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2011年8月14日 (日)

難解な本がスラスラ読める技術

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先日マルティン・ブーバー『我と汝・対話』をやっと読み終えたけど、難解な本なので殆ど意味が分からず、しかし分からないままにとりあえず文字を追って、最後まで読み通した。
意味も分からず読む事に意味はあるのか?というと、「ある」という事が今回の実験でわかった。

難解な本を意味も分からず文字だけ追い読破する読書法を「ミヤタ読み」と名付けたのだが、友人ミヤタさんが幼稚園児の頃、家にあった『罪と罰』を意味も分からず読破した、というエピソードに因んでいる。
彼に限らず頭の良い人は、子供の頃から意味も分からず文字を追う癖があった人は多いらしい。

内田樹さんも小学生時代、親が買ってきた週刊誌を端から端まで読んだ、と書いてた。
自分はそういう頭の訓練をしてこなかった事が悔やまれるのだが、だったら今からやれば良いのである。
そして実験してみると、確かにその成果は認められるのだ。

難解なを理解せずに読む事は、その本を読まない事と同じだと言える。
しかし内容は分からなくとも、難解な言葉を膨大に積み重ね、完結に分かりやすい言葉では決して伝わらない何事か、を伝えようとする人がいる事は具体的に理解できる。

難解な本を理解しながら読もうとすると、数ページも読めないうちに挫折して自信を失う。
そうするとコンプレックスにより、よけい頭が硬くなる。
しかし分からないまでも読破してしまえば、達成感により気持ちが軽くなる。
誰も分からない難解な本は、「読んだ」というだけで相手をビビらすことができるw

たとえ「理解」しながら本を読んだとしても、実のところ内容の大半は読んだ直後に忘れてしまう。
結局は「良い本を読んだ」という感触以上のものが残っていない事もあり、結果として「理解しないまま文字だけ追う」のと変わりない。

「本は理解しながら読まなくてはならない」と言うのは、根拠の無い先入観に過ぎない。
いったい「理解」とはなにか?
例えば人は、目に映るものの全てを理解しながら道を歩いてるのか?
街路樹や雑草の全種類を理解しながら、その場を通り過ぎるのか?
あるいは、すれ違う人々が発する「無意識のサイン」を全て理解しながら、路を歩くのか?
しかし実際には、人は目に映るものの大半の意味を理解しないまま、路を歩く。
たとえ通い慣れた路でも、膨大なものの意味を見落としたまま、それでも何の不都合も感じない。
そして、読書もまた同じことなのだ。

難解な本は難解なだけに、内容を理解する必要がないとも言える。
そして理解しないまま文字だけ追ってゆけば、どんな難解な本も読破できる。
それは最低限の交通ルールさえ理解していれば、それ以上に何を理解せずとも路を歩ける事と同じだ。
文字と最低限の文法が理解できれば、読破のためにそれ以上の理解は必要ない。

路を歩く時、視界は様々な「もの」に遮られる。
しかし人は視界に入るものの意味を、ほとんど理解しようとしない。
だったら路を歩く時、視界を「本」で遮ってみよう。
路を歩くためには、本からはみ出た「目の周辺」の情報だけで十分だ。
それ以外の余計な視覚情報を「もの」から「文字」に入れ替えるのだ。

「難解な本」があるように「難解な路」がある。
例えば田舎の路は、様々な種類の雑草、樹木、虫、鳥たちに囲まれて極めて難解だ。
都会の路は、様々な人々の「想い」にあふれ極めて難解だ。
そんな難解な路を、人々は何も理解しないまま平気で歩いてゆく。
理解できないと物怖じして歩かない人は滅多にいない。

「理解」とは、読書の成果の可能性の一つに過ぎない。
そして、たとえ何かを理解したつもりになっても、必ず他の誰かから「違う」と否定される。
ある宗教書では、全てのキリスト教神学の「理解」は間違いで、必要なのは「回心」だと主張していた。
理解よりも読書で自分が変わる事が大事だと説いていた。

読書に必要なのは「理解」より「回心」だと、本当にその本に書いてあったかは不明だが、ぼく自身そのように考えが変わったのは事実だ。
と、偉そうな事を書くのも、ブーバーの本を読破して気が大きくなってるせいかもしれないw
難解な本を読破すると、少なくとも気分は変わる。

難解な本を理解しないまま読破すると、自分が属するより上の階層の世界を垣間見た気分になる。
貧乏人が金持ちのパーティーに招待され、会場の隅で大人しくしているような…いや卑屈になる必要はなく、上層の世界を見る事は、自分の認識世界を広げ、上昇の可能性にもなる。

「難しい事は分からない」と諦めてる人は「分からないこと」を恐れている。
分かったつもりで分かってない人を見下す者は、同じく「分からないこと」を恐れている。
「分からないこと」を恐れない人は、どんな路も歩いてゆけるし、どんな難解な本も読破できる。

書を捨てて街に出るのも良いが、街を歩くように読書するのも良いし、歩きながら読書するともっと良い。
目の中心で本を読み、目の周辺を見ながら歩くのが、アフォーダンス理論を応用した「読書歩行術」なのである。

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コメント

最初は分からなくても、わかるまで繰り返し読め、と昔のヒトは言っていますね。読書百遍とか韋編三絶とか、

投稿: schlegel | 2011年8月14日 (日) 09時02分

返信遅くなりました。
分かろうとすると読めなくなるので、分からなくても読み進めることです。
「分かりたい」という欲望というか、単なる見栄っ張りが邪魔するのですが。
そう言うのがない子供は、ガンガン読み進められるのかも知れません。

最近ではネットゲリラさんがこんなこと書いてましたが、なるほどなと思わされますw
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/08/post_6fcb.html

投稿: 糸崎 | 2011年8月23日 (火) 22時09分

つまり、なるほどなと思わされないように読む、ということですね(笑)

投稿: schlegel | 2011年8月25日 (木) 20時00分

えっと、何が言いたいかと言うと、息をしながら酸素を取り込ま無いことが出来ない様に、読みながら解釈し無いことは難しいだろうと、、読む以上は人間なんらかのinterpretationをしてる筈でおっしゃることがわからないでもないけど、多分、理解のレベルを下げてるだけだろうと思うわけです。
言い方を変えると、たとえばアラビア語で書いてあったら音さえイメージ出来ず、それに比べると日本語ならどんなに難解でも、文節単位での解釈はイヤでもするわけで、、

投稿: schlegel | 2011年8月25日 (木) 23時11分

>それに比べると日本語ならどんなに難解でも、文節単位での解釈はイヤでもするわけで、、

そうは言っても何回読み直しても何も意味が分からない難解な書物は存在するわけで、言葉というのは不思議なものです。

ぼくがここで提唱してるのは「読書法」ではなく「読書練習法」なのかもしれません。
どうやらデキル人は、子供の頃そう言う読書練習法をしているようなので・・・
大人になってその練習法が有効かどうかは不明ですが、今度フッサールでも読んで実験してみますw

投稿: 糸崎 | 2011年8月25日 (木) 23時34分

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