人間の定義と愚者
●「真実の言葉」とは多くの人達にとって「大きなお世話」なのであり、それが理由でソクラテスもイエス・キリストも死刑になってしまった。
いや、ソクラテスもイエス・キリストも自ら死刑を望んだんだけど、人間とは「そう言うもの」であることを知っていたのである。
●小出裕章さんの動画見て思ったけど、真に優れた人は、人間がどこまで愚かになれるかを十分に理解している。
そしてどれだけ相手が愚かでも決して怒らず、哀れみをもって(仕方の無い事として)許す。
愚かな相手に怒りをあらわにする人は、自分を含めた人間の愚かさが、十分に理解できていないのだ。
●「人間とは何か?」の定義を広く理解する人は、どんなに愚かな相手も「人間」として認め、その立場を尊重し、憐れみをもって赦す。
「人間とは何か?」の定義を狭く捉える人は、多くの人間に不満を持ち見下している。
●「人間とは何か」の定義を広い意味で捉えている人ほど多くの人々を愛し、それを狭い意味で捉える人ほど「自己愛」が強くなる。
●人は愚かであるがゆえに、愚かな行ないをするのか?愚かな行ないをすることによって、愚かな者になるのか?
自分の愚かさを直視すればそれだけ賢くなれるが、自分が愚かである事実は変わらない。
●芸術家であるならば、自分の愚かさを芸術に転化できるはずである。
芸術家の闘争が芸術になるなら、芸術家の反省も芸術になる。
ピンチをチャンスに変えるのがビジネスマンなら、ピンチをアートに変えるのがアーティストだ。
● 優れた芸術家は、悲惨で過酷な現実を直視し、その「反転」としての芸術を生み出す。
不幸な人間だけに芸術が可能なのではなく、不幸に気づいた人間だけが芸術を可能にする。
不幸を前提としなければ、「私は幸福です」と(デュシャンの様に)言うことはできない。
| 固定リンク
「思想・哲学・宗教」カテゴリの記事
- 2010年3月tweet(2010.03.31)
- 存在と証拠(2014.04.21)
- 自己保身と自己犠牲(2014.04.21)
- 鏡のアフォーダンス(2014.04.20)
- 犯人と証拠(2014.04.19)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント