「反ー反写真」個展応募テキスト
いろいろ書きたいことはあるのですが、なかなかまとまらないので、既に書いた文章をアップします。
先日、新宿のコニカミノルタプラザに個展の申し込みをしたのですが、その審査書類に添付したテキストです。
オルテガを引用してカッコつけたりしてますが・・・「反ー反写真」はぼくの周囲では評価が分かれるというか、評価してくれる人は少数派なのでw、審査が通るかどうかはビミョーです。
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反-反写真
糸崎公朗
私は、人間の視点移動を表現した「ツギラマ」や、平面である写真を立体的に再構成した「フォトモ」など、独自の写真表現を追求してきた。都市空間の広がりである「路上」というフィールドに非常な魅力を感じた私は、写真によってその素晴らしさをいかに表現できるかに腐心してきたのだ。
私はまず、自分にとって価値があるのはまず「実物」の路上であり、写真はそれを伝達するメディアに過ぎない、と考えた。そのような考えから「実物」の多様な形状に合わせ、その魅力を表現するための写真形式もまた多様であるべきだという考えが生じた。そのために「ツギラマ」では写真に特有の「一点透視法」や「矩形の画面」を否定し、「フォトモ」では「平面性」を否定した。またこれらの作品は「実物」の精巧な代用品であると同時に、その魅力を指し示す「矢印」の機能を果たしているのであり、作品そのものに「実物」を超えた価値があるとは認めなかった。つまりこれらの作品は写真を素材としながらも、形式の面からも思想の面からも「反写真」だと言えるのだ。
このような私の「反写真」にとって、対極的な「写真」のありかたのひとつに「モノクロ路上スナップ写真」があった。私は路上の「実物」を愛するがゆえに、カラー情報を差し引いたモノクロ写真の意義が全く理解できないでいた。また、似たようなモノクロスナップを撮る写真家は実に多く、そこにアートとして必要なオリジナリティーがあるようには思えなかった。さらに、本質的に「実物」の複製品でしかない写真が、「実物」としての絵画や彫刻などと同等の「アート作品」として成立しうるのか、それも疑問だった。
しかし私はある時ふと、自分は「写真」とは何かをろくに知らないまま、闇雲に反発していたことに気づいた。実は、私は中学時代に「カメラ」というメカの魅力に惹かれ写真部に所属していたのだが、自分には写真を撮るセンスがないと判断し、それ以来しばらく写真から遠ざかってしまった経緯がある。つまり私はきちんと写真を勉強することを放棄して「写真」に背く道を選んだのだ。しかし「背く」とは、結局それを理解しようとしない態度であり、理解しないまま反発しているに過ぎない。自分が理解できないものを、理解出来ないがゆえに否定し反発するのは愚者である。スペインの哲学者オルテガは、あらゆる反何々という態度は空虚であるとして『大衆の反逆』に以下のように書いている。
文明の寄食者である犬儒主義者は、文明は決して無くならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きていているのだ。
結局のところ私の「反写真」とは、世に言う「写真」の存在を前提にし、それを頼りに成立していたに過ぎなかったのである。そこでこれまでの態度を反省した私は、「写真」とは何であるかをあらためて知りたくなった。自分が「写真」の意味を理解することでアーティストとして新たな可能性が広がるかも知れないし、これまでの「反写真」についても別の面から眺めることができるかも知れない。
「写真」を知るためには「学ぶは真似ぶ」の葉通り、他の写真家の真似をするのがひとつの方法である。そこで私は、自分がこれまで理解できずに否定していた「モノクロ路上スナップ写真」を真似して撮ってみることにした。これは自分の「反写真」をさらに反転させた行為であり、そのコンセプトと作品を「反-反写真」と名付けることにした。
私の「反-反写真」は当初は文字通りヘタクソな写真でしかなかったが、そのうちコツ掴んで熱中するようになり、写真家の友人たちからは「普通レベルには上手い写真」と言われるようにまでなった。そもそも自分で「写真」を撮らなければ、他の写真家からアドバイスをもらったり評価されることもないのである。そして、そのような他者とのコミュニケーションを重ねることによって「写真」への理解も次第に深まり、実物とは異なる「モノクロ写真の自律的価値」や、一見似たように思える「路上スナップ写真」にもそれぞれの意味の違い、レベルの違いが歴然とあることも認められるようになった。これは実にありきたりなことのようだが「反写真」に固執していたかつての自分からは、考えられないことである。
しかしもちろん、私はいまだ「写真」とは何かを完全に理解したわけではなく、あくまで「写真」の奥深さの入り口に立っているに過ぎない。「反-反写真」とは、バカボンのパパが「賛成の反対の賛成なのだ」というように結局は普通の「写真」なのだが、私はこれによって「写真」の自明性に対する疑問を自己にも他者にも投げかけたいと思っている。
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