表現と圧縮率
書きたい要素が沢山あるのに掲載スペースの文字数が限られてる場合。
出来るだけ要素を減らさないよう、うまく文字数を減らすと「圧縮率の高い記事」になる。
要素を削ることで文字数を減らすと「容量が同じで圧縮率の低い記事」になってしまう。
イメージとしてはJPEG画像なのだが、つまりディテールを損なわずにできるだけ容量を減らす技術がテキストにもある。
もちろんテキストも画像と同じく、圧縮率上げすぎると意味が伝わらなくなる。
と考えると、JPEGみたいな文章の自動圧縮技術が開発されたら便利かもしれない。
ダラダラ書いた長文を、自動で規定の文字数に減らして、大事な意味はちゃんと残すというような…
こんなソフトがあったらライターはいらなくなり、みんなますますバカになるだけかもしれないが(笑)
そう言えば、岩波文庫の『論語』は漢文を解凍した読み下し分と、それを解凍した現代語訳が載ってて、さらにそれを解凍した『ビジネスに役立つ論語』みたいな本がたくさん売られている。
中国、インド、ギリシアなどの「古典」は、少ない文字数で多様な解釈を生み出すからかなりの高圧縮率だと言える。
いや、ソフトによって解凍されるデータ量やファイル内容が大きく異なるのが、高圧縮率テキストの特徴である。
例えばラカンのテキストはデータ量が多い上に圧縮率の高さも桁外れで、自分のスペックでは全く解凍することができない。
また、苫米地センセイの本なんかはJPEGをZIPに変換するほどの圧縮率しかない。
機械の取扱説明書は圧縮率ゼロで、明快で解釈の幅が無いテキストが望ましい。
現場で起きた事故や事件というのはデジカメのRAWデータみたいなもので、裁判の判決はJPEGの不可逆圧縮データみたいなものである。
テキストというものに対し圧縮率という言葉を二つの異なる意味で使ってしまったが、前者はJPEGで後者はZIPである。
後者の意味において、より優れたテキストはより圧縮率が高いのであれば、より優れた芸術もより圧縮率が高いはずである。
例えばモナリザの「謎の微笑み」という様な形容は、圧縮率が高いことを示している。
圧縮率の高い芸術は、素人には分かりにくい。
そもそもそれは圧縮データなのだから、鑑賞者が自前のソフトを使って解凍する必要があるのだ。
例えば、ぼくはセザンヌの良さが長い間全く分からなかったのだが、ある時突然「物凄くイイ!」と思えるようになって、そうなると同時代のヨーロッパ絵画の中でセザンヌだけが突出して凄いようにも思えてくる。
つまり桁外れの高圧縮率で、だからこそ初めは取っつきにくいのだ。
芸術に詳しくない素人がパッと見て良いと思えるような作品は、良し悪しとは別に圧縮率が低いのだと言える。
さらに、製品マニュアルのイラストは、解釈の幅を持たせず分かりやすく描く必要があり、圧縮率ゼロでなくてな意味がない。
というように考えると、圧縮率が低いほど絵画はイラストに近づき、圧縮率が高くなるほど高度な芸術になる、と言えるかも知れない。
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