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2011年6月 9日 (木)

箒と蛸壺

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丸山真男『日本の思想』を読みながら、抜き書きや思いつきをメモするの続き。

イメージとは、人間が環境に対応するための潤滑油であり、現実からの急激なショックを和らげる効果がある…
イメージは現実のフィードバックとして常に修正され続け、これにより変転する環境に適応することができる。
つまり環境の変化に合わせ、「環世界」も変化させていかなければならない…

現実が複雑化した現代では、イメージと現実の食い違いを、感覚的に判断しにくくなっている。
イメージが現実から自律して、イメージが現実に成り代わる。
イメージの世界が現実以上に拡大する。
現実の環境と共に、イメージとしての「環世界」が膨大に構築される。
人は「体系的に反省されないイメージ」に囚われる。

マルクスについてのイメージが、マルクス本人から離れて一人歩きする。
そこでマルクス曰く「私はマルクス主義者では無い‼」

丸山真男の言うササラ型と蛸壺型文化について。
現代では「ササラって何?」ともはや通じないので「箒型文化」に置き換えた方がいいかもしれない?
要は末端が分岐してても根元は一つに繋がってるタイプの文化。
いっぽう蛸壺型はたくさんの蛸壺が独立して寄り集まってるタイプの文化。

日本に近代科学が移入されはじめた当時、ヨーロッパの学問はすでに細分化されており、日本人はそれを蛸壺型として受け取った。
しかし西洋の学問は先端は分岐しても根本で一つに繋がる箒型をしているのである。

ある写真展のオープニングパーティーで「現代アートの人は写真をわからないと言う」と言うことが話題になった。
写真の人も現代アートはわからないと言う人が多い。
これは典型的な「蛸壺型文化」で、欧米では箒の柄のように根本が「美術史」として繋がっている。

ぼく自身も「写真」を撮ってみて、写真家たちと「写真とは何か?」について語るのだが、お互い写真についての共通認識が「浅い」ので、議論の深度に限界があることを痛感してしまう。
アートや写真について、お互いそれぞれの認識や定義がバラバラと言うことは、共通した歴史認識が無いということ、アートや写真を歴史として捉えていないことの表れであり、日本的蛸壺文化の表れなのである。
日本のアートが世界に進出する場合、日本のアートシーン全体が世界に開かれるのではなく、それぞれのアーティストやギャラリストが、それぞれ独自のルートで世界とつながりを持つ…というのも蛸壺型文化の表れである。

歴史化されない知識は断片化されてしまう…
「芸術は、爆発だ!」は、歴史認識としての芸術の破壊であり、「芸術とは何か?」の断片化であり、芸術の無教養化だと言える。
「芸術は、爆発だ!」で芸術の教養が断片化されると、それぞれ多様化される様でいて「知識量」の観点では画一化される。
そして、同程度の少ない知識量を持つ者は、皆似たような考えを持つのである。

日本の思想は伝統として蓄積されない。
つまり思想が歴史的流れとして対象化されない。
そして同時に、断片化した伝統に知らぬ間に囚われてしまうのが日本人の特徴なのであり、それはアートや写真の分野にも表れているように思える。

丸山真男によると、日本人は新たな思想を自らの歴史認識に位置付けることなく、古い思想はどんどん捨て去り、新たな思想をどんどん取り入れる。
しかし国家的危機が訪れた際、捨て去った筈の思想が突然「思い出」されることがある。
そして現在の日本人は、第二次対戦中の思想を突然思い出している…

未知のものを、自分の分かる範囲に落とし込んで理解しようとする人は、自分とは立場を隔絶した他者がいるという認識が欠けているのであり、他者への尊厳の気持ちを欠いているのである。

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

すごく分かりやすい説明です。
キリスト教文化は創世記からの必然的な過程として現在があるという歴史の見方をしますから原点からの変遷を問題にします。
日本にも創世神話はありますが日本の神様は気まぐれなので歴史の必然性はありません。

丸山真男さんは若い頃は論理的基準をもたないことが日本人の思想の弱点と考えていたみたいですが、晩年には逆転してどのような変化にも驚かない強みと認識し直したような気配があります。

指摘している人がいるかどうか知りませんが、これって構造主義な考え方に変わったということではないのでしょうか?

投稿: 遊星人 | 2011年6月 9日 (木) 19時59分

>遊星人さん

>すごく分かりやすい説明です。

分かりやすいのは丸山眞男の著作を抜き書きして、さらに自分が「分かったこと」としてアレンジしたからですねw

最近のぼくは仏教とか、キリスト教とか、ギリシア哲学とか、勉強した分は何となく掴めてきましたが、日本の神道とか無宗教については良いテキストが見つからず、サッパリ分からないでいました。
いや、小室直樹の『天皇の原理』が良さそうなんですが、本屋に置いてないし・・・
しかし丸山眞男『日本の思想』はこの点がかなり良くて、だいぶスッキリしました。

>丸山真男さんは若い頃は論理的基準をもたないことが日本人の思想の弱点と考えていたみたいですが、晩年には逆転してどのような変化にも驚かない強みと認識し直したような気配があります。

実際に何事にも動じず、何も対処しない・・・ってのは何なのか?
自分自信の反省も含め考える必要があります。

>指摘している人がいるかどうか知りませんが、これって構造主義な考え方に変わったということではないのでしょうか?

このへんはよく分かりませんが、「ササラ型・タコツボ型」とか「である・する」の対比は<構造>ですよね?
まぁ、物事の表層に惑わされず見えない<構造>で考える思想は「構造主義」登場するはるか以前からあって、言ってみれば普遍的な知のあり方の一つなのかもしれません。

投稿: 糸崎 | 2011年6月 9日 (木) 21時25分

「ささら型」というのは歴史を一つの原点からの「普遍的な必然性」の結果として現在があると考えてきた西欧の伝統的な歴史観を念頭に置いたものだとすれば、これはミシェル・フーコーがそれは幻想だと否定したものと一致すると思います。

これと「進化の系統樹」をどう考えるかは同じことのように思えます、「生物進化」を「普遍的な必然」と考えるのと「ローカルな必然」と考えるのとではずいぶん違いますが、これらは対立概念ではなくて、普遍的な側面だけを見れば普遍的な必然があり、ローカルな側面を見ればローカルな必然ががあるだけで、どちらも正しく人間のアタマがそれらを整理できないだけなのだと思います。

ミシェル・フーコーが批判したのは西欧の一元的な進歩主義的歴史観なのだと思いますが、その対極として蛸壺型を思い描いてはいなかったでしょうね(笑)。

こういうのはいちばんアタマの中で整理しにくい難問であります。

投稿: 遊星人 | 2011年6月11日 (土) 21時40分

>>遊星人さん

>「ささら型」というのは歴史を一つの原点からの「普遍的な必然性」の結果として現在があると考えてきた西欧の伝統的な歴史観を念頭に置いたものだとすれば、これはミシェル・フーコーがそれは幻想だと否定したものと一致すると思います。

ぼくが考えたことはちょっと文脈が違ってまして、例えば「芸術とは何か?」と言うテーマに対し「自分は芸術をこんな風にとらえている」と言うようなことを基準に考えると、人それぞれの芸術観が生じるわけで、これが「蛸壺型」です。
これに対し「芸術の概念は歴史的にどう形成されたか?」を考察し、その上で自分の芸術観を展開するのが「箒型」「ささら型」です。

「箒型」の場合「考える=歴史を参照する」事に意味があり、歴史に普遍的な必然性を認めるか否かはそれほど重要ではない、と言うか別問題です。
言ってみればこれは考え方のパターンであり癖だと思います。
日本人は(ぼくも多分にそうですが)「蛸壺型」で考える癖があります。

実は昨日は写真ギャラリーで「風景写真」についてのトークイベントがあったのですが、そこで「風景とは何か?」と言うテーマに対し、各自が「私にとっての風景とは何か?」を語っていて、ナルホドと思いました。
各自が各自の「風景とは何か?」を語り、聞く人も各自にとっての「風景とは何か?」を考える・・・
コミュニケーションとして言葉は交わされてますが、その場での共通見解というのはなく、各自各様に刺激や影響を受け、各自の心の内で考える・・・これには「蛸壺」の例えがぴったりです。

これが恐らく「箒型」で意見が交わされるなら、「風景の歴史」という共通認識がまず前提で、そこから各自の「風景論」が展開するはずです。
例えばぼくの知ってる範囲では、ラスコーの壁画のような原始美術は「牛」とか「人物」などの「もの」が描かれ、風景画はありません。
そして文明が発達すると人物画に「背景」が描かれるようになり、そこから人物が居なくなると「風景画」になり、それが「風景写真」に引き継がれるわけです。
それと西洋絵画に比べ、中国や日本のほうが「風景画」の出現が早く、このあたりは全然勉強不足なんですが、興味が出てきました。
しかしそんなの関係ないし、今の自分の気持ちを大切にしたい、なんていう人は多いかも知れません。

>これと「進化の系統樹」をどう考えるかは同じことのように思えます、「生物進化」を「普遍的な必然」と考えるのと「ローカルな必然」と考えるのとではずいぶん違いますが、これらは対立概念ではなくて、普遍的な側面だけを見れば普遍的な必然があり、ローカルな側面を見ればローカルな必然ががあるだけで、どちらも正しく人間のアタマがそれらを整理できないだけなのだと思います。

これも遊星人さんの書き込みと文脈は変わってしまいますが、生物を考えるのに「進化の系統樹」という「歴史」で考える習慣は日本人にもありますね。
動物の分類そのものが、進化論を元にした歴史を基準としてるわけですから、そこを無視して「生物学」を語るとトンデモだと言われてしまいます。。
しかし厳密に考えると進化という現象は実験では再現不可能で、進化論も「仮説としての歴史」に過ぎません。
とは言え「歴史を参照する」と言うことで考えれば「箒型」の思考形態であるのです。

ある生物を見て「きれい」とか「かわいい」とか「気持ち悪い」などの感想だけでなく、「歴史」にさかのぼって思考する習慣を多くの日本人は体得しています。
その反面、あるアート作品を見て「きれい」とか「可愛い」とか「気持ち悪い」などの感想だけで済ませる日本人が圧倒的に多く(ぼくもその一人でしたが)、改めて気付くと不思議なことだと思えるのです。

投稿: 糸崎 | 2011年6月12日 (日) 22時51分

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