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2011年7月10日 (日)

宗教的思考と芸術の理解

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(前回の記事の続きですが、twitterのまとめが長くなったので分割しました。)

哲学の他に「分からないこと」を扱う分野として「宗教」がある。
ぼくは去年、旧約と新約と両方の「聖書」を読んでみたが、かなり荒唐無稽で理不尽なことが書かれており(特に旧約)、どのようにありがたい書物なのかがサッパリ分からない。
ということに驚いてしまった。

その後、「聖書」は文字通り理解しようとしても無理なのは当たり前で、だからそれを「解釈」した解説書を読む必要がある、ということが分かってきた。
そこで小室直樹、橋爪大三郎、佐藤優などの入門書を読んで、今は宗教家の手島郁郎の本を読んでる途中だ。

聖書というのは不思議な書物で、一読しただけでは意味不明なのにもかかわらず「価値のない本」をして捨て置かれず、逆にその解釈の歴史が膨大に蓄積されている。
もちろんその解釈は一元的ではなく、ユダヤ教からキリスト教が分裂し、キリスト教もカソリックやプロテスタントや、さらにその下位の細かい派閥に分裂してる。

つまり「聖書」を核とした宗教は、「聖書」からいかに豊かな解釈を引き出すか?という一種の知的行為なのである。
それは哲学的思考や科学的思考などとも違っていて、「無宗教」を自称する多くの日本人にはなじみのない種類の「頭の使い方」と言えるかもしれない。

とは言え「宗教とはなにか?」の神髄はぼくにはまだほとんど分かっていない。
しかしどうやら宗教もまた、「分かること」で埋め尽くされた環世界を脱し、「分からないもの」の世界へ向かう方法論であるようだ。
ただし「神」や「キリスト」など人間にとって「分からないもの」を、安直に「分かるもの」に置き換えて理解したつもりになると、それは宗教ではなく「偶像崇拝」になってしまう。
だから「分からないもの」はあくまで「分からないもの」として理解しなければ宗教にならない。
そうすると哲学との違いがよく分からなくなるが、プラトン哲学もゼウスの神に誓いを立てたりするのだ。
哲学と宗教はその根っこの部分が同じで、プラトンの時代はその両者が未分化のようであり、現在のぼくの理解もそのような状態にある。

ともかく、たいていの人々は「分かるもの」で埋め尽くされた自らの環世界に満足している。
しかしさまざまな宗教や哲学が、その状態が実は「囚われの身」であることを指摘している。
ところが「分かるもの」の世界に長くとどまりすぎた者は、「分からないもの」の世界へ向かう足がかりさえ知らない。

プラトンの有名な「洞窟の例え」にもあったが、暗闇の洞窟の中から外の世界に出るには、自分の手を導いて引っ張り上げてくれるような「案内人」が必要だ。
そしてそのために哲学や宗教が役に立つ。
哲学や宗教は「洞窟の外」がどれだけ豊かで広大な世界なのか、手を導いて教えてくれる。

まぁ、ぼく自身はどうひいき目に見ても、洞窟の出口あたりまで来て、外光のまぶしさに目がくらんでいる…という程度の状態と言えるかもしれない。
だからこれ以上のことは何とも言えないけど、とりあえずはそんなところ。
で、この話は「芸術が分からない」と言うことにつなげようと思ってたのだが…

「分かること」で埋め尽くされた環世界に「芸術」を取り込むと、「自分に分かる芸術」すなわち「自分の好きな芸術」だけをセレクトすることになる。
つまり「分からない芸術」はその他の「分からないもの」と共に環世界から排除されてしまう。
もちろんそれで満足できればいいのだが、これを例えば哲学に置き換えて考えると、「入門書」で満足してる素人と同じであることに気づいてしまう。

もちろん「入門書」だって役に立つし、誰もが哲学の専門家になる必要はないだろう。
しかし仮にも「美術家」とか「アーティスト」を名乗る人間が、入門書レベルの素人で良いのだろうか?
いや実際、今の日本ではそれで「良い」とされており、それこそが「自由」だとされてるようだ。

まぁ、ぼくとしては自分なりに環世界の「外」に出ようとして、それが「非人称芸術」というコンセプトになった。
しかしぼくの「非人称芸術」はあくまで「快楽原則」の内側にあり、その状態にとどまる限り、本当の意味で環世界の「外」に出ることは不可能だ。

デュシャンは「レディ・メイド」のコンセプトによって、芸術から「自分の好み」を排除した。
それは芸術を「分かるもの」に埋め尽くされた世界から開放し、手の届かないはるか彼方へ引き上げた行為だと言えるかもしれない。
と考えるとぼくの「非人称芸術」は、そこから逆行し退化していると言えるのだ。

もしかすると「キリスト教とはなにか?」をある程度理解できなければ「芸術とは何か?」も理解できないかも知れない。
聖書の解釈に始まるキリスト教は、物事を多面的に捉える思考法の一種だと考えることができる。
いっぽう、その思考法を知らない「無宗教」を自覚する日本人の多くは、物事を一面的にしか捉えることができない。

いや日本古来の宗教だって「八百万の神」だから、解釈の多様性はあるはずだ。
実際、この日本古来の宗教観は、丸山眞男が指摘した「蛸壺型」思考に反映されている。
確かに「蛸壺型」思考で物事を捉えると、人々の解釈は多様化する。
しかし、それは全体から見て人々の解釈に違いが生じる、という意味での多様化でしかない。
つまりそれぞれ個人の解釈は「自分の好み」に一元化され、多様性がないというのが「蛸壺型」思考の特徴なのだ。

ともかく、キリスト教の信仰者は、無宗教の日本人には及びも付かない「特殊な思考法」をしているらしく、それをマスターすれば「芸術とは何か?」もより深く理解できるかもしれない。

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コメント

ユダヤ教やキリスト教やイスラームは乾燥地で移動生活してきた遊牧民の「環世界」がベースにあるのだと思います、そのような人たちの世界観を想像するのは難しいですが、遠い移動すべき先の状況予測を誤れば死活問題ですから、世界はそのようなものに見えるだろうというのは想像がつきます。
せいぜい数キロ移動すればなんとか食料が得られるような環境とは「環世界」が違うんだろうなと思います、ただ、そういう環境ではないところにまでキリスト教が広がったのは文字言葉の力が大きかったのかなあ、、、と思ったりします。

ともかく「環世界」のベースが違うのは感じますね。

投稿: 遊星人 | 2011年7月10日 (日) 18時12分

乾燥地と言う同じ「環境」にいても、都市国家を形成して定住する民と、国を奪われ放浪する民とでは「環世界」が異なります。
また、同じく放浪する民であっても、神を信じる者とそうでない者では「環世界」が異なります。
現在の日本も同じであって、放射能に汚染された「環境」は同じでも、人それぞれの「環世界」が異なっている。
福島から子供を連れて埼玉へ疎開した長男のヨメが、「自分の子供だけ助かりゃ良いのか!」などと親戚一同から毎日責められる理由も、そこにあります。
文字は「環世界」を共有するためのツールですね。
だからこの長男のヨメは、「親戚を説得するため、放射能の危険を訴えた新聞記事が欲しい」とTwitterで切実に訴えてました。
非常に聡明な方です。

投稿: 糸崎 | 2011年7月10日 (日) 21時17分

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