« 箒と蛸壺 | トップページ | 色付き写実彫刻 »

2011年6月13日 (月)

現国の教科書に載ってた丸山真男

S

長野の実家に帰省したら、甥っ子の現国の教科書に丸山真男『「である」ことと「する」こと』が載ってました…で、『日本の思想』読みながら思いつきメモの続き。

未曾有の危機に対し「自分にはどうしようも無い」と悟り、慌てず騒がず平常心に落ち着くのは、日本人的心のありかたの特色と言えるかもしれない。しかし「悟り」は本来「思考停止」ではなく「どうしようもない」と言う深い絶望が出発点の、到達し得ない「悟り」への道なのである。

現代日本人に特有の「無宗教」の正体は日本古来の神道かも…神道は絶対的な神を持たず、中心的教義も無く、様々な外来宗教の断片を雑多に取り入れ「内容」を埋めて来た。現代日本人も「無宗教」と言いながら、だからこそ無自覚に雑多な宗教の断片を寄せ集め、その信仰を頑固に守り「無宗教」だと居直る。

庶民的感覚を大切に、などとおだてられるといつの間にかコントロールされている…確かに庶民的感覚「も」大事だが、おだてに乗ってはいけない。あなたはセンスがあるのだから、自分の自然な感覚を大切にし直観を信じなさい、などとおだてられるといつの間にか可能性が潰されている。

日本の思想には古来から続く「伝統」が無いからこそ、西洋思想の断片が容易に取り込まれ「伝統」化する。それは外来思想である仏教や儒教についても同じなのである。

明治以後の日本人はそれまでの伝統を捨てて西洋化したのではなく、もともと捨てるような伝統を持っていなかったのであり、それが日本の伝統なのである。

古来、日本人は仏教を取り入れても仏教化せず、儒教を取り入れても儒教化せず、西洋思想を取り入れても西洋化せず、それが日本の伝統的なや八百万の神=現代の無宗教、なのかもしれない。

自らを「無宗教」とか「無思想」などと言う人は、「無」という言葉を冠することによって、実際には存在する自らの宗教や思想を「無いこと」にしているのであり、そのように「無い」はずの宗教や思想に知らぬ間に囚われる。意識出来ないものはコントロールできないからである。

日本古来の思想にはキリスト教のような強固な骨格がなく、伝統と新しい思想(外来思想)との対立や葛藤が無い。伝統に骨格がなく、何でも断片化し雑多に取り入れるのが日本の伝統。骨格のない伝統は軟体動物のように掴みどころが無い。明確に自覚できない宗教は反省も批判もできず、だから知らずに支配されてしまう。

よく言われることだが、ヨーロッパ近代はキリスト教のアンチテーゼとして生じた。ヨーロッパ近代はキリスト教という「鏡」を見て反省し続けるが、日本の伝統は「鏡」の役目を果たさない。日本人は反省の視点を欠いたまま、日本的近代を前進させてきた。

「自分がある」人は新しいものを取り入れるにしろ、否定するにしろ、反省的態度でそれに向き合う。「自分が無い人」は新しいものに無反省に飛びつくか、「小さな自分」を守り通すため断固それを拒否する。

明治以降の日本の芸術家には、俗世を嫌い、現象の世界を嫌い、概念の世界を嫌い、規範(法則)の世界を嫌う、と言う「伝統」がある。

理論をそのまま思想として信仰するのが「理論信仰」。実感をそのまましそうとして信仰するのが「思想信仰」。これは理論を信じたり、実感を信じることとは違う。

結局ぼくは「実感信仰」に囚われ、だから「実感」として理解可能な思想の入門書ばかり読んできた。こりゃマズイってんで読む本を変えてきてるのですがw

「実感信仰」に基づいて入門書読んで実感として納得すると、その理論を思想として信仰する「思想信仰」に陥る…という悪循環。これも断ち切って脱出しなければならない・・・

「理論信仰」をカメラに例えると、カメラの取説に忠実に従い、カメラ雑誌のお手本にも忠実に従い、そこからはみ出した工夫を一切しない態度…カメラや写真のマニュアルを「既製品」と捉える思考…「カメラはこうして撮るもの」という理論を思想化として信仰する態度…

「実感信仰」をカメラに置き換えると「押すだけカンタン」以外のカメラを受け付けない態度。「難しいカメラは扱えない」という実感が思想として信仰されている…

カメラには「実感信仰」に訴えかける機種と、「感覚信仰」に訴えかける機種の二種類がある。もちろんそのように「用意された信仰」に惑わされず、用途に応じて独自に使いこなすことも可能なはず…

例えば「芸術とは何か?」と言うテーマに対し「自分は芸術をこんな風にとらえている」と言うようなことを基準に考えると、人それぞれの芸術観が生じるわけで、これが「蛸壺型」思考。対して「芸術の概念は歴史的にどう形成されたか?」を考察し、その上で自分の芸術観を展開するのが「箒型」思考。

「蛸壺型」とは「考える=自分の胸に聞いてみる」という思考パターンで、「箒型」とは「考える=歴史を訪ねる」という思考パターン。これは考え方の癖の違いであり、どっちが優れてるわけではないのかも??いずれにしろ日本人の多くが「蛸壺型」で考える癖があり、「箒型」で考えるのが苦手…らしい。

先日、写真ギャラリーで行われた「風景写真」についてのトークイベントを見に行ったのだが、そこで「風景とは何か?」と言うテーマに対し、各自が「私にとっての風景とは何か?」を語っていて、なるほど「蛸壺型」だと思ってしまった…考える蛸、知的な蛸ではありますが…

各自が各様の「風景とは何か?」を語り、聞く人も各自にとっての「風景とは何か?」を考える・・・コミュニケーションとして言葉は交わされてるが、その場での共通見解というのはなく、各自各様に刺激や影響を受け、各自の心の内で考える・・・「蛸壺」にそれぞれの小宇宙がある…

「芸術」や「風景」ではなく、「この生物は何か?」を考えようとする場合、「まず歴史を尋ねる」という「箒型」思考の習慣は日本にも根付いている。生物の分類そのものが、進化論という「歴史」に基づいているのであり、そこを無視して「生物学」を語るとトンデモだと言われてしまう。

ある生物を見て「キレイ」「カワイイ」「キモイ」などの印象だけでなく、「歴史」にさかのぼって思考する習慣(分類学)を多くの日本人は体得してる。その反面、あるアート作品を見て「キレイ」「カワイイ」「キモイ」などの印象だけで済ませる日本人が圧倒的に多く、この違いはちょっと不思議…?

|

« 箒と蛸壺 | トップページ | 色付き写実彫刻 »

思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 箒と蛸壺 | トップページ | 色付き写実彫刻 »