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2011年5月

2011年5月27日 (金)

「原発の安全」を信仰する国家宗教


こちらの動画の「原発推進派」の意見と・・・



こちらの動画の丸山眞男の主張を聞いてふと思ったんですが・・・

明治以降、戦前までの日本は天皇を崇拝する「国家神道」によって国民をまとめ国家を成立させていたのですが、しかし戦後は天皇にかわって「原発の安全」を崇拝する国家神道で国を成立させようとしてたのではないか・・・
「原発推進派」の意見をいろんな動画で見てると、「原発の安全」を微塵でも疑う事自体が罪だという態度であって、これは「科学」ではなく「信仰」であり「宗教的態度」という感じがするのです。
原発推進派は、科学者であるにもかかわらず「科学的思考」をねじ曲げて「原発の安全」を神のごとく絶対視し、それを前提に話をするわけですから、構造としては「宗教」です。

しかもそれが科学者個人の見解ではなく、政策の一環として語られるわけですから、まさに国家宗教であり「国家神道」の続きのように思えてしまいます。
東大で科学を修めたエリートが「科学的思考」をねじ曲げて「宗教的思考」によって語るわけですから、これはオウム真理教と同じです。
丸山眞男は上記の動画の中で、オウム真理教は日本の特殊事例ではなく、日本という国がそもそもオウム真理教的なのだ、という風に語っていますが、ぼくも全く同感です。
ぼくは地下鉄サリン事件があった当時、オウム真理教に興味を持って、オウムショップで機関誌やマンガを買って面白がっていましたが、それは自分なりにオウム真理教は現代日本社会を縮小して映し出す「凸面鏡」みたいなものだ、と思っていたからです。

たいていの日本人は自分を「無宗教」だと言いますが、しかしぼくには何かを信仰している巨大な宗教集団のように思えてしまう。
そしてぼく自身は、みんなと同じような「信仰」が持てないので、社会からの疎外感がある・・・
そして、その日本人が「何」を信仰しているのか、今ひとつ分からずもやもやとしてたのですが、しかし「原発の安全」という風に思うと、かなりスッキリするのです。
もちろん、「原発の安全」とは「天皇」と同じく「象徴」であって、日本人の宗教観の本質は丸山眞男が指摘するような、日本人の奥底にある「古層」にあるだろうとは思います(動画だけで著書はまだ読んでないのですが)。

ともかく、現代日本では「原発の安全」は疑うことが許されない「神」であって、それは311の原発事故発生後も変わった様子がないのです。
その証拠に、政府も、原子力安全保安員も、御用学者も、東京電力も、「ただちに影響はない」として事故の危険性を過小評価します。
また、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータを公開しなかったり、個人がガイガーカウンターを持つことが非常に難しい状況だったり、「原発の安全」を疑わせる要素は極力排除されます。
こういう状況に国民が暴動も起こさずに「政府が言ってるんなら安心だろう」などと思ってるのも、「原発の安全」がいまだに信仰として生きていることのあらわれではないかと思います。

政府が原発事故を過小評価し、情報を出し惜しみするのは「パニックを押さえるため」と言ってますが、それはどうもウソっぽくて、本当のところは「原発の安全」という信仰を国家規模で守り続けるためではないかと思うのです。
つまり戦後の日本は「政教分離」のハズなのに、実はそれは建前でしかなく、だからどうにも煮え切らない「変な感じ」がするのです。

東日本大震災の直後、海外から日本人がパニックにもならず暴動も起きない「行儀の良さ」「モラルの高さ」が非常に評価されました。
しかしそれは近代人として各自が自律してモラルが高いと言うより、日本人みんなが「原発の安全」に象徴されるような宗教を信仰していたためではないか・・・一般に、宗教をきちんと信仰している人は、行儀が良くモラルが高いのです。
そしてぼくはそのような信仰に今ひとつなじめず、だからある意味モラルが低くて行儀が悪い。
皆が嫌ってるオウム真理教に興味を持ったり、ガイガーカウンターを買って計測したり、戦前だったら「非国民」と言われそうなことをしてしまうのです。

もちろん現代日本では「非国民」という概念は無くなって、ぼくも警察に逮捕されることはないですが、しかし根底にあるものは戦前も現在も変わらないような気がするのです。
T.S.エリオットは「芸術そのものは決して進歩しないが、芸術の素材はいつも変わって同じだったことはない」と書いてますが(『文芸批評論』岩浪文庫P.11)、「芸術」を「日本という国」に入れ替えても意味が通じてしまうのではないかと思えてしまいます。


*この動画、最後はMADになってますのでその点のみ要注意です。

映画『猿の惑星』の猿は日本人の戯画化だという説がありますが、しかしぼくには『続・猿の惑星』に出てきた「地底人」こそが日本人だったということに思い当たるのです。
この地底人は人類の末裔で、猿の支配から逃れるために地下に閉じこもっているのです。
そして、彼ら自身は放射能の影響で顔がケロイド化しているにもかかわらず、核ミサイルを「神」とあがめる宗教を信仰しているのです。

いや、『猿の惑星』シリーズはアメリカとソ連の冷泉を背景に作られたので、「核ミサイル=神」はその両国の戯画化なんでしょうけど・・・
しかし第二次世界大戦後は世界全体として「神=核」になったと言えるわけで、その「神=核」のあり方が国家によって異なり、日本ならではの独自性がある、と言うことなんだろうと思います。
そしてチェルノブイリ事故があり、ソ連が解体され冷戦構造が終わって以降、世界的には「神=核」という信仰はかなり薄れてきた。
そんな中、日本では鎖国的に独自の「神=核」信仰を守り続けてきたのであり、それが現在の日本の状況ではないかと思うのです。

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2011年5月23日 (月)

ガイガーカウンターで作品

ガイガーカウンターで、「作品」を作ってみました。
ぼくが買った機種「GM-10」はパソコンに接続しなければ作動しない点が面倒ですが、数値をグラフに表示する機能があります。
つまり目に見えない放射線を視覚化する「写真機」でもあるわけで、その「写真」としてのグラフとデジカメで撮ったその場の写真をレイヤーで重ねてみたのです。
このようなアイデアは当初からあったわけではなく、デジカメの写真も「ブログ1」に情報としてアップするために撮影したものですが、ふと思い付いてこんな風に合成してみたのです。

これが「作品」や「芸術」と言えるものにちゃんとなっているのか?は正直自分ではよく分かりません。
なぜならぼくは「芸術」が何なのかいまひとつ分からず、そして自分としてはかなり珍しく(非人称芸術ではなく)「芸術」を意識して作品を製作してみたのです。
タイトルは安直ですが、とりあえず「トウキョーマイクロシーベルト」ということにしてみましたw

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ichigaya
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okubo
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kokubunji

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2011年5月 4日 (水)

「反ー反写真」個展申し込み審査結果!

コニカミノルタプラザに個展の申し込みをしたのですが、その審査結果が届いてました。

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ということで・・・
メーカー系ギャラリーは無料でスペースが借りられるかわりに競争率が高く、ステイタスもあって応募者のレベルも高く、ぼくみたいな人間がおいそれと個展などできるわけ無いのです。

冗談はともかく(笑)マジメに反省するならば、「反ー反写真」が「反省芸術」のコンセプトに依っているのだとすれば、まさにその「反省」が足りなかったと言えます。
いや、ブログのタイトルを変えて以来「反省芸術」と言うより単に反省してばっかりのようですが、自分が反省しなければ「反省芸術」も生まれず、他人にも認められないと言うことです。
恐らく、これまでの自分をとことん悔いて反省しきって「フォトモもツギラマも路上ネイチャーも全部捨てて、作品も捨ててデータも消去して、経歴も抹消して、まっとうな写真家として一から出直します!」と宣言すれば、結果は違ったかも知れません。
いや、もちろんそんな必要ないですが、それと同等の「気概」はやはり必要で、審査員にとっては「迫力不足」と受け止められたのかも知れません。
もしくは逆に、何かだましのテクニックを使うとか(笑)
まぁ、ぼくの「写真家」としてのチャレンジはまだ始めたばっかりなので、いろいろと考えてみます。

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2011年5月 3日 (火)

放射能以外に怖いこと

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チェルノブイリ原発事故のリポートを見ると、妊婦が被爆すると奇形児が生まれる事が分かる。
これは非常に恐ろしいことで、日本人にとっても他人事ではなくなってしまった。

しかし被爆せずとも人間は奇形になることもある。
例えば原発事故に対する政府の人間や、保安員や、東電幹部の態度は「精神の奇形」とでもいうようにマトモさを欠いている。
体は五体満足であっても、精神が奇形的にひん曲がっている。
もちろん精神疾患とか精神異常ではなくその意味では健全と言えるのだが、しかし物事の筋道の通し方が奇形的にひん曲がっていて、だから「精神の奇形」だと言えるのだ。
そして同質の「精神の奇形」を自分の中にも見て、戦慄してしまうのだ。

「精神の奇形」は放射線の影響ではなく「教育」の影響で発生する。
放射線は細胞内の遺伝子を破壊し、胎児の「発育プログラム」を阻害し奇形児を生じさせる。
一方、教育は良かれ悪しかれ子供の「行動プログラム」に影響を与える。
悪い教育は子供の行動プログラムの正常な発達を阻害し精神の奇形を生じさせる。

表現が分かりにくかった…要は間違った教育を受けると、五体満足の子供も「精神の奇形」を持つの大人に成長してしまう、という事。
これは実は放射能並みに恐ろしい。
ぼくも冷静に思い返すと、親からまるでペットのような可愛がられ方をしていたようで、これでは人間として正常な精神が育つわけがない…

まぁ「精神の奇形」がぼくの個人的な特殊事情ならまだ良かったが、このたびの原発事故で日本中が、社会の上層部にまでこれが蔓延してるらしい事が判明し、驚いてしまった。
以前の記事ではこれを「ウシジマくんの世界」と表現したのだが…

物理的現象である「身体の奇形」と違って、「精神の奇形」は後から矯正可能のはずである。
しかし実際は、大人になってから「精神の奇形」を矯正するのはかなり難しい…自分でも実感してますがw

さらに問題なのは「精神の奇形」を生じさせる「悪い教育」が、今なお多くの子供達に照射されている事。
これは放射能並に恐ろしい事かもしれない。
学校で教える国語算数理科社会は、物事の「手段」でしかなく、それを使う「目的」を学校は教えてくれないように思う。
いや勉強の目的は、良い成績を取り、良い学校に入り、勝ち組になって、金を儲け、社会的地位を得ること…等々なのだろうが、それらはいずれも何かの「手段」に過ぎず、人生の「目的」にはなり得ない。

じゃあぼくがアーティストとして何を目的にしてるかと言うと、「クリエイティブ」などとご大層な事言いながら、冷静に考えると実は「心の隙間」を対症療法的に埋め尽くしてるだけで、これも創造に見せかけた「手段」に過ぎない。
自分は目的を見据えているつもりで、実はすっかり見失っていたのだった。
子供の頃から親にも学校からも「手段」しか教わらず、だから「目的」を見失って迷走するのは当たり前である。

しかしギリシアや中国の「古典」を読むと、「目的」についてちゃんと書いてあって、目が醒める思いがする。
これによって、自分がいかに目的を見失っていたか、気づくことができるのだ。
古典を読むと、孔子もソクラテスも「立派な人間を目指す事」を説いており、それが教育本来の「目的」のはずである。
実に当たり前のようだが、その当たり前が日本の教育から失われている。
という言い方もベタなくらいなのだが…

では「立派な人間」とは何か?と言えば、それは時代や地域や個人によっても見方が変わり、一律には決められない。
つまりそれを考えるのが「哲学」であり、現代の学校教育にはその意味での「哲学」を決定的に欠いている。
「哲学」と言うと難しそうだが、ソクラテスやプラトンの時代に遡れば「立派な人間とは何か?」というシンプルな問いが分かりやすい言葉で語られている。
これは頭の良し悪しに関わらず、誰にとっても共通の、大切な問題だと思うのだ。

現代日本では、たとえ高学歴であっても「立派な人間」を目指してるわけでは無いので、この度のような「原発事故」を引き起こし、さらに満足な対処もできないでいる。
これを一方的に非難できるのは、まさに健常な精神を持つ「立派な人間」だけであり、そうでない自分はひたすら反省し、自らの「精神の奇形」の矯正を試みるしかない。

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2011年5月 2日 (月)

誰でも頭がよくなる・楽して簡単すぐマスターできる「超」勉強法

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「自分は頭が悪い」と思う人が勉強しなくなると、ますます頭が悪くなる。
他ならぬぼく自信がそうなのだが…
しかし頭の悪い人にもそれなりの勉強法はあって、例えばプラトンや論語や荘子、初期仏典などの「古典」は新書本並みに分かりやすくて読みやすく、かつ歴史的名著だけあってためになる。

孔子の教えを集めた『論語』は岩波文庫で出てるが、一冊のうちに漢文、読み下し、現代語訳、の三種類が併記されているので、実質的な量は1/3に過ぎない。
それでいて全部読めば「論語を読んだ」と他人にも言えて、自信にもなる。
さらに少ない文字数に知恵が凝縮されているから、効率的にそれを身に付けることができる。

プラトンは『ソクラテスの弁明・クリトン』が短くてまずは読みやすい。
頭が悪く、本を読むのが遅いぼくのような人間にとって、短いことはけっこう重要だ。
それと論文ではなく、ソクラテスとその他の人々との会話文のみで構成され、こんなにも平易な文で書かれていたのかと驚く。
それでいて、哲学の基礎がギッシリと凝縮されていて、非常にためになる。

仏教は最古の仏典と言われる『ブッタのことば』(スッタニパータ)が岩波文庫で出てるが、この本も半分は注釈なので実質的な量は少なく読みやすい。
宗教というより哲学に近く、やはり生きるための知恵が凝縮されている。
「死」や「苦しみ」を真正面から扱ってるので、311を経た今、あらためて読み返したいと思っている。

「古典」が短くて読みやすいのは、何度も繰り返し読んで暗記するためで、だからできるだけ若いうちから読んでおいた方が良い。
しかしぼくのように40過ぎで読んでも読まないよりマシで、読んだ分だけはかなり「前進」できる。
世の中危機も迫ってることだし、前進しないといけない。
努力して「勉強」すれば思い込みによる間違いを「反省」して「自分」を変えることが出来るだろう。

ちなみに、キリスト教の聖書は旧約と新約を合わせると量が多く、そのうえ一度読んだだけでは意味が分からず読みにくい。
しかし聖書は意味が分かりにくいところに意味があり、だからそれを解釈するための学問が成立し、それがヨーロッパ的知性を形成し、現代文明の基盤にもなった…と言うことらしい。
だから、とりあえず我慢して一度でも読んでおけば、それだけの価値はあるだろうと思う。

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ウジシマくんの世界

自分がいかにダメ人間なのかを反省してたら、311の以来の原発事故によってエリートのはずの東電社員や総理大臣はじめ政治家たちが、こぞって自分と同程度のダメ人間である事が判明し、心底仰天してしまった。
ぼくは自分のダメさがわかるだけに、これはかなりの「恐怖」であり、絶望せざるを得ない。
この場合のダメ人間とは、漫画『闇金ウシジマくん』に出てくるようなダメ人間のことである。

311の少し前、この漫画をレンタルで読み、ぼくはかなりショックを受けた。
いや、自分は(今のところ)借金はないが、借金を重ね自滅するダメ人間と<構造>が同じなのだ。
これはかなり焦るし「反省」を迫られる。

『闇金ウシジマくん』に描かれるダメ人間たちは、目の前の<現実>から目を逸らし、<イメージ>のしての楽観論に逃げ込みながら、問題を先送りにする。
当然イメージによる逃避は長続きせず、やがて現実の問題が否応なしに目の前に立ちはだかり、最悪の結果をもたらす。
毎回そんな話ばっかりの漫画であるw

主人公で闇金を営む牛島は、冷徹に<現実>を見据えながら、イメージの世界に逃げ込むダメ人間を食い物にする。
牛島の生き方が幸福かは不明だが、ぼくは間違いなくダメ人間側で、ベクトルは自滅へと向いている…これは反省して軌道修正しないとイケナイ。

しかし311以降、政府や保安員や東電の対応を見ると、これは典型的なウシジマくん的ダメ人間で、まさに現実から目を逸らし、楽観的イメージの世界に逃げ、問題を先送りしようとしている。
このたびの原発事故は、ダメ人間が借金でパンクするのと同じ<構造>で起きている。

ウシジマくんで描かれるのは、社会の下層の人々だが、実際には上層エリートに至るまで、あまねくウシジマくん的ダメ人間の世界に覆われている。
それが日本の現状であり、こんなに恐ろしい事はない。これに比べたら、原発事故の恐怖は枝葉末節に思えてしまう。
だって、いくら原発事故が恐ろしくとも、政府がしっかり対応して、素早く住民避難などに対応してくれてたら、それだけ安心できるし勇気も貰えただろう。
しかし実際はまるでダメ人間の対応で、その事自体が新たな恐怖であり、根本的な人間不信に陥ってしまう。
自分はどちらかといえば劣等生で、だから美大が逃げ場になったのだが、それだけに優等生のエリートは「ちゃんとしてる」のだと思い込んでいた。
しかし実際は自分と同じダメ人間で、その意味ではなぁんだという感じで安心できるw
だがそんな安心はイメージ的な現実逃避に過ぎない。

しかし<現実>を見据えた上での絶望は、反転し希望を生み出す事もできる。
例えば誰もがダメ人間であるならば、少なくとも自分だけは「反省」し、ちゃんとした立派な人間を目指せば良い。
これは大変に困難ではあるが、それだけに「大いなる希望」と言えるだろう…

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捨てる技術(できないけど)

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部屋の整理をすべく、昔の写真を一部捨ててしまった。
しかしこれで良かったのか、さらにどんどん捨てるべきか、悩んでしまう…
迷い無く捨てるべし‼と思って始めたんですがw

捨てはじめたのは、デジタル以前の時代に撮った、大量のネガフィルムと同時プリント。
ツギラマやフォトモや2コマ写真など「作品」になってない未整理の写真。
いつか整理しまたは作品化しようと思いながら、そのまま箱に入れたのが積み上がってた。

しかしデジタル写真の整理に慣れると、フィルムやプリントの整理は面倒過ぎてもはや不可能に思える。
整理不可能なモノは利用価値が無いゴミだから、捨てた方がいいに決まってる。
古いネガはスキャンする方法もあるが、それもかなり面倒。
そんな時間があるならどこかに出かけて新たな写真を撮るか、本を読んで知識を身につけた方がいい。
過去に囚われるより、過去を捨てた方が未来に対して建設的になれる。

しかし過去の写真を捨てることは、過去の自分の努力を無にする事になる。
とりあえず捨てずにとっておけば、あとで何かの役に立つ事もあるかもしれない。
現に今の自分は、過去の自分の成果によって助けられ、支えられている。
個展や雑誌連載は、過去の自分の作品無くして成立し得ない。
それにフィルムで撮っていた頃は今と違って毎週の様に電車で都内や近郊各所に出かけ、勢力的に撮影していた。
アルバイトしながらなので、経済的にも随分負担が掛かった。
当時のネガを捨てる事は、そんな過去の自分をダイレクトに否定する事になる。
これはちょっと胸が痛む…

しかし過去の自分は、同時に現在の自分の足を引っ張り、引いては未来への可能性も阻害している。
具体的にぼくの部屋は狭いのにモノが多過ぎて、仕事(製作)に支障をきたしている。
これはどうにかしないといけない!

そもそも過去の自分が「ダメな自分」「間違った自分」なのであれば、そんなのはとっとと切り離して捨て去ったほうがいい。
ネガの整理ができない自分、きちんと作品化してこなかった自分は、方法論がデタラメなダメアーティストでしかない。
そんなのは現在の自分は助ける筈も無く、足を引っ張るのみである。

大量のネガを処分しても、フォトモやツギラマなどの作品は当時の自分の成果として残される。
また、様々な路上を歩いた経験も、自分の成果としてこれからも役立つだろう。
それ以外の撮影やアルバイトの苦労は「壮絶な空回り」でしかなかったのである。

「壮絶な空回り」はぼくの場合いつもの事で、本もろくに読まず、人の作品もろくに見ず、人の話もろくに聞かないようでは「方法論」がデタラメでになるのは当たり前で、いくらアクセルを全開でもクラッチを入れずに前進できないのと同じなのだ。
方法論がデタラメでも、運がよければある程度まで行く事ができる。
そしてなまじ上手く行ってるが故に、デタラメを「方法論」だと勘違いする。
そうやって調子に乗ってデタラメをこじらせるうちに、次第に運が尽きてくる。
それで慌てて「反省」し勉強をし始めた…と言うところで311を迎えてしまった。

ぼくの部屋の状態は、原子炉建屋内部に捨てたいけど捨てられない使用済み燃料棒が置きっぱなしなのと、よく似てるw
いや、部屋の不要物は爆発しないが、機能を著しく阻害している点は同じである。
また、すべき事を合理的に処理できず問題を先送りしてる点も同じで、ぼくは東電を責める立場に無いのだ。

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希望は絶望の反転

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ぼくは最近、自分にも世の中にもすっかり絶望し切っているのだが、何事も真実を見つめると絶望するしかなく、そのような真の絶望を立脚点として、真の希望が生まれるのではないかと思っている。
希望は、絶望の反転として生じる。
だらかより深い絶望から、より前向きでかつ現実的な希望が生じる。
現実に実現可能な希望は、その反対の深い絶望に裏打ちされている。
絶望の裏打ちのない希望は、単なる楽観的イメージでしかなく、現実には何も生み出すことはない。

「希望は絶望の反転」という考えは、小浜逸郎『頭はよくならない』の影響が大きい。
どんな子供でも、努力すれば良い成績が取れるようになる、と言うのは嘘のイメージで、現実的には頭の良し悪しには個人差がある。
しかしその様な「現実」を受け入れず、根拠のない「イメージ」に囚われると、かえって現状が悪化する。
その人が「頭が良くない」のは天性だから、本人の責任ではない。
しかし「努力すればれでも頭は良くなる」という嘘を信じている人は、自分の頭の悪さを「努力が足りないせいだ」として自分を責めてしまう。
これでは精神をムダに擦り減らし、考える力がかえって萎縮してしまう。
だから「自分の頭は良くないし、良くならない」という「現実」を見据えることが重要で、そのような「健全なあきらめ」から、自分の能力を最大限に伸ばし、これを活かす道が見えてくる。
「頭はよくならない」という絶望を反転させると、そこに現実に実現可能な希望が生じる。

「自分は本気出してないだけで、やればできるんだ」などという希望的楽観論からは、何も生じない。
もちろん、単なる絶望からも何も生じない。
それは現実的な絶望を見据えているように見えて、新たな現実を生み出す原動力にはなり得ない。
世間には絶望に耽ってばかりの人も多いようだが、それを「反転」して希望に変えないと、現実的には意味がない。
自分が他人より頭が悪いことを気にしても仕方が無い。
他人と自分を比べるのではなく、仮に同じ「自分」が10人いたとして、その10人の「自分」の中で一番になるにはどうしたら良いのか?と考えるのは、イイかもしれない(笑)

以上、友人の写真家たちと飲んで「絶望を反転した希望」の話をしたらぜんぜん通じなくて、「絶望したら終わりだし、糸崎さんもぜんぜん絶望した顔してないじゃん!」と言われてしまったので、一連の考えをまとめてみまた。

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