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2011年7月28日 (木)

国家と生物のイデオロギー

人間をはじめとする多細胞生物は、単細胞生物から進化した。
単細胞生物の多くはプランクトンと言われる微細な生物で、鞭毛や繊毛を動かしながら、水中を自由気ままに泳ぎ回る。

しかし多細胞生物に進化すると、各細胞は単細胞生物が持っていた「自由」を失う。
多細胞生物の各細胞は、身動きの取れない状態のまま、自らに与えられた仕事を淡々とこなすだけの存在だ。
そのかわり「大きな生物」の一部となった細胞は、単独生活する小さな単細胞生物に比べ、より安全で安定した生活を得ることができる。

ところが多細胞生物の各細胞の「安全度」は、身体の部位によって異なっている。
例えばトカゲは危険が迫ると尻尾を切り離す。
従ってトカゲの胴体を構成する細胞よりも、尻尾の細胞の方が「安全度」が低いと言える。
また、人間のオスをはじめとする精子細胞は、その大半が生殖に至らない「使い捨て」であり、その生命の安全は何ら保証されていない。
つまり高度に組織化された多細胞生物の各細胞は、自身の「身の安全」など全く求めていないかのごとく振る舞う。

これに対し多細胞生物の「個体」は、自らの生命を守ろうとし、また子孫を残そうと振る舞う。
個体が「生命の安全」や「子孫の繁栄」などへと向かう意志(衝動)は、一種の「イデオロギー」だと考えることができる。
そして各細胞は、このようなイデオロギーのために自分の生命を捧げ、奉仕する存在だと言うことができる。

多細胞生物の各細胞は特有のイデオロギーに支配されているのであり、そのイデオロギーは各細胞のDNAに書き込まれている。
DNAはまさに鎖となって、各細胞の「自由」を拘束している。
放射線などによりDNAが破壊された場合、細胞はイデオロギーの拘束から開放され、「癌細胞」と呼ばれるようになる。

ところで、人間は決して「独り」で生きることはできず、何らかの「生活集団」に属さざるを得ない。
例え集団から距離を置き独りでいたとしても、「言葉」で思考しながら生きる限り、それは生活集団の延長でしかない。
「言葉」は決して独りでは生み出すことのできない、生活集団の産物なのだから。「人間」でいる限り、独りで生きていてもそれは集団生活の延長なのである。

人間は本質的に、各自それぞれ「自由」に生きたいと思っている。
ところが生活集団内で、各自勝手な「自由」を行使しようとすると、「集団」そのものが成立しなくなってしまう。
そこで「集団」を成立させるために、各自の「自由」を調整する必要があり、その調整プログラムが「イデオロギー」と呼ばれるものになる。

狩猟採集民のような小人数集団の場合、各自の「自由」の調整は比較的楽で、そのイデオロギーも小さく緩やかなもので済む。
しかし集団の規模が「国家」にまで拡大すると、各自の「自由」の調整は困難を極め、より高度で強固なイデオロギーが必要になる。
別の言い方をすれば、人間の生活集団は、規模が大きくなるほどより「イデオロギー化」される。

この概念は、実は多細胞生物のあり方にも当てはまる。
例えば原始的な多細胞生物であるプラナリアは、体がいくつかの断片に切られると、それぞれの断片から新しい頭や尻尾が形成され、複数の個体に分裂する。
つまりプラナリアは多細胞生物としてあまり「イデオロギー化」されておらず、各細胞は状況によりその役目を変更することが可能なのである。


これに対し人間はもちろん、ミミズだって体を半分に切られると死んでしまう。
人間やミミズの細胞は高度に「イデオロギー化」されているため、胴体を切られるという「想定外」の事態に全く対応できないのである。
そのかわり、あまりイデオロギー化されていないプラナリアは緩慢な動きしかできず、それに比べて高度にイデオロギー化されたミミズは機敏な動きが可能だ。
もちろん、さらに高度にイデオロギー化した人間の身体は、ミミズよりもさらに機敏で多彩な活動が可能となっている。

多細胞生物と人間の生活集団が違う点は、各細胞が「自由」を求めないのに対し、人間個人はあくまで「自由」を求めることにある。
生物からの類推で考えると、例えば「国家」のような大集団を成立するため、国民はイデオロギーに従い「滅私奉公」するのが理想だと言えるかもしれない。
しかしそれでは国民各自の「生き甲斐」や「生きる意味」などが失われ、ひいては「国家」そのものの意味も失われてしまう。だから「国家のイデオロギー」には必ず「国民の自由」の調整が組み込まれていなければならず、その点が「生物個体のイデオロギー」と異なっている。
「国家」はその細胞である国民に対し、多細胞生物的な「滅私奉公」を求め、国民は単細胞生物的な「自由」を求め、そのバランスの上に「国家のイデオロギー」が成立している、と言えるかも知れない。

 

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