芸術の理解と苦痛原則
自分が「芸術が分からない」と悩んできたことの意味が分かったのだが、「快楽原則」では芸術は分からない、と言うことが分かった!
哲学や宗教が快楽原則で理解し得ないのと同じ。
そもそも「知ろう」とする行い自体に苦痛が伴うわけで、単なる快楽原則ではなしえないのだ。
ぼくも別に芸術が分からない訳じゃなくて、「非人称芸術」という概念で自分なりに芸術を捉えていた。
するとそれ以外の「人称芸術」は否定的に捉えることになり、つまりは「キライ」ということになる。
キライなものは分からないのであって、だから「芸術が分からない」と言うことになる。
とは言え、自分が提唱する「非人称芸術」も、自分で分かってるつもりで分かってないかも知れない。
その本当の意味、あるいは妥当性は「非人称芸術」が否定する芸術(人称芸術)との比較によってより明確になるはずだ。
しかしぼくは「芸術が分からない」のだから、それが分かるようになる必要がある。
芸術を理解しようと思って美術館やギャラリーで作品を見ると、これがなかなか苦痛で困ってしまう。
もちろん好きな作品を見るのは快楽だが、理解できない作品、嫌いな作品ばかりが並んでると苦痛になる。
そもそも美術館という限られたスペース内で、一定の大きさの「作品」を見て回る事自体が、自分には非常に苦痛だ。
ぼくは「眼の快楽」を追求した果てに、美術館の外の「路上」に「非人称芸術」を見出した。
「非人称芸術」の規模は「作品」という限界はもちろん美術館(建築)をも超えて無限に広がる。
と言う感覚に心酔すると、普通の意味での美術鑑賞がバカらしく思えてくる。
しかし「非人称芸術」とは何なのか?を真剣に考える上で「芸術なんかクダラナイ」とただ否定するだけでは「考えが足りない」のであり、結局のところ「芸術とは何か?」をよく考える必要がある。
「芸術とな何か?」を理解するには美術館やギャラリーに足繁く通い、出来るだけ多く作品を見る必要がある。
しかしその事自体が苦痛で、どうも足が向かわない。
そこでぼくは「芸術とは何か?」のベースとなる哲学や宗教の本を読むようになった。
ぼくは読書も苦手なのだが、勉強とはそもそも苦痛が前提なので、そう言うもんだと受け入れることができる。
それにいつの間にか「このままではバカのままで終わってしまう」という焦燥感に取り憑かれるようになり、無理していろんな本を読むようになった。
それは明らかに快楽原則ではないし、苦痛そのものが目的でもなく、苦痛を通してのみ到達できる領域というのがあり、それが「知ること」の喜びである、ということだけは分かってきた。
ぼくは快楽原則によらない読書法を知っていて実践していたのに、何故かそれを芸術鑑賞に当てはめていなかった。
と言うことに最近気づいたのだ(笑)
基本的に読書が苦痛なのと同様、美術鑑賞も苦痛なのであり、苦痛を通して到達したところに「芸術が分かる」という領域(と言うかその入り口)がある。
読書しても「好きな本」ばかり読んでても頭はよくならず「良い本」を読まなければならない。
同じく「好きな作品」を見ても「芸術とは何か?」は分からず「良い作品」を見なければならない。
そして「良い作品」とは「芸術が分からない人」にとって理解できない、見るのが苦痛な作品でもあるはずなのだ。
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