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2011年6月

2011年6月30日 (木)

人間の定義と愚者

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●「真実の言葉」とは多くの人達にとって「大きなお世話」なのであり、それが理由でソクラテスもイエス・キリストも死刑になってしまった。
いや、ソクラテスもイエス・キリストも自ら死刑を望んだんだけど、人間とは「そう言うもの」であることを知っていたのである。

●小出裕章さんの動画見て思ったけど、真に優れた人は、人間がどこまで愚かになれるかを十分に理解している。
そしてどれだけ相手が愚かでも決して怒らず、哀れみをもって(仕方の無い事として)許す。
愚かな相手に怒りをあらわにする人は、自分を含めた人間の愚かさが、十分に理解できていないのだ。

●「人間とは何か?」の定義を広く理解する人は、どんなに愚かな相手も「人間」として認め、その立場を尊重し、憐れみをもって赦す。
「人間とは何か?」の定義を狭く捉える人は、多くの人間に不満を持ち見下している。

●「人間とは何か」の定義を広い意味で捉えている人ほど多くの人々を愛し、それを狭い意味で捉える人ほど「自己愛」が強くなる。

●人は愚かであるがゆえに、愚かな行ないをするのか?愚かな行ないをすることによって、愚かな者になるのか?
自分の愚かさを直視すればそれだけ賢くなれるが、自分が愚かである事実は変わらない。

●芸術家であるならば、自分の愚かさを芸術に転化できるはずである。
芸術家の闘争が芸術になるなら、芸術家の反省も芸術になる。
ピンチをチャンスに変えるのがビジネスマンなら、ピンチをアートに変えるのがアーティストだ。

● 優れた芸術家は、悲惨で過酷な現実を直視し、その「反転」としての芸術を生み出す。
不幸な人間だけに芸術が可能なのではなく、不幸に気づいた人間だけが芸術を可能にする。
不幸を前提としなければ、「私は幸福です」と(デュシャンの様に)言うことはできない。

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2011年6月26日 (日)

「人識」と「虫識」

■写真は作品集『東京昆虫デジワイド』から抜粋
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フロイトは意識と無意識とを分けたが、これとは異なる区分として「人識」と「虫識」というのを考えてみる。
人間と昆虫は全く異質な生物ではなく、進化の系統樹の幹で繋がっている。
だから人間の意識の内にも、昆虫と共通の「虫識」は含まれている。

昆虫を観察していると、彼らは本能のプログラムに従って的確に作業(採餌、造巣、求愛、産卵など)をこなすか、もしくは何もせずじっとしている。
だから人間も、与えられた仕事を繰り返したり、ぼーっと休んでいる時の意識は昆虫と同じではないかと思い、これを「虫識」と名付けてみたのだ。

意識が眠っていて何も考えない状態の「虫識」に対し、覚醒した意識で理性的に思考している状態が「人識」である。
しかし例えばアリも観察していれば、左右のどちらに行くか迷って考えてるように見える時があり、アリにも「人識」があるような気がして愛おしく思えてしまう。

昆虫が「いかに生きるか」は種類ごとに「本能」という形でプログラムされている。
しかし人間にとっての「いかに生きるか」は本能で決められておらず、「言語」というツールによって自前でプログラムする仕組みになっている。
つまり「人識」とは、人間が「いかに生きるか」について考えている時の意識だとも言える。

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人間は常に「人識」に覚醒しながら「いかに生きるか」を考えているわけではない。
常時そのように頭をフル回転すると疲れ果ててしまう。
だから「いかに生きるか」のプログラムがいったん出来上がると、後はそれに従って何も考えない「虫識」によって日々を過ごすのだ。
これは考えるエネルギーの節約である。

昆虫の本能は言ってみれば「プリセットされた思考」であり、だから昆虫はこれ以上の考える能力が不要なのだ。
人間の「いかに生きるか」という思考もある程度蓄積されると、それが「プリセットされた思考」として機能する。
これを利用すれば人間もそれ以上の思考を節約し、「虫識」で過ごす事ができる。

人間にとっての「プリセットされた思考」とは「常識」とか「習慣」とか「世間体」などであり、これらは昆虫の本能と同じ機能(考えるエネルギーの節約)をもたらす。
昆虫は体の構造がシンプルで、本能的な「プリセットされた思考」も同様にシンプルで、そのような「節約律」は人間の意識にも共通に存在し、それを「虫識」と名付けてみた。

生物として「いかに生きるか」とは、「環境への適応」と同意である。
昆虫の場合「プリセットされた思考」により、環境への適応の仕方が固定されている。
しかし人間は、プリセットされない自由な思考により様々な環境に適応できる。
そして、そのための意識こそが「人識」なのである。

環境適応のための「人識」とは、開拓者の意識であり、子供の意識でもある。
好奇心旺盛な子供の目は、哲学者か科学者のように聡明に輝き「未知の環境」に真正面から対峙する真剣な表情を見せる。
しかし大人になるに従い目の前が「既知の環境」に覆れ、思考を節約した「虫識」で過ごせるようになる。

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「人識」とは人間だけの特性だけではなく、動物が「プリセットされた思考」をはみ出して環境に適応する能力だと考えてみる。
例えばコイに餌をやるとき手を叩くことを続けると、やがて手を叩くだけでコイが寄ってくるようになり、これはコイの「人識」の作用だと捉えてみる。

動物の「人識」は、哺乳類や鳥類など高等動物の子供に顕著に現れる。
生まれたままのイヌやネコの子供は直ちに独り立ちできず「人識」によって様々な事を学習し「いかに生きるか」を獲得する。
しかし高等動物の「人識」は、その自由度が「プリセットされた思考」によって制限されており、人間だけがその限界を超える。

社会生活を営むための人間のルールは、人工的に作られた「思考のプリセット」であり、それに従う人々の「虫識」によって社会は円滑に運営される。
もちろんそれだけでは社会は進歩せず「人識」が必要になる。
しかし「人識」だけで人間社会を成立させる事はできない。

人間の「虫識」は社会を安定して維持するのに必要な意識であり、「人識」は社会をより良く変えるために必要な意識であり、どちらが欠けても健全な社会は成立し得ない。
このことを個人に当てはめると、日々の生活や自己意識などを安定させるのが「虫識」で、それらを変革し向上させるのが「人識」だと言える。

本能的な「プリセットされた思考」を超えて思考し、未知の環境に適応する「人識」本来の属性が高等動物の子供にあるのだとすれば、動物行動学の観点から人間は幼型成熟(ネオテニー)なのだと言える。
人間の意識は本質的に「幼型成熟」ではあるが、大人になってからの成熟度合いには個人差がある。

動物行動学的に成熟した成人は、社会生活に必要なルールを学ぶことで、社会に適応した生活を送るようになる。
それはオオカミの成獣が自然環境を知り尽くしサバイバルするのと同じであり、正常な「虫識」の働きである。

動物行動学的に幼形成熟した成人は、子供の属性である「人識」を環境適応を超えて発展させ、哲学者や科学者や芸術家になる。
幼形成熟した成人は、ともすれば社会生活に必要な「虫識」の獲得が未熟で、社会との軋轢を生じることがある。

現代社会で問題になっているニートは、成熟して「人識」を失いながらも正常な「虫識」の獲得にも失敗している。
動物行動学的に見たニートは幼形成熟ではなく、成熟に失敗した成人なのであり、だから「治療」の対象だと言えるかもしれない。

もちろん「人識」だけの人、「虫識」だけ人、という具合に分かれるわけではなく、誰の内にも「人識」と「虫識」は存在し、そのバランス配分は各自異なっている。

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人間の「虫識」の原点は、自然環境に適応した動物の意識にある。
自然環境は基本的にに安定し変わることが無いため、一部の高等動物がごくわずかな幼少期に「人識」を働かせるのみで、大多数が「虫識」だけで生きてゆくことができる。

狩猟採集時代までの人類も、安定した自然環境に適応しながら何万年も同じ生活を続けてきた。
しかし農業を発明した人類は、自然環境に叛旗を翻し、自然を破壊して文明を築いた。
文明を発展させ拡大する為には「人識」を働かせる必要があり、文明を維持するための新たな「虫識」も必要になる。

自然環境は安定しているが、人間にとってそこは他の生物との闘争の場でもあり、誰もが安心して暮らしてゆける場ではない。
だから農業技術を手に入れた人類は、自然に依存しない「人工の自然」としての文明社会を築き上げた。

文明社会が安定すると、人々は自然に暮らす野生動物のように「虫識」で暮らすようになる。
そのように成熟した文明社会は、自然の脅威から隔絶された、安全で平和な人工の自然=ユートピアだと言えるだろう。

しかし「虫識」に偏りすぎたユートピアは、同時に危険性も孕んでいる。
「虫識」に偏りすぎている人は、動物のように「プリセットされた思考」を超えて思考することが出来ず、新しい環境の変化を認識することが出来ないのだ。
例えば何か天変地異が起きて環境が激変した場合、「人識」のキャパシティの少ない多くの動物は、新しい環境に適応できずに滅びるだろう。
そして同じことは「虫識」に偏りすぎた人間社会にも起こりうる。
それが311以降に明らかになった、日本社会の問題点だと考えることができる。

「原発事故」という未曾有の危機に対し、日本政府や東京電力は「想定外」を繰り返し口にしながら、その対応が全くできないままでいる。
多くの日本国民も同様で、事態の深刻さを認識しようとせず、「原発事故によって変わった新しい環境」に適応しようとせず、これまで通りの日常を送ることを強く望んでいる。
このような態度は「プリセットされた思考」を絶対に変えようとしない「虫識」の弊害であり、「人識」の欠如のあらわれだと言うことができる。

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人間の文明は「都市」を生み出すが、人間以外の動物のうちハチやアリ、シロアリなどの社会性昆虫も、人間同様に都市を形成する。
幾何学的に性然としたハチの巣や、農園や換気システムまでも備えたシロアリの巣は、虫の「虫識」が作り出した都市である。
もし虫それぞれが固有の「人識」を発揮してしまっては、大勢で協力して都市を築くことは出来ない。

この意味で「虫識」の原点を社会性昆虫求めることができる。
しかしこの概念をさらに延長させると、さらに遡って「動物細胞の意識」にまでたどり着くことができる。
たくさんの細胞で構成された動物の身体は、それ自体が一つの「都市」であり、身体を形成し維持するための遺伝的プログラムは、固有の「文明」だと考えることが出来る。
そして、ハチやアリやシロアリが築く都市(巣)はその「外部化」であり、人間の都市もまた同じだと考えられる。

動物の身体を構成している各細胞は、完全なる「虫識」により決められたポジションで決められた仕事のみを淡々とこなしている。
細胞の「虫識」とはおかしな表現だが、概念的にはそのように言うことができる。

ともかく、もし細胞が勝手な「人識」に目覚めれば、それは癌となってとしとしての人体を蝕んでゆく。
身体に癌が発生した場合、その他の正常な細胞は「虫識」しか持たないため状況変化に対応出来ず、もちろん逃げ出すことも出来ず、癌に侵された身体とともに滅びゆく。
そして「虫識」に偏りすぎた人々は都市の滅亡とともに滅び、「人識」のバランスを持つ人々だけが新たな環境へと逃げ延びることができる。

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いろいろな弊害をもたらす「虫識」ではあるが、基本的に人間にとって欠くことの出来ない要素である。
社会を安定し維持するには「虫識」の存在は欠かせないし、また社会生活を営むための「虫識」があってこそ、創造的な「人識」が成立しうる。

例えば規則正しく起床したり、部屋を常に綺麗に片付けたり、礼儀正しくふるまったり、これらは人間に必要な「良い虫識」である。
これに対し、解決しなければいけない問題を先送りにし、自堕落な習慣を繰り返すのは「悪い虫識」である。
そして「人識」の役目とは、「悪い虫識」(習慣や思い込みなど)を「良い虫識」に変えることにあると言える。

社会がいくら安定しても、さまざまな問題や矛盾が完全に解決されることは困難で、だから平和に安住せず「人識」を常に働かせる必要はある。
また、安定していると思える社会は常に破綻の可能性を孕んでおり、それを警戒し続ける「人識」も必要だと言える。
要は「人識」と「虫識」はどちらも必要な意識であり、各自各様にそのバランスを取ることが必要なのだ。

ぼく自身も「良い虫識」と「悪い虫識」とのバランスが適切とは言えず、大いに反省すべき所はある。
自分の中の「良い虫識」は大いに育み「悪い虫識」は虫下しする必要がある。
「虫識」は人間にとって必要な意識だが、それは「人識」によって管理しなければ意味が無いのだ。

しかし現代日本人の多くは「人識」に偏りすぎて、「人識」に支配されているのであり、そのことは「原発事故」に対する人々の反応に如実に現れている。
そう言うぼくも理屈では分かったつもりで、実際には自分の「虫識」をコントロールし切れず、この状態がなかなか改善できずに焦っている。

311の原発事故によって日本国は「虫下し」をしなければいけないのであって、ぼく自身も同じように「虫下し」が必要なのだが、これは相当に難しいことでもあるのだ。

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2011年6月20日 (月)

実家で読んでた本

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しばらく実家の長野市に行ってましたが、そこで読んでた本。
まずは母親に「どうしても読め」と薦められ仕方なく読んだ『潜在意識を変える 数霊の法則』・・・
作者の「吉野内聖一郎」の名前で検索して出てくるページを見ればどういう本かだいたい分かると思うのだが、
http://www.voice-inc.co.jp/content/goods/410
世の中に良くもこんな酷い本があったもんだと思うくらいの内容で、人のことを騙すんだったらもうちょっと巧妙にロジックを組み立てた方が良いと思ってしまうのだが、騙されやすい人に対してはかえって小細工などせずに、口から出任せをただ並べただけの方が、かえって分かりやすくて説得力を持つのかも?などと思って別の意味でベンキョーになるw
それとこの類の本は作者は違えど「数霊」とか「五次元」とか「宇宙意志」とか同じことが書いてあって、どうせお互いにパクリ合いをしてるんだろうけど、そうすると「どの本にも同じことが書いてあるから本当なんだよ」と騙される人は信じてしまう。
そりゃ、ぼくもプラトンとブッダと孔子が似たようなこと言ってて「なるほど」と感心することはあるが、それとこれとはまさに次元が違う。
母親も良くもまぁ、見事に同レベルのインチキ本ばかり選択すると思うけど、こういう本はどれも「悪い波動」が出てるのであり、似たような波動を持つものを惹きつけるのかも知れない。
ぼくなんかは読むだけで気分が悪くなり、良い本を読んで乱れた波動を整えたくなってしまうw
母親は子供の頃「勉強しろ」とかなりガミガミ言って、ぼくはその期待に応えられずにコンプレックスになっていたのだが、その母親がこんなにバカだったとは、自分自身のバカさ加減にほとほとあきれてしまうwww

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次に読んでたのが、高校3年生の甥っ子の現国の教科書(「探求現代文」桐原書店)なのだが、これが非常に面白くてハマってしまった。
小説や詩のほか、現代思想の論文も収めてあって、内容も教条主義的ではなくポストモダン的に考えさせるもので、深刻で根源的な問題を扱っていたりして、これをがっつり読めばかなり頭の良い高校生になれるだろうw
以前、甥っ子に見せてもらった「倫理」の教科書は内容は「思想史」だったが、この国語の教科書はちゃんと「思想」になっていて、そう言うこともちゃんと教えてるんだとあらためて感心してしまった(実際の現場は知らないが)。

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以前のブログに、この教科書に丸山眞男が載ってて驚いたと書いたけど、ほかにも村上陽一郎、小浜逸郎は好きで影響も受けてた。
しかしそれ以外はほとんど読んだことはなく、読もうと思ってまだ読んでなかった作者とか、名前も知らない作者とか、そう言った人の文章が一編ずつ読める本というのも、頭の刺激になってなかなか面白い。
それにしても、あらためて全部読もうとすると思想の論文に比べ文学や詩がどうも苦手で、内容が読み取れずについ眠くなってしまう。
で、それはどういうことなのか?ということが最後に掲載されている尼ヶ崎彬『こころとことわり』にちゃんと書いてあって、妙に感心してしまったw

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そして手島郁郎の本がたくさん・・・これはまだ冊子『生命之光』をちょっと読んだだけ。
実は昨年キリスト教の『聖書』を読んだら内容がほとんど分からず、かといって解説書がいろいろありすぎて迷っていたら、彦坂尚嘉さんが「手島郁郎が良い」とアドバイスしてくれたのですが、普通の本屋では今ひとつ売ってない。
と思っていたら、妹の旦那のお父さんが、手島郁郎が創立した無教会系キリスト教「幕屋」の信仰者であることが判明し、さっそくお話を聞きに行って本屋冊子もいろいろいただいてしまったのだったw
実際に読むと、手島郁郎の言葉はなかなか力強くて惹かれるものがある。
手島郁郎が目指した「原始キリスト教」の時代は立派な教会があるはずもなく、それは「原始仏教」の時代に立派なお寺があるはずもないのと同じで、そのように歴史をさかのぼる思考は日本人には珍しい「箒型(ササラ型)」であって、かなりがっしりした「骨」があるように感じられる。
これはもう、自分もクリスチャンになるしかない・・・と簡単には思えないけどw、「芸術とは何か?」は「宗教とはなにか?」ともつながってるわけで、その方面の研究はだいぶはかどるのではないかと思われます。

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2011年6月13日 (月)

色付き写実彫刻

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ぼくが撮った写真ではなく、友人が面白がって送ってくれました。

美術史家の高階秀爾は「写実絵画は平面で、写実彫刻は立体だが色彩がない。実物と次元を異にしてるからこそ芸術として意味があるのであり、だから色付き写実彫刻は芸術とはならない」というように書いてましたが、この定義を真に受けると、こんな風にされた芸術家はもうオワコン・・・まぁ、愛されているからこそなんでしょうがw

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現国の教科書に載ってた丸山真男

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長野の実家に帰省したら、甥っ子の現国の教科書に丸山真男『「である」ことと「する」こと』が載ってました…で、『日本の思想』読みながら思いつきメモの続き。

未曾有の危機に対し「自分にはどうしようも無い」と悟り、慌てず騒がず平常心に落ち着くのは、日本人的心のありかたの特色と言えるかもしれない。しかし「悟り」は本来「思考停止」ではなく「どうしようもない」と言う深い絶望が出発点の、到達し得ない「悟り」への道なのである。

現代日本人に特有の「無宗教」の正体は日本古来の神道かも…神道は絶対的な神を持たず、中心的教義も無く、様々な外来宗教の断片を雑多に取り入れ「内容」を埋めて来た。現代日本人も「無宗教」と言いながら、だからこそ無自覚に雑多な宗教の断片を寄せ集め、その信仰を頑固に守り「無宗教」だと居直る。

庶民的感覚を大切に、などとおだてられるといつの間にかコントロールされている…確かに庶民的感覚「も」大事だが、おだてに乗ってはいけない。あなたはセンスがあるのだから、自分の自然な感覚を大切にし直観を信じなさい、などとおだてられるといつの間にか可能性が潰されている。

日本の思想には古来から続く「伝統」が無いからこそ、西洋思想の断片が容易に取り込まれ「伝統」化する。それは外来思想である仏教や儒教についても同じなのである。

明治以後の日本人はそれまでの伝統を捨てて西洋化したのではなく、もともと捨てるような伝統を持っていなかったのであり、それが日本の伝統なのである。

古来、日本人は仏教を取り入れても仏教化せず、儒教を取り入れても儒教化せず、西洋思想を取り入れても西洋化せず、それが日本の伝統的なや八百万の神=現代の無宗教、なのかもしれない。

自らを「無宗教」とか「無思想」などと言う人は、「無」という言葉を冠することによって、実際には存在する自らの宗教や思想を「無いこと」にしているのであり、そのように「無い」はずの宗教や思想に知らぬ間に囚われる。意識出来ないものはコントロールできないからである。

日本古来の思想にはキリスト教のような強固な骨格がなく、伝統と新しい思想(外来思想)との対立や葛藤が無い。伝統に骨格がなく、何でも断片化し雑多に取り入れるのが日本の伝統。骨格のない伝統は軟体動物のように掴みどころが無い。明確に自覚できない宗教は反省も批判もできず、だから知らずに支配されてしまう。

よく言われることだが、ヨーロッパ近代はキリスト教のアンチテーゼとして生じた。ヨーロッパ近代はキリスト教という「鏡」を見て反省し続けるが、日本の伝統は「鏡」の役目を果たさない。日本人は反省の視点を欠いたまま、日本的近代を前進させてきた。

「自分がある」人は新しいものを取り入れるにしろ、否定するにしろ、反省的態度でそれに向き合う。「自分が無い人」は新しいものに無反省に飛びつくか、「小さな自分」を守り通すため断固それを拒否する。

明治以降の日本の芸術家には、俗世を嫌い、現象の世界を嫌い、概念の世界を嫌い、規範(法則)の世界を嫌う、と言う「伝統」がある。

理論をそのまま思想として信仰するのが「理論信仰」。実感をそのまましそうとして信仰するのが「思想信仰」。これは理論を信じたり、実感を信じることとは違う。

結局ぼくは「実感信仰」に囚われ、だから「実感」として理解可能な思想の入門書ばかり読んできた。こりゃマズイってんで読む本を変えてきてるのですがw

「実感信仰」に基づいて入門書読んで実感として納得すると、その理論を思想として信仰する「思想信仰」に陥る…という悪循環。これも断ち切って脱出しなければならない・・・

「理論信仰」をカメラに例えると、カメラの取説に忠実に従い、カメラ雑誌のお手本にも忠実に従い、そこからはみ出した工夫を一切しない態度…カメラや写真のマニュアルを「既製品」と捉える思考…「カメラはこうして撮るもの」という理論を思想化として信仰する態度…

「実感信仰」をカメラに置き換えると「押すだけカンタン」以外のカメラを受け付けない態度。「難しいカメラは扱えない」という実感が思想として信仰されている…

カメラには「実感信仰」に訴えかける機種と、「感覚信仰」に訴えかける機種の二種類がある。もちろんそのように「用意された信仰」に惑わされず、用途に応じて独自に使いこなすことも可能なはず…

例えば「芸術とは何か?」と言うテーマに対し「自分は芸術をこんな風にとらえている」と言うようなことを基準に考えると、人それぞれの芸術観が生じるわけで、これが「蛸壺型」思考。対して「芸術の概念は歴史的にどう形成されたか?」を考察し、その上で自分の芸術観を展開するのが「箒型」思考。

「蛸壺型」とは「考える=自分の胸に聞いてみる」という思考パターンで、「箒型」とは「考える=歴史を訪ねる」という思考パターン。これは考え方の癖の違いであり、どっちが優れてるわけではないのかも??いずれにしろ日本人の多くが「蛸壺型」で考える癖があり、「箒型」で考えるのが苦手…らしい。

先日、写真ギャラリーで行われた「風景写真」についてのトークイベントを見に行ったのだが、そこで「風景とは何か?」と言うテーマに対し、各自が「私にとっての風景とは何か?」を語っていて、なるほど「蛸壺型」だと思ってしまった…考える蛸、知的な蛸ではありますが…

各自が各様の「風景とは何か?」を語り、聞く人も各自にとっての「風景とは何か?」を考える・・・コミュニケーションとして言葉は交わされてるが、その場での共通見解というのはなく、各自各様に刺激や影響を受け、各自の心の内で考える・・・「蛸壺」にそれぞれの小宇宙がある…

「芸術」や「風景」ではなく、「この生物は何か?」を考えようとする場合、「まず歴史を尋ねる」という「箒型」思考の習慣は日本にも根付いている。生物の分類そのものが、進化論という「歴史」に基づいているのであり、そこを無視して「生物学」を語るとトンデモだと言われてしまう。

ある生物を見て「キレイ」「カワイイ」「キモイ」などの印象だけでなく、「歴史」にさかのぼって思考する習慣(分類学)を多くの日本人は体得してる。その反面、あるアート作品を見て「キレイ」「カワイイ」「キモイ」などの印象だけで済ませる日本人が圧倒的に多く、この違いはちょっと不思議…?

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2011年6月 9日 (木)

箒と蛸壺

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丸山真男『日本の思想』を読みながら、抜き書きや思いつきをメモするの続き。

イメージとは、人間が環境に対応するための潤滑油であり、現実からの急激なショックを和らげる効果がある…
イメージは現実のフィードバックとして常に修正され続け、これにより変転する環境に適応することができる。
つまり環境の変化に合わせ、「環世界」も変化させていかなければならない…

現実が複雑化した現代では、イメージと現実の食い違いを、感覚的に判断しにくくなっている。
イメージが現実から自律して、イメージが現実に成り代わる。
イメージの世界が現実以上に拡大する。
現実の環境と共に、イメージとしての「環世界」が膨大に構築される。
人は「体系的に反省されないイメージ」に囚われる。

マルクスについてのイメージが、マルクス本人から離れて一人歩きする。
そこでマルクス曰く「私はマルクス主義者では無い‼」

丸山真男の言うササラ型と蛸壺型文化について。
現代では「ササラって何?」ともはや通じないので「箒型文化」に置き換えた方がいいかもしれない?
要は末端が分岐してても根元は一つに繋がってるタイプの文化。
いっぽう蛸壺型はたくさんの蛸壺が独立して寄り集まってるタイプの文化。

日本に近代科学が移入されはじめた当時、ヨーロッパの学問はすでに細分化されており、日本人はそれを蛸壺型として受け取った。
しかし西洋の学問は先端は分岐しても根本で一つに繋がる箒型をしているのである。

ある写真展のオープニングパーティーで「現代アートの人は写真をわからないと言う」と言うことが話題になった。
写真の人も現代アートはわからないと言う人が多い。
これは典型的な「蛸壺型文化」で、欧米では箒の柄のように根本が「美術史」として繋がっている。

ぼく自身も「写真」を撮ってみて、写真家たちと「写真とは何か?」について語るのだが、お互い写真についての共通認識が「浅い」ので、議論の深度に限界があることを痛感してしまう。
アートや写真について、お互いそれぞれの認識や定義がバラバラと言うことは、共通した歴史認識が無いということ、アートや写真を歴史として捉えていないことの表れであり、日本的蛸壺文化の表れなのである。
日本のアートが世界に進出する場合、日本のアートシーン全体が世界に開かれるのではなく、それぞれのアーティストやギャラリストが、それぞれ独自のルートで世界とつながりを持つ…というのも蛸壺型文化の表れである。

歴史化されない知識は断片化されてしまう…
「芸術は、爆発だ!」は、歴史認識としての芸術の破壊であり、「芸術とは何か?」の断片化であり、芸術の無教養化だと言える。
「芸術は、爆発だ!」で芸術の教養が断片化されると、それぞれ多様化される様でいて「知識量」の観点では画一化される。
そして、同程度の少ない知識量を持つ者は、皆似たような考えを持つのである。

日本の思想は伝統として蓄積されない。
つまり思想が歴史的流れとして対象化されない。
そして同時に、断片化した伝統に知らぬ間に囚われてしまうのが日本人の特徴なのであり、それはアートや写真の分野にも表れているように思える。

丸山真男によると、日本人は新たな思想を自らの歴史認識に位置付けることなく、古い思想はどんどん捨て去り、新たな思想をどんどん取り入れる。
しかし国家的危機が訪れた際、捨て去った筈の思想が突然「思い出」されることがある。
そして現在の日本人は、第二次対戦中の思想を突然思い出している…

未知のものを、自分の分かる範囲に落とし込んで理解しようとする人は、自分とは立場を隔絶した他者がいるという認識が欠けているのであり、他者への尊厳の気持ちを欠いているのである。

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権利の上に眠る者

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丸山真男『日本の思想』(岩波新書)を読みながら、抜き書きや思いつきをメモしてみる。
Ⅳ章のタイトルは『「である」ことと「する」こと』
この章は講演録なので読みやすい。

「権利の上に眠る者」という言葉があって、催促を怠った金貸しはやがて債権を失ってしまうのである。
国民は主権者だが、主権者「である」事に安住し、権利を行使「する」のを怠ると、いつの間にか主権者でなくなっているかも知れない。
これが「権利の上に眠る者」。

日々の生活さえ安全に過ごせたら、物事の判断はひとに預けてもいいと思っている人にとって、権利を行使し自由を維持することは、甚だ厄介で面倒だ。
自分が自由人「である」ことを疑わない人は、自らの偏見から最も不自由であることに気づかない。
自分が自らの偏見にとらわれていることを自覚する人は、より自由になろうと努力する。

日々自由であろうと「する」ことによって、はじめて自由で「である」ことが可能になる。
民主主義も、ただ民主主義「である」だけでは形骸化し、不断に民主化「する」ことによって辛うじて成立するのである。

「である」理論・「である」価値から、「する」理論・「する」価値への相対的な重点の移動…
「である」という属性の価値から、「する」という機能の価値へ…
「である」社会ではずるい人はずるいままに、愚かな人は愚かなままに、それぞれが変わらずにいようとするのである。

制度の批判ではなく、制度をいかに活かせてないかを問題にすべきである。
危機管理は「する」思想の産物であり、従って「である」思想に危機管理は存在しないのである。

良い人か?悪い人か?ではなく、良い行動か?悪い行動か?で判断しなければならない。
少なくとも菅さんや枝野さんは「悪人」じゃないだろうし…

道具には道具であることの魅力と、道具としての利便性と、二つの要素が含まれる。
カメラマニアはカメラ「である」ことにウットリし、写真は撮らない。
カメラマンは撮影「する」ことだけに集中し、カメラはなんでも良いと思ってる。
ぼくはどっちも重視するけどw

「状態」と「過程」…例えば金属製フィルムカメラは「状態」で、プラ製AFカメラは「過程」であり、昨今のデジカメは「状態を装った過程」なのである。

理想的状態を神聖視するような、「状態的思考」が存在する。
安全装置を設置したらもう安全だ、と考えるのは「である」思想の産物で「状態的思考」だ。

綺麗だった湖が汚れるのは、外部から汚れがもたらされるからではなく、浄化装置が作動していないため。
綺麗な湖は、混じり気のない綺麗な水で満たされているのではなく、様々な生物が日々浄化し続けていることで維持される。
日本の民主主義には「綺麗な湖」にあるような「生態系」が存在しない。
人々は湖の浄化に参加せず、ヘドロとなって沈殿してるだけ。
民主主義社会という「綺麗な湖」において政治に無関心な市民はヘドロとして沈澱する。
ヘドロの堆積が増えると「綺麗な湖」はその呼び名のまま形骸化する。
民主主義社会の政治は政治家の領分ではなく、政治が遍在しているのが民主主義社会なのである。

「である」思考と「らしく」道徳…
政治家「である」人は政治家「らしく」ふるまうべきで、庶民「である」人は庶民「らしく」ふるまうべきであり、それ以外何もかえる必要ななく、変えてはならないのである。

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2011年6月 8日 (水)

伝統の端末としての個人

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●文明とは伝統に対する再解釈の連鎖として発展する。宗教も哲学も、芸術もまた同じ。

● T.S.エリオット『伝統と個人の才能』によると、アーティストになるための最低限必要な歴史的意識、というものが存在する。

● 歴史を学ぶことで単一の個性が滅却され、芸術家としての「自由」を手に入れることができる。平たく言えば、様々に異なる要素を組み合わせた、自在な表現の可能性を手に入れることができる。

●芸術は進歩しないが、時代によって芸術の素材だけが変わる…

●芸術家が進歩するためには、自らの個性を否定しなければならない。芸術家にとって単一の個性に縛られるほど不自由なことはなく、その状態はやがて芸術家としての死をもたらす。

●伝統はその形式を表面的に繰り返すだけでは意味がない。伝統の意味は多様であり、その再解釈こそが想像行為である。あたかも、ユダヤの律法を表面的に守るパリサイ人を批判し、律法の真髄を再解釈したキリストのように。

●…あるいは伝統から逃れようとする人は、人間に備わる本能に絡め取られてしまう。

●人は誰でも「伝統」から逃れることはできない。それ故に、伝統から逃れようとすればするほど、伝統に絡め取られてしまう…

●人は誰でも人類史の「端末」として機能する。美術家は誰でも美術史の「端末」として機能している。しかし人はつい自分自身が「全体」であるかのごとく勘違いしてしまう。

● 銀塩カメラは現像やプリントを含めたシステムの「端末」として機能し、デジカメはパソコン環境を含めたシステムの「端末」として機能する。

●カメラ好きの人間はつい、「端末」に過ぎないカメラそのものを「全体」であるかのごとく勘違いし、それを愛でる。「アーティストとしての自分」に対しても同じことが当てはまる…

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2011年6月 6日 (月)

夢幻を維持するシステム

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Sat, May 21

11:54 大乗仏教の何たるかを知りたくて、中村元の『龍樹』を昨年読みかけたのだが半分で挫折…宗教と言うより難解で本格的な哲学と言う感じでほとんど理解できず…大乗仏教は広く民衆に説かれるものでわかりやすいのかと思ったら、全然違ってた…プラトンやスッタニパータの方が断然分かりやすい…

12:01 『龍樹』は中村元さんによる解説書だが、巻末に龍樹の書いた「中論」の現代語訳が載ってるので最近はそれを読んでる…やはり難し過ぎてほとんどワケワカメだが、量も少ないので少しずつ目を通してる…しかしふと同じ巻末にある「大乗についての十二詩句篇」読んだら分かりやすく、しかも4頁しか無い!

12:22 「大乗についての十二詩句篇」読むと、龍樹の思想は構造主事に近いかも?というか、それしか取り付く島が無いw 構造主義は物を実体として捉える事を否定した関係論だから「空」の教えと近いかも? 昨日ガイガーカウンター測定しながら読んでた…「現実」が危ういからこそ「空」の教えが沁みる…

12:46 まぁ「現実と思えるものは全て夢幻に過ぎない」と言う思想は龍樹に限らずプラトンも荘司も指摘してて、構造主義はその延長に過ぎないのかも? そして311の原発事故は、強固に思われた現代の日常も夢幻に過ぎない事を、ハッキリと示し我々に突きつけた…いや、そう思わない人は別ですが…

12:46 現代文明成立以前の世界は、人類のもろもろの技術は拙く、人々の日常も脆く崩れやすく、それが夢幻である事がよりわかりやすかったのかも…と考えると、現代文明とは夢幻である日常を、より安定して強固に維持してゆくためのシステムだったのかも知れない…

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時代を超える「墓アート」

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Tue, May 17

14:46 『体系世界の美術3 エジプト美術』見てるけど、レリーフが美しい…精緻な写実と様式美の融合で、人間的「理性」を表してる?横向きと前向きの人体を融合させたキュビズム的表現も面白い。レリーフは平面と立体の中庸で、描かずに影を作り出し、耐久性も高い。

14:50 古代エジプトのレリーフは墓の内部に掘られてる…と言うことは「目の前の他者」ではなく「大文字の他者」に向かって作られている。「大文字の他者」とは「神」もそうだが、遠い未来のわれわれ日本人も含まれる。

14:54 お墓の内部に飾るアート、ってデュシャンが言った「箱の中にタイプライターを入れて川底に沈め、数百年後に発見されたら…」という想像に似てるかも知れない。

15:01 自然は様式と混沌が混在していて、そこから様式だけを抽出し、さらに理想化するのが人間の理性であり、芸術の根源なのだろうか?

15:07 混沌を漫然と眺めるのではなく、そこに隠された対称、反復、入れ子、などの「様式」を見出すのが理性の働きであり、それが芸術の根源であるとともに、科学の根源なのだろうか?

15:14 古代エジプトにも美術があったと言えるなら、古代エジプトには科学もあったと言えるだろう。そして古代エジプトの科学は、古代エジプトの美術として実現されている。古代エジプト美術の様式美は、古代エジプト科学の現れ…そもそも科学なくしてピラミッドは建たないしw

15:21 国を象徴する一番立派な建築物が「墓」ってのは現代人とはセンスがだいぶズレてる…と考えると面白いかも?日本も原発の廃墟だけ残して、古代エジプトみたいに滅びるかも知れない…歴史的には何度も起きてる当り前の事…

15:34 アーティストとか言って作品作っても、どうせ自分が死んだらほとんど全部が失われ、やがて忘れ去られてしまう…だったらむしろ古代エジプトのように、墓に入れるためのアートを作ったほうがいいかも知れないw 時代を超越するための墓アート…これはイケルかも!

15:44 いや、ツタンカーメンの棺はアートの王道…しかしそうなると墓荒らし対策が深刻になる…歴史的にはピラミッドが先で、現代の美術館とは「監視員のいるピラミッド」なのかも? RT @capsulemonster: アウトサイダーアートになっちまいます。。。

16:53 美術全集見てると美術史にチューニングが合ってくるし、プラトン読むとギリシア哲学にチューニングが合ってくる。要はチューニングを合わせる事で、チャンネル数が多い方が自由度が高くなる。

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絵画と擬態

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Fri, May 13

11:05 『原色日本の美術13 障壁画』見たけど、襖に金箔貼って、そこにツギラマ貼るのは面白いかもしれないw まぁ、そう言う納入先があればの話だが…

11:12 優れた障壁画は、水や動物はもちろん、植物や岩石など止まっているはずのモノが全て動いて見える。芸術の本質の一つが錯覚にあるのだとすれば「同感」の有無は芸術の良し悪しを見分ける要素になる…と書いてみると当たり前かw

11:20 構図によって、止まっているモノが動いて見える…構図は模様の一種で、止まっているのに動いていると見せかける擬態模様なのか? 絵画の元型の一つは昆虫など生物の擬態模様で、「絵画を何に擬態させるか」に人間の精神があらわれる?

11:26 網膜像は常に動くが、全ての模様は静止している。

11:32 模様の良し悪しとは一体何か?写実絵画の良し悪しは「網膜象に似る」が基準になるが、模様的な要素である構図とか色彩とかデザインとか、その良し悪しの基準は何なのか?…

11:39 水墨画にも障壁画にも、縦方向のメタモルフォーゼが多用されている…映画のアナモフィックレンズの様な?あるいは映画のパンニングの効果…いや映画のパンニング自体が感が鑑賞の視点移動のシミュレーションなのか…

11:42 人間は自然には存在しない模様を次々に生み出す…

11:49 人間は網膜に映る「模様」によって世界を認識する。

11:51 人間は網膜に映る「模様」を「世界」と勘違いし、「模様」についての詳細な分析を試みる。

11:54 人間の目に映る「模様」は、身体の動きと連動しながら変化する。

14:49 純粋芸術、芸術の純粋主義、と言う考えは果たして妥当なのか?自然環境から切り離された純粋培養の生物が生気を失ってしまうように、芸術も宗教やお金にまみれてこそ生き生きできるのかもしれない。

14:58 近代個人主義とか、世の中ではもうとっくに終わってるのに、芸術家だけがいつまでもそれを守り続けている…ぼくもそろそろ終わりにしたいかも。

15:34 生物の「模様」には擬態的な「欺く」効果の他に、花がチョウを引き寄せ、メスのチョウがオスを引き寄せる、「引き寄せ」の効果がある。しかし人間は自らを欺くものに引き寄せられ、それも芸術の要素と言えるかも知れない。

15:53 直接的な刺激をただ繰り返すことと、上昇し発展することで得られる刺激は、区別されなければならない。

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洞窟と網膜

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Thu, May 12

19:34 『大系世界の美術1 先史・アジア・オセアニア美術』見てるけど、ラスコーなどの洞窟絵画は普通に上手い…自分の「網膜」なんて意識してないはずなのに、網膜のごとく立体を平面に投影する発想が生じることが不思議…道具とは身体機能の外部化である、がよく分かる。

19:44 旧石器時代の洞窟画は写実だが、中石器時代の極北美術はデザイン的、イラスト的になる。デザインは元は生物の身体デザインや模様であり、これが「網膜像」と融合すると、デザイン的なイラストになる。

19:50 先史時代の写実的な洞窟絵画は、達筆で洗練されたデッサンに見え、素朴さは無いように思える。しかし非写実的な絵画や像は、デザインとしては素朴で洗練されてないように思える。そう思うとちょっと不思議…

20:04 原始絵画は「牛」や「人」などのモノだけが描かれており、網膜像そのものの写ではない。それは網膜像と、デザインと、言語の融合で、それが芸術の三元素…などと思ったり。

20:56 見えてるのに「どう見えてるのか?」が人間自身に分からないのも不思議…だから網膜像から離れた絵画が生じる…人の体は人の意識を騙します…RT @bOshita: 情報の処理、つまりこんなふうに見えているという感覚を一旦離れたとは別のものを記録、表現したとするとすごいことだなあ。

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水墨画とか城とか

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Thu, May 12

10:51 今日も図書館で『原色日本の美術』を順番に見てるが、次から次へ刺激が強過ぎて疲れる…「11水墨画」まで見たが、雪舟凄すぎだけど、宮本武蔵もうま過ぎなので驚いた…やはり人格は作品に出るのか…

10:56 あと、最近盆栽に興味持ってるのだが、そういう目で水墨画を見ると、いたるところに盆栽の原形が描かれている…いわば自然らしさを理想化した木の姿…これを鉢の中で実現すると盆栽になる…フラスコの中の実験の様な?狭義の盆栽は明治に誕生したので、科学的思考があるかもしれない…

11:08 ところで、昨日見た「8絵巻物」はまるでマンガみたいだが、しかしマンガそのものではない。そう思うと、現在われわれが当たり前のように見てるコマワリとフキダシ付きのマンガ形式が、ごく最近成立した事がかえって不思議に思える。歴史的に何の普遍性も無いマンガという形式を、なぜ自然に受け入れられるのか⁉

11:17 あと、同じ8巻にあった鳥獣戯画のレベルの高さは凄すぎる…動物デッサンとして破綻がなく、人物デッサンとしても破綻がなく、これぞ「中庸」の教えと言えるのかもしれない…

11:27 「13禅寺と石庭」、禅も全然知らないので勉強したい…石庭とはインスタレーションで竜安寺石庭は抽象美術…なんでも過去にあるのだが、現代のアートは思想的バックグラウンドから切り離された自由がある。とされてるけど、獣のようにただ解き放たれただけで「人間の自由」と言えるのか?みたいなw

11:56 「12城と書院」見たが、日本の城と言えば姫路城…という常識も知らなかったw松本城だけは去年見て、中にも入ったけど、無骨で軍事施設と言った感じでカッコよかった…

12:09 三渓園の聴秋閣も去年見たが、京都の二条城内に建てられたのが、その後、江戸、東京、神奈川と移築されたそうだが、建築ってこんなに遠くまで何度も移築されるのか…と改めて思ったり。

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プラトン『国家』メモ

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Thu, May 12

17:06 犯罪がバレると、その者が「不完全で未熟な犯罪者」であることも同時にバレる。

17:07 政治家の悪口を言う人は、自分が政治家にならなかったために、自分より劣った人間に政治を任せなければならない、と言う罰を受けている。

17:16 政治家が受ける本来のご褒美は「愚かな人間に政治をさせなくて済む」以外には無いのである。

17:20 人は見かけによらないが、悪い人は自分を見た目で判断させようとする。

17:26 不正な金儲けを糾弾することと、不正そのものを糾弾することは異なる。不正な金儲けは羨む者はいても、不正そのものを羨む者はいないからである。

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『原色日本の美術』を見る

Sr8570586

Tue, May 10

14:31 真面目に美術の勉強をやり直そうと思って、ここのところ図書館で小学館『原色日本の美術』を1巻から順に見てる。今日は6巻から…テキスト飛ばして眺めらるだけでもけっこう時間がかかるw

14:37 仏教美術は、仏教のことが分からないと、見ても分からない…初期仏教は経典読んだけど、偶像も芸術も否定してる。大乗仏教も学ばないと…

14:43 仏教美術もキリスト教美術も、その宗教を知らなければ見ても分からないワケで、つまりはコンセプチュアルアートなのである。しかしそもそもコンセプト無しの純粋アートはあり得るのか?「純粋」だってコンセプトだし。

14:55 美術作品にとって、宗教や哲学や思想などのコンセプトが不可分なのであれば「コンセプチュアルアート」という言葉はヘンでかもしれない。そして、今時の感覚重視のアートは「ノンコンセプチュアルアート」という固有のアートとして捉えると良いのかも?

15:04 仏像のふくよかで、厳かで、落ち着いた顔の写真をたくさん見てると、そういう顔つきに「思想」が現れてるように思えてくる。仏像の顔によって、そこに現れる「思想」を見る人に体現させようという…キリスト教美術もそうだろうけど、美術とは本来そう言う「機能」を負ってると言えるのかもしれない。

15:08 現代の日本では、仏像の顔に現れるような「思想」や「哲学」がすっかり廃れてる。仏像の顔に現れているような心情に、自分もなろうと思う人は誰もいない。特に日本のエライ人達にw

15:13 昨日読んでたアリストテレスの解説に「不動の動者」とあってナルホドと思いました。http://ow.ly/1sT0yw @capsulemonster 匿名性(アノニマス)、第四人称、主観と客観、その呼称は別として、様々な作家が求めようとしてなし得ない表現、僕は『神の視点』だと考えています

15:18 その通り、「感覚重視」「できるだけ考えない」「考え過ぎはダサい」など、コンセプトでガチガチに固められてますw RT @ataru_mix しかしそれも「感覚重視」というコンセプトになってしまうという…。

15:25 「神様の視点」を求めるなら、宗教の勉強は欠かせないと最近気付いた…ここをゆるく考えると「呪術」になる…日本特有の「無宗教」も呪術の匂いが…「呪術アート」も良いですがw…RT @capsulemonster 様々な作家が求めようとしてなし得ない表現、僕は『神の視点』だと考えています

15:39 美術の本質が「宗教美術」だとしたら、作品とは作者の宗教観の反映であり、それは見る人の宗教観と響き合う。宗教という言葉に違和感があるなら「哲学観」「思想観」でもいいかもしれない。人の重さでアートの重さも測れる?重いアートばかりでももたれるから、軽い人の軽いアートもまた良し。

16:13 そう言えばマンガって文字が読めなければ意味も分からないけど、これって宗教美術やコンセプチュアルアートとどう関係してるんだろうか?「原色日本の美術」で仏画を見ながら、ふとマンガみたいだなと思ったので…

16:29 仏画にはぼくにはよく分からないがストーリーが描かれていて、マンガみたい。その点はキリスト教美術も同じですが。しかし宗教はストーリーではなく、その「向こう」に示される。いやマンガや小説の真髄も、決してストーリーそのものでは無いと思いますが…

16:35 アート作品に表れるイメージやストーリーは「媒体」に過ぎず、では「何の」媒体なのか?を考えるのが、アートなのかもしれない。

16:42 仏画は世俗画と異なり、宗教的な神聖な用途に使われる。難解な現代アートも、世俗アートとは異なり「現代アート」という宗教の、神聖な用途のために存在するのかもしれない。

16:47 一般に難解だと言われる現代アート作品は、世俗画とは異なる「聖画」なのかもしれない。つまりそれを理解するには「現代アート」という宗教に、ある程度以上コミットする必要がある。

16:51 質の悪い仏画は「生気を欠いている」と解説されてる。現代の聖画である現代アートにとっての「生気」とは…?

17:45 今日は『原色日本の美術7・仏画』しか見られなかったが、だいぶ頭がスッキリと晴れ渡った感じ。と言うか、いろいろ見て知った分だけ脳内空間が広がる。世界は広く、だから脳内空間も広げないと!

17:54 「見る」ことに関して、ぼくは「路上」をじっとりと見続けてきたので、その意味ではだいぶ「目」を使ってきたと言える。しかしいくら「路上」を見続けても、それは「教養」として蓄積されない。もちろん教養だけが重要では無いだろうけど…

18:02 「教養」とは何かと言えば、経験や知識の共有生でしょうか?アートを見た経験や知識は他人と共有できるわけで、そうした教養を媒介に他人とコミュニケーションできる。その意味で、ぼくの自然観察の経験も教養だと言えるだろう。しかし「非人称芸術」を見ることの蓄積は、教養とは種類が異なる。

18:08 まぁ、教養を身に付けないと「非人称芸術」とは何なのか?果たしてそのコンセプトに妥当性があるのか?ということは分からない。だからアートの勉強をし直してるんだけど、そうなると非人称芸術とかどうでも良くなってきてwいや、それくらいの意識がないと難解なアートは理解出来ない。

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『孟子』メモ

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Tue, May 03

19:31 『孟子』読み始めたけど、初っ端に「王様や役人や庶民の誰もが自分の利益を貪り、仁義を忘れていると、必ず国家は滅亡してしまう」というような事が書いてある…ニッポンオワタ\(^o^)/

19:45 「五十歩百歩」は孟子の言葉だったのか…これマメなw

20:20 孟子が王様に「民が餓死しても、“自分の政治が悪いのではなく、飢饉が悪いのだ”とすましているのは、自分が他人を刺しておいて“殺したのは刃物だ”と白々しく言うのと同じです」みたいに説いていて、泣けてくるw

20:53 技術は進歩しても歴史は繰り返す不思議…

22:07 力が出せるのに出し惜しみ、見えているのに見えないフリ…あれができるならこれもできるハズ…と、孟子さまが申してますw

Wed, May 04

14:42 アーティストがアートによって民を幸福にする立場なのであれば、孟子の王に対するアドバイスも役立てることができるかもしれない。

15:38 民主主義では誰もが君主で同時に民だから、儒教の君主論は役に立つ。これ豆なw

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知識の骨格

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Fri, May 06

15:39 正直者は馬鹿の代名詞。

15:39 正直者が誠実とは限らない。

15:42 怠惰であっても正直にはなれるが、努力しなければ誠実にはなれない。

15:43 正直は怠惰のあらわれであり、誠実は努力の産物である。

16:48 「知識の骨格」が形成されてる人はフレキシブルに行動できるが、それができてない人はその場でグニャグニャしてるだけ…

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2011年6月 5日 (日)

極端と中庸

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Sat, May 28

11:23 @asakasaku さんのリツイートを連続したけど惹かれる…いろんな立場や見解があるのでさまざまな「極端」を取り入れ自分なりの「中庸」を探るしかない。 尊敬する @tokaiama さんと @iiyama16 さんが仲悪いのもw双方「極端」だから。もちろん、ぼくの中庸も他人にとっては「極端」になる。

11:51 誰の考えが「極端」なのか?ではなく自分にとって他人の考えは全て「極端」でしかない。だから誰か特定の人の考えだけを採用すると、自分が「極端」に偏ってしまう。さまざまに異なる「極端」を取り入れ自分なりの「中庸」のバランスを取るのは、いろんな種類の栄養を摂り健康のバランスを取るのと同じ。

11:54 自分にとって他人の考えは全て「極端」でしかない。という考えもずいぶん「極端」だw

11:57 「中庸」とは何も自分オリジナルの考えである必要はなく、「中庸」の結果、誰か特定の人の考えを採用するのは良くあることだと思うし、けっきょくのところ自分もそうなってるっぽい。

12:02 自分がいわゆる「反原発カルト」で、放射能の危険を煽ったりするのが自分の「趣味」であることを自覚すれば、その限りにおいて暴走せずにコントロールできる…ハズである。

12:30 危機感を煽る人は、実際に危機が起きることを待ち望んでいる…と内田樹さんも書いてた。もちろんぼくも待ち望んでるし、せっかく買ったガイガーカウンターの数値が上がると興奮するwとは言え同時に恐ろしいと思うし、何事もないことも望んでるし、そう言う「矛盾」を自覚する必要はあると思うわけです。

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写真の歴史は美術の歴史

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Tue, May 31

17:31 近所の図書館で『大系世界の美術』全巻ざっと見終わったが、美術の歴史とは何のことはない、それ即ち「写真の歴史」だった…!という事にようやく気付いた。これも最近自分で「写真」を撮るようになった事の効果と言えるかもしれないw

17:35 現代の写真術が発明される以前、人々は仕方なく手で「写真」を描いていた。だから写真術の発明以前から「写真」は存在し、美術の歴史とは即ち「写真の歴史」なのである。

17:43 画家は目で見たものを心に浮かべ、それを描く。画家は目で見たもの以外、描く事ができない。つまり全ての絵画は「写真」なのであり、例外は存在しない。いや例外をあぶり出すには「例外はない」と方法論的に断言する必要があるw

17:47 カメラで撮った「写真」は簡単に嘘を描くが、画家は目で見たもの以外に描くことができす、従って嘘を描く事ができない。

17:52 全ての絵画には「写真的真実」が現れている。画家がどんな嘘やデタラメを描いたつもりであっても、その原理から逃れる事は出来ない。

18:05 画家の能力とはデジカメの性能の様なものである、という事がPENTAX645Dを使ってみて改めて分かったw というか、画家をそれぞれ「デジカメだ」と思って見るのは面白い。ダヴィンチとルノアールでは画素数はもちろん、画像処理エンジンがずいぶん違うとか…w

18:46 最近までのぼくは「写真が絵画の真似をするのは馬鹿らしい」と思ってて、ホルガ的な写真にも否定的だっんですが、そうじゃない事がだんだん分かってきましたw RT @nonojinahito 印象派はホルガですね。

02:26 美術史に限らず、歴史という光は現在から過去へと逆向きに照射される…RT @qoke_07: 絶対逆w RT 画家の能力とはデジカメの性能の様なものである、という事がPENTAX645Dを使ってみて改めて分かったw というか、画家をそれぞれ「デジカメだ」と思って見るのは面白い

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誤植と悟り

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Wed, May 25

10:09 PENTAX645Dは路上でも軽快、快調にシャキシャキ撮れる。撮影が楽しくなってどんどんシャッターを押してしまう。と言うか、シャッターの感触が依存症を引き起こす…もうすっかり手放せなくなってしまったが、終末には返却しないといけないw

10:25 誤植してた…終末って…その時はカメラどころか「全部」返さないといけません…

10:31 全ての持ち物はレンタル品であり、それどころか人間の全てがレンタル品だったのか…死んだら全部返さないといけない!

10:34 ブッダの教えとは、全てはレンタル品であり、だから執着してはならない、と言う事だったのか…

10:39 言葉とは本質的にレンタル品で、言葉を使った思考もレンタル品で、「自分の言葉」などと言うものはない。

10:47 「自分の言葉で語る」とはレンタル品である言葉を「使う」事であり、いっぽう「自分の言葉で語りなさい」とたしなめられる人は、レンタル品である言葉を持ってはいても「使ってない」。パソコンも持ってるだけで使わない人はいくらでもいるわけで、それと同じこと…

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裸の王様とソクラテス

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●自分がつまらないと思ったアート作品を「あんなのはつまらない」と言い切って良いのか?自分はつまらないけどみんなが絶賛している作品を「自分には分からないけど良い作品なんだ」と判断して良いのか?アートにとっての良し悪しやその理解には、いろいろ「分からない」事が多すぎる…

●裸の王様的な、「これを評価しないとセンスが無いとバカにされる」という緊張感漂う作品がアートにはある。とは言え子供が「こんなのアートじゃない」と言って大人が目覚める事はあり得ないが…

●「王様は裸だ!」と純粋な子供が言えば大人はみんな目を覚ますが、ソクラテスが同じような事をアテネ市民に向かって訴えたら死刑になった。裸の王様的アートがあるとして、それを指摘し人々を目覚めさせるのは誰の役目か?まぁしかし「王様は裸だ!」と叫ぶ前に、自分も裸かどうか確認してみた方がいいかもしれないw

● ソクラテスの時代のアテネも、現代日本も、民主主義社会で「王様は裸だ!」と言えば、それは一般民衆を指すことになる。そして311以降の日本では「王様は裸だ!」が否応もなく明らかになった。自分の家来に裸のまま見捨てられる王様たちが続々と…民主主義社会とは、大勢の王様たちをごく少数の家来が支配し搾取する社会だったのか…⁈

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2011年6月 4日 (土)

夕べの反省・自然体と無責任

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夕べは写真家たちと集まって飲んでいたのだが、気づくと真正面にいらした写真家の大先輩に対し「大声で罵声」を浴びせ周囲を騒然とさせ、反省している。
いやぼく自身も直後に反省してすぐ先方に謝罪し、相手の方も本来はおっとりして心の広い方なのですぐに許していただけた。
また、周囲もシャレの分かる連中だったので「再臨界した!」とか「冷却装置が失われた!」とか「非常用ディーゼル作動!」などとはやし立てたりして、ドン引きせずに面白がってくれたのが救いだったと言えるかもしれない。

というわけで、ぼくが思わずキレてしまったのは原発と放射能関連の話題だったのだが、その時点では冷静に考えて意見を言ったつもりが、今朝になって思い出そうとするとディテールがほとんど失われて、やっぱり酔っぱらいすぎていたのだと我ながらあきれてしまう。

それでもいちおう思い出しながら整理すると、まずきっかけは相手の方に「糸崎さんのブログは教条主義的で全く面白くない」と批判されたことだった。
これはあくまで「きっかけ」であり、その事自体に腹が立ったわけではない。
しかし今思えばあえて「教条主義的」に考えると、『論語』『大学』『中庸』の儒教書を読んだぼくとしては、年長者はそれだけで尊重しなければならないのであり、口答えなどもっての他だった。

年長者は自分より長く生きている分「より多くのもの」を持っているのであり、年下の自分はは常に教えを受ける立場にある。
だから自分の分をわきまえ年長者の言葉に素直に耳を傾ければ、何かしらの「教え」を受けることができるはずである。
夕べの先輩の言葉も、冷静に考えれば自分にとって十分身になる「教え」なのであり、はじめからそれを意識しながら話を聞いていたならば、なにも「キレる」という失態を晒すこともなかった。

それで、ぼくがあらためて先輩から学んだことだが、まず人間には「自然体」という生き方がある、ということだ。
そして恐らく日本人の多くが「自然体」で生きているのであり、その事自体は「尊重」しなければならない、ということである。

「自然体」に生きると言うことは、「あるがまま」を受け入れ「なすがまま」にまかせて生きると言うことだ。
そして実は、これは言葉を変えると「無責任」に生きることでもあるのだ。
「自然体」に生き、全てが自然のあるがまま、なすがままであれば、そこに「自分の責任」が介在する余地はない。
あるがまま、なすがままに生きる中に「責任」を持ち込むと、その「自然な流れ」がせき止められ、淀みが生じてしまう。
そもそも「責任」とは人間だけが負えるものであって、野山に生きる野生動物に「責任」という概念は当てはまるはずもない。
人間だって「自然体」に生きることにより、「責任」という不自然で人工的な概念から自由になれる。
「無責任」というとネガティブなイメージだが、実はそれは「自然体」というポジティブな生き方なのであり、尊重しなければならない。

だから「無責任」だと思える相手を「無責任だ!」と責めたところで意味はない。
相手はまず「自然体」という「善き生き方」を選択しているのであり、それに伴う「無責任」を問題にしたところで、その意味を伝えることは不可能なのだ。
つまり「責任」を重んじる人と、「自然体」で生きる人は立場が全く違うのであり、従って論争は無意味で、相手の立場を認めて尊重すべきなのである。

相手が「自然体」に生きていると考えれば、先輩がぼくのブログを「教条主義的でつまらない」と思う気持ちも理解できる気がする。
自然体のあるがまま、なすがままにまかせて生きる人にとって、それ以上どんな理屈を付けたところで無意味であり、全ての小難しい理屈は「教条主義的」と解釈される。
言ってみれば、それが「自然体」に生きる人にとっての「教条(ドグマ)」なのかも知れないが、それこそが「余計な理屈」なのである。

それで、夕べの具体的な論点を思い出して書くと、「放射能汚染地域から子供を避難(疎開)できないことに、親の責任はあるのか?」と言うことがひとつ中心で、ぼく自身は「ある」と主張していた。
いや、未婚で子供いない立場のぼくが「親にも責任がある」と主張するのは「無責任」と言えるかもしれない。
しかし、ぼく自身は原発事故が起きる以前、「原発が危険だ」という噂を小耳に挟んでいながら、ほとんど無関心でいたのであり、そのような人々の無関心がこの度の原発事故の一因になった、と言う意味での「責任」は感じているし、それ以外にもさまざまな「責任」に関与してるはずである。
いずれにしろ各自が原発事故に関する「責任」を感じ、プレッシャーに感じることで、それが状況を良い方向へと変える原動力になるはずだ、とぼくは捉えている。

これに対し先輩は「親が子供に対しどうしようもない状況があって、何でそれに対し親が責任を感じなきゃならないの?」と不思議そうな顔をしておられた。
そこでぼくは「そんな無責任な態度では、状況を積極的に好転させることはできない」と言うように反論してしまったのだが、お互い前提が違う以上、言葉がかみ合うわけもない。
いずれにしろ相手が「善き生き方」として採用したものを、自分の一方的な価値観で批判することはできないのだった。
もちろん、「責任」を重んじるぼくとしては、どのような批判も甘んじて受け入れるつもりだが、しかし「批判」を受け入れるつもりがない人を批判するのは無意味であり、そのような相手からの批判は「教え」として尊重するしかない。

などと、丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)に書かれたことの具体例として考えてみたのだが、この本は文体が硬くて非常に読みにくく、なかなか理解できないでいるのだ。

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