« 「原発の安全」を信仰する国家宗教 | トップページ | 裸の王様とソクラテス »

2011年6月 4日 (土)

夕べの反省・自然体と無責任

Sdscf4115

夕べは写真家たちと集まって飲んでいたのだが、気づくと真正面にいらした写真家の大先輩に対し「大声で罵声」を浴びせ周囲を騒然とさせ、反省している。
いやぼく自身も直後に反省してすぐ先方に謝罪し、相手の方も本来はおっとりして心の広い方なのですぐに許していただけた。
また、周囲もシャレの分かる連中だったので「再臨界した!」とか「冷却装置が失われた!」とか「非常用ディーゼル作動!」などとはやし立てたりして、ドン引きせずに面白がってくれたのが救いだったと言えるかもしれない。

というわけで、ぼくが思わずキレてしまったのは原発と放射能関連の話題だったのだが、その時点では冷静に考えて意見を言ったつもりが、今朝になって思い出そうとするとディテールがほとんど失われて、やっぱり酔っぱらいすぎていたのだと我ながらあきれてしまう。

それでもいちおう思い出しながら整理すると、まずきっかけは相手の方に「糸崎さんのブログは教条主義的で全く面白くない」と批判されたことだった。
これはあくまで「きっかけ」であり、その事自体に腹が立ったわけではない。
しかし今思えばあえて「教条主義的」に考えると、『論語』『大学』『中庸』の儒教書を読んだぼくとしては、年長者はそれだけで尊重しなければならないのであり、口答えなどもっての他だった。

年長者は自分より長く生きている分「より多くのもの」を持っているのであり、年下の自分はは常に教えを受ける立場にある。
だから自分の分をわきまえ年長者の言葉に素直に耳を傾ければ、何かしらの「教え」を受けることができるはずである。
夕べの先輩の言葉も、冷静に考えれば自分にとって十分身になる「教え」なのであり、はじめからそれを意識しながら話を聞いていたならば、なにも「キレる」という失態を晒すこともなかった。

それで、ぼくがあらためて先輩から学んだことだが、まず人間には「自然体」という生き方がある、ということだ。
そして恐らく日本人の多くが「自然体」で生きているのであり、その事自体は「尊重」しなければならない、ということである。

「自然体」に生きると言うことは、「あるがまま」を受け入れ「なすがまま」にまかせて生きると言うことだ。
そして実は、これは言葉を変えると「無責任」に生きることでもあるのだ。
「自然体」に生き、全てが自然のあるがまま、なすがままであれば、そこに「自分の責任」が介在する余地はない。
あるがまま、なすがままに生きる中に「責任」を持ち込むと、その「自然な流れ」がせき止められ、淀みが生じてしまう。
そもそも「責任」とは人間だけが負えるものであって、野山に生きる野生動物に「責任」という概念は当てはまるはずもない。
人間だって「自然体」に生きることにより、「責任」という不自然で人工的な概念から自由になれる。
「無責任」というとネガティブなイメージだが、実はそれは「自然体」というポジティブな生き方なのであり、尊重しなければならない。

だから「無責任」だと思える相手を「無責任だ!」と責めたところで意味はない。
相手はまず「自然体」という「善き生き方」を選択しているのであり、それに伴う「無責任」を問題にしたところで、その意味を伝えることは不可能なのだ。
つまり「責任」を重んじる人と、「自然体」で生きる人は立場が全く違うのであり、従って論争は無意味で、相手の立場を認めて尊重すべきなのである。

相手が「自然体」に生きていると考えれば、先輩がぼくのブログを「教条主義的でつまらない」と思う気持ちも理解できる気がする。
自然体のあるがまま、なすがままにまかせて生きる人にとって、それ以上どんな理屈を付けたところで無意味であり、全ての小難しい理屈は「教条主義的」と解釈される。
言ってみれば、それが「自然体」に生きる人にとっての「教条(ドグマ)」なのかも知れないが、それこそが「余計な理屈」なのである。

それで、夕べの具体的な論点を思い出して書くと、「放射能汚染地域から子供を避難(疎開)できないことに、親の責任はあるのか?」と言うことがひとつ中心で、ぼく自身は「ある」と主張していた。
いや、未婚で子供いない立場のぼくが「親にも責任がある」と主張するのは「無責任」と言えるかもしれない。
しかし、ぼく自身は原発事故が起きる以前、「原発が危険だ」という噂を小耳に挟んでいながら、ほとんど無関心でいたのであり、そのような人々の無関心がこの度の原発事故の一因になった、と言う意味での「責任」は感じているし、それ以外にもさまざまな「責任」に関与してるはずである。
いずれにしろ各自が原発事故に関する「責任」を感じ、プレッシャーに感じることで、それが状況を良い方向へと変える原動力になるはずだ、とぼくは捉えている。

これに対し先輩は「親が子供に対しどうしようもない状況があって、何でそれに対し親が責任を感じなきゃならないの?」と不思議そうな顔をしておられた。
そこでぼくは「そんな無責任な態度では、状況を積極的に好転させることはできない」と言うように反論してしまったのだが、お互い前提が違う以上、言葉がかみ合うわけもない。
いずれにしろ相手が「善き生き方」として採用したものを、自分の一方的な価値観で批判することはできないのだった。
もちろん、「責任」を重んじるぼくとしては、どのような批判も甘んじて受け入れるつもりだが、しかし「批判」を受け入れるつもりがない人を批判するのは無意味であり、そのような相手からの批判は「教え」として尊重するしかない。

などと、丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)に書かれたことの具体例として考えてみたのだが、この本は文体が硬くて非常に読みにくく、なかなか理解できないでいるのだ。

|

« 「原発の安全」を信仰する国家宗教 | トップページ | 裸の王様とソクラテス »

思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

私も責任感の問題だと思います。

政治家や官僚は責任逃れが得意なのでそれなりに体裁を繕っていますが、斑目さんという学者は自分の責任感のなさすら自覚していないようでもはや怒る気も失せてしまいます。

これは何なのだろうと考え込んでしまいました。

ひとつだけ分かるのは、この人たちは結果としての事実に対してではなく立場上のつじつまにしか責任感がないらしいことです、そこがヘンなのだと思います。

どのような処置をすべきか命令する立場が明確であれば、その人は責任をもつ覚悟が必要ですが、その責任体系は将来に対しても明確でなければなりません。

責任は法律に裏づけされたものである必要があります、権限は責任と引き換えのものだということが世間の常識になって欲しいものです。

私も子供はいませんが少なくとも次世代が迷惑するようなことは残したくたくないと思います。。。

投稿: 遊星人 | 2011年6月 4日 (土) 20時23分

糸崎先生はあたかも自身の不作為が原発事故を招いたかのように感じてらっしゃるようですが、それが幼児の全能感というものではないかと私は思います。

投稿: ふ | 2011年6月 5日 (日) 00時02分

>ふ さん

>糸崎先生はあたかも自身の不作為が原発事故を招いたかのように感じてらっしゃるようですが、それが幼児の全能感というものではないかと私は思います。

えー、いちおう誤解がないように書いたつもりなのですが、自分の文章を読み直してみました。
以下ペーストします。

>しかし、ぼく自身は原発事故が起きる以前、「原発が危険だ」という噂を小耳に挟んでいながら、ほとんど無関心でいたのであり、そのような人々の無関心がこの度の原発事故の一因になった、と言う意味での「責任」は感じているし、それ以外にもさまざまな「責任」に関与してるはずである。

ご指摘のように「自身の不作為が原発事故を招いたかのように感じてらっしゃる」のであれば、幼児的万能感どころかオカルト的誇大妄想だと思うのですが、そういうふうに読めますかね?
ポイントは「人々の」という言葉の使い方だと思うのですが。
これに続く文章もペーストします。

>いずれにしろ各自が原発事故に関する「責任」を感じ、プレッシャーに感じることで、それが状況を良い方向へと変える原動力になるはずだ、とぼくは捉えている。

ここでは「各自が」という言葉が使われてますが、つまりぼくは自分のことだけを言ってるわけではないのですが、いかがでしょう?

これは遊星人さんの返信に書こうと思ってたんですが、ぼくの心情は小出裕章さんが「自分は長年反原発運動をしてたが、力が及ばず原発ができてしまった、だから自己の責任の一端は自分にもある」というふうにおっしゃったのと似ています。
もちろん小出さんのような立派な方と、自分を比較するのもおこがましいですが、そう言うことではなくて、責任の「範囲」の問題です。
現段階で小出さんの「責任」を追及する人はいないだろうと思いますが、しかし小出さん自身は「責任」を感じておられる。
いっぽう記事中で取り上げた先輩も、普通の意味では決して無責任な性格ではなく、お子さんを立派に成人にまで育て、また若手写真家のために発表の場を作ったり、さまざまな社会的責任を果たしておられます。
つまり責任の「有無」で言えば、誰でも自分なりの責任は果たしますが、その責任の「範囲」が人によって異なるのだと、あらためて思った次第です。
もちろんこれは野球部員の不祥事による「連帯責任」なんかとは全く違って、そう言う「脅し」ではありません。

投稿: 糸崎 | 2011年6月 5日 (日) 00時46分

マイケルクライトンが書いてたのに、オッドマンセオリーっていうのがあって危機管理は独身の男がむいているというあまり根拠は無さそうな説(笑)があったような気がして、いまウィキを見ると「男性の独身者が核制御の意思決定に向いている」とまで書いてありました(アンドロメダ病原体の項目)。Odd manって変なやつ的な意味も感じられ、洒落かも知れません。

投稿: schlegel | 2011年6月 5日 (日) 06時43分

>schlegelさん

>危機管理は独身の男がむいている

これは簡単なことで、初期仏典にそう書いてありますw
いや危機管理という言葉ではないですが、結婚したり、まして子供を作ったりして、愛する者があるとそこに執着が生じ、悟りから遠ざかるわけです。
悟りから遠ざかる、とは判断が鈍ると言うことで、危機管理の問題にもつながりますね。

もしくは「個人愛」ではなく広く「人類愛」として物事を判断し、いざとなったら世界規模でより多くの人類を生かすため、この場で核を爆発させる・・・と言う判断も独身者の方が向いてるかも知れません(映画はみてないですが)。

しかしぼくの友人でもっとも危機管理意識が高いと思える人間は、小中学生の子供を養ってますから、そう考えるとスゴイことだと思います。

投稿: 糸崎 | 2011年6月 5日 (日) 08時16分

ようやく少し分かったことは原発事故にどう対処すべきか分かっているのは具体的に原発の構造を知っている設計者と現場の人たちの一部だけのようで、理論家は役立たずだということですね。

放射能の影響はデータ不足でどれも科学的根拠がありませんので私も全く分かりません。

文部科学省が上空データを採っていることには科学的に意味がありますが生活上の安全性の指針とはズレています、人体への影響を考えたら厚生労働省が蓄積分も含めた地上各地のデータを採るべきで、それをやらない官僚も指示しない行政もバカタレとしか言いようがありません。

どうしてこんなに頭の悪いやつらばかりなのでしょうね?

投稿: 遊星人 | 2011年6月 5日 (日) 18時26分

>放射能の影響はデータ不足でどれも科学的根拠がありませんので私も全く分かりません。

「データがないから大事を取って警戒しましょう」と言うのが科学的態度に基づく危機管理だと思いますが、なまじ原発の根拠が非科学的なだけに、その対処も非科学的と言うことでセットになってるのかも知れません。
いや原発は科学の産物のはずですが、しかし生物学者の本川達雄さんが「科学は砂上の楼閣〜♪」と歌ってたのを地でいってる感じですw

>どうしてこんなに頭の悪いやつらばかりなのでしょうね?

少なくともみなさんそれなりに高学歴のはずなので、頭の良し悪しでは無さそうです。
このあたりの謎の答えは、丸山眞男『日本の思想』に書いてありました。
この本は前半は堅くて難解ですが、後半は講演録なのでやさしくなります。
あらためて記事にしたいですが、たとえばイヌに「ネコみたいに木に登れ」と命令して、木に登れなかったとしても「バカなイヌだ」とは言えません。
イヌがネコと違って木登りできないのは「当たり前」で「仕方がない」ことであり、それは政治家も同じなのです。

投稿: 糸崎 | 2011年6月 5日 (日) 19時41分

糸崎先生、丁寧にご解説いただきましてありがとうございます。だだ、ちょと難しくて、2時間考えましたがやはりよくわかりません。

投稿: ふ | 2011年6月 6日 (月) 00時51分

>ふ さん

>だだ、ちょと難しくて、2時間考えましたがやはりよくわかりません。

えー、質問を受ける側としては「考えた時間」だけを伝えられても困るわけで、「どこがどんなふうに分からないのか」を明らかにしていただかないと答えようがないのですが・・・いかがでしょう?

投稿: 糸崎 | 2011年6月 6日 (月) 02時10分

今朝もNHKで福島のいろいろなご家族のようすを放送されていました。皆さん、妻子だけ、あるいは子供一人で疎開させている方もあり、それぞれに悩んだ結果の選択で、テレビの出演者の人も言ってましたが、正解は無い、のだと思います。個々の結果に直面するのは結局その親子で親は否応無くその責任を自分に問う事になります。疎開に伴う経済的な負担、家族が離れて暮らす現状を見れば、ありきたりな言い方になりますが、避難しない親が無責任だという事がいちばん無責任かもしれません。ただ、番組をみてて一番悲しかったのは、親は子供を連れて疎開したいけれど、親の親が、「避難区域外で国が大丈夫と言っているのに疎開する必要は無い」と言って許されないというケースでした。

投稿: schlegel | 2011年6月 7日 (火) 01時53分

>避難しない親が無責任だという事がいちばん無責任かもしれません。

責任ではなく「責任感」の問題でしょうか?
「責任感」「罪悪感」を持つことが、責任を果たす動機になり未来への可能性につながる・・・と言う捉え方です。

>親の親が、「避難区域外で国が大丈夫と言っているのに疎開する必要は無い」と言って

これは頭や心の省エネルギーで、「責任感」「罪悪感」を持たないこともまた省エネではないかと思います。
と考えると、これはこれで理にかなってると言えるかもしれません。

投稿: 糸崎 | 2011年6月 8日 (水) 00時43分

すみません、僕なりに糸崎さんが、先輩の方や、ふ氏とすれ違っているのはどこかをかんがえてみたつもりでした。
端的にいうと放射線に対するリスクを考えることだけが、親の責任ではないだろう、ということではないかと思うのです。
その部分が僕もそうですが糸崎さんも世間一般の基準からくらべると肥大化しすぎているのではないかと思います。
客観的にどうかはわからないだろうとも言うわけですが(笑)

>「責任感」「罪悪感」を持たないこともまた省エネではないかと思います。
親の判断が省エネ思考なら何の問題もないのですが、親がエネルギーを使いたいのにその親がブレーキを掛けてることが、イタイ摩擦熱を産んでいるようでした。非難区域外だけど比較的汚染の高い地域だったと思います。

投稿: schlegel | 2011年6月 8日 (水) 20時26分

避難区域の間違いでした(笑)

投稿: schlegel | 2011年6月 8日 (水) 20時27分

>schlegelさん

>避難区域の間違いでした(笑)

変換ミスの「非難区域」もいいですね、お互い非難区域が違うので話がすれ違うとかw

ちなみに昼間のツイッターからは「検索捨て」という新語が生まれましたw

http://twitter.com/#!/itozaki/status/78285671617396736

投稿: 糸崎 | 2011年6月 8日 (水) 21時52分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「原発の安全」を信仰する国家宗教 | トップページ | 裸の王様とソクラテス »