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2011年7月

2011年7月28日 (木)

国家と生物のイデオロギー

人間をはじめとする多細胞生物は、単細胞生物から進化した。
単細胞生物の多くはプランクトンと言われる微細な生物で、鞭毛や繊毛を動かしながら、水中を自由気ままに泳ぎ回る。

しかし多細胞生物に進化すると、各細胞は単細胞生物が持っていた「自由」を失う。
多細胞生物の各細胞は、身動きの取れない状態のまま、自らに与えられた仕事を淡々とこなすだけの存在だ。
そのかわり「大きな生物」の一部となった細胞は、単独生活する小さな単細胞生物に比べ、より安全で安定した生活を得ることができる。

ところが多細胞生物の各細胞の「安全度」は、身体の部位によって異なっている。
例えばトカゲは危険が迫ると尻尾を切り離す。
従ってトカゲの胴体を構成する細胞よりも、尻尾の細胞の方が「安全度」が低いと言える。
また、人間のオスをはじめとする精子細胞は、その大半が生殖に至らない「使い捨て」であり、その生命の安全は何ら保証されていない。
つまり高度に組織化された多細胞生物の各細胞は、自身の「身の安全」など全く求めていないかのごとく振る舞う。

これに対し多細胞生物の「個体」は、自らの生命を守ろうとし、また子孫を残そうと振る舞う。
個体が「生命の安全」や「子孫の繁栄」などへと向かう意志(衝動)は、一種の「イデオロギー」だと考えることができる。
そして各細胞は、このようなイデオロギーのために自分の生命を捧げ、奉仕する存在だと言うことができる。

多細胞生物の各細胞は特有のイデオロギーに支配されているのであり、そのイデオロギーは各細胞のDNAに書き込まれている。
DNAはまさに鎖となって、各細胞の「自由」を拘束している。
放射線などによりDNAが破壊された場合、細胞はイデオロギーの拘束から開放され、「癌細胞」と呼ばれるようになる。

ところで、人間は決して「独り」で生きることはできず、何らかの「生活集団」に属さざるを得ない。
例え集団から距離を置き独りでいたとしても、「言葉」で思考しながら生きる限り、それは生活集団の延長でしかない。
「言葉」は決して独りでは生み出すことのできない、生活集団の産物なのだから。「人間」でいる限り、独りで生きていてもそれは集団生活の延長なのである。

人間は本質的に、各自それぞれ「自由」に生きたいと思っている。
ところが生活集団内で、各自勝手な「自由」を行使しようとすると、「集団」そのものが成立しなくなってしまう。
そこで「集団」を成立させるために、各自の「自由」を調整する必要があり、その調整プログラムが「イデオロギー」と呼ばれるものになる。

狩猟採集民のような小人数集団の場合、各自の「自由」の調整は比較的楽で、そのイデオロギーも小さく緩やかなもので済む。
しかし集団の規模が「国家」にまで拡大すると、各自の「自由」の調整は困難を極め、より高度で強固なイデオロギーが必要になる。
別の言い方をすれば、人間の生活集団は、規模が大きくなるほどより「イデオロギー化」される。

この概念は、実は多細胞生物のあり方にも当てはまる。
例えば原始的な多細胞生物であるプラナリアは、体がいくつかの断片に切られると、それぞれの断片から新しい頭や尻尾が形成され、複数の個体に分裂する。
つまりプラナリアは多細胞生物としてあまり「イデオロギー化」されておらず、各細胞は状況によりその役目を変更することが可能なのである。


これに対し人間はもちろん、ミミズだって体を半分に切られると死んでしまう。
人間やミミズの細胞は高度に「イデオロギー化」されているため、胴体を切られるという「想定外」の事態に全く対応できないのである。
そのかわり、あまりイデオロギー化されていないプラナリアは緩慢な動きしかできず、それに比べて高度にイデオロギー化されたミミズは機敏な動きが可能だ。
もちろん、さらに高度にイデオロギー化した人間の身体は、ミミズよりもさらに機敏で多彩な活動が可能となっている。

多細胞生物と人間の生活集団が違う点は、各細胞が「自由」を求めないのに対し、人間個人はあくまで「自由」を求めることにある。
生物からの類推で考えると、例えば「国家」のような大集団を成立するため、国民はイデオロギーに従い「滅私奉公」するのが理想だと言えるかもしれない。
しかしそれでは国民各自の「生き甲斐」や「生きる意味」などが失われ、ひいては「国家」そのものの意味も失われてしまう。だから「国家のイデオロギー」には必ず「国民の自由」の調整が組み込まれていなければならず、その点が「生物個体のイデオロギー」と異なっている。
「国家」はその細胞である国民に対し、多細胞生物的な「滅私奉公」を求め、国民は単細胞生物的な「自由」を求め、そのバランスの上に「国家のイデオロギー」が成立している、と言えるかも知れない。

 

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2011年7月23日 (土)

人を見たら虫と思え

カブトムシもクワガタもヤガ達も、虫はみんな自分を虫だと思わず人間だと思い込んでいる。
そして人間だけが、自分が虫である事を自覚出来る。

人を見たら虫と思え。そうすれば誰にも裏切られず、失望せず、全員を愛する事ができる。
人を虫だとどうしても思えない人は、自分もまた虫である事を自覚できないのだ。

目の前を歩いていた若い女性が、急に何かにたじろぐようなポーズをし始めた。
何かと思ったら一匹のモンシロチョウが彼女の周囲を飛んでいる。
自分も虫なんだから、そんなに怯えなくて良いのに…と思うけど「自分の中の虫」に無自覚な人ほど虫を毛嫌いする。

自然大好きで虫は可愛いけど、都会やそこに暮らす人びとは大嫌い、などと思うような人は基本的な錯誤をしている。
虫だって人間なのと同様に、人間だって所詮は虫なんだから、どちらも可愛いと思って愛せば良いのである。

他人は虫で、自分もまた虫なのだ。
という認識があるからこそ、その「輪廻」から、またはその「原罪」から逃れようとする(呪術を脱した)宗教的意識が生じる。

橋本治が『宗教なんかこわくない!』で書いてたように、例えば元オウムの上祐さんでであっても決して怖がる必要はない。
そもそも人間は誰でも特定の「宗教」に知らないうちに縛られており、その事を自覚しなければ「宗教の自由」は得られない。
「宗教」とはつまり「虫識」であって、それに無自覚な人ほど拘束され自由を失っているのだ。

役人の仕事とは、言ってみればモンシロチョウの幼虫がキャベツの葉っぱだけしか食べないのと同じ。
民間企業だったらキャベツの葉が不足するとナスの葉を食べるようになるのだが、役人はそれを絶対しない。
モンシロチョウの幼虫にナスの葉を食べさせることはできないから、あきらめるしかない。

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思い込みともの忘れ

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* 好奇心旺盛な子供も大人になると、犬のように何も覚えなくなる。

いわゆる「本能」に頼って生きる動物は「思い込み」と「もの忘れ」の世界に生きている。
しかし人間は「考える」と「覚える」という能力を持ち、あらゆる環境に適応し、環境そのものを改変する力をも手に入れた。
しかし環境が安定すると、人間も「思い込み」と「もの忘れ」の世界に生きるようになる。

「思い込み」と「もの忘れ」ほど恐ろしいものはないのに、我ながらなかなかそれが自覚できないのが恐ろしい。
そして「思い込み」の世界から外に踏み出そうとすると、恐ろしさのあまり足がすくんでしまう、という恐怖を「もの忘れ」してしまう。

平和に慣れ切った人々は人間的な「考える / 覚える」能力を捨て、動物的な「思い込み / もの忘れ」の世界に生きるようになる。
そのような人間が親になると、動物に育てられた「狼少女」のような人間がまた増える。
インドで発見された「狼少女」は作り話に過ぎなかったが、現代日本人の多くが、動物的な親に育てられた「狼少女」と化しているように思える。

もちろんこのことは、自分自身にも当てはまる。
自分がこうなったのも親のせい・・・とは言えこれは生物学的かつ社会学的事情なので、ぼくも自分の親を恨むつもりはない。
しかし気づいてしまった以上、心の中で叫ばざるを得ない。
「早く人間になりたい!」

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2011年7月20日 (水)

2001年宇宙の(細か過ぎる)旅

『2001年宇宙の旅』をまたDVDで借りて見直しているのだが、非常に細かいネタを発見。

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映画のラスト間際、木星軌道上を漂う謎の物体「モノリス」と接触したスペースポッドが「光のトンネル」を抜けると、なぜか豪華ホテルのような室内に着陸している…

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ポッドの乗務員ボーマンは、呆然としながら部屋を抜け隣のバスルームへと向かう…
ここで画面右下に映るベッドの一部に、「黒い衣類」が置かれているのに注目。

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そしてバスルームのボーマンが部屋の方を振り返ると、ベッド上の「黒い衣類」が無くなっている!
もちろん、普通に観てると気づかないが…

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さっきの「黒い衣服」は恐らく、部屋の奥にいたこの老人(年老いたボーマン)が着ていた黒いガウンなのだろう。
と言うわけで、このガウンが宇宙服姿のボーマンの背後に既に置かれていた、と言うのが今回の細か過ぎる発見w

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ちなみに年老いたボーマンが食事するのは、スペースポッドが着陸したのと同じ場所。

他にも繰り返し観るたびに色んな発見ができる、素晴らし過ぎる映画です。

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芸術と新しさの追求

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先日、同世代の写真家と長電話してたのだが、写真に限らずアートの表現は新しい事をやらなければ意味が無く、しかしすでに大抵の事は過去になされてしまっているので、業界としては行き詰まってる、という話になった。
しかし本当にそうだろうか?とその時言い返せなかった事を考えてみる。

哲学の分野でも、哲学的問題は過去の偉大な哲学者達によってほとんど考え尽くされており、この先画期的な哲学的発見は相当に困難だろう、などと言われてるらしい。
アートや哲学に限らずどの分野でも「新しさの追求」は行き詰まっており、それがポストモダンと言われる現在の状況だろう。

ぼくもアートの本質は「新しさの追求」にあると思っていたのだが、最近はどうもそうではないような気がしてきた。
それは最近ちょっと勉強している「哲学」から類推した事で、つまり哲学の本質が「新しさの追求」に無いのであれば、アートもまた同じだと考えられるのだ。

「哲学」とは言ってもぼくはプラトンしか読んでないのだが、これによると哲学の本質は「世間体からの逸脱」にあると読める。
世間体とはその文化に固有の「行動プログラム」であり「プリセットされた思考」であり「虫識」である。
哲学の本質は「虫識からの逸脱」にある。

プラトンの師ソクラテスは、アテナイ市民の世間体的な思い込みによって、つまり「プリセットされた思考」である「虫識」によって死刑を宣告された。
このような人々の「虫識」に対しソクラテスは反抗することなく、「虫識」から逸脱するために死刑の判決を受け入れ、自ら毒杯を仰いだ。

自らの死をもって成す事だけが「虫識からの逸脱」ではないだろうが、それが哲学の本質である事をソクラテスは教えてくれる。
そして哲学的な「新しさの追求」は、さらに本質的な「虫識からの逸脱」の一環なのである。
そしてこの事はアートにも当てはまる。

アートしての「新しさの追求」は、より本質的な「虫識からの逸脱」の一環として為される。
「新しくないアート」とは世間体的な予定調和に沿ったアートであり、「プリセットされた思考」によるアートであり、「虫識」によるアートである。
しかし「新しいアート」だけが「虫識からの逸脱」なのではない。

「虫識からの逸脱」には、歴史的側面と個人的側面の二つがある。
そして「新しさの追求」は歴史的項目として哲学史や美術史に追加されてゆくだろう。
しかし個人の問題として考えた場合「虫識からの逸脱」は必ずしも「新しさの追求」とは結びつかない。
なぜなら、人間の寿命はごく短く限られているからである。

人間の寿命はごく短く限られているため、個人では「歴史の蓄積」にも限りがある。
人間は無限に歴史を積み重ねる事ができず、その途上で死んでしまう。
そして人間として生まれた子供は、まず社会で生きるために必要な「世間体」即ち、ヒトという生物に必要な「虫識」を身に付ける。

人は必ず「世間体」であるところの「虫識」を身に付けるところからスタートし、そして一旦身に付けた「虫識」に縛られ、そこから逸脱するのが困難になる。
だから哲学史や美術史は進歩しても、個々の人間はソクラテスの時代から大して進歩せず、「虫識からの逸脱」が普遍的テーマになる。

「世間体からの逸脱」あるいは「虫識からの逸脱」とは個人の「世界認識」の問題である。
「世間体」や「虫識」は個人の「世界認識」を成立させると同時に、その範囲を限定してしまう。
そして、そのように限定された世界認識の「外側」に、哲学や芸術の「本質」が存在する。
宗教もまた同じである。

堕落した哲学、堕落した宗教、堕落した芸術は、同じ現象の異なる側面を指している。
キリストは、立法を重んずるあまり「虫識」へと堕落したユダヤ教徒(パリサイ人)を非難した。
そしてソクラテスと同じく、自らに対する死刑判決を受け入れた。

恐らく、個人的な営みとしての「虫識からの逸脱」を追求し模索していれば、それは必然的に歴史的評価へとつながる。
ソクラテスが「新しさ」よりも「逸脱」を志向していたように、ダ・ヴィンチやセザンヌやデュシャンも、また同じはずである。

より根源的なのは「個人的/歴史的」ではなく「永遠の他者/目の前の他者」の対比である。
歴史的評価は「永遠の他者」の一部であり、その全てではない。
「歴史的社会的査読」というものが得てして「目の前の他者」に向かう事を、プラトンもキリストも批判してる。

「永遠の他者(大文字の他者)」への志向は、「目の前の他者(小文字の他者)」とのしがらみから逸脱しており、多くの人にとってそれは「独善的」に見える。
ソクラテスもキリストも人々からそのように批判され、死刑になった。

哲学者の中島義道が「哲学者」と「哲学研究者」の違い、「哲学すること」と「哲学研究」の違いを説いてる。
「哲学すること」は個人的な営み、実践でしかなし得ず、中島さん自身の『うるさい日本の私』も目の前の日本人を超え「永遠の他者」に向ってる。

「目の前の他者」による「歴史的評価」に迎合するだけでは、「その時代における評価」しか得ることはできない。
歴史の中に「永遠の他者」を見出せれば、必然的に「歴史に残る作品」を創ることが可能になる。

「永遠の他者」とは、「時間が経てば、本物の価値がわかる真の観客が現れて正しい評価を下してくれる」などという期待とは全く異なる。
自分の死後の未来に「目の前の他者」を想定することと、「永遠の他者」としての歴史に向かうことは、根本的に異なっている。

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2011年7月14日 (木)

放射能と差別 / 虫識のコントロール

福島在住の友人とメール交換をしていたら、

> やはり、原発と放射能の問題の本質は、健康リスクよりも「差別」なのではないかと思います。

という返事をいただき「なるほど・・・」と思ってしまった。
現在の福島は「汚染地帯」という烙印が押され、そこで獲れる農産物や水産物が忌み嫌われるようになった。
そしてそのうちその土地に住む人間に対しても、部落問題や在日朝鮮人に類するような「差別問題」が発生するかもしれない。
というようなことを、友人は危惧しておられた。

ぼくとしては食材に対してはともかく、福島県民に対する「差別」というのはどうもピンと来ない。
しかし現地の人々からすると、もうすでに他地域からの「差別」を敏感に感じ取ることが出来るのかもしれない。
実際に、安積咲@福島県産@asakasaku さんはTwitterでそのような主張をされている(この方は友人というわけではないですが)。

しかし「差別」と言う観点で考えるのであれば、思い返せば最初に福島県民を「差別」をしたのは日本政府で、ぼくはその事に震災直後からショックを受けていたのだった。
震災直後の日本政府は、福島県民に対し情報を隠蔽し、適切な避難指示を出さず、子供達に対し「疎開」という処置を施さなかった。
このような事実に対し、日本政府は福島県民をその生命を守るべき国民と見なさず「差別」したのだと、ぼくは直感してしまった。
そもそも「東京電力」の原子力発電所を福島に建設する事自体が、その地の人々を「差別」していることのあらわれなのである。
このような「差別」の根源は、いったい何処にあるのだろうか?

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ぼくは最近、あらためて日本史の勉強をしようと思い立ち、網野善彦さんの『日本社会の歴史』(岩波新書)や、『「日本」とはなにか』(講談社学術文庫)などを読んでいる。
これによると日本列島という土地に「日本国」という国家が成立するのは7世紀末だということである。
つまり、縄文時代にも弥生時代にも飛鳥時代にさえも「日本国」「日本人」は存在ぜす、また卑弥呼も聖徳太子も「日本人」ではなかったのだ。

そして「日本国」の成立後、ただちに日本列島全体に「日本国」に統一されたわけではなく、東北地方には「蝦夷(えみし)」といわれる異民族が住んでいて、「日本国」に対し長年激しい抵抗を繰り返していた。
さらに遡って「魏志倭人伝」によると、当時の「倭」は百あまりの国に分かれていたとある。

だから「日本国」が「単一民族」による国家だというのは、日本政府によるでっち上げのウソに過ぎないのだ。
もちろん、国家を統一するにはこのような「ウソ」は不可欠である。
もともと人類はいくつもの小集団に分かれて生活していたのが、互いに侵略を繰り返しながら大集団である「国家」を形成してきた。
「国家」を形成すれば、小集団では不可能だった大事業も可能になり、現代日本人の便利で豊かな暮らしもそれによって支えられている。
しかしそのような「国家」を支えるためには、他国の侵略の歴史を隠蔽し、はじめから「単一民族」かのような「ウソ」を付くこともまた必要なのである。

ところが、国家存亡の危機に見舞われた311直後、日本政府は「ウソ」を突き通すことを止め、福島県民を公然と「差別」したのだ。
いや実際、これは特定地域の問題ではなく、いわゆる「庶民階級」に対する差別であって、被曝した庶民は東京でもどこでも、日本政府から「差別」を受けている。
例えば全国の学校給食には、福島さんの汚染が疑われる食材が混入されているが、そのような「庶民階級」の子供達も、日本政府から「守るべき自国民の子供」という扱いから除外され、「差別」されている。
日本国は「民主主義」を採用した「近代国家」のはずが、しかしそれは建前の「ウソ」でしかなかったことが、311の一件でより明らかになってしまった。

日本政府が「庶民階級」を差別するのであれば、差別は差別を産み、差別された者はさらに下層の者を差別するかもしれない。
その意味でこれからの日本には、福島県民に対する「醜悪な差別」が発生しないとも限らない。
非常にやるせない気持ちになるが、しかしこのような「負の連鎖」は、少なくとも個人レベルでは断ち切ることができる、とぼくは思っている。

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このような人間の「差別感情」とは何なのか?を自分なりに考えると、動物が持つ「同種の区別」という認識能力に行き当たる。
動物にとっては子孫を残すことが最重要項目であり、そのためにはさまざまな動物の中から「同種の区別」をして、交尾可能な異性を見つけ出す必要がある。
つまり「同種の区別」という「差別感情」は、動物として不可欠な基本的能力でもあるのだ。

ところが人間の場合は、例え生物学的に同種の異性であっても、必ず交尾が成立するとは限らない。
「好み」の問題もあるが、それより「文化」の違いが大きいと言える。
「文化」とは、人間の世界認識や価値判断の基礎をなす「行動プログラム」だと言い換えることができる。
だから生物学的に同種のホモ・サピエンスであっても、お互いの「行動プログラム」が異なれば「別種の生物」として認識されてしまうことがある。

そもそも人間以外の動物は、種が違えば「行動プログラム」も違い、「行動プログラム」の違えば姿は似てても「別種の生物」として認識される。
そして「行動プログラム」が異なる動物間では、文字通り行動様式が異なるため、交尾が成立しないのだ。
動物の「行動プログラム」は身体的特徴と同様に、遺伝的に固定されている。
だから「行動プログラム」の違いは、「別種の生物」であることの証でもあるのだ。

ところが人間の「行動プログラム」は遺伝的に固定されておらず、「言語」というツールによって自前でプログラムされる。
だから同種の人間であっても集団ごとに「行動プログラム」が異なり、それがさまざまに異なる「民族」や「国家」や「身分」などとなって表れる。
つまり同じ人間どうしても「民族」や「国家」や「身分」などの違いによって「差別感情」が生じるのは、実はそこに「別種の生物である」という認識が働いていると考えられる。
人間の「差別感情」は、このように「動物としての基本」に根差しているのだ。

もちろん、科学的な基礎教養を収めた現代人は「人間である以上、誰もが生物学的に同種のホモ・サピエンスである」と認識している。
そして理性的には「あらゆる差別は理不尽で、無くさなくてはならない」と多くの人は考えるだろうと思う。
しかし人間の持つ「差別感情」は、さらに根源的な人間の動物としての特性に根差しているので、理性の力でなかなかぬぐい得ないのだ。

このような、人間に具わる動物として普遍的な感情を、ぼくは「虫識」と名付てみた。
「虫識」は言葉の定義上、自分の意識から消去するのは非常に困難だ。
しかし自分の中に忌まわしい「虫識」があることを自覚すれば、その暴走を押さえてコントロールできる、とぼくは思っている。

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自分の「虫識」に正直に向き合うと、ぼく自身の内部にも福島県民に対する「差別感情」があることに気づいてしまう。
福島に比べ、自分の住む東京の放射線量が少ないと知ればホッとするし、放射線量の高い地域に今だ住み続けている人たちに対し「バカだなぁ」とどうしても思ってしまう、そんな自分が「発見」できてしまう。
ガイガーカウンターで隠しを測定しながら写真撮影をするのも、「注意の喚起」というのはタテマエで、実のところは危機感のない人たちを「差別」して面白がっている。
理性的に考えると不道徳で理不尽極まりないが、「虫識」は理性の及ばない「自動的作用」なのであり、どうしてもぬぐいきれないものがあるのだ。

しかし、こういう理不尽な「虫識」が自分の内に存在することをモニターしていれば、意識が完全に「虫識」に乗っ取られることだけは、防止できるのではないかと思っている。
そして殊にアートの表現は「虫識」を完全に否定し排除してしまっては成り立たず、「虫識」とそれをコントロールする「人識」とのバランスによって実現するものではないか、とも思ってる。
それは例えば「悲壮感とユーモアが同居したような表現」なのであり、ぼく自身もそんな方向を目指している。

これに対し、世の中の多くの人々は単純に「善意」だけで動いているのではないか?と自分には思えてしまう。
本人は「善意」だけで動いてるつもりが、結果として「悪意」に転じてしまって、動物としての自然な「差別感情」を発動させてしまう。
「善意」だけの人は、自らの忌まわしい「虫識」を自覚し直視することもなく、だからかえって「虫識」に支配されその暴走を許してしまう。

例えば菅さんだって枝野さんだって「悪人」のはず無いわけで、「ただちに影響はない」も善意の発言のはずである。
しかしその「善意」が人間的理性に基づく「人識」から出たのではなく、動物として自然な「虫識」のあらわれなのだとすれば、それが他人にとっての「悪意」へと簡単にひっくり返るのは当たり前だと言える。
また、ぼくが放射能の話をすると「危険を煽るんじゃない」と怒ったり、それとなく話題を変えようとする友人知人たちもみな「善意」の人たちで、それゆえに自らの「虫識」を自覚せず、自然な「差別感情」を野放しにしてる。
一般に、「差別に対するタブーはかえって差別の助長につながる」と言われるが、まさにこのことを示しているように思える。

もちろ以上は自分の立てた仮説による「推測」であって、みんなの「本当の気持ち」は分かりようがない。
言ってみれば「自分の気持ち」を元に書いたことであって、もしかすると自分にだけ当てはまることかも知れないし、あるいは全てが間違っているのかも知れない。
しかし、せっかく友人に長文のメールを書いたので、ブログの記事に転用して公開してみた次第である。

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2011年7月12日 (火)

原発と中立

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最近の人々は原発に対して「原発推進派」や「反原発派」や「脱原発派」に分かれたり、放射能に関しても「安全派」「危険派」などに分かれたりしてるが、先日ある雑誌編集者の友人が「ウチの雑誌は中立でいる」というのを聞いてギョッとしてしまった。
まぁ、ぼくはその場では何も言わなかったのだが、「中立でいる」とはなかなか口にできない言葉である。

しかし考えてみると、ぼく自身は原発についても放射能についても、究極的には「中立でいる」と言えるかも知れない。
例えばぼくは、昆虫をはじめとする野生動物の放射能被害については、かなり楽観視している。
例え放射能の影響で奇形の虫が生まれたり、癌で死亡率が上がっても、いずれは正常に戻るはずである。
それにチェルノブイリの報告によれば、放射能汚染で人間が住めなくなった地域に、かえって豊かな自然が戻りつつあるのだ。
そもそも地球上の野生動物たちにとって、その環境は都市化によって破壊し尽くされている。
だからそれに放射能汚染が加わったとしても、そのおかげで人間がいなくなるのであれば、野生動物にとってはかえって都合が良いと言えるかもしれないのである。

それに小出裕章著『放射能汚染の現実を超えて』によると、事故を起こしたスリーマイル島原発を後になって調査したら、圧力容器内部にたまった水の中におびただしい量のバクテリア、単細胞微生物、菌類、ワカメのような藻類が増殖していたらしい。
その場所は、人間だったら恐らく1分以内に死んでしまうほどの強い放射線が出ている環境なのだそうだ。
つまり地球上の生物は、放射能で汚染されたからと言って絶滅することはないのだ。
そもそも地球上に現在のような大気が形成される以前、地球は宇宙からの強い放射線に晒されており、そのような環境で生物は発生したのである。

いや例え放射能に対し耐性を持たない生物であっても、そのほどんとは原発事故が起き蛸とが原因で絶滅することはないだろう。
野生生物にとって原発事故は大きな環境変化と言えるかもしれないが、先に書いたように「都市化」そのものが既に大きな環境変化だし、それ以前にもさまざまな環境変化を乗り越えて、生物たちは生き延びてきたのである。

これは人間も例外ではなく、種としてのホモ・サピエンスは原発事故くらいでは簡単に絶滅しないだろう。
例え放射能汚染によって環境が悪化したとしても、過去の人類は同等以上の過酷な自然環境の中を耐え抜きながら生きてきたのである。
100万年前の縄文時代の人間は、平均寿命が30歳程度で、それだけ自然環境が過酷だったと考えられる。
だから現在「放射性廃棄物が無害になるまで100万年も掛かる」と騒がれているけど、どんなに環境が悪化しても縄文時代に戻るだけだとも言えるのだ。
放射線の被害によって子供の寿命が短くなるとも言われているが、それは縄文時代も同じであって、医学のない時代に生まれた子供が長生きできる確率は、現在よりずっと少ないはずなのだ。

と言う具合に「究極的に」考えると、原発の推進に関しても放射能の危険性についても「中立」の立場を取らざるを得ない。
すなわち、原発派どんどん推進しても構わないし、放射能の被害も全く問題ないと考えても構わない。
もちろん、原発に反対し即時廃止することも、放射能を危険と考えそれに対処することも構わない。
どっち道の道を選んでも、自体は良くも悪くもならないから、まさにどっちでも構わない。

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と、ここまで書いてあらためて気づくのは、このような「中立」の立場は、結局はどういうわけか「原発推進派・放射能安全派」の味方をしても、「反原発派・放射能危険派」の味方にはならない、と言うことである。
原発推進派にとっては、「どっちでも良い」と言われればそれが「じゃあどんどん推進しましょう」と言う理由になるし、放射能安全派にとっては「じゃあ学校給食に汚染食材を出しましょう」と言う理由になる。
ところが原発反対派や放射能危険派にとっては、「どっちでも良い」と言われてもそれが「じゃあどんどん反対します」という理由にはならない。

これは非常に不思議なことのようだが、ふたつ理由を考えてみた。
ひとつは「地球環境の変化」という観点である。
「原発反対派」の人たちは原発によって地球環境が変化(悪化)することを危惧してこれに反対している。
実際311の原発事故では大量の放射能がまき散らされ、地球環境は変化した。
だからなおさら、これ以上の地球環境の変化を食い止めるため、現在稼働している原発の廃止を求めているのだ。
「放射能危険派」の人たちも、放射能汚染による「地球環境の変化」の危険性を訴え、その対応策の必要性を訴えている。
つまり「地球環境の変化」と言う世界の「動き」に対し、人間の方も「動き」で応じようとしているのが「原発反対派」や「放射能危険派」の人たちだと言うことができる。

これに対し「中立派」の人は「なにもしない」ようでいて、実は「地球環境の変化」に伴って動いてしまっている。
回転する地球上で何もしないでただ立っている人は、地球と一緒に「動いて」しまっている。
「地球環境の変化」に対し「何もしない人」は、結果的にはそれでも構わないとする立場の「運動」に荷担することになる。

つまり、「原発推進派」や「放射能安全派」の人たちは、「地球環境の変化」に対し何もしない「中立派」と立場を同じにしている。
福島で原発事故が起きても、これまでと同じように原発を推進するのが「原発推進派」で、これまでと同じように放射能に危険はないと考えるのが「放射能安全派」なのである。
「中立派」の「どっちでも構わない」という立場は、「これまでと同じで構わない」という立場と実質的には同じなのだ。

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もう一つの理由は、ヒトと言う動物種の絶滅と、人間個人の死は同列に考えることはできない、ということである。
例え人類が滅亡しなくとも、自分が死ぬのはイヤだし、自分の子供をはじめ近しいヒトが死ぬのはイヤだと思うのが人間であり、それこそが「死」の問題だ。
これに対し人間以外の動物については「個体の死」ではなく「種の絶滅」という観点で問題が捉えられる。
例えば「パンダを守ろう」というスローガンは、ランランとかフェイフェイなどのパンダ個体の死ではなくて、パンダという「種」の保全に掛かっている。
しかし「人間の命を守ろう」というスローガンは、もちろん「個人」に掛かっている。
もし「人間を守ろう」というスローガンが「種としてのヒト」に掛かっているのなら、「増えすぎた人口を削減し、少数の人間のみ選別しよう」という思想につながりかねない。
いや究極的な「中立派」としてはそれでも構わないのかも知れないが、そうすると必然的に「殺す側」を容認しそれに荷担することになる。

「中立派」という立場は「個人の死」とは両立できず、必ず対立してしまう。
殺されそうな人と、殺そうとする人がいて、これに対し「どっちでも構わない」という立場を取れば、必然的に「殺されそうな人」の味方にはならず、従って「殺そうとする人」の味方になってしまう。
実際に原発事故の放射能に冒され苦しんでいる子供にとって、目の前の「中立派」の人間は明確に「敵」なのだ。
逆に、「原子力推進のため多少の犠牲はやむを得ない」と思ってる人にとって、「どっちでも構わない」という中立派の意見は、自分にとって有利に働くことは明確だ。

というわけで、2つの理由によって「中立派」の人は「原発推進派」「放射能安全派」に荷担し、「地球環境の変化」という危険な状況を容認していることになる。
有り体に言えば「事なかれ主義」なのだが、変化してしまった環境での「事なかれ主義」は、結局は「事が起きること」に荷担してしまっている。
だから逆説的に、ことさら原発に反対したり、放射能の危険性を訴えたりする人たちの方が、文字通りの意味で「事なかれ主義」なのである。
環境が変化してしまった以上、これまで通りの安全な生活を確保するには「事を起こすしかない」のだ。

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とは言え「中立」という言葉自体にも複数の意味があり、単なる「事なかれ主義」ではない「中立派」も考えられる。
例えば雑誌などのメディアであれば、「賛成派」「反対派」の緑極端な意見を平等に載せて、その判断は読者に委ねるというかたちで「中立派」を実現することはできるだろう。
実際にネット上のメディア、「2ちゃんねる」や「twitter」はこの意味での「中立」を実現しており、だからこそ読者の「リテラシー」が重要視されている。
これらのネット上のメディアは「容器」として機能しており、その中には「賛成は」「反対派」をはじめとするさまざまな意見がまぜこぜに入れられている。
というような「容器」としての機能がもし雑誌メディアで実現されているのであれば、その編集者は「ウチの雑誌は中立でいる」と胸を張って言えるだろう。

しかし実際に彼の雑誌を見ると、どうもそのようには見えない。
言ってみれば情報系の総合誌なのだが、そう言う雑誌にしては原発や放射能についての話題が少なく、つまりはそっちの方向へ「偏向している」ように思える。
これが例えばファッション雑誌とか、カメラ雑誌であれば、分野の違う原発や放射能の問題をことさら掲載する必要もないだろう。
しかし総合的な情報誌や、政治や経済や科学などを扱う雑誌がこの問題に消極的だったり、スルーしたりするのは明らかに不自然で、やはりそっちの方に「偏向している」と見られても仕方がない。
そのようなメディアは「容器」の機能を失っており、もう既に「偏向した中身」が詰まっているのである。
だからぼくは友人から「中立」の言葉を聞いて、ギョッとするとともに「さもありなん」と納得してしまったのだ。

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2011年7月11日 (月)

古代ギリシアの情報社会

昨日の投稿で何か書き忘れたと思ってたのだが…
とりあえず、陰謀論動画の続きでもご覧ください(笑)

さて、現代人は自分の五感による「直接知覚」及ばない範囲を「情報」で埋め合わせることで、広範囲に及ぶ世界認識を獲得している。
だから逆に言えば、人々にウソの情報を与えることで、その世界認識を歪めて意のままに操ることも可能になる。
と言うようなことを書いたのだが、これを「現代」に限った現象だと理解するとまさしくアホみたいだ(笑)

そもそも人間が一人で生きられない以上、必ず伝聞による「情報」は必要で、それなくして世界認識はなしえない。
ただ、人類が狩猟採集生活を送っていた少人数の群社会から、農業生活を始め都市を建設する大人数の国家社会に至るに従い、人々の「情報」の依存度はますます高くなる。
人々が大人数で生活するようになるほど、自分が直接見聞きしたのではない「情報」の重要度が高くなる。
「情報」が「現実」に取って代わり、「情報」と「現実」の違いが曖昧になる。
これは情報社会、ネット社会と言われる現代だけの問題ではないのだ。

例えば、プラトン著作によるとその師ソクラテスは「情報」によって死刑判決を受けたのである。
ソクラテスは当時のアテナイ市民から「国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモーン)の祭りを導入し、かつ青年に害悪を及ぼす」と告発され裁判を受けた。
これはソクラテスにとっては事実無根の「情報」であり、そのために市民に向かって「弁明」を試みたのだが、結局それは認められず「死刑」の判決を受けた。

この判決は罪状に対し厳しすぎるようだが、実際には「逃亡しても良い」という暗黙の了解を含めた死刑判決だったらしい。
ところがソクラテスは、友人や弟子たちが必死に逃亡を勧めるのを断固として拒み、自ら毒杯を仰いで死刑となった。

ソクラテスはこの決意の理由を、死の直前の友人や弟子たちとの「対話」で語っているが、これを現代にまで通じる「情報」の問題として解釈することができる。
当時のアテナイ市民を見れば分かるとおり、人間は「情報」を「現実」と錯誤しながら生きている。
ソクラテスに対する告発内容がいかに「偽情報」であっても、アテナイ市民にとってそれは紛れもない「現実」として認識される。

しかしそもそも「真実の情報」と「虚偽の情報」にはどれほどの差があるのか?
例え「真実の情報」であったとしても、それは直接的で能動的な知覚ではなく、間接的で受動的な「情報」であることには違いはない。
いや例え直接知覚であっても、目の前の物体を認識するためにはそれが「リンゴである」とか「石ころである」とか「渋柿である」というような「情報」が不可欠だ。

人間の五感は世界に対し「直接性」に開かれているにもかかわらず、その認識は「間接性」によってしかなし得ない。
アテナイ市民を見て分かるとおり、人々が「現実」であり「真実」だと思っている事は「間接性」によって認識したものであり、原理的に常に虚偽である可能性を含んでいる。

そこでソクラテスは、「情報」による認識世界の「外部」に出ることを模索し、その一環としてアテナイ市民の知識層に向かって情報の不確かさ、すなわち「無知の知」を説いて回った。
そしてこの行為が一部の市民の反感を買い、彼らの「情報操作」のおかげで死刑判決を受けたのだ。

この死刑判決は暗黙の了解で逃亡しても良いことになっていたのだが、しかし逃亡するとソクラテス自身もまた「情報操作」を行うことになり、「情報」による認識世界から永遠に逃れるチャンスを逸してしまう。
だからソクラテスは無実の罪で死刑判決を受けたことを幸いに、これを積極的に受け入れた。
単なる自殺でもなく、実際に罪を犯して死刑になるのではなく、無実の罪で死刑になり、しかも逃亡のチャンスがあるにもかかわらずそれをフイにすることに意味がある。
全ては「情報の世界に囚われている」という人間の運命を「超越」する試みなのである。
だからソクラテスの心は悲壮感が微塵もなく、期待と希望と喜びに満ちている。

だったら現代の情報社会、ネット社会に生きる自分には何ができるのか?
と言うのはぼくには見当も付かないが、しかし昔の偉人はある「高み」をわれわれに見せてくれる。
人間は普通、地を這うような生活を送っているのだが、これに対し過去の偉人はとんでもない「高み」を見せてくれる。
いや、二足歩行する人間には動物のように「地を這う」という自覚はないのだが、過去の偉人はそれに気づくための「メタ情報」を与えてくれるのだ。

「メタ情報」とはまさに「情報を超えた情報」なのだが、それはしばしば「陰謀論」として理解される。
「陰謀論」とは「みんなが知らない、あなただけが知る情報」だから一見「メタ情報」に思えてしまう。
しかしそれは単なる勘違いで、全ての「陰謀論」は情報にしか過ぎないのであり、相手のおだてに乗って簡単に信じたりしないよう気をつけなくてはならない。
と言うわけで、陰謀論の動画の続きをどうぞ(笑)

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2011年7月10日 (日)

トランスフォーマーと陰謀論

先日DVDで映画『トランスフォーマー』を見たのだが、なかなか興味深い描写があった。
この映画での「トランスフォーマー」とはエイリアンの一種なのだが、これが地球に襲来しアメリカ軍と交戦する極秘映像がネットに流出し、それを見た大学生が「これ、CGじゃないんだぜ!」叫ぶシーンがある。
もちろんそれは実際にはCGで描かれたエイリアンなのだけど、映画の中では「現実」として扱われている。
しかしCG技術が発達した結果、テレビやネットに流れた映像が本物なのかCGなのか、その判別ができにくくなっているのもまた事実だ。
という現在の世界が置かれた状況を、この映画シーンは皮肉を込めてさりげなく描いているのだ。

現代はグローバル化の時代であり、人々の目は国境を越えた世界規模へと開かれている。
しかし個人の能力には限界があり、実際の自分の目で世界をくまなく見て歩くことはできない。 だから自分が実際に見ることのできない世界規模の状況は、「情報」を使って認識することになる。
自分の「生の視覚」が及ばない隙間を「情報」で埋めながら、世界規模の認識を獲得している、と言い換えることもできる。
現代人は自らの五感による「直接知覚」の他に、情報という「間接知覚」を使いながら、自らの「環世界」を認識している。
直接知覚は自ら現地に赴いて見聞きする「能動行為」であるのに対し、情報による間接知覚は「受動行為」だ。

だからもし、与えられた情報に「ウソ」が含まれている場合、その人が認識する「環世界」もまたウソに歪められてしまう。
他人に「ウソの情報」を与え、その「環世界」を自分の思うがままに歪めてしまう行為を「洗脳」と呼ぶのだとすれば、情報化社会に生きる現代人の多くが「洗脳」の危機にさらされている。
と、原理的に言うことができるだろう。
もちろん、原理の存在とその実行は別問題だが、こういう状況だからこそまことしやかな「陰謀論」も囁かれるようになる。


これは、前回の記事で紹介した「陰謀論」を唱えたシリーズ動画の続き。
ここでは311の取材をしていた現地特派員が、貿易センタービルに突っ込んだ2機目の旅客機に対しノーコメントだったことを引き合いに出し「飛行機はCGなので現場の人には見えていない」「だから飛行機は突っ込んでいなかった」と結論づけている。

だがしかし、現地特派員だってたまにはよそ見するだろうし、例え見てたとしても想像を絶する出来事に事態を把握できなかっただけかも知れない。
いやもしかするとこの動画自体、「特派員の音声」だけを他ニュースから合成した「偽ニュース映像」の可能性だってある。
このように、あらゆる情報に騙されないよう気をつける必要がある。

しかし、この「陰謀論」の内容がいかに荒唐無稽でバカらしく思えたとしても、それを100%否定する根拠をわれわれは持たない。
だからぼく自身としては、このシリーズ動画が主張する「911はねつ造だった」とか「アメリカの月面到達もねつ造だった」とか「世界中の政治家やセレブが悪魔教の信者だ」とか、いちいち文字に書き起こすのもバカらしいほどの「陰謀論」が、例え事実であったとしても、大して驚きはしないだろう。
事実がどうであろうとも、「情報」というバーチャルリアリティーの中でわれわれが生きていることに、変わりはないのだから。

いや実際は、ぼくは日本の311以降のあまりに荒唐無稽な出来事の数々に心底驚いてしまったのだが、それ以来、たいていのことでは驚かない耐性が身に付いてしまったのだ(笑)
大地震や大津波にももちろん驚いたが、それは自然現象なのでその意味では納得ができる。
しかしぼくははじめに強い衝撃を受けたのが、原発事故に対し日本政府が何の対応もせず、子供たちを含めた近隣住民を事実上「見殺し」にしようとしたことだ。
続いて政府は子供たちを疎開させず、そのかわりに放射能の年間許容量を基準の20倍も引き上た。
まぁ、例を挙げればきりがないが、日本政府の一連の対応は全くもって荒唐無稽としか言いようがない。
このような政府の対応に対する日本国民の反応も不思議なもので、最近では@YutanLoveSea99さんの一連のツイートにあらためて衝撃を受けてしまった。

だからもし、たとえ「311は小型核爆弾による人工地震によって引き起こされた」というデタラメな陰謀論が「事実」だったとしても、もう既に自分が存在する現実が十分にデタラメなのだから、それ以上は大して驚きもしないだろう。
むしろ、日本政府が「悪い外国人」の手先で、そのために対応や言動がおかしかったのだとすれば、そっちの方が辻褄が合って安心する(笑)
ぼく自身も「人間は昆虫だった」なんて言う珍説を唱えずに済んだかもしれないのだ。


と言うわけで、「陰謀論」に対しあまりに強い拒否反応を示す人は、何か別のものに「洗脳」されている可能性がる(笑)
安易に他人に騙されない人は、「陰謀論」も知的なジョークとして楽しむくらいの余裕があるのかもしれない。

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「陰謀論」の楽しみ方


「陰謀論」大好きな友人に教えてもらった動画。
シリーズもので何本かに分かれている。
最初の動画は、911にジェット機が突っ込んだ映像の「煙」が不自然で、だから「作り物CGなんです。世界中が騙されているんです。」という主張。
しかしあらためて考えると、世界中を騙すためのCG映像が、なぜ簡単にばれるようなコピペで作られているのか?
ハリウッド映画のCGだって、もっと気を遣って巧妙に作るはずなのに・・・ということが疑問だ。

で、思い付くのがこの「CGの煙」そのものが、ありもしない「陰謀論」をでっち上げるための「ニセ映像」である可能性だ。
この動画はシリーズの中盤で「自分で調べて、自分で考えましょう」と視聴者に呼びかけている。
しかしそう言われて、実際に自分で他のニュース映像などを検索し、上記の動画とキチンと比較検証する人はどれだけいるだろう?
ぼくはもちろん、そう言う面倒なことはしてないし、多くの人も同じではないかと思うのだ。

たいていの人々は「自分で調べて、自分で考えましょう」と呼びかけられると、「そう呼びかけている人の言葉は信頼できる」と判断し、自分自身で調べる手間を省略してしまう。
そのような人間の心理を応用すれば、「あなたは洗脳されている」と呼びかけることで「逆洗脳」を行うこともできるだろう。

それに、「陰謀論」とは多くの人に知られていないからこそ「陰謀論」なのであり、それを相手に伝えることは「あなただけが知っている」という一種の特権意識を与えることでもある。
だから「陰謀論」を吹き込まれている人は、相手のおだてに乗せられて、良いように操られている可能性がある。

いや「洗脳」とか「操られる」は大袈裟な話として、多くの場合「陰謀論」は単なるジョークに過ぎず、それを相手にマジに信じ込ませるのも「陰謀論」の楽しみ方のようだ。
特に日本ではまだ「陰謀論」はなじみが薄く、コロッと騙されマジに受け取る人も多いらしい。

という可能性を頭に入れて、続きの動画を楽しみましょう(笑)

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宗教的思考と芸術の理解

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(前回の記事の続きですが、twitterのまとめが長くなったので分割しました。)

哲学の他に「分からないこと」を扱う分野として「宗教」がある。
ぼくは去年、旧約と新約と両方の「聖書」を読んでみたが、かなり荒唐無稽で理不尽なことが書かれており(特に旧約)、どのようにありがたい書物なのかがサッパリ分からない。
ということに驚いてしまった。

その後、「聖書」は文字通り理解しようとしても無理なのは当たり前で、だからそれを「解釈」した解説書を読む必要がある、ということが分かってきた。
そこで小室直樹、橋爪大三郎、佐藤優などの入門書を読んで、今は宗教家の手島郁郎の本を読んでる途中だ。

聖書というのは不思議な書物で、一読しただけでは意味不明なのにもかかわらず「価値のない本」をして捨て置かれず、逆にその解釈の歴史が膨大に蓄積されている。
もちろんその解釈は一元的ではなく、ユダヤ教からキリスト教が分裂し、キリスト教もカソリックやプロテスタントや、さらにその下位の細かい派閥に分裂してる。

つまり「聖書」を核とした宗教は、「聖書」からいかに豊かな解釈を引き出すか?という一種の知的行為なのである。
それは哲学的思考や科学的思考などとも違っていて、「無宗教」を自称する多くの日本人にはなじみのない種類の「頭の使い方」と言えるかもしれない。

とは言え「宗教とはなにか?」の神髄はぼくにはまだほとんど分かっていない。
しかしどうやら宗教もまた、「分かること」で埋め尽くされた環世界を脱し、「分からないもの」の世界へ向かう方法論であるようだ。
ただし「神」や「キリスト」など人間にとって「分からないもの」を、安直に「分かるもの」に置き換えて理解したつもりになると、それは宗教ではなく「偶像崇拝」になってしまう。
だから「分からないもの」はあくまで「分からないもの」として理解しなければ宗教にならない。
そうすると哲学との違いがよく分からなくなるが、プラトン哲学もゼウスの神に誓いを立てたりするのだ。
哲学と宗教はその根っこの部分が同じで、プラトンの時代はその両者が未分化のようであり、現在のぼくの理解もそのような状態にある。

ともかく、たいていの人々は「分かるもの」で埋め尽くされた自らの環世界に満足している。
しかしさまざまな宗教や哲学が、その状態が実は「囚われの身」であることを指摘している。
ところが「分かるもの」の世界に長くとどまりすぎた者は、「分からないもの」の世界へ向かう足がかりさえ知らない。

プラトンの有名な「洞窟の例え」にもあったが、暗闇の洞窟の中から外の世界に出るには、自分の手を導いて引っ張り上げてくれるような「案内人」が必要だ。
そしてそのために哲学や宗教が役に立つ。
哲学や宗教は「洞窟の外」がどれだけ豊かで広大な世界なのか、手を導いて教えてくれる。

まぁ、ぼく自身はどうひいき目に見ても、洞窟の出口あたりまで来て、外光のまぶしさに目がくらんでいる…という程度の状態と言えるかもしれない。
だからこれ以上のことは何とも言えないけど、とりあえずはそんなところ。
で、この話は「芸術が分からない」と言うことにつなげようと思ってたのだが…

「分かること」で埋め尽くされた環世界に「芸術」を取り込むと、「自分に分かる芸術」すなわち「自分の好きな芸術」だけをセレクトすることになる。
つまり「分からない芸術」はその他の「分からないもの」と共に環世界から排除されてしまう。
もちろんそれで満足できればいいのだが、これを例えば哲学に置き換えて考えると、「入門書」で満足してる素人と同じであることに気づいてしまう。

もちろん「入門書」だって役に立つし、誰もが哲学の専門家になる必要はないだろう。
しかし仮にも「美術家」とか「アーティスト」を名乗る人間が、入門書レベルの素人で良いのだろうか?
いや実際、今の日本ではそれで「良い」とされており、それこそが「自由」だとされてるようだ。

まぁ、ぼくとしては自分なりに環世界の「外」に出ようとして、それが「非人称芸術」というコンセプトになった。
しかしぼくの「非人称芸術」はあくまで「快楽原則」の内側にあり、その状態にとどまる限り、本当の意味で環世界の「外」に出ることは不可能だ。

デュシャンは「レディ・メイド」のコンセプトによって、芸術から「自分の好み」を排除した。
それは芸術を「分かるもの」に埋め尽くされた世界から開放し、手の届かないはるか彼方へ引き上げた行為だと言えるかもしれない。
と考えるとぼくの「非人称芸術」は、そこから逆行し退化していると言えるのだ。

もしかすると「キリスト教とはなにか?」をある程度理解できなければ「芸術とは何か?」も理解できないかも知れない。
聖書の解釈に始まるキリスト教は、物事を多面的に捉える思考法の一種だと考えることができる。
いっぽう、その思考法を知らない「無宗教」を自覚する日本人の多くは、物事を一面的にしか捉えることができない。

いや日本古来の宗教だって「八百万の神」だから、解釈の多様性はあるはずだ。
実際、この日本古来の宗教観は、丸山眞男が指摘した「蛸壺型」思考に反映されている。
確かに「蛸壺型」思考で物事を捉えると、人々の解釈は多様化する。
しかし、それは全体から見て人々の解釈に違いが生じる、という意味での多様化でしかない。
つまりそれぞれ個人の解釈は「自分の好み」に一元化され、多様性がないというのが「蛸壺型」思考の特徴なのだ。

ともかく、キリスト教の信仰者は、無宗教の日本人には及びも付かない「特殊な思考法」をしているらしく、それをマスターすれば「芸術とは何か?」もより深く理解できるかもしれない。

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入門書で「分かること」の範囲

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「分かる」という事について考えてみたのだが、ますぼくは以前は思想や哲学や宗教の「入門書」を読んで、それを分かろうとしていた。
良く読んだのは内田樹、橋爪大三郎、中島義道、高田明典、仲正昌樹、等々…
どれも非常に分かりやすい入門書で、大変に役に立った。

しかしぼくの問題は、分かりやすい「入門書」を読んで分かったのだから、難しい原著は読まなくても良い、と思っていたことにあった。
確かに内田樹さんの本にはそんなようなことが書いてあり、ぼくはそれを真に受けたのだった。
しかし考えてみれば内田樹さん自身は学者なので、当然原著を(しかも原文で)読んでいる。

ぼくも難しい哲学や思想の原著をちゃんと読んでみたいと思うけど、人間の頭脳力には先天的な格差があって、ぼくにはどうしても難しい本は読めないのだ。
「人間だったら人間が書いたどんなレベルの本も読めて当たり前」と考えるなら、ぼくは明確な「知的障害者」と言うことになるw

ところで、知的障害者は健常者から隔離すべき、というのは古い近代の考え方だ。
近代は人間の定義を狭く捉え、知的障害者を社会の表層から「施設」へと隔離しその存在を隠蔽しようとした。
しかし近代が行き詰まると、人間の定義を広く捉え、人間の多様性を認める社会へと移行する。

これからの社会は前近代がそうだったように、知的障害者だってそれに臆することなく一般社会で堂々と暮らせばいい、ということになる。
同じくたとえ自分が「難しい本が読めない」という意味での「知的障害者」だしても、障害者向けの「入門書」だけ読んで済ませるのは前近代的な考えで、理解できなくとも臆せず難しい原著を読めば良いのだ。

いや「知的障害者」の例えはややこしくて誤解を招くので何ですが…
ともかく、思想や哲学や宗教の「入門書」は有効だが、それだけ読んでるとある「限界」を超えることができない。
逆に言うとそのような「限界」の範囲内で書かれてるのが「入門書」なのだと言える。
しかしそもそも思想や哲学や宗教はある「限界」を超えるために存在している。
だから入門書の存在は矛盾してる…

哲学の原著は、古典であるプラトンの著作が分かりやすいと先輩に勧められて読んでみた。
確かに「哲学のためなら死も厭わない」として実際に死刑になったソクラテスの生き方は、「入門書」に書かれる哲学のレベルをはるかに超えている。

そして、プラトンの著作はソクラテスの死のエピソードに集約されるように、「死」の問題へとまっすぐに向き合っている。
「死」とは人間にとって「分からないもの」の筆頭であり、そのように「分からないもの」に立ち向かう態度が「無知の知」なのだ。
つまり、哲学の入門書が「分かること」を目的に書かれているのに対し、プラトンの著作は「分かること」を明確に否定し、「分からないこと」に開かれているのが哲学であると説いている。

日常生活において、人は「分かること」を増殖させることによって、認識のテリトリーを拡大させる。
しかし哲学はその反対に、人間にとって「分からないこと」を無限に増殖させようとする行為で、それは「分かること」で埋め尽くされた日常世界からの逸脱行為でもある。

人間個人が認識する、「分かること」で埋め尽くされた世界は、動物行動学の用語で「環世界」という。
動物の「環世界」は遺伝的にその範囲が限定されているが、人間は「言語」というツールを使い「環世界」をいかようにも構築することができる。
しかし人間の構築する「環世界」は欠陥品で、どれにも「穴」が開いている…

逆に言えば、人間は自分の環世界に開いた「穴」を認識することができる。
そして、このことが他の動物との違いになっている。
人間の「環世界」に開いた「穴」とは、「分からないこと」すなわち「死」とか「存在」とか「永遠」とか「神」などの問題だ。

人間はいつかは死ぬが、死んだらどうなるかは誰にも分からない。
また、生まれる以前の「自分」がどこにどのような状態にあったかも誰も知らない。
つまり人間にはそのように「分からないこと」を認識する能力があり、それが「分かること」で埋め尽くされた環世界にぽっかり開いた「穴」になる。

人間は普通、自分の環世界に開いた「穴」をできるだけ矮小化し、「穴」から目をそらしながら生活する。
例えば自分の「死」について、恐れるあまり考えないようにして忘れている。
だがプラトンの哲学は、認識世界に開いた「穴」の向こう側へと向かっている。

プラトンの著作は、認識世界を「分かること」で埋め尽くそうとする一般大衆と、「分からないこと」に開かれようとするソクラテスとの対比(対立)が描かれている。
ソクラテスは、大衆に「分かること」を教え金銭を受け取るソフィストと呼ばれる人々を否定したが、現代の「入門書」にも同じことが当てはまるかもしれない。

もちろん現代の入門書の著者が、必ずしもソクラテスが非難したソフィスト的人物であるとは限らない。
しかし「入門書」だけ呼んで済ませる態度は、ソクラテスが非難した知的な怠惰だとは言えるだろう。
要するに「分かったつもり」で何か話を話す人は、端から見ると単なるドヤ顔にしか見えない、ということである。

つまり哲学が「分からないこと」を扱う学問であるならば、その内容を必ずしも「分かる」必要がないのである。
そして難しい本が読めない自分でも「分からない」なりに「分からないこと」それ自体を認識しながら読めばいいのだ。
「分からないこと」の認識は、「分かること」で埋め尽くされた日常世界の向こうにある。
ということが何となく分かってきた

とは言えぼくも難しい本はあまり読んでなくて、いまのところは月一回の「ラカン読書会」に参加する程度に過ぎない。
ラカンの本はお経のようにチンプンカンプンだが、それをみんなで有り難がって読む「世界」があるという、その「認識」そのものがまずは重要なのである。

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2011年7月 9日 (土)

芸術の理解と苦痛原則

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自分が「芸術が分からない」と悩んできたことの意味が分かったのだが、「快楽原則」では芸術は分からない、と言うことが分かった!
哲学や宗教が快楽原則で理解し得ないのと同じ。
そもそも「知ろう」とする行い自体に苦痛が伴うわけで、単なる快楽原則ではなしえないのだ。

ぼくも別に芸術が分からない訳じゃなくて、「非人称芸術」という概念で自分なりに芸術を捉えていた。
するとそれ以外の「人称芸術」は否定的に捉えることになり、つまりは「キライ」ということになる。
キライなものは分からないのであって、だから「芸術が分からない」と言うことになる。

とは言え、自分が提唱する「非人称芸術」も、自分で分かってるつもりで分かってないかも知れない。
その本当の意味、あるいは妥当性は「非人称芸術」が否定する芸術(人称芸術)との比較によってより明確になるはずだ。
しかしぼくは「芸術が分からない」のだから、それが分かるようになる必要がある。

芸術を理解しようと思って美術館やギャラリーで作品を見ると、これがなかなか苦痛で困ってしまう。
もちろん好きな作品を見るのは快楽だが、理解できない作品、嫌いな作品ばかりが並んでると苦痛になる。
そもそも美術館という限られたスペース内で、一定の大きさの「作品」を見て回る事自体が、自分には非常に苦痛だ。

ぼくは「眼の快楽」を追求した果てに、美術館の外の「路上」に「非人称芸術」を見出した。
「非人称芸術」の規模は「作品」という限界はもちろん美術館(建築)をも超えて無限に広がる。
と言う感覚に心酔すると、普通の意味での美術鑑賞がバカらしく思えてくる。

しかし「非人称芸術」とは何なのか?を真剣に考える上で「芸術なんかクダラナイ」とただ否定するだけでは「考えが足りない」のであり、結局のところ「芸術とは何か?」をよく考える必要がある。

「芸術とな何か?」を理解するには美術館やギャラリーに足繁く通い、出来るだけ多く作品を見る必要がある。
しかしその事自体が苦痛で、どうも足が向かわない。
そこでぼくは「芸術とは何か?」のベースとなる哲学や宗教の本を読むようになった。
ぼくは読書も苦手なのだが、勉強とはそもそも苦痛が前提なので、そう言うもんだと受け入れることができる。
それにいつの間にか「このままではバカのままで終わってしまう」という焦燥感に取り憑かれるようになり、無理していろんな本を読むようになった。
それは明らかに快楽原則ではないし、苦痛そのものが目的でもなく、苦痛を通してのみ到達できる領域というのがあり、それが「知ること」の喜びである、ということだけは分かってきた。

ぼくは快楽原則によらない読書法を知っていて実践していたのに、何故かそれを芸術鑑賞に当てはめていなかった。
と言うことに最近気づいたのだ(笑)
基本的に読書が苦痛なのと同様、美術鑑賞も苦痛なのであり、苦痛を通して到達したところに「芸術が分かる」という領域(と言うかその入り口)がある。

読書しても「好きな本」ばかり読んでても頭はよくならず「良い本」を読まなければならない。
同じく「好きな作品」を見ても「芸術とは何か?」は分からず「良い作品」を見なければならない。
そして「良い作品」とは「芸術が分からない人」にとって理解できない、見るのが苦痛な作品でもあるはずなのだ。

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