■写真は作品集『東京昆虫デジワイド』から抜粋
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フロイトは意識と無意識とを分けたが、これとは異なる区分として「人識」と「虫識」というのを考えてみる。
人間と昆虫は全く異質な生物ではなく、進化の系統樹の幹で繋がっている。
だから人間の意識の内にも、昆虫と共通の「虫識」は含まれている。
昆虫を観察していると、彼らは本能のプログラムに従って的確に作業(採餌、造巣、求愛、産卵など)をこなすか、もしくは何もせずじっとしている。
だから人間も、与えられた仕事を繰り返したり、ぼーっと休んでいる時の意識は昆虫と同じではないかと思い、これを「虫識」と名付けてみたのだ。
意識が眠っていて何も考えない状態の「虫識」に対し、覚醒した意識で理性的に思考している状態が「人識」である。
しかし例えばアリも観察していれば、左右のどちらに行くか迷って考えてるように見える時があり、アリにも「人識」があるような気がして愛おしく思えてしまう。
昆虫が「いかに生きるか」は種類ごとに「本能」という形でプログラムされている。
しかし人間にとっての「いかに生きるか」は本能で決められておらず、「言語」というツールによって自前でプログラムする仕組みになっている。
つまり「人識」とは、人間が「いかに生きるか」について考えている時の意識だとも言える。
人間は常に「人識」に覚醒しながら「いかに生きるか」を考えているわけではない。
常時そのように頭をフル回転すると疲れ果ててしまう。
だから「いかに生きるか」のプログラムがいったん出来上がると、後はそれに従って何も考えない「虫識」によって日々を過ごすのだ。
これは考えるエネルギーの節約である。
昆虫の本能は言ってみれば「プリセットされた思考」であり、だから昆虫はこれ以上の考える能力が不要なのだ。
人間の「いかに生きるか」という思考もある程度蓄積されると、それが「プリセットされた思考」として機能する。
これを利用すれば人間もそれ以上の思考を節約し、「虫識」で過ごす事ができる。
人間にとっての「プリセットされた思考」とは「常識」とか「習慣」とか「世間体」などであり、これらは昆虫の本能と同じ機能(考えるエネルギーの節約)をもたらす。
昆虫は体の構造がシンプルで、本能的な「プリセットされた思考」も同様にシンプルで、そのような「節約律」は人間の意識にも共通に存在し、それを「虫識」と名付けてみた。
生物として「いかに生きるか」とは、「環境への適応」と同意である。
昆虫の場合「プリセットされた思考」により、環境への適応の仕方が固定されている。
しかし人間は、プリセットされない自由な思考により様々な環境に適応できる。
そして、そのための意識こそが「人識」なのである。
環境適応のための「人識」とは、開拓者の意識であり、子供の意識でもある。
好奇心旺盛な子供の目は、哲学者か科学者のように聡明に輝き「未知の環境」に真正面から対峙する真剣な表情を見せる。
しかし大人になるに従い目の前が「既知の環境」に覆れ、思考を節約した「虫識」で過ごせるようになる。
「人識」とは人間だけの特性だけではなく、動物が「プリセットされた思考」をはみ出して環境に適応する能力だと考えてみる。
例えばコイに餌をやるとき手を叩くことを続けると、やがて手を叩くだけでコイが寄ってくるようになり、これはコイの「人識」の作用だと捉えてみる。
動物の「人識」は、哺乳類や鳥類など高等動物の子供に顕著に現れる。
生まれたままのイヌやネコの子供は直ちに独り立ちできず「人識」によって様々な事を学習し「いかに生きるか」を獲得する。
しかし高等動物の「人識」は、その自由度が「プリセットされた思考」によって制限されており、人間だけがその限界を超える。
社会生活を営むための人間のルールは、人工的に作られた「思考のプリセット」であり、それに従う人々の「虫識」によって社会は円滑に運営される。
もちろんそれだけでは社会は進歩せず「人識」が必要になる。
しかし「人識」だけで人間社会を成立させる事はできない。
人間の「虫識」は社会を安定して維持するのに必要な意識であり、「人識」は社会をより良く変えるために必要な意識であり、どちらが欠けても健全な社会は成立し得ない。
このことを個人に当てはめると、日々の生活や自己意識などを安定させるのが「虫識」で、それらを変革し向上させるのが「人識」だと言える。
本能的な「プリセットされた思考」を超えて思考し、未知の環境に適応する「人識」本来の属性が高等動物の子供にあるのだとすれば、動物行動学の観点から人間は幼型成熟(ネオテニー)なのだと言える。
人間の意識は本質的に「幼型成熟」ではあるが、大人になってからの成熟度合いには個人差がある。
動物行動学的に成熟した成人は、社会生活に必要なルールを学ぶことで、社会に適応した生活を送るようになる。
それはオオカミの成獣が自然環境を知り尽くしサバイバルするのと同じであり、正常な「虫識」の働きである。
動物行動学的に幼形成熟した成人は、子供の属性である「人識」を環境適応を超えて発展させ、哲学者や科学者や芸術家になる。
幼形成熟した成人は、ともすれば社会生活に必要な「虫識」の獲得が未熟で、社会との軋轢を生じることがある。
現代社会で問題になっているニートは、成熟して「人識」を失いながらも正常な「虫識」の獲得にも失敗している。
動物行動学的に見たニートは幼形成熟ではなく、成熟に失敗した成人なのであり、だから「治療」の対象だと言えるかもしれない。
もちろん「人識」だけの人、「虫識」だけ人、という具合に分かれるわけではなく、誰の内にも「人識」と「虫識」は存在し、そのバランス配分は各自異なっている。
人間の「虫識」の原点は、自然環境に適応した動物の意識にある。
自然環境は基本的にに安定し変わることが無いため、一部の高等動物がごくわずかな幼少期に「人識」を働かせるのみで、大多数が「虫識」だけで生きてゆくことができる。
狩猟採集時代までの人類も、安定した自然環境に適応しながら何万年も同じ生活を続けてきた。
しかし農業を発明した人類は、自然環境に叛旗を翻し、自然を破壊して文明を築いた。
文明を発展させ拡大する為には「人識」を働かせる必要があり、文明を維持するための新たな「虫識」も必要になる。
自然環境は安定しているが、人間にとってそこは他の生物との闘争の場でもあり、誰もが安心して暮らしてゆける場ではない。
だから農業技術を手に入れた人類は、自然に依存しない「人工の自然」としての文明社会を築き上げた。
文明社会が安定すると、人々は自然に暮らす野生動物のように「虫識」で暮らすようになる。
そのように成熟した文明社会は、自然の脅威から隔絶された、安全で平和な人工の自然=ユートピアだと言えるだろう。
しかし「虫識」に偏りすぎたユートピアは、同時に危険性も孕んでいる。
「虫識」に偏りすぎている人は、動物のように「プリセットされた思考」を超えて思考することが出来ず、新しい環境の変化を認識することが出来ないのだ。
例えば何か天変地異が起きて環境が激変した場合、「人識」のキャパシティの少ない多くの動物は、新しい環境に適応できずに滅びるだろう。
そして同じことは「虫識」に偏りすぎた人間社会にも起こりうる。
それが311以降に明らかになった、日本社会の問題点だと考えることができる。
「原発事故」という未曾有の危機に対し、日本政府や東京電力は「想定外」を繰り返し口にしながら、その対応が全くできないままでいる。
多くの日本国民も同様で、事態の深刻さを認識しようとせず、「原発事故によって変わった新しい環境」に適応しようとせず、これまで通りの日常を送ることを強く望んでいる。
このような態度は「プリセットされた思考」を絶対に変えようとしない「虫識」の弊害であり、「人識」の欠如のあらわれだと言うことができる。
人間の文明は「都市」を生み出すが、人間以外の動物のうちハチやアリ、シロアリなどの社会性昆虫も、人間同様に都市を形成する。
幾何学的に性然としたハチの巣や、農園や換気システムまでも備えたシロアリの巣は、虫の「虫識」が作り出した都市である。
もし虫それぞれが固有の「人識」を発揮してしまっては、大勢で協力して都市を築くことは出来ない。
この意味で「虫識」の原点を社会性昆虫求めることができる。
しかしこの概念をさらに延長させると、さらに遡って「動物細胞の意識」にまでたどり着くことができる。
たくさんの細胞で構成された動物の身体は、それ自体が一つの「都市」であり、身体を形成し維持するための遺伝的プログラムは、固有の「文明」だと考えることが出来る。
そして、ハチやアリやシロアリが築く都市(巣)はその「外部化」であり、人間の都市もまた同じだと考えられる。
動物の身体を構成している各細胞は、完全なる「虫識」により決められたポジションで決められた仕事のみを淡々とこなしている。
細胞の「虫識」とはおかしな表現だが、概念的にはそのように言うことができる。
ともかく、もし細胞が勝手な「人識」に目覚めれば、それは癌となってとしとしての人体を蝕んでゆく。
身体に癌が発生した場合、その他の正常な細胞は「虫識」しか持たないため状況変化に対応出来ず、もちろん逃げ出すことも出来ず、癌に侵された身体とともに滅びゆく。
そして「虫識」に偏りすぎた人々は都市の滅亡とともに滅び、「人識」のバランスを持つ人々だけが新たな環境へと逃げ延びることができる。
いろいろな弊害をもたらす「虫識」ではあるが、基本的に人間にとって欠くことの出来ない要素である。
社会を安定し維持するには「虫識」の存在は欠かせないし、また社会生活を営むための「虫識」があってこそ、創造的な「人識」が成立しうる。
例えば規則正しく起床したり、部屋を常に綺麗に片付けたり、礼儀正しくふるまったり、これらは人間に必要な「良い虫識」である。
これに対し、解決しなければいけない問題を先送りにし、自堕落な習慣を繰り返すのは「悪い虫識」である。
そして「人識」の役目とは、「悪い虫識」(習慣や思い込みなど)を「良い虫識」に変えることにあると言える。
社会がいくら安定しても、さまざまな問題や矛盾が完全に解決されることは困難で、だから平和に安住せず「人識」を常に働かせる必要はある。
また、安定していると思える社会は常に破綻の可能性を孕んでおり、それを警戒し続ける「人識」も必要だと言える。
要は「人識」と「虫識」はどちらも必要な意識であり、各自各様にそのバランスを取ることが必要なのだ。
ぼく自身も「良い虫識」と「悪い虫識」とのバランスが適切とは言えず、大いに反省すべき所はある。
自分の中の「良い虫識」は大いに育み「悪い虫識」は虫下しする必要がある。
「虫識」は人間にとって必要な意識だが、それは「人識」によって管理しなければ意味が無いのだ。
しかし現代日本人の多くは「人識」に偏りすぎて、「人識」に支配されているのであり、そのことは「原発事故」に対する人々の反応に如実に現れている。
そう言うぼくも理屈では分かったつもりで、実際には自分の「虫識」をコントロールし切れず、この状態がなかなか改善できずに焦っている。
311の原発事故によって日本国は「虫下し」をしなければいけないのであって、ぼく自身も同じように「虫下し」が必要なのだが、これは相当に難しいことでもあるのだ。
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