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2011年7月14日 (木)

放射能と差別 / 虫識のコントロール

福島在住の友人とメール交換をしていたら、

> やはり、原発と放射能の問題の本質は、健康リスクよりも「差別」なのではないかと思います。

という返事をいただき「なるほど・・・」と思ってしまった。
現在の福島は「汚染地帯」という烙印が押され、そこで獲れる農産物や水産物が忌み嫌われるようになった。
そしてそのうちその土地に住む人間に対しても、部落問題や在日朝鮮人に類するような「差別問題」が発生するかもしれない。
というようなことを、友人は危惧しておられた。

ぼくとしては食材に対してはともかく、福島県民に対する「差別」というのはどうもピンと来ない。
しかし現地の人々からすると、もうすでに他地域からの「差別」を敏感に感じ取ることが出来るのかもしれない。
実際に、安積咲@福島県産@asakasaku さんはTwitterでそのような主張をされている(この方は友人というわけではないですが)。

しかし「差別」と言う観点で考えるのであれば、思い返せば最初に福島県民を「差別」をしたのは日本政府で、ぼくはその事に震災直後からショックを受けていたのだった。
震災直後の日本政府は、福島県民に対し情報を隠蔽し、適切な避難指示を出さず、子供達に対し「疎開」という処置を施さなかった。
このような事実に対し、日本政府は福島県民をその生命を守るべき国民と見なさず「差別」したのだと、ぼくは直感してしまった。
そもそも「東京電力」の原子力発電所を福島に建設する事自体が、その地の人々を「差別」していることのあらわれなのである。
このような「差別」の根源は、いったい何処にあるのだろうか?

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ぼくは最近、あらためて日本史の勉強をしようと思い立ち、網野善彦さんの『日本社会の歴史』(岩波新書)や、『「日本」とはなにか』(講談社学術文庫)などを読んでいる。
これによると日本列島という土地に「日本国」という国家が成立するのは7世紀末だということである。
つまり、縄文時代にも弥生時代にも飛鳥時代にさえも「日本国」「日本人」は存在ぜす、また卑弥呼も聖徳太子も「日本人」ではなかったのだ。

そして「日本国」の成立後、ただちに日本列島全体に「日本国」に統一されたわけではなく、東北地方には「蝦夷(えみし)」といわれる異民族が住んでいて、「日本国」に対し長年激しい抵抗を繰り返していた。
さらに遡って「魏志倭人伝」によると、当時の「倭」は百あまりの国に分かれていたとある。

だから「日本国」が「単一民族」による国家だというのは、日本政府によるでっち上げのウソに過ぎないのだ。
もちろん、国家を統一するにはこのような「ウソ」は不可欠である。
もともと人類はいくつもの小集団に分かれて生活していたのが、互いに侵略を繰り返しながら大集団である「国家」を形成してきた。
「国家」を形成すれば、小集団では不可能だった大事業も可能になり、現代日本人の便利で豊かな暮らしもそれによって支えられている。
しかしそのような「国家」を支えるためには、他国の侵略の歴史を隠蔽し、はじめから「単一民族」かのような「ウソ」を付くこともまた必要なのである。

ところが、国家存亡の危機に見舞われた311直後、日本政府は「ウソ」を突き通すことを止め、福島県民を公然と「差別」したのだ。
いや実際、これは特定地域の問題ではなく、いわゆる「庶民階級」に対する差別であって、被曝した庶民は東京でもどこでも、日本政府から「差別」を受けている。
例えば全国の学校給食には、福島さんの汚染が疑われる食材が混入されているが、そのような「庶民階級」の子供達も、日本政府から「守るべき自国民の子供」という扱いから除外され、「差別」されている。
日本国は「民主主義」を採用した「近代国家」のはずが、しかしそれは建前の「ウソ」でしかなかったことが、311の一件でより明らかになってしまった。

日本政府が「庶民階級」を差別するのであれば、差別は差別を産み、差別された者はさらに下層の者を差別するかもしれない。
その意味でこれからの日本には、福島県民に対する「醜悪な差別」が発生しないとも限らない。
非常にやるせない気持ちになるが、しかしこのような「負の連鎖」は、少なくとも個人レベルでは断ち切ることができる、とぼくは思っている。

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このような人間の「差別感情」とは何なのか?を自分なりに考えると、動物が持つ「同種の区別」という認識能力に行き当たる。
動物にとっては子孫を残すことが最重要項目であり、そのためにはさまざまな動物の中から「同種の区別」をして、交尾可能な異性を見つけ出す必要がある。
つまり「同種の区別」という「差別感情」は、動物として不可欠な基本的能力でもあるのだ。

ところが人間の場合は、例え生物学的に同種の異性であっても、必ず交尾が成立するとは限らない。
「好み」の問題もあるが、それより「文化」の違いが大きいと言える。
「文化」とは、人間の世界認識や価値判断の基礎をなす「行動プログラム」だと言い換えることができる。
だから生物学的に同種のホモ・サピエンスであっても、お互いの「行動プログラム」が異なれば「別種の生物」として認識されてしまうことがある。

そもそも人間以外の動物は、種が違えば「行動プログラム」も違い、「行動プログラム」の違えば姿は似てても「別種の生物」として認識される。
そして「行動プログラム」が異なる動物間では、文字通り行動様式が異なるため、交尾が成立しないのだ。
動物の「行動プログラム」は身体的特徴と同様に、遺伝的に固定されている。
だから「行動プログラム」の違いは、「別種の生物」であることの証でもあるのだ。

ところが人間の「行動プログラム」は遺伝的に固定されておらず、「言語」というツールによって自前でプログラムされる。
だから同種の人間であっても集団ごとに「行動プログラム」が異なり、それがさまざまに異なる「民族」や「国家」や「身分」などとなって表れる。
つまり同じ人間どうしても「民族」や「国家」や「身分」などの違いによって「差別感情」が生じるのは、実はそこに「別種の生物である」という認識が働いていると考えられる。
人間の「差別感情」は、このように「動物としての基本」に根差しているのだ。

もちろん、科学的な基礎教養を収めた現代人は「人間である以上、誰もが生物学的に同種のホモ・サピエンスである」と認識している。
そして理性的には「あらゆる差別は理不尽で、無くさなくてはならない」と多くの人は考えるだろうと思う。
しかし人間の持つ「差別感情」は、さらに根源的な人間の動物としての特性に根差しているので、理性の力でなかなかぬぐい得ないのだ。

このような、人間に具わる動物として普遍的な感情を、ぼくは「虫識」と名付てみた。
「虫識」は言葉の定義上、自分の意識から消去するのは非常に困難だ。
しかし自分の中に忌まわしい「虫識」があることを自覚すれば、その暴走を押さえてコントロールできる、とぼくは思っている。

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自分の「虫識」に正直に向き合うと、ぼく自身の内部にも福島県民に対する「差別感情」があることに気づいてしまう。
福島に比べ、自分の住む東京の放射線量が少ないと知ればホッとするし、放射線量の高い地域に今だ住み続けている人たちに対し「バカだなぁ」とどうしても思ってしまう、そんな自分が「発見」できてしまう。
ガイガーカウンターで隠しを測定しながら写真撮影をするのも、「注意の喚起」というのはタテマエで、実のところは危機感のない人たちを「差別」して面白がっている。
理性的に考えると不道徳で理不尽極まりないが、「虫識」は理性の及ばない「自動的作用」なのであり、どうしてもぬぐいきれないものがあるのだ。

しかし、こういう理不尽な「虫識」が自分の内に存在することをモニターしていれば、意識が完全に「虫識」に乗っ取られることだけは、防止できるのではないかと思っている。
そして殊にアートの表現は「虫識」を完全に否定し排除してしまっては成り立たず、「虫識」とそれをコントロールする「人識」とのバランスによって実現するものではないか、とも思ってる。
それは例えば「悲壮感とユーモアが同居したような表現」なのであり、ぼく自身もそんな方向を目指している。

これに対し、世の中の多くの人々は単純に「善意」だけで動いているのではないか?と自分には思えてしまう。
本人は「善意」だけで動いてるつもりが、結果として「悪意」に転じてしまって、動物としての自然な「差別感情」を発動させてしまう。
「善意」だけの人は、自らの忌まわしい「虫識」を自覚し直視することもなく、だからかえって「虫識」に支配されその暴走を許してしまう。

例えば菅さんだって枝野さんだって「悪人」のはず無いわけで、「ただちに影響はない」も善意の発言のはずである。
しかしその「善意」が人間的理性に基づく「人識」から出たのではなく、動物として自然な「虫識」のあらわれなのだとすれば、それが他人にとっての「悪意」へと簡単にひっくり返るのは当たり前だと言える。
また、ぼくが放射能の話をすると「危険を煽るんじゃない」と怒ったり、それとなく話題を変えようとする友人知人たちもみな「善意」の人たちで、それゆえに自らの「虫識」を自覚せず、自然な「差別感情」を野放しにしてる。
一般に、「差別に対するタブーはかえって差別の助長につながる」と言われるが、まさにこのことを示しているように思える。

もちろ以上は自分の立てた仮説による「推測」であって、みんなの「本当の気持ち」は分かりようがない。
言ってみれば「自分の気持ち」を元に書いたことであって、もしかすると自分にだけ当てはまることかも知れないし、あるいは全てが間違っているのかも知れない。
しかし、せっかく友人に長文のメールを書いたので、ブログの記事に転用して公開してみた次第である。

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コメント

エラいことになってますね(笑)ご面倒ですが、とりあえず実在する方だとナニなので削除してはどうでしょう。

区別と差別を区別するのもなかなか難しいものですね。思うに差別と言うのは蔑視的ななにかが入っているので心の持ちようではないでしょうか。受け手がどう取るかにもよりますが、、

投稿: schlegel | 2011年7月14日 (木) 22時42分

今の福島の扱いが差別というのが適切かどうかはよくわからないのですが、いつからかと言うと、発電所を作った時から、ですかね。そういう意味では浜岡は贔屓ということになるでしょうか。

投稿: schlegel | 2011年7月14日 (木) 22時50分

schlegel さん

>エラいことになってますね(笑)ご面倒ですが、とりあえず実在する方だとナニなので削除してはどうでしょう。

とりあえず「在日特権を許さない市民の会」さんのサイトから質問を出して、その回答を待つことにしました。

>区別と差別を区別するのもなかなか難しいものですね。思うに差別と言うのは蔑視的ななにかが入っているので心の持ちようではないでしょうか。受け手がどう取るかにもよりますが、、

確かに、区別の概念に「上下」を加えると差別になりますね。
その源泉は、もしかすると「人間は万物の霊長である」という思いにあるかも知れません。
自分が「人間」として他から区別されるからには、その他は当然「人間以下」である、という感覚です。
この延長で「人間以上」を想定するとそれが「神」と言うことになるかも知れません。

投稿: 糸崎 | 2011年7月15日 (金) 03時59分

前に中立を装うのは、推進と同じ、と書いておられますが、
これは、
冷静な対応を装って、助長と同じ、ではないですか?

本音としては、電話番号的ななにかが、iPhoneだと触るとかかっちゃいそうでうざいのです。

投稿: schlegel | 2011年7月15日 (金) 06時12分

schlegel さん

>本音としては、電話番号的ななにかが、iPhoneだと触るとかかっちゃいそうでうざいのです。

言われてみればその通りなので削除しました。

>前に中立を装うのは、推進と同じ、と書いておられますが、これは、冷静な対応を装って、助長と同じ、ではないですか?

まぁ、その通りです。
原理的には中立を選べないので、どっちかをセレクトするしかありません。
ぼくとしては被害の大きさを訴えるために、あえて消去しないでおいたわけです。
しかし、視覚的に不快という以上の負担を読者にかけるのであれば、削除せざるを得ません。

投稿: 糸崎 | 2011年7月15日 (金) 09時35分

すみません、我ながらおせっかいかと思いつつ、
糸崎さんの意図も理解出来たのですが、、

確かに消してしまうとなんか悔しい気もします(笑)

投稿: schlegel | 2011年7月16日 (土) 00時10分

schlegel さん

>確かに消してしまうとなんか悔しい気もします(笑)

実のところかなり頭に来てたのですが、冷静に考えれば「どうでもいい」ですね。
いや本当言うと、ぼくは在日じゃない本場の韓国人に、ネットで言われるのとまさに同じような酷いことをされた経験があるのですが、しかし日本人からも別の種類の同程度の酷いことはいくらでもされているのです。
ですから種類は違っても「虫」であることには変わりなく、ソクラテスもブッダもキリストも、同じように「ヒトの中の虫」に苦言を呈しているのです。
もちろん、ぼくは自分だけが人間だなどとは思っていません。
「早く人間になりたい!」とは思ってますがw

投稿: 糸崎 | 2011年7月16日 (土) 02時18分

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