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2011年3月 7日 (月)

写真の「器」と「中身」

友人で写真家の平井正義さんがぼくのtwitterの書き込みを引き合いに出して、なかなか興味深い記事を書いておられる。
http://d.hatena.ne.jp/hateno/20110228
で、そちらのブログにコメントしようと思ってたのだが、書いているうちに長くなったし、元の記事から離れ自分の主張が出過ぎてしまったので、こちらのブログ記事としてアップすることにした。

さて、平井さんのブログからの引用だが、

いわばガラスの器を引き立てるために、そのなかに注ぐ液体は何にするか、色はどうするか、発泡性のほうが効果的か、湯気が立つほうがいいのか氷が適切か、などとあれこれ迷っているようなものである。一般的には何を飲むかという中身のほうが重要とされるわけだが、器が先にくる局面がたまにはあってもいいではないか。写真のそうした可能性を頭ごなしに否定するのは偏狭すぎる。

写真を「器」と「中身」に分ける例えはなかなか面白い。
前回までこのブログで話題にした「縁側」とはまたちょっと違う切り口である。

平井さんのブログには平井さん自身の写真作品がアップされていないので(ぼくは見せてもらってるのだが)ここで何を言おうとしているのかはっきりしないかも知れないが、ぼくの作品でいえば「フォトモ」とか「ツギラマ」などの手法そのものが、平井さんの言う「器」に相当する。
しかしぼくの場合は実のところ「器」よりも「中身」を重視しており、むしろ「中身」に合わせて「器」をしつらえている。
つまりぼくの場合は「非人称芸術」という対象物が先にあり、その形状に合わせて「フォトモ」なり「ツギラマ」などの技法を開発したのである。
さらに「非人称芸術」のコンセプトに忠実に従うと、実は肝心の「中身」さえあれば「器」など必要ないのである。
つまり「非人称芸術」は路上で現物を鑑賞して歩く事が肝心なのであり、その作品化はあくまで副産物に過ぎない、と考えるのだ(その是非は今後も考えるとして)。

ところが平井さんはぼくの立場とは逆で、まず「器」があり(それは非常に特殊な写真なのだが)、言わばその「器」だけで作品を成立させようと試みているように思われる。
恐らく、平井さんにとっては「中身」は本質的に邪魔なものであって、それをいかにゼロに近づけるかということに腐心されている。
そもそも、例えではない実際の「ガラスの器」は中身に何も注いでいない空っぽの状態で存在できるのに対し、「形式としての写真という器」は「中身」が無くては存在できない。
だからどんな形式の写真であっても、結局のところ「何を撮るのか」という問題から逃れることはできないのだが、平井さんはそのハードルを越えようと試みておられるのかも知れない。

もし「器としてだけ成立する写真」があるとすれば、ぼくが思いつく限りではニエプスの「世界最初の写真」がそうなのかも知れない。
ニエプスの写真は「写真として写ったこと」のみが問題なのであり、像が不鮮明なこともあって「何が写っているか」の内容はあまり問題にされない。
しかしこの意味での「純粋写真」はニエプスのこの一枚限りであり、それ以降は現在に至るまで「器としての写真に何を注ぐか」が問題となっているのは周知の通りである。

あるいは、先日江戸東京博物館で見た横山松三郎の「写真油絵」も、「中身」を問題としない「器」だけの写真と見ることが出来るかもしれない。
「写真油絵」とはその名の通り、幕末に渡来した「写真」と「油絵」を融合した技術で、写真のエマルジョンを剥がし裏から油絵で色づけした、当時の欧米でも類を見ない「カラー写真」なのである。
ここに示したのは、横山松三郎の「写真油絵」の中でももっとも前衛的な作品で、中央に「写真油絵」がコラージュされ、その脇に油絵で西洋人の絵描きが描かれている。
しかしこうして見てもその「中身」は実に他愛のないもので、アートとして話題にすべき内容は何もない。
それだけに「ガラスの器」だけが問題となるのだが、しかしこの作品はアートというよりも科学的実験のようなものであり、横山松三郎という人もアーティストというよりも技術者であり発明家なのである。
横山松三郎の「写真油絵」は技術が先行した「面白アート」でしかなく、それゆえに後継者もなく日本美術史(あるいは写真史)から忘れ去られてしまったのである。
それを考えると、「器」だけで写真をアートとして成立させることが、非常に困難なことであるように思えるのだ。

さらに「器」と「中身」をアート全般の問題として捉えると、デュシャンの「レディ・メイド」こそは「ガラスの器」そのものと言えるかもしれない。
デュシャンは「レディ・メイド」について「何を選ぶかは問題ではない」とし、さらに「数を制限しなければならない」としていた。
つまりデュシャンは「レディ・メイド」がアートの技法として一般化し、それが「内容を注がれるための器」として目的化されることを阻んでいたのだ。
そのおかげでデュシャン自身の「レディ・メイド」は神格化され、それ以外のアーティストが真似をしてレディ・メイドを作ることが非常に困難になってしまった。
「レディ・メイド」の真似なんて簡単なようでいて、下手にそれを扱おうとするアーティストはたいてい「手痛い目」に合うのであり、ぼくの場合も例外ではなかったりする(笑)

以上、平井さんのつもりとは関係なく、その言葉に触発されて勝手な思いつきを書いてしまった。
平井さんは写真家としてぼくと共通点がありながら間逆の要素もあって、「自分の研究」のためにも興味をそそられてしまうのだ。

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