが、ともかく今回の件で自分の「情報収集力と分析力の無さ」があらためて反省させられ、反省しきれずにアタフタしているのです。
その「アタ」と「フタ」の振幅はやがて「中庸」に落ち着くことを目指しているのですが、そんな感じでこのブログはぼくの「反省文」になるのではないかと思います。
そして「その反省を絵に描いてみろ!」と言われ、絵が描けないので写真で表現した作品が、ぼくの「反省芸術」になるのではないかと思います。

と言うことで、今後ともよろしくお願いいたします。

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