古代ギリシアの情報社会
昨日の投稿で何か書き忘れたと思ってたのだが…
とりあえず、陰謀論動画の続きでもご覧ください(笑)
さて、現代人は自分の五感による「直接知覚」及ばない範囲を「情報」で埋め合わせることで、広範囲に及ぶ世界認識を獲得している。
だから逆に言えば、人々にウソの情報を与えることで、その世界認識を歪めて意のままに操ることも可能になる。
と言うようなことを書いたのだが、これを「現代」に限った現象だと理解するとまさしくアホみたいだ(笑)
そもそも人間が一人で生きられない以上、必ず伝聞による「情報」は必要で、それなくして世界認識はなしえない。
ただ、人類が狩猟採集生活を送っていた少人数の群社会から、農業生活を始め都市を建設する大人数の国家社会に至るに従い、人々の「情報」の依存度はますます高くなる。
人々が大人数で生活するようになるほど、自分が直接見聞きしたのではない「情報」の重要度が高くなる。
「情報」が「現実」に取って代わり、「情報」と「現実」の違いが曖昧になる。
これは情報社会、ネット社会と言われる現代だけの問題ではないのだ。
例えば、プラトン著作によるとその師ソクラテスは「情報」によって死刑判決を受けたのである。
ソクラテスは当時のアテナイ市民から「国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモーン)の祭りを導入し、かつ青年に害悪を及ぼす」と告発され裁判を受けた。
これはソクラテスにとっては事実無根の「情報」であり、そのために市民に向かって「弁明」を試みたのだが、結局それは認められず「死刑」の判決を受けた。
この判決は罪状に対し厳しすぎるようだが、実際には「逃亡しても良い」という暗黙の了解を含めた死刑判決だったらしい。
ところがソクラテスは、友人や弟子たちが必死に逃亡を勧めるのを断固として拒み、自ら毒杯を仰いで死刑となった。
ソクラテスはこの決意の理由を、死の直前の友人や弟子たちとの「対話」で語っているが、これを現代にまで通じる「情報」の問題として解釈することができる。
当時のアテナイ市民を見れば分かるとおり、人間は「情報」を「現実」と錯誤しながら生きている。
ソクラテスに対する告発内容がいかに「偽情報」であっても、アテナイ市民にとってそれは紛れもない「現実」として認識される。
しかしそもそも「真実の情報」と「虚偽の情報」にはどれほどの差があるのか?
例え「真実の情報」であったとしても、それは直接的で能動的な知覚ではなく、間接的で受動的な「情報」であることには違いはない。
いや例え直接知覚であっても、目の前の物体を認識するためにはそれが「リンゴである」とか「石ころである」とか「渋柿である」というような「情報」が不可欠だ。
人間の五感は世界に対し「直接性」に開かれているにもかかわらず、その認識は「間接性」によってしかなし得ない。
アテナイ市民を見て分かるとおり、人々が「現実」であり「真実」だと思っている事は「間接性」によって認識したものであり、原理的に常に虚偽である可能性を含んでいる。
そこでソクラテスは、「情報」による認識世界の「外部」に出ることを模索し、その一環としてアテナイ市民の知識層に向かって情報の不確かさ、すなわち「無知の知」を説いて回った。
そしてこの行為が一部の市民の反感を買い、彼らの「情報操作」のおかげで死刑判決を受けたのだ。
この死刑判決は暗黙の了解で逃亡しても良いことになっていたのだが、しかし逃亡するとソクラテス自身もまた「情報操作」を行うことになり、「情報」による認識世界から永遠に逃れるチャンスを逸してしまう。
だからソクラテスは無実の罪で死刑判決を受けたことを幸いに、これを積極的に受け入れた。
単なる自殺でもなく、実際に罪を犯して死刑になるのではなく、無実の罪で死刑になり、しかも逃亡のチャンスがあるにもかかわらずそれをフイにすることに意味がある。
全ては「情報の世界に囚われている」という人間の運命を「超越」する試みなのである。
だからソクラテスの心は悲壮感が微塵もなく、期待と希望と喜びに満ちている。
だったら現代の情報社会、ネット社会に生きる自分には何ができるのか?
と言うのはぼくには見当も付かないが、しかし昔の偉人はある「高み」をわれわれに見せてくれる。
人間は普通、地を這うような生活を送っているのだが、これに対し過去の偉人はとんでもない「高み」を見せてくれる。
いや、二足歩行する人間には動物のように「地を這う」という自覚はないのだが、過去の偉人はそれに気づくための「メタ情報」を与えてくれるのだ。
「メタ情報」とはまさに「情報を超えた情報」なのだが、それはしばしば「陰謀論」として理解される。
「陰謀論」とは「みんなが知らない、あなただけが知る情報」だから一見「メタ情報」に思えてしまう。
しかしそれは単なる勘違いで、全ての「陰謀論」は情報にしか過ぎないのであり、相手のおだてに乗って簡単に信じたりしないよう気をつけなくてはならない。
と言うわけで、陰謀論の動画の続きをどうぞ(笑)
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