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2011年3月10日 (木)

アートの「邪道」から「正道」へ

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ぼくはこれまで、現代アートの本質は「正道」に反する「邪道」にあると思っていた。
現代アートの起源が、19世紀フランスのアカデミズム絵画(正確な写実絵画)という「正道」に対する反逆だとすれば、印象派も、キュビズムも、シュルレアリスムも、本質的には「邪道」なのであり、その系譜は現代にまで続いている、と考えることができる。
岡本太郎は「芸術は上手くあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」「芸術はいやったらしい」と説いたが、この言葉もアートの本質が「邪道」にあることを示しているように思われる。
また、アートの専門家が評価する作品は素人には理解が難しいとされるが、つまり世間の人々は「正道」を好み、「邪道」を理解しないのである。
アーティストとは本質的に「邪道」を追求するのであり、それゆえに「世間体」の価値からずれている。
そしてぼく自身も、アーティストとして「邪道」を追求すべく、「写真の正道」に対してフォトモやツギラマを開発し、「芸術の正道」に対して「非人称芸術」を提唱したのだった。

しかし最近のぼくは、アーティストとして見聞を広げるために「正道とはなにか?」ということにあらためて興味を持っている。
「写真の正道」とも言えるモノクロスナップ写真を撮るのもその一環で、「反ー反写真」というタイトルも、自らの「邪道」なありかたを反転させた「正道」を表しているつもりだ。
読書もこれまでは「構造主義」を中心とした現代思想の入門書が多かったのだが、最近はギリシアや中国の「古典」ばかりを読んでいる。

そしてそのような「古典」を読むうちに、どうもアートの基本(現代アートも含む)は「邪道」にあるのではなく、「正道」にあると思えるようになってきたのだ。
いや、アートについて直接の記述があったわけではないが、『論語』や『荘子』やプラトンの著作を読むと、哲学や思想の基本はあくまで「正道」にあり、だからアートの基本もやはり「正道」にあるのではないか、と思えてきたのだ。

「古典」に登場する賢者は、孔子もソクラテスもみな「徳」や「正義」などの「正しいこと」を真正面から徹底追求している。
ところが賢者が「正道」を追求すればするほど、結果として「世間体」からずれてゆくのである。
『論語』の中の孔子は、世間の人々が「正しくない」事についてしきりに嘆いている。
またプラトンが描くソクラテスは「正しいこと」を説いたために、世間の人々から「死刑」の宣告を受けることになる。
「正しい人」が世間から迫害を受けるというモチーフは『聖書』でもお馴染みである。

つまり「世間体」とは必ずしも「正道」であるとは言えず、それは「同じ常識を持つ人が大勢いる」という状況であるに過ぎず、それはむしろ「邪道」に傾きがちである、と古典には記されている。
「世間体」に生きる人の眼は、同じ場所同じ時代を生きる「目の前の他者たち」に向けられており、価値の物差しが短く判断を誤り「邪道」に傾く。
これに対し「世間体」に染まらない賢者の眼は、時空を超越した「大文字の他者」に向けられており、価値の物差しが長大でありそれゆえに「正道」なのである。
「正道」としての賢者の言葉は「大文字の他者」に向けられているからこそ、現代日本人である我々に対しても語りかけてくる。

この考えをアートに当てはめると、「優れたアート」が時として「世間体」から評価されないのは、その作品が決して「邪道」だからなのではなく、「正道」なのがその理由なのである。
「正しい考え」と同じように「正しいアート」は世間からは理解されにくいものなのである。
そして思想や哲学の「邪道」が思慮が足りず浅はかなのと同じく、「邪道」としてのアートも思慮が足りず浅はかであるに過ぎないのだ。

また孔子もソクラテスも「極端」に偏ることを退け、「中庸」の道を追求すべきだと説いている。
「極端」に偏ることもまた思慮が足りず浅はかなのであり、「中庸」は実に豊かで奥深く高度なのであり、「世間体」からは理解されにくいのである。
そう考えるとむしろ「極端」なアートは分かりやすく偏っているだけに、「世間体」からは理解されやすいし好まれやすいのである。
もしくは一見「極端」に見える現代アート作品であっても、文字通り「極端」で浅はかに過ぎない作品と、「中庸」として高度であるがゆえに「世間体」からずれている作品の、二種類が考えられるのである。

というように考えると、「フォトモ」にしろ「非人称芸術」にしろ、ぼくのアートはまず「邪道」を追求したために浅はかであり、この点を反省すべきなのである。
そして「邪道」から「正道」へ、「極端」から「中庸」へと方向転換すべきなのだ。
別な言い方をすれば、ぼくはアートの「基礎」をすっ飛ばして「応用」から先に入ったのである。
ぼくのアートは基礎を欠いているがゆえに、ある種の脆弱性を抱えているのだ。
だから「基礎」の部分をあらためて学んで補強すれば、「応用」として先に身に付けた要素もより確かなものとして活かすことが可能になるかも知れない。

アートにとっての「基礎」とは何か?はいろいろと考えられるだろうが、「写真の基礎」のひとつに「路上スナップ」があり、「概念としてのアート」の基礎は思想や哲学の「古典」にあり、まずはそのあたりから手を付け始めているのだ。

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