<超現実>と<現実界>
1月12日に書いたtwitterのまとめで、自分の考えとしては早くも古びているような気もするが(笑)自分のメモ用の意味で一応アップしてみる。
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シュルレアリスムが示す「超現実 」とラカンの<現実界>の関係を自分なりに考えてみる。
例えば夢の世界が覚醒時と異なり辻褄が合わないのは、イメージを指し示す言葉の秩序が壊れてるから…
つまり<象徴界>の亀裂の向こうに<現実界>が垣間見える、という状況が「超現実」なのだと言えそう…
シュルレアリスムの<超現実>と、ラカンの<現実界>では「現実」という言葉の意味が違うのでややこしいが…シュルレアリスムで言う「現実」は、むしろラカンの示す<想像界>に相当する。
その<想像界>を成立させる<象徴界>が壊れると、シュルレアリスムで言う<超現実>が出現する。
睡眠時の夢とは<象徴界>の亀裂であり<超現実>なのだが、覚醒後に「変な夢を見た」などと思い出した時点で、全ては<想像界>に還元される。
同じように<超現実>を描いたシュルレアリスム絵画は、あくまで<想像界>の産物でしかない。
シュルレアリスム絵画はあくまで<想像界>の産物に過ぎないが、しかしそれ自体が<想像界>のその向こう側を指し示す「矢印」の機能を持つ。
例えばマグリットの絵画がなぜペンキ絵のように薄っぺらく描かれているのかというと、その意味が「描かれたイメージ」にあるのではなく、その存在自体が「矢印」に過ぎないからなのである。
ぼくはマグリットやエルンストなどシュルレアリスム絵画が好きなのだが、それらをあくまで「矢印」として捉えており、そして、それが指し示す「<想像界>としての現実」の向こう側に<非人称芸術>を見い出したのだった。
<非人称芸術>とは、夢を見るのではなく、狂気に陥るのでもなく、<象徴界>に亀裂を生じさせることのできる方法論である、と言えるだろう。
<非人称芸術>という言葉は、<象徴界>の亀裂を指し示す「矢印」として、ぼくがそう名付けたのだった。
そして「フォトモ」「ツギラマ」「反ー反写真」などの作品は全て同様の「矢印」として制作している。
ぼくの作品は<非人称芸術>を指し示す「矢印」であり、<非人称芸術>そのものではない。
これはシュルレアリスム絵画が<超現実>を指し示す「矢印」であり、<超現実>そのものではない、という事と同様である。
もしかすると芸術の本質は「矢印」なのであり、だとすれば「矢印の向こう側」を鑑賞する人と、「矢印そのもの」を鑑賞する人の二種類がいるのかも知れない。
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