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2011年6月 8日 (水)

伝統の端末としての個人

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●文明とは伝統に対する再解釈の連鎖として発展する。宗教も哲学も、芸術もまた同じ。

● T.S.エリオット『伝統と個人の才能』によると、アーティストになるための最低限必要な歴史的意識、というものが存在する。

● 歴史を学ぶことで単一の個性が滅却され、芸術家としての「自由」を手に入れることができる。平たく言えば、様々に異なる要素を組み合わせた、自在な表現の可能性を手に入れることができる。

●芸術は進歩しないが、時代によって芸術の素材だけが変わる…

●芸術家が進歩するためには、自らの個性を否定しなければならない。芸術家にとって単一の個性に縛られるほど不自由なことはなく、その状態はやがて芸術家としての死をもたらす。

●伝統はその形式を表面的に繰り返すだけでは意味がない。伝統の意味は多様であり、その再解釈こそが想像行為である。あたかも、ユダヤの律法を表面的に守るパリサイ人を批判し、律法の真髄を再解釈したキリストのように。

●…あるいは伝統から逃れようとする人は、人間に備わる本能に絡め取られてしまう。

●人は誰でも「伝統」から逃れることはできない。それ故に、伝統から逃れようとすればするほど、伝統に絡め取られてしまう…

●人は誰でも人類史の「端末」として機能する。美術家は誰でも美術史の「端末」として機能している。しかし人はつい自分自身が「全体」であるかのごとく勘違いしてしまう。

● 銀塩カメラは現像やプリントを含めたシステムの「端末」として機能し、デジカメはパソコン環境を含めたシステムの「端末」として機能する。

●カメラ好きの人間はつい、「端末」に過ぎないカメラそのものを「全体」であるかのごとく勘違いし、それを愛でる。「アーティストとしての自分」に対しても同じことが当てはまる…

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