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2011年8月

2011年8月30日 (火)

プラネット・テラーとデス・プルーフ


ロバート・ロドリゲス『プラネット・テラー』観たが、普通に面白い映画だとは言えるだろうが、同じく「グラインドハウス」のコンセプトで作られたタランティーノの『デス・プルーフ』に比べるとだいぶ劣ってしまう。
いや、『デス・プルーフ』の凄さを知る上でも、『プラネット・テラー』はセットで観るべきと言えるかもしれない。

『プラネット・テラー』も『デス・プルーフ』も、「グラインドハウス」と言われる70年代アメリカB級映画のオマージュで、言ってみれば両方とも悪ふざけ映画である。
しかし『プラネット・テラー』が「B級映画の枠内」で遊んでるのに対し、『デス・プルーフ』は「映画」というもの自体を対象化し、場外乱闘で遊んでる感じがする。

恐らく、A級映画に比べて洗練度が低いB級映画は、映画表現としての「間違い」が混入し、映画の「外部」へと部分的に飛び出している。
そのような天然の「間違い」を取り入れ、意図的にコントロールし、映画の「外部」へ大胆にのびのびと飛び出したのが『デス・プルーフ』で、何度見ても非常な爽快感がある

そんな『デス・プルーフ』に対して『プラネット・テラー』の悪ふざけは予定調和的で、その意味で優等生的な映画と言えるかもしれない。
ロバート・ロドリゲスは昔のB級映画の断片を再構成して同レベルのB級映画を作り、タランティーノはB級映画の要素を利用し超A級映画を作った。
ジャンク映画を切り貼りして高級映画を実現するタランティーノの映画は、真の意味でのジャンクアートなのかもしれない。

タランティーノの映画はまた、ダヴィンチの絵画にも共通する「芸術的退屈さ」を含んでいる。
ロバート・ロドリゲスの映画にはそれがなく、観客に対し絶え間なくサービスし続けている。

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『レザボア・ドッグス』と『レベッカ』

タランティーノ『レザボア・ドッグス』は銀行強盗団の映画なのに、銀行強盗のシーンが一切ない。
それでいて、銀行強盗の惨状を観客にありありと思い描かせる。例えば画家が絵の具でリンゴの絵を描くように、タランティーノは銀行強盗では無いシーンを画材にして銀行強盗を描く。
まさに芸術の原点と言えるかも…
それ以外にも、この映画は意味のない無駄話のシーンが多かったり、回想シーンも多くて時系列がバラバラで混乱していたり、世間がイメージする「面白い映画」のパターンをことごとく裏切っている。

正しい芸術は常に世間的イメージを裏切る、なぜなら世間は常に間違っているから。
ということは、キューブリックやタランティーノの映画を観るとよく分かる。
いやそもそも「正しさ」を追求する哲学は世間的イメージを裏切る、なぜなら世間的イメージは常に間違っているから…とプラトンは書いている。
プラトンは中学生でも読めるくらい平易で、今時プラトンを読んでない人は文明人としてモグリの野蛮人でしかない(ぼくも今年の正月から読み始めたのですがw)

次いでヒッチコック監督の『レベッカ』を見たが、これぞまさに大衆映画の味わい。
庶民の娘が急に大金持ちと再婚し、広い屋敷でオドオドして、古株のお手伝いさんに睨まれてビクビクして、そうすると大多数の観客に共感してもらえるという仕組み。
そして小心者がヘマをして、しかし数奇な偶然が味方し都合良く難を逃れる、というお話。
ヒッチコック監督は常に弱い庶民の味方で、ぼくとしてはどうも苦手(でも研究として観たくなるのだが)。

映画のタイトルにあるレベッカなる女性は登場せず、登場人物が彼女の思い出を語るのみで、この点、銀行強盗のシーンの無い銀行強盗映画である『レザボア・ドッグス』も同じと言えるかもしれない。
しかし『レベッカ』の主人公「わたし」だけはレベッカを見たことがなく、観客はそんな主人公の不安な立場に容易に同調できる仕組みになっている。
『レベッカ』では「レベッカの不在」がミステリーを盛り上げる重要な要素になっており、「レベッカの不在」がテーマの一つとして直接描かれている。
あくまで分かりやすい大衆映画の手法である。

これに対し『レザボア・ドッグス』では登場人物は誰もが銀行強盗の当事者で、観客だけがそのシーンを見る事が出来ない。
観客の予測とその裏切りの差異よって、表現に透明感が生じる。
もしくは表現の「表現の寸止め」によって、豊かな空間が生じさせている。

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ザ・シークレットのシークレット


実家の母に薦められてDVD『ザ・シークレット』観てみたが、ひとことで言えばこれは「洗脳映像」でしかない。
お金持ちが貧乏人に「金持ちになる秘訣(ザ・シークレット)を教えてあげる」と言って、一部だけ本当のことを教えて、それでいながら全部は教えないので、貧乏人は絶対に金持ちになれない仕組みになっている。

『ザ・シークレット』で語られる「引き寄せの法則」はもっともな事だが、それは「悲観するより前向きでいた方が物事上手く行く」というだけの事でしかない。
それを「宇宙の法則なのです」などと神秘を装った非科学的根拠で説明しているのだが、これで納得してしまうような人は騙されてるだけであり、従って絶対金持ちになれないだろう。

「引き寄せの法則」について非科学的な根拠をあえて示すのは、それを観る人の「教養の無さ」を肯定するためだ。
そして「必要なのは欲望と、それを実現する為のイメージだけ」と説き、「無反省」や「怠惰」などをことごとく肯定する。
金儲けには教養や科学的思考力、反省や努力は不可欠のはずだが、それをスルーし金に対する執着心のみを煽っている。

『ザ・シークレット』は冒頭で「世界の富の大部分をなぜたった数パーセントの人々が占有してるのか?」と問うている。
その理由は、金持ち連中が貧乏人どもを自らの土俵に誘い込み大量の敗者を生み出しているから、とぼくには思えてしまう。
これを打ち破るには相手の挑発に乗らず、土俵を無視する事である。
すなわち古代の賢者に倣い、智慧や知識や経験などを財産とすればいいのだ。

『ザ・シークレット』は新興宗教の勧誘映画のように見えてしまうが、実際には何かの宗教に通じているわけではなく、その意味での危険性はないと言えるだろう。
でも貧乏人を「無知」に縛り付け、「無反省」「怠惰」に縛り付け、結局は「貧乏」に縛り付け、既存のお金持ちだけがますます得をするという素晴らしい効果がある。
だから貧乏人はそんな挑発に乗ることなく、プラトンでも読んで教養が身につけたほうが、結果としてお金に困らなくなり貧乏を抜け出すこともできるのだ。

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2011年8月28日 (日)

読書歩行術/フッサール『現象学の理念』


自分としては初めての動画作品。
歩きながら読書してもぶつかったりつまずいたりしない「読書歩行術」と、難解な本の内容を理解しないまま読む「ミヤタ式読書法」を組み合わせ、さらに動画作品にするため朗読している。
カメラはカシオEX-TR100を使用。
20mm相当の超広角レンズの効果により、眼の中心部で文字を追い、周辺部で環境を把握する「読書歩行術」の様子が再現されている。


もちろん、普段は朗読しながらなんて歩かないし、声出すとつっかえたりして読む速度が遅くなるw
いちおう、タランティーノ『デス・プルーフ』の影響受けてるつもりだが、途中車にはねられたりしたらもろタランティーノになるだろうwww


読んではいるが、難解すぎて内容は全く理解できていない。
この行為に何の意味があるのか?
小さな子供は難しい本を意味も分からず読んだり、暗記したりすることがあるそうで、それを大人の自分が真似してどんな効果が得られるのか?と言う実験でもある。

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2011年8月14日 (日)

『裏窓』と「われ−それ」の世界

ヒッチコック『裏窓』を観たけど、この映画は一眼レフの元祖「エキザクタ」が出てくるのでカメラマニアの間では有名だ。
しかし主人公は望遠鏡替りに覗くだけで、写真は撮らないw
それよりも呆れるくらいの大衆向けエンターテインメントで、こう言うもんか…と改めて感心してしまった。

この映画は「のぞき趣味」という大衆の下衆な望みを叶えている…いやな表現だが、ワイドショー的と言ったら良いかも知れない。
ともかく大多数の人が望む事を、そのイメージのまま実現しサービスしている。
例えばタランティーノ映画のような「裏切り」が一切無く、あらゆる事がお約束通り、戯画化されている。

『裏窓』は映画と言うより舞台上の芝居の様で、ヒッチコックもそれを意識してるのかもしれない。
もしかすると、ヒッチコック映画は全部「芝居」の系譜なのかも…これに対しタランティーノの映画は、モダンアートの系譜かも…系譜によって映画は分類できる?

ヒッチコックはちょっと前『ハリーの災難』も観たけど、思えば大衆演劇風の下衆な内容だった。
なんと言うか死体をモノみたいに扱って、死者に対する敬意が無く「人が死んでんねんでっ!」と突っ込みたくなったw
この、何か大事なモラルを欠いた感覚は『裏窓』にも共通している。

ヒッチコック映画の世界は、ブーバーが指摘する「われーそれ」の世界だと言えるかも知れない。
覗きにしろ、死体の扱いにしろ、人間を「もの」の様に扱い、そのように扱う人間もまた「もの」になる世界。
ある意味人間味があって、別の意味では人間性は皆無だ。嫌いだけどヒッチコックは別の作品も見たくなるw

「芸術とは何か?」を知るにはタランティーノや小津安二郎の映画がヒントになり、「大衆とは何か?」を知るにはヒッチコックの映画がヒントになる。
どちらも優れた映画であり、非常に為になる。

ところでタランティーノ『デス・プルーフ』がニコニコ動画にアップされてるのに気付き、また全部見てしまったのだか、ダラダラしたガールズトークを、ニコ動のダラダラしたコメントと一緒に見るのはちょうど良いかもw
もちろん画質は悪いので、先にDVDでちゃんと観ないと極上の映画が勿体無い。

『デス・プルーフ』は観る者に非常な我慢を強いるが、決して早送りせずに観続ければそれだけの「ご褒美」が用意されている。
いや繰り返し観ると、その我慢のシーンがだんだん快感になってゆく変態映画だw

ヒッチコック映画が「われーそれ」の世界だとして、タランティーノの映画は「われーなんじ」の関係を実現してるのか?
それは不明だが、少なくともタランティーノは「映画とは何か?」という「全体性」に向かって問いかけているように思える。
ブーバーの「われーなんじ」は部分を持たない全体性らしいので…

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難解な本がスラスラ読める技術

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先日マルティン・ブーバー『我と汝・対話』をやっと読み終えたけど、難解な本なので殆ど意味が分からず、しかし分からないままにとりあえず文字を追って、最後まで読み通した。
意味も分からず読む事に意味はあるのか?というと、「ある」という事が今回の実験でわかった。

難解な本を意味も分からず文字だけ追い読破する読書法を「ミヤタ読み」と名付けたのだが、友人ミヤタさんが幼稚園児の頃、家にあった『罪と罰』を意味も分からず読破した、というエピソードに因んでいる。
彼に限らず頭の良い人は、子供の頃から意味も分からず文字を追う癖があった人は多いらしい。

内田樹さんも小学生時代、親が買ってきた週刊誌を端から端まで読んだ、と書いてた。
自分はそういう頭の訓練をしてこなかった事が悔やまれるのだが、だったら今からやれば良いのである。
そして実験してみると、確かにその成果は認められるのだ。

難解なを理解せずに読む事は、その本を読まない事と同じだと言える。
しかし内容は分からなくとも、難解な言葉を膨大に積み重ね、完結に分かりやすい言葉では決して伝わらない何事か、を伝えようとする人がいる事は具体的に理解できる。

難解な本を理解しながら読もうとすると、数ページも読めないうちに挫折して自信を失う。
そうするとコンプレックスにより、よけい頭が硬くなる。
しかし分からないまでも読破してしまえば、達成感により気持ちが軽くなる。
誰も分からない難解な本は、「読んだ」というだけで相手をビビらすことができるw

たとえ「理解」しながら本を読んだとしても、実のところ内容の大半は読んだ直後に忘れてしまう。
結局は「良い本を読んだ」という感触以上のものが残っていない事もあり、結果として「理解しないまま文字だけ追う」のと変わりない。

「本は理解しながら読まなくてはならない」と言うのは、根拠の無い先入観に過ぎない。
いったい「理解」とはなにか?
例えば人は、目に映るものの全てを理解しながら道を歩いてるのか?
街路樹や雑草の全種類を理解しながら、その場を通り過ぎるのか?
あるいは、すれ違う人々が発する「無意識のサイン」を全て理解しながら、路を歩くのか?
しかし実際には、人は目に映るものの大半の意味を理解しないまま、路を歩く。
たとえ通い慣れた路でも、膨大なものの意味を見落としたまま、それでも何の不都合も感じない。
そして、読書もまた同じことなのだ。

難解な本は難解なだけに、内容を理解する必要がないとも言える。
そして理解しないまま文字だけ追ってゆけば、どんな難解な本も読破できる。
それは最低限の交通ルールさえ理解していれば、それ以上に何を理解せずとも路を歩ける事と同じだ。
文字と最低限の文法が理解できれば、読破のためにそれ以上の理解は必要ない。

路を歩く時、視界は様々な「もの」に遮られる。
しかし人は視界に入るものの意味を、ほとんど理解しようとしない。
だったら路を歩く時、視界を「本」で遮ってみよう。
路を歩くためには、本からはみ出た「目の周辺」の情報だけで十分だ。
それ以外の余計な視覚情報を「もの」から「文字」に入れ替えるのだ。

「難解な本」があるように「難解な路」がある。
例えば田舎の路は、様々な種類の雑草、樹木、虫、鳥たちに囲まれて極めて難解だ。
都会の路は、様々な人々の「想い」にあふれ極めて難解だ。
そんな難解な路を、人々は何も理解しないまま平気で歩いてゆく。
理解できないと物怖じして歩かない人は滅多にいない。

「理解」とは、読書の成果の可能性の一つに過ぎない。
そして、たとえ何かを理解したつもりになっても、必ず他の誰かから「違う」と否定される。
ある宗教書では、全てのキリスト教神学の「理解」は間違いで、必要なのは「回心」だと主張していた。
理解よりも読書で自分が変わる事が大事だと説いていた。

読書に必要なのは「理解」より「回心」だと、本当にその本に書いてあったかは不明だが、ぼく自身そのように考えが変わったのは事実だ。
と、偉そうな事を書くのも、ブーバーの本を読破して気が大きくなってるせいかもしれないw
難解な本を読破すると、少なくとも気分は変わる。

難解な本を理解しないまま読破すると、自分が属するより上の階層の世界を垣間見た気分になる。
貧乏人が金持ちのパーティーに招待され、会場の隅で大人しくしているような…いや卑屈になる必要はなく、上層の世界を見る事は、自分の認識世界を広げ、上昇の可能性にもなる。

「難しい事は分からない」と諦めてる人は「分からないこと」を恐れている。
分かったつもりで分かってない人を見下す者は、同じく「分からないこと」を恐れている。
「分からないこと」を恐れない人は、どんな路も歩いてゆけるし、どんな難解な本も読破できる。

書を捨てて街に出るのも良いが、街を歩くように読書するのも良いし、歩きながら読書するともっと良い。
目の中心で本を読み、目の周辺を見ながら歩くのが、アフォーダンス理論を応用した「読書歩行術」なのである。

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2011年8月 6日 (土)

ちょっと話し合いをしてもらいます

●深作欣二監督『バトルロワイヤル』では、銃を持って立てこもってた仲良し女子中学生が、些細な事で口論となった末に撃ち合いになり、全員死亡する。
つまり口論とは本質的に互いの存在を否定し合う殺し合いで、だから一般人の武器の所持が規制されてるのだ。

●相手の意見を「間違っている」と断ずる事は相手の立場を否定し、相手を殺す事と本質的に変わりない。
もし自分が相手の意見を受け入れるなら、今までの自分は死に、魂の抜かれた自分は相手の言いなりになる。
と、信じてるからお互い一歩も譲らず『バトルロワイヤル』の中学生同士みたいな壮絶な撃ち合いになる。

●『バトルロワイヤル』ではパラレルワールドの日本の法律で、無人島に連行された中学3年のクラスメートが、殺し合いを命じられる。
荒唐無稽な設定だが、こっちのパラレルワールドもチェルノブイリ以上の放射能汚染地域で、中学生が部活動とかしてる。
パラレルじゃないホントの世界に戻りたい…

●大地震や大津波、原発事故や不甲斐な政府の対応など、一連の現象は我々が何時の間にかパラレルワールドに迷い込んだのが原因で、だからもとの世界に戻りましょう、と持ちかける「パラパラ詐欺」にご注意…

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2011年8月 5日 (金)

殺し合いにならない議論

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●オオカミなどの肉食獣は同種間で傷つけ合わないよう戦い方が「儀式化」されており、片方が「降伏の合図」をすればそこで戦いは終わる。
しかしハトのように弱い動物は、同種間での戦いが「儀式化」されておらず、「降伏の合図」も決まっておらず、残忍な結末を迎えることがある。

●ある大学の講師が、「“ 議論になること=よくないこと”だと思っている学生はいる。その考え方はいけないとどうすれば教えられるだろうか?」書いていたが、 議論の「負け方」を教えたら良いかも知れない。
「負け方」を知ってるオオカミ同士の争いは殺し合いにならず、それを知らない学生はおそらく議論を「殺し合い」だと思ってるだろうから。

●論争で相手と意見が衝突した場合、相手と自分のレベルの違いを見極める必要がある。
相手の方がレベルが高いと判断できる場合は、自分の意見が間違ってると判断できるし、自分の方がレベルが高いと判断できる場合は、やはり自分の意見が間違ってると判断できる。

●いくら論争しても、相手を打ち負かしたり説得することは不可能だ。
つまり、どんな場合でも「自分の方が間違っている」のであり「相手の方が正しい」のであり、そう思っていれば少なくとも「勉強」にはなる。

●福島の原発事故以来、多様化していた日本人と価値観は、ある意味で二分化したと言えるかも知れない。
だから今の自分は、いつも以上に他人と大きく衝突しそうで怖くなる。他人の価値観を尊重する態度を徹底しないと、自分に負けそうになる。

●自分がどれだけ高尚なつもりでも、「自分の価値観」である限りそれは「昆虫並み」であることに変わりはない。
他人の価値観であってもまた同じ。お互いの「価値観」を角の様に振りかざし、カブトムシの様に取っ組み合いをしても虚しいだけ。

●原発を巡っては、自分の価値観にこだわる人ほど体制に反発し、「自分の価値観なんかどうでも良い」と思う人ほど体制におもねっており、そのように価値観が二分化している。
「価値観にこだわらない」と言う他人の価値観を認めなければ、衝突は避けられない。

●「自分の価値観」にこだわることは、実はけっこう難しい。
色々な経験をし勉強しないと価値観そのものが形成できない。
それが面倒な人は「みんなの価値観」に合わせ、体制におもねる。
ぼくもあらゆる分野について「自分の価値観」にこだわることはできす、部分的に「みんなの価値観」に合わせてる。
だから自分のことを棚に上げて、他人の批判ばかりしてると足下をすくわれるだろう。
そもそも「自分の価値観」とは「他人の価値観」のコピーでしかなく、その状況を可能な限りモニターする必要がある。

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2011年8月 2日 (火)

エスタブリッシュメント種とホルスタイン種

日本のエスタブリッシュメントは自分たちを「エスタブリッシュメント」と言う品種と捉え、その他を「ホルスタイン」や「黒毛和牛」くらいに思っている。と、この記事を見て思ってしまった。http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/loganovski.html

人類の大半は「ホルスタイン種」で占められ、ごく一部の「エスタブリッシュメント種」がそれを支配している。と、この記事を見て思ってしまった。http://eritokyo.jp/independent/aoyama-fnp121..html

自分もエスタブリッシュメント種の仲間入りをすれば「勝ち組」になれる…ホルスタイン種にそう思わせることで、エスタブリッシュメント種は彼らを支配している。と、ホリエモンのことなど思い出してしまった。

エスタブリッシュメント種も、ホルスタイン種も「品種として固定されている」点は共通している。そしてこの他に、人類には臨機応変に考え方や生き方を変えられる「人間」が存在する。と言うことは、昔の哲学書や宗教書を読めば分かる。

もちろんぼくも完全な「人間」とは言えず、自分の中に「ホルスタイン種」が棲み着いている。

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2011年8月 1日 (月)

綿密と行き当たりばったり

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アートの勉強をするのに美術館に観に行くのは金がかかるし、無料のギヤラリー巡回も手間と交通費が掛かる。
近所の図書館で画集を見るのは無料だが、複製品なので本物を観た事にならない。
この点映画だったらレンタルDVDは安いし、複製芸術なので液晶モニターで観ても「本物」だし、良いかも知れない。

昔のブラウン管テレビより、今のパソコン用液晶モニターの方が映画スクリーンに近く、レンタルDVDもより「本物の映画」として鑑賞できる。
良い映画は繰り返し観るたびに発見があり、それを書けば評論の練習になるかも知れないし、その分析は自分のアートにも応用できるかも知れない。

というわけで、最近は『女囚さそり・701号恨み節』と言う日本映画と、クエンティン・タランティーノ監督『ジャッキー・ブラウン』を続けてレンタルで観てみた。
『女囚さそり・701号恨み節』は登場人物の行動が行き当たりばったりで、映画のストーリーそのものも行き当たりばったりで、いかにも「B級映画」という感じだ。
これに対し、『ジャッキー・ブラウン』は伏線がビシバシ貼られており、繰り返し観るたびにさまざまな「発見」のできる綿密な作りで、まさに「A級映画」と呼ぶに相応しい。
この違いは、単に気晴らしや暇つぶしで観る娯楽映画と、真剣に楽しむための芸術映画との違いだとも言えるかもしれない。

映画が時間を介した編み物…テキスタイルのようなものだとすれば、A級映画は「綿密に編み上げられた高級テキスタイル」で、B級映画は「行き当たりばったりに編まれた素朴なテキスタイル」と表現できるかも知れない。
そして、そのどちらにも特有の「味わい」があり、それぞれに楽しみ方があると言える。
映画の世界では、綿密に計画された作品が「A級映画」とされ、行き当たりばったりの作品は「B級映画」とされ、どちらにも需要があり上手く棲み分けている。

ところが日本のアート界では、「感性」の名の下に「行き当たりばったり」ばかりが推奨される。
「行き当たりばったり」とは、綿密な計画を立てながら制作する人だからこそ、たまにそれをすると上手く行くという裏技の一種なのかも知れない。
そんな「行き当たりばったり」が、アートの世界ではなぜか「常道」だと誤解されている。
映画界と比較すると、アート界のこの風潮は不思議なことだと言える。

まぁ、その原因は岡本太郎の「芸術は、爆発だ!」にあるのは分かってはいるのだが、分かってはいるけどなかなか抜けられないのが岡本太郎の「呪縛」なのである。
自分がタランティーノ並みのアート作品をつくることを考えると、相当な知識と教養を身に付けなければならないだろうし、技術力も人間力も要るだろうし、しかし勉強はなかなかはかどらないし…といろいろ焦ってしまうのだ(笑)。

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歴史教育と国民のコントロール

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全ての「考える」事は、「自分とは何か?」を考える事に繋がっている。
例えば「政治とは何か?」を考える事は「政治」と言う概念を使い「自分とは何か?」を考えることであり、「タンパク質とはなにか?」を考える事は「タンパク質」と言う概念で「自分とは何か?」を考える事である。
だからもし為政者が、国民をコントロールし易くする為にその「考える」力を減退させようとするなら、国民にとっての「自分とは何か?」を曖昧にするのが一つの方法になる。

国民が自ら「考える」力を備え過ぎると、為政者は国民を意のままにコントロールするのが難しくなる。
かと言って、国民の知的レベルが低く野蛮すぎても、コントロールし切れなくなってしまう。
だから国民に十分な知識を与える一方で、その「考える」力の一部を奪うような教育法が、効果的になる。
その意味で日本の義務教育は、子供に知識を与える一方「考える」力を奪っている。
と、改めて思ったのは網野義彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫)を読んだからだ。
日本の教育は、日本国や日本人の由来をはっきりさせないまま歴史を教えている。
「日本人とは何か?」が曖昧だと「自分とは何か?」も曖昧になり、「考える」力が奪われる。

網野義彦の主張によると、「日本国」が無ければ「日本人」も存在し得ない。
だから例えば縄文時代に日本人は存在しないし、卑弥呼も聖徳太子も日本人ではない。
もしタイムマシンで遡り彼らに「あなたは日本人ですか?」と問えば「違う」と答えるはずだ。
彼らの時代に「日本」と言う国は存在し、従って「日本人」も存在しないのだから。
ところが現代日本の学校教育では、彼らは当然の様に日本人で、日本と言う国が太古の昔から存在していたかのように教えている。
歴史を教えながら、その最も肝心な「根本」を曖昧にし教えないのだ。

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「日本国」や「日本人」はいつから存在するのか?を曖昧にした歴史教育を受けた子供は、根拠の無い「日本人としてのアイデンティティ」を持った、為政者にとって都合の良い大人になる。
日本人を誇り、また日本国を憂いてマジメに日本を考えながら、「日本とは何か?」と言う根本を考えない人は、自分の考えが誰かにコントロールされてても気付かない。

「日本人とは何か?」の根本を遡る思考を奪われた子供は、「自分とは何か?」を正確に思考する力も身に付かず、全てを曖昧に表層だけで考える大人になる。
こうした国民は、為政者にとって都合が良い。
なぜなら為政者としての「旨味」は、国民の「錯誤」によって成立しているからである。
国民が物事の根本に遡り、正確に「考える」力を身につけると、為政者は真面目に国民のために働かなくてはならず、「旨み」がなくなってしまう。
だから為政者としての「旨み」を確保する為に、国民には「政治とは何か?」の根本を考えさせず、ある程度「錯誤」させておく必要がある。

現代日本人の多くは、人類の起源がサルなのを知ってはいても、日本人の起源を知らない。
戦前の日本では、日本列島を産んだ神様の子孫が天皇になり、それが日本人の起源だと教えられてた。
現代日本人の歴史観もそのような「神話」を引きずっており、進化論を否定する「キリスト教原理主義者」を笑えない。
日本人捕虜へのヒアリングで「人類がサルから進化した」という知識と「天孫降臨」に矛盾を感じない日本人に、聞いたアメリカ人の方がかえって悩んだとか…
@ataru_mixさんは教えてくれたが、そこをきちんと考えたらアメリカと戦争しなかっただろうし、原発も推進しないだろう。

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日本の建国記念日の由来をウィキペディアで調べると、「紀元前660年、記紀における神武天皇が即位したとされる日」となっている。
一方、韓国の建国記念日は「紀元前2333年、建国神話において檀君が古朝鮮王国を建国したとされる日」となっている。
歴史の古さでは韓国に負けている…じゃ無くて(笑)、架空の神話を建国由来にしてるのはこの両国くらいであることに、あらためて驚く。
しかし韓国の建国記念日は、神話由来の「開天節」と、歴史由来(1945年、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を声明した日)の「光復節」の二つがある。
ところが日本の建国記念日は神話由来のみであり、近代国家では他に例が無いかも知れず、各国と比較するとその異様さが分かる。

日本の建国記念日2月11日は旧暦の元旦で、その由来は紀元前660年の神武天皇即位にある。
しかしその当時の日本列島は、歴史的には縄文時代に区分されているのだ。
もちろん、個人が何を信じても自由だと言える。
しかし、架空の神話を元に建国記念日を法律で定める国が、果たして「近代国家」と言えるのか?
もしかすると日本の為政者は、国民が「近代人」になり切れないようコントロールしてるのかも知れない…
などと、あらぬ事を勘ぐられても、文句は言えないだろう。

 

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