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2011年3月 5日 (土)

「迎合」と「最善」

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プラトンの著書『ゴルギアス』は、弁論家の大家とされるゴルギアスと、哲学者であるソクラテスによる対話編である。
弁論家は人々を思うがままに説得するための「弁論術」を体得しているが、ソクラテスは弁論術とは人々に対する「迎合」にすぎず、「最善」を無視して快楽のみを与えているのだ、と非難してる。
ソクラテスはまた、弁論術は料理法や化粧法と同様に「経験」の積み重ねに過ぎず、医術や体育術のように体系的理論に裏付けられた「技術」とは区別すべきだ、と説いている。

この様にソクラテスが示す概念を、「芸術」に当てはめて考えてみる。
すると「人々に迎合して快楽を与え、経験的に制作される作品」と、「最善を目指し、理論に裏付けられた技術により制作される作品」の二つの極を考える事ができる。
しかし、どうも今の日本では「迎合、快楽、経験」のアートが一般的であるような気がするし、ぼくのこれまでの作品群も、結局はこの系譜だったのかもしれない。
それだけに「最善、理論、技術」のアートとは何か?と考えると、これが難しい。
特に芸術にとって最善とは何か?が難しい。
反対に、芸術と快楽を結び付ける方が理解しやすいし、それだけに快楽と結びつかない芸術を考えることもまた難しい。
岡本太郎は「芸術は心地よくあってはならない」と言ったが、しかし快楽そのものを否定しているわけではない。

ソクラテスの言葉に戻ると、医術の最善には患者の苦痛が伴うが、快楽を優先して苦い薬や痛い手術を拒めば、最悪の結果がもたらされる、と『ゴルギアス』の中で言っている。
体育術も同様で、苦痛を伴うトレーニングを拒んでは強健な肉体を得る事はできない。
しかし医術や体育術の最善とは、苦痛に耐えることで得られる「より大きな快楽」に過ぎないとも言える。
ところが『ソクラテスの弁明』の中でのソクラテスは、弁論術に扇動された大衆に死刑判決を受けた際、快楽ではなく「最善」のために死刑を受け入れる。
その様な意味での「最善」が、果たして芸術にとって存在するのか?

ソクラテスが自らの死刑判決を受け入れたのは、ハデスの国(死後の世界)に赴いた後も「最善」でいられるようにするためだ。
「ハデスの国」とは今の感覚で考えると荒唐無稽だが、要するにソクラテスの「最善」とは同時代同地域の「目の前の他者」に向けられているのではなく、それを超えた「大文字の他者」に向けられているのだ。
だからその言葉も「目の前の他者」を超えた「大文字の他者」に向けられている。
ソクラテスの言葉が(プラトンの著作を通し)時代も地域も超えて読み継がれ、ぼくのような現代人日本人にまでも語りかけるのはそのためだ。

古代ギリシアの大衆は、快楽と迎合を求め最善を拒否した。
だからソクラテスは「大文字の他者」に向かって最善を尽くした。
そう捉えると、芸術にとっての最善とは、まず「目の前の他者」ではなくそれを超えた「大文字の他者」に向かうことだと言えるかもしれない。

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