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2011年6月 9日 (木)

権利の上に眠る者

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丸山真男『日本の思想』(岩波新書)を読みながら、抜き書きや思いつきをメモしてみる。
Ⅳ章のタイトルは『「である」ことと「する」こと』
この章は講演録なので読みやすい。

「権利の上に眠る者」という言葉があって、催促を怠った金貸しはやがて債権を失ってしまうのである。
国民は主権者だが、主権者「である」事に安住し、権利を行使「する」のを怠ると、いつの間にか主権者でなくなっているかも知れない。
これが「権利の上に眠る者」。

日々の生活さえ安全に過ごせたら、物事の判断はひとに預けてもいいと思っている人にとって、権利を行使し自由を維持することは、甚だ厄介で面倒だ。
自分が自由人「である」ことを疑わない人は、自らの偏見から最も不自由であることに気づかない。
自分が自らの偏見にとらわれていることを自覚する人は、より自由になろうと努力する。

日々自由であろうと「する」ことによって、はじめて自由で「である」ことが可能になる。
民主主義も、ただ民主主義「である」だけでは形骸化し、不断に民主化「する」ことによって辛うじて成立するのである。

「である」理論・「である」価値から、「する」理論・「する」価値への相対的な重点の移動…
「である」という属性の価値から、「する」という機能の価値へ…
「である」社会ではずるい人はずるいままに、愚かな人は愚かなままに、それぞれが変わらずにいようとするのである。

制度の批判ではなく、制度をいかに活かせてないかを問題にすべきである。
危機管理は「する」思想の産物であり、従って「である」思想に危機管理は存在しないのである。

良い人か?悪い人か?ではなく、良い行動か?悪い行動か?で判断しなければならない。
少なくとも菅さんや枝野さんは「悪人」じゃないだろうし…

道具には道具であることの魅力と、道具としての利便性と、二つの要素が含まれる。
カメラマニアはカメラ「である」ことにウットリし、写真は撮らない。
カメラマンは撮影「する」ことだけに集中し、カメラはなんでも良いと思ってる。
ぼくはどっちも重視するけどw

「状態」と「過程」…例えば金属製フィルムカメラは「状態」で、プラ製AFカメラは「過程」であり、昨今のデジカメは「状態を装った過程」なのである。

理想的状態を神聖視するような、「状態的思考」が存在する。
安全装置を設置したらもう安全だ、と考えるのは「である」思想の産物で「状態的思考」だ。

綺麗だった湖が汚れるのは、外部から汚れがもたらされるからではなく、浄化装置が作動していないため。
綺麗な湖は、混じり気のない綺麗な水で満たされているのではなく、様々な生物が日々浄化し続けていることで維持される。
日本の民主主義には「綺麗な湖」にあるような「生態系」が存在しない。
人々は湖の浄化に参加せず、ヘドロとなって沈殿してるだけ。
民主主義社会という「綺麗な湖」において政治に無関心な市民はヘドロとして沈澱する。
ヘドロの堆積が増えると「綺麗な湖」はその呼び名のまま形骸化する。
民主主義社会の政治は政治家の領分ではなく、政治が遍在しているのが民主主義社会なのである。

「である」思考と「らしく」道徳…
政治家「である」人は政治家「らしく」ふるまうべきで、庶民「である」人は庶民「らしく」ふるまうべきであり、それ以外何もかえる必要ななく、変えてはならないのである。

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