« 芸術の理解と苦痛原則 | トップページ | 宗教的思考と芸術の理解 »

2011年7月10日 (日)

入門書で「分かること」の範囲

Sp7030209
「分かる」という事について考えてみたのだが、ますぼくは以前は思想や哲学や宗教の「入門書」を読んで、それを分かろうとしていた。
良く読んだのは内田樹、橋爪大三郎、中島義道、高田明典、仲正昌樹、等々…
どれも非常に分かりやすい入門書で、大変に役に立った。

しかしぼくの問題は、分かりやすい「入門書」を読んで分かったのだから、難しい原著は読まなくても良い、と思っていたことにあった。
確かに内田樹さんの本にはそんなようなことが書いてあり、ぼくはそれを真に受けたのだった。
しかし考えてみれば内田樹さん自身は学者なので、当然原著を(しかも原文で)読んでいる。

ぼくも難しい哲学や思想の原著をちゃんと読んでみたいと思うけど、人間の頭脳力には先天的な格差があって、ぼくにはどうしても難しい本は読めないのだ。
「人間だったら人間が書いたどんなレベルの本も読めて当たり前」と考えるなら、ぼくは明確な「知的障害者」と言うことになるw

ところで、知的障害者は健常者から隔離すべき、というのは古い近代の考え方だ。
近代は人間の定義を狭く捉え、知的障害者を社会の表層から「施設」へと隔離しその存在を隠蔽しようとした。
しかし近代が行き詰まると、人間の定義を広く捉え、人間の多様性を認める社会へと移行する。

これからの社会は前近代がそうだったように、知的障害者だってそれに臆することなく一般社会で堂々と暮らせばいい、ということになる。
同じくたとえ自分が「難しい本が読めない」という意味での「知的障害者」だしても、障害者向けの「入門書」だけ読んで済ませるのは前近代的な考えで、理解できなくとも臆せず難しい原著を読めば良いのだ。

いや「知的障害者」の例えはややこしくて誤解を招くので何ですが…
ともかく、思想や哲学や宗教の「入門書」は有効だが、それだけ読んでるとある「限界」を超えることができない。
逆に言うとそのような「限界」の範囲内で書かれてるのが「入門書」なのだと言える。
しかしそもそも思想や哲学や宗教はある「限界」を超えるために存在している。
だから入門書の存在は矛盾してる…

哲学の原著は、古典であるプラトンの著作が分かりやすいと先輩に勧められて読んでみた。
確かに「哲学のためなら死も厭わない」として実際に死刑になったソクラテスの生き方は、「入門書」に書かれる哲学のレベルをはるかに超えている。

そして、プラトンの著作はソクラテスの死のエピソードに集約されるように、「死」の問題へとまっすぐに向き合っている。
「死」とは人間にとって「分からないもの」の筆頭であり、そのように「分からないもの」に立ち向かう態度が「無知の知」なのだ。
つまり、哲学の入門書が「分かること」を目的に書かれているのに対し、プラトンの著作は「分かること」を明確に否定し、「分からないこと」に開かれているのが哲学であると説いている。

日常生活において、人は「分かること」を増殖させることによって、認識のテリトリーを拡大させる。
しかし哲学はその反対に、人間にとって「分からないこと」を無限に増殖させようとする行為で、それは「分かること」で埋め尽くされた日常世界からの逸脱行為でもある。

人間個人が認識する、「分かること」で埋め尽くされた世界は、動物行動学の用語で「環世界」という。
動物の「環世界」は遺伝的にその範囲が限定されているが、人間は「言語」というツールを使い「環世界」をいかようにも構築することができる。
しかし人間の構築する「環世界」は欠陥品で、どれにも「穴」が開いている…

逆に言えば、人間は自分の環世界に開いた「穴」を認識することができる。
そして、このことが他の動物との違いになっている。
人間の「環世界」に開いた「穴」とは、「分からないこと」すなわち「死」とか「存在」とか「永遠」とか「神」などの問題だ。

人間はいつかは死ぬが、死んだらどうなるかは誰にも分からない。
また、生まれる以前の「自分」がどこにどのような状態にあったかも誰も知らない。
つまり人間にはそのように「分からないこと」を認識する能力があり、それが「分かること」で埋め尽くされた環世界にぽっかり開いた「穴」になる。

人間は普通、自分の環世界に開いた「穴」をできるだけ矮小化し、「穴」から目をそらしながら生活する。
例えば自分の「死」について、恐れるあまり考えないようにして忘れている。
だがプラトンの哲学は、認識世界に開いた「穴」の向こう側へと向かっている。

プラトンの著作は、認識世界を「分かること」で埋め尽くそうとする一般大衆と、「分からないこと」に開かれようとするソクラテスとの対比(対立)が描かれている。
ソクラテスは、大衆に「分かること」を教え金銭を受け取るソフィストと呼ばれる人々を否定したが、現代の「入門書」にも同じことが当てはまるかもしれない。

もちろん現代の入門書の著者が、必ずしもソクラテスが非難したソフィスト的人物であるとは限らない。
しかし「入門書」だけ呼んで済ませる態度は、ソクラテスが非難した知的な怠惰だとは言えるだろう。
要するに「分かったつもり」で何か話を話す人は、端から見ると単なるドヤ顔にしか見えない、ということである。

つまり哲学が「分からないこと」を扱う学問であるならば、その内容を必ずしも「分かる」必要がないのである。
そして難しい本が読めない自分でも「分からない」なりに「分からないこと」それ自体を認識しながら読めばいいのだ。
「分からないこと」の認識は、「分かること」で埋め尽くされた日常世界の向こうにある。
ということが何となく分かってきた

とは言えぼくも難しい本はあまり読んでなくて、いまのところは月一回の「ラカン読書会」に参加する程度に過ぎない。
ラカンの本はお経のようにチンプンカンプンだが、それをみんなで有り難がって読む「世界」があるという、その「認識」そのものがまずは重要なのである。

|

« 芸術の理解と苦痛原則 | トップページ | 宗教的思考と芸術の理解 »

思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 芸術の理解と苦痛原則 | トップページ | 宗教的思考と芸術の理解 »