『レザボア・ドッグス』と『レベッカ』
タランティーノ『レザボア・ドッグス』は銀行強盗団の映画なのに、銀行強盗のシーンが一切ない。
それでいて、銀行強盗の惨状を観客にありありと思い描かせる。例えば画家が絵の具でリンゴの絵を描くように、タランティーノは銀行強盗では無いシーンを画材にして銀行強盗を描く。
まさに芸術の原点と言えるかも…
それ以外にも、この映画は意味のない無駄話のシーンが多かったり、回想シーンも多くて時系列がバラバラで混乱していたり、世間がイメージする「面白い映画」のパターンをことごとく裏切っている。
正しい芸術は常に世間的イメージを裏切る、なぜなら世間は常に間違っているから。
ということは、キューブリックやタランティーノの映画を観るとよく分かる。
いやそもそも「正しさ」を追求する哲学は世間的イメージを裏切る、なぜなら世間的イメージは常に間違っているから…とプラトンは書いている。
プラトンは中学生でも読めるくらい平易で、今時プラトンを読んでない人は文明人としてモグリの野蛮人でしかない(ぼくも今年の正月から読み始めたのですがw)
次いでヒッチコック監督の『レベッカ』を見たが、これぞまさに大衆映画の味わい。
庶民の娘が急に大金持ちと再婚し、広い屋敷でオドオドして、古株のお手伝いさんに睨まれてビクビクして、そうすると大多数の観客に共感してもらえるという仕組み。
そして小心者がヘマをして、しかし数奇な偶然が味方し都合良く難を逃れる、というお話。
ヒッチコック監督は常に弱い庶民の味方で、ぼくとしてはどうも苦手(でも研究として観たくなるのだが)。
映画のタイトルにあるレベッカなる女性は登場せず、登場人物が彼女の思い出を語るのみで、この点、銀行強盗のシーンの無い銀行強盗映画である『レザボア・ドッグス』も同じと言えるかもしれない。
しかし『レベッカ』の主人公「わたし」だけはレベッカを見たことがなく、観客はそんな主人公の不安な立場に容易に同調できる仕組みになっている。
『レベッカ』では「レベッカの不在」がミステリーを盛り上げる重要な要素になっており、「レベッカの不在」がテーマの一つとして直接描かれている。
あくまで分かりやすい大衆映画の手法である。
これに対し『レザボア・ドッグス』では登場人物は誰もが銀行強盗の当事者で、観客だけがそのシーンを見る事が出来ない。
観客の予測とその裏切りの差異よって、表現に透明感が生じる。
もしくは表現の「表現の寸止め」によって、豊かな空間が生じさせている。
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