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2011年7月20日 (水)

芸術と新しさの追求

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先日、同世代の写真家と長電話してたのだが、写真に限らずアートの表現は新しい事をやらなければ意味が無く、しかしすでに大抵の事は過去になされてしまっているので、業界としては行き詰まってる、という話になった。
しかし本当にそうだろうか?とその時言い返せなかった事を考えてみる。

哲学の分野でも、哲学的問題は過去の偉大な哲学者達によってほとんど考え尽くされており、この先画期的な哲学的発見は相当に困難だろう、などと言われてるらしい。
アートや哲学に限らずどの分野でも「新しさの追求」は行き詰まっており、それがポストモダンと言われる現在の状況だろう。

ぼくもアートの本質は「新しさの追求」にあると思っていたのだが、最近はどうもそうではないような気がしてきた。
それは最近ちょっと勉強している「哲学」から類推した事で、つまり哲学の本質が「新しさの追求」に無いのであれば、アートもまた同じだと考えられるのだ。

「哲学」とは言ってもぼくはプラトンしか読んでないのだが、これによると哲学の本質は「世間体からの逸脱」にあると読める。
世間体とはその文化に固有の「行動プログラム」であり「プリセットされた思考」であり「虫識」である。
哲学の本質は「虫識からの逸脱」にある。

プラトンの師ソクラテスは、アテナイ市民の世間体的な思い込みによって、つまり「プリセットされた思考」である「虫識」によって死刑を宣告された。
このような人々の「虫識」に対しソクラテスは反抗することなく、「虫識」から逸脱するために死刑の判決を受け入れ、自ら毒杯を仰いだ。

自らの死をもって成す事だけが「虫識からの逸脱」ではないだろうが、それが哲学の本質である事をソクラテスは教えてくれる。
そして哲学的な「新しさの追求」は、さらに本質的な「虫識からの逸脱」の一環なのである。
そしてこの事はアートにも当てはまる。

アートしての「新しさの追求」は、より本質的な「虫識からの逸脱」の一環として為される。
「新しくないアート」とは世間体的な予定調和に沿ったアートであり、「プリセットされた思考」によるアートであり、「虫識」によるアートである。
しかし「新しいアート」だけが「虫識からの逸脱」なのではない。

「虫識からの逸脱」には、歴史的側面と個人的側面の二つがある。
そして「新しさの追求」は歴史的項目として哲学史や美術史に追加されてゆくだろう。
しかし個人の問題として考えた場合「虫識からの逸脱」は必ずしも「新しさの追求」とは結びつかない。
なぜなら、人間の寿命はごく短く限られているからである。

人間の寿命はごく短く限られているため、個人では「歴史の蓄積」にも限りがある。
人間は無限に歴史を積み重ねる事ができず、その途上で死んでしまう。
そして人間として生まれた子供は、まず社会で生きるために必要な「世間体」即ち、ヒトという生物に必要な「虫識」を身に付ける。

人は必ず「世間体」であるところの「虫識」を身に付けるところからスタートし、そして一旦身に付けた「虫識」に縛られ、そこから逸脱するのが困難になる。
だから哲学史や美術史は進歩しても、個々の人間はソクラテスの時代から大して進歩せず、「虫識からの逸脱」が普遍的テーマになる。

「世間体からの逸脱」あるいは「虫識からの逸脱」とは個人の「世界認識」の問題である。
「世間体」や「虫識」は個人の「世界認識」を成立させると同時に、その範囲を限定してしまう。
そして、そのように限定された世界認識の「外側」に、哲学や芸術の「本質」が存在する。
宗教もまた同じである。

堕落した哲学、堕落した宗教、堕落した芸術は、同じ現象の異なる側面を指している。
キリストは、立法を重んずるあまり「虫識」へと堕落したユダヤ教徒(パリサイ人)を非難した。
そしてソクラテスと同じく、自らに対する死刑判決を受け入れた。

恐らく、個人的な営みとしての「虫識からの逸脱」を追求し模索していれば、それは必然的に歴史的評価へとつながる。
ソクラテスが「新しさ」よりも「逸脱」を志向していたように、ダ・ヴィンチやセザンヌやデュシャンも、また同じはずである。

より根源的なのは「個人的/歴史的」ではなく「永遠の他者/目の前の他者」の対比である。
歴史的評価は「永遠の他者」の一部であり、その全てではない。
「歴史的社会的査読」というものが得てして「目の前の他者」に向かう事を、プラトンもキリストも批判してる。

「永遠の他者(大文字の他者)」への志向は、「目の前の他者(小文字の他者)」とのしがらみから逸脱しており、多くの人にとってそれは「独善的」に見える。
ソクラテスもキリストも人々からそのように批判され、死刑になった。

哲学者の中島義道が「哲学者」と「哲学研究者」の違い、「哲学すること」と「哲学研究」の違いを説いてる。
「哲学すること」は個人的な営み、実践でしかなし得ず、中島さん自身の『うるさい日本の私』も目の前の日本人を超え「永遠の他者」に向ってる。

「目の前の他者」による「歴史的評価」に迎合するだけでは、「その時代における評価」しか得ることはできない。
歴史の中に「永遠の他者」を見出せれば、必然的に「歴史に残る作品」を創ることが可能になる。

「永遠の他者」とは、「時間が経てば、本物の価値がわかる真の観客が現れて正しい評価を下してくれる」などという期待とは全く異なる。
自分の死後の未来に「目の前の他者」を想定することと、「永遠の他者」としての歴史に向かうことは、根本的に異なっている。

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