「原発の安全」を信仰する国家宗教
こちらの動画の「原発推進派」の意見と・・・
こちらの動画の丸山眞男の主張を聞いてふと思ったんですが・・・
明治以降、戦前までの日本は天皇を崇拝する「国家神道」によって国民をまとめ国家を成立させていたのですが、しかし戦後は天皇にかわって「原発の安全」を崇拝する国家神道で国を成立させようとしてたのではないか・・・
「原発推進派」の意見をいろんな動画で見てると、「原発の安全」を微塵でも疑う事自体が罪だという態度であって、これは「科学」ではなく「信仰」であり「宗教的態度」という感じがするのです。
原発推進派は、科学者であるにもかかわらず「科学的思考」をねじ曲げて「原発の安全」を神のごとく絶対視し、それを前提に話をするわけですから、構造としては「宗教」です。
しかもそれが科学者個人の見解ではなく、政策の一環として語られるわけですから、まさに国家宗教であり「国家神道」の続きのように思えてしまいます。
東大で科学を修めたエリートが「科学的思考」をねじ曲げて「宗教的思考」によって語るわけですから、これはオウム真理教と同じです。
丸山眞男は上記の動画の中で、オウム真理教は日本の特殊事例ではなく、日本という国がそもそもオウム真理教的なのだ、という風に語っていますが、ぼくも全く同感です。
ぼくは地下鉄サリン事件があった当時、オウム真理教に興味を持って、オウムショップで機関誌やマンガを買って面白がっていましたが、それは自分なりにオウム真理教は現代日本社会を縮小して映し出す「凸面鏡」みたいなものだ、と思っていたからです。
たいていの日本人は自分を「無宗教」だと言いますが、しかしぼくには何かを信仰している巨大な宗教集団のように思えてしまう。
そしてぼく自身は、みんなと同じような「信仰」が持てないので、社会からの疎外感がある・・・
そして、その日本人が「何」を信仰しているのか、今ひとつ分からずもやもやとしてたのですが、しかし「原発の安全」という風に思うと、かなりスッキリするのです。
もちろん、「原発の安全」とは「天皇」と同じく「象徴」であって、日本人の宗教観の本質は丸山眞男が指摘するような、日本人の奥底にある「古層」にあるだろうとは思います(動画だけで著書はまだ読んでないのですが)。
ともかく、現代日本では「原発の安全」は疑うことが許されない「神」であって、それは311の原発事故発生後も変わった様子がないのです。
その証拠に、政府も、原子力安全保安員も、御用学者も、東京電力も、「ただちに影響はない」として事故の危険性を過小評価します。
また、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータを公開しなかったり、個人がガイガーカウンターを持つことが非常に難しい状況だったり、「原発の安全」を疑わせる要素は極力排除されます。
こういう状況に国民が暴動も起こさずに「政府が言ってるんなら安心だろう」などと思ってるのも、「原発の安全」がいまだに信仰として生きていることのあらわれではないかと思います。
政府が原発事故を過小評価し、情報を出し惜しみするのは「パニックを押さえるため」と言ってますが、それはどうもウソっぽくて、本当のところは「原発の安全」という信仰を国家規模で守り続けるためではないかと思うのです。
つまり戦後の日本は「政教分離」のハズなのに、実はそれは建前でしかなく、だからどうにも煮え切らない「変な感じ」がするのです。
東日本大震災の直後、海外から日本人がパニックにもならず暴動も起きない「行儀の良さ」「モラルの高さ」が非常に評価されました。
しかしそれは近代人として各自が自律してモラルが高いと言うより、日本人みんなが「原発の安全」に象徴されるような宗教を信仰していたためではないか・・・一般に、宗教をきちんと信仰している人は、行儀が良くモラルが高いのです。
そしてぼくはそのような信仰に今ひとつなじめず、だからある意味モラルが低くて行儀が悪い。
皆が嫌ってるオウム真理教に興味を持ったり、ガイガーカウンターを買って計測したり、戦前だったら「非国民」と言われそうなことをしてしまうのです。
もちろん現代日本では「非国民」という概念は無くなって、ぼくも警察に逮捕されることはないですが、しかし根底にあるものは戦前も現在も変わらないような気がするのです。
T.S.エリオットは「芸術そのものは決して進歩しないが、芸術の素材はいつも変わって同じだったことはない」と書いてますが(『文芸批評論』岩浪文庫P.11)、「芸術」を「日本という国」に入れ替えても意味が通じてしまうのではないかと思えてしまいます。
*この動画、最後はMADになってますのでその点のみ要注意です。
映画『猿の惑星』の猿は日本人の戯画化だという説がありますが、しかしぼくには『続・猿の惑星』に出てきた「地底人」こそが日本人だったということに思い当たるのです。
この地底人は人類の末裔で、猿の支配から逃れるために地下に閉じこもっているのです。
そして、彼ら自身は放射能の影響で顔がケロイド化しているにもかかわらず、核ミサイルを「神」とあがめる宗教を信仰しているのです。
いや、『猿の惑星』シリーズはアメリカとソ連の冷泉を背景に作られたので、「核ミサイル=神」はその両国の戯画化なんでしょうけど・・・
しかし第二次世界大戦後は世界全体として「神=核」になったと言えるわけで、その「神=核」のあり方が国家によって異なり、日本ならではの独自性がある、と言うことなんだろうと思います。
そしてチェルノブイリ事故があり、ソ連が解体され冷戦構造が終わって以降、世界的には「神=核」という信仰はかなり薄れてきた。
そんな中、日本では鎖国的に独自の「神=核」信仰を守り続けてきたのであり、それが現在の日本の状況ではないかと思うのです。
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