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2011年9月

2011年9月26日 (月)

「人核」とアフォーダンス

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7つの習慣』を読みながら、アフォーダンス理論を思い出して書いたtweetメモ。

●人格とは「人核」であり、従って精神的な核を持たない表面だけの人間も存在しうるのである。

●「人核」がある人は何が起きても揺るがない。
「人核」が無い人は何が起きても目を覆っているので揺るがない。

●「人核」の無い人間が「人間」として振る舞えるのは、高度な文明が高度な「アフォーダンス」を提供してるから。
人間は「文明のアフォーダンス」に反応することで、「人核」がなくとも人間として振る舞うことができるのである。

●動物の知性は動物自身に具わっているのではなく、外部の環境に存在する、と言うのがアフォーダンス理論。
環境は動物に多くの知性をアフォード(提供)し、動物はそのアフォーダンスに反応することで、知性があるかのごとく行動する。

●アフォーダンス理論によると、環境は知性で埋め尽くされ、動物はその隙間の何もない空間に過ぎない。

●動物が移動するのは、動物自身が主体的に移動しているのではない。
環境が移動を可能にする知性をアフォードし、動物はただそれに反応しているに過ぎない。

●人間は「人間の歩き方」の説明書を容易に作成することができない。
つまり、歩くことを可能にする知性は人間の内にあるのではなく、外部の環境に存在するのである。

●人間の文明には、自然環境とは異なるアフォーダンスが存在する。
文明が生み出したアフォーダンスに反応し続ける事ができれば、自分自身は知性を持つ必要は無くなる。

●部屋に棲み着いたゴキブリは、人間の文明が生み出したアフォーダンスに反応することができる。
部屋に迷い込んだハチは、文明が生み出したアフォーダンスに反応できずに死んでしまう。

●森に迷い込んだ現代人は、森のアフォーダンスに反応できずに死に至る。
都会に出てきたばかりの田舎者は、都会のアフォーダンスに反応できずに騙される。

●「人核」とはアフォーダンスによらない知性のこと。

●「人核」のある人はアフォーダンスをコントロールし、「人核」のない人はアフォーダンスにコントロールされる。

●「人核」によって生きる人と、アフォーダンスによってのみ生きる人と、その中間に生きる人が存在する。

●環境が豊かで安定している限り、人間は「人核」を形成しなくても生きてゆくことができる。
しかし環境が激変した場合、「人核」のない人間は対応できずに生き残ることが難しくなる。
つまり現代文明は、人間が「人核」を形成しなくて済むように、高度なアフォーダンスとして発達してきたのだと言える。

●動物に「人核」に相当する「精神的の核を」持たず、表面的反応によってのみ生きている。
人間に対し愛情や信頼や忠誠心を見せる高等動物は、愛情や信頼や忠誠心を育む文明のアフォーダンスに反応している。

●皆が親切な時は自分も親切に振る舞い、皆が意地悪な時は自分も意地悪になる、という人には「人核」が無く、「親切」という文明のアフォーダンスに反応しているに過ぎない。

●確固たる「人核」を形成した人間は、悪人に奪われるような何ものをも持たない。
従って「人核」のある人間の世界に悪人は存在しない。自然愛好家の世界に害虫や雑草が存在しないのと同じである。

●確固たる「人核」を形成した人間は、どんな悪人に対しても、動物に対するのと同じ深い愛情を注ぐ。
虫に刺されたと言ってむやみに殺さないのと同じく、むやみに悪人を滅ぼす事はしない。

●子供には「人核」が無い。それはまだ形成途中なのであり、だから子供は人間と動物の中間とみなす事ができるのだ。

●自分は他人にとって環境であり、だから誰もが他人に対するアフォーダンスになり得る。

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2011年9月25日 (日)

盆栽写真展で盆栽技師さんにインタビュー



南麻布のEMON PHOTO GALLERYで開催中の大和田良写真展『FORM』にて。
前回はオープニングパーティーで大和田さんにインタビューしましたが、今回はその被写体である盆栽を管理している「大宮盆栽美術館」の盆栽技師 森隆宏さんとの対談が行われました。

と言うわけで、対談のあとに森さんにインタビューをお願いしました。
この中でリアクションするのを忘れてしまいましたが、森さんが「盆栽と向き合う」という表現をされているのが印象的でした。
盆栽はただ見たり眺めたりするのではなく「向き合う」ものであり、それは盆栽に限らず芸術鑑賞の基本と言えるのかもしれません。

開催概要

1.B GALLERY
 新宿区新宿3-22-6 ビームス6F
 電話03-5368-7309
 http://www.beams.co.jp/b-gallery/

   2011年9月7日(水)~10月3日(月)
 11時~20時(会期中無休)

2.EMON PHOTO GALLERY
 港区南麻布5-11-12 togoBldg,B1F
   電話03-5793-5437
 http://www.emoninc.com/

   2011年9月7日(水)~10月7日(金)
 11時~19時(日曜・祝日休廊)


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土屋貴哉 「バランスパラメータ」インタビュー


イムラアートギャラリー東京で開催中の、土屋貴哉個展 「バランスパラメータ」にてアーティストにインタビュー。
何というか子供のイタズラを拡大したような、独特の笑いのあるコンセプチュアルアートで、一般の人にも親しみやすい作品ではないかと思います。
会期は10月8日(土)までです。

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科学部デスクの昆虫的習性

このブログ記事のコメント欄に、schlegelさんから以下の書き込みをいただいた。

>読売に理学と工学の発想の違いについてまとめてありました、
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnscience/20110825-OYT8T00808.htm
>結論はよくわかりませんが(笑)

ぼくの結論としてはこの記事はけっこう酷い内容で(笑)、あらためて記事にしてみる。

まず原発事故に関して、新聞社をはじめとするマスコミは事故直後に国民の生命に関わる必要な情報を一切流さなかった、と言う「大罪」を犯している。
だからそれに対する根本的な反省無くして、マスコミは誰をも非難することができない。
この記事も、そんな「自分のことは棚上げ系」「おまえが言うな系」の記事に思えてしまう。

 それに加えて、東日本大震災でおおきく揺らいだ専門知識への信頼を回復する必要もある。たとえ個々の市民が科学や技術に精通していなくても、その専門知識が社会を健全に支えていることをつねに確認できれば、市民はそれを信頼することができる。

記事にはこのように書かれているが、信頼を回復する必要があるのは新聞をはじめとする「マスコミ」も同じなのに、その視点を全く欠いている。
幸い、インターネットが発達した現代では、市民はその気になりさえすれば誰でも情報に精通できるので、市民に信頼される健全なマスコミである必然性もなくなりつつある、と言えるだろう。

 今回の原発事故を契機に、原子力開発関係者の閉鎖性が、「原子力ムラ」という言い方でしばしば指摘されてきた。顔見知りの村人なら信頼するが、それ以外のよそ者は、いい人か悪い人かを確認する以前に拒絶してしまう。自分と違う価値観を持った人たちを受けつけず、狭い自分たちの知識と慣習だけで事を進める伝統的なムラ社会の負の側面が、現在の原子力開発でも見られるという指摘だ。

まるで自分たちマスコミには、以上のようなムラ社会の負の側面が「ない」かのような書き方で、なかなか興味深い。
丸山眞男は『日本の思想』(岩波新書)の中で、日本のマスコミはそれぞれがタコツボ化し(ムラ社会化し)、相互のコミュニケーションが無いゆえに、かえって発信する情報が画一化されている、というように指摘している。
これは閉鎖的に孤立したそれぞれのムラが、同じお役人さまにお伺いを立てながらおふれを出している状態、と言えるかもしれない。
丸山眞男が『日本の思想』を出版したのが1961年なので、これはまさにマスコミの「伝統的なムラ社会の負の側面」と言えるだろう。

 過去の取材で、この例えでいえば、「なぜ2倍で十分なのか」という理学部的な質問を工学部系の人に投げかけ、「キミはまだエンジニアリング(工学)がよくわかっていないね」とはぐらかされたことが何度もある。理学部出身の筆者にとって、この工学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、工学ムラの怠慢というよりも、むしろモノを作る人の習性なのだと思う。

このくだりの「むしろモノを作る人の習性なのだと思う。」は普通にサベツ発言で(笑)、まさにムラ社会的意識の反映だと解釈できるだろう。
この記者は、人間をカブトムシやカマキリのようなものだと思っている。
カブトムシはカブトムシの習性に従って生き、カマキリの様な肉食の習性を採り入れることは絶対にしない。
そして「工学系の人間」もカブトムシがそうであるように、「モノを作る人の習性」にのみ従って生き、その枠を超えることは絶対にない、という前提でこの記事は書かれている。

 だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある。日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。

この記者はカブトムシとカマキリを区別するように、人間を「理学系」や「工学系」などの「肩書き」で判断している。
そして、「カブトムシもカマキリもテントウムシも、みなバラバラに生きるのではなく、みんなで協力してして森の自然を守ろう!」みたいな主張をしてるのである。
この提案は、人間を含めたものごとの様々を「表層」のみで判断した、場当たり的な「対症療法」であるようにぼくには思えてしまう。

**

ところで、ぼくは最近『7つの習慣』という本を読んで感銘を受けたのだが、これは1996年発刊のビジネス書の大ベストセラーで、一時期電車の吊り広告などをよく見かけた気がする。
この本の主張を端的にまとめると、ビジネスを成功させようと思ったら、まず「ちゃんとした人間」になることが基本である、と言うことだ。
現代では誰もが(広い意味での)ビジネスマンだと言えるが、その職種や肩書きや地位などにかかわらず、まず「ちゃんとした人間」にならなければ何をやっても上手くいかないだろう、という理屈は十分に納得できる。

実は、この主張は儒教の基本教典『大学』に驚くほどよく似ていて、『7つの習慣』まさにその現代版とも言える内容だとぼくには思える。
儒教の『大学』では、きちんと国を治める立派な君主になるには、まずその肩書きや立場以前に「ちゃんとした人間」にならなければいけないと説いている。
そして、現代の民主主義社会で国を治めるのは誰なのかを考えると、儒教の教えが現代にも通じてくるのである。

というふうに考えると、

浜岡原発差し止め訴訟で2007年に、当時は東大工学系の教授だった班目春樹・現原子力安全委員長が、事故につながる可能性のあることをすべて考えてはモノなど設計できない、どこかで割り切ることが必要だ、という趣旨の発言をしている。まことに工学部的な発想だ。

これは「当時は東大工学系の教授だった」という肩書きや、「まことに工学部的な発想だ」と言う職業柄の問題などではなく、「班目春樹」という人物の人間性の問題だと捉えることができる。

過去の取材で、この例えでいえば、「なぜ2倍で十分なのか」という理学部的な質問を工学部系の人に投げかけ、「キミはまだエンジニアリング(工学)がよくわかっていないね」とはぐらかされたことが何度もある。

これについてもけっして「モノを作る人の習性」などという昆虫的な性質によるものではなく、あくまでその人物が「質問をはぐらかすような問題のある性格」だったのだ、と解釈できる。
このように見ると、人間の失敗の原因を「昆虫的な性格」に求めることは「個人の責任」を問わないことに繋がる、と言うことにあらためて気付く。
しかし人間は昆虫ではないし、一人一人が「責任ある個人」であることが、民主主義の前提になっているのである。
「責任ある個人」とはつまりは「ちゃんとした人間」であるわけで、工学系であろうが、理工系であろうが、マスコミであろうが、専業主婦であろうが、それぞれの専門分野以前に各自が「ちゃんとした人間」であれば、原発事故は未然に防げただろうし、例え事故が起きても最大限に適切な処置ができたはずだとぼくは思う。
例えば、いくら工学系の人間であっても、それ以前に「ちゃんとした人間」であれば小出裕章さんのように「原発は事故のリスクが大きすぎて作るべきではない」と判断できるのだし、少なくとも事故後に「自分たちは間違っていた」と反省もできるだろう。
反対にこの記者は「理工系」を自称していながら、自分が理工系の性質として挙げた「なぜ」への問いかけが根本的にできておらず、視点が「表層」のみに留まっている。

 だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある。日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。

この提案は、「さまざまな分野の専門バカを集めれば、利口な判断ができるだろう」と言い換えることができる。
「専門バカ」とは、例えばこの記事に書かれた「モノを作る人の習性」のみに生きる昆虫的なエンジニアのことで、つまり「専門バカ」とは単なる「バカ」でしかない。
しかし人はどのように高度な専門分野に携わろうとも、まず「ちゃんとした人間」でなければならない、と言うのが文明の基本であり、それは古代から現代に至るまで綿々と語り継がれているのである。
ところが文明が高度に発達すると、つまりは世の中が安定して豊かになると、人々は「基本」を忘れても生きてゆくことができるようになる。
あらゆる専門分野がタコツボ化、ムラ社会化し「専門バカ」だらけになったとしても、システムが安定していればそれでやっていくことができる。
しかし3.11以降、世界はすっかり変わってしまい、文明の安定性が根底から揺らいでしまった。
そんな状況ではもはや「専門バカ」は通用せず、工学系であっても、理工系であっても、そしてぼくのような美術系であっても、専門以外の「基本」を身に付けることがあらためて必要になってくる。

このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。

最後に、こういう言葉遣いもどうしても引っかかってしまうのだが、この場合の「社会が決める」とはいったい何処に主体と責任があるのか判然としない。
この記者は人間の社会を、アリやハチやシロアリなどの社会性昆虫の「社会」と同じようなものと考えているのかも知れない。
という具合にこの記事はいかにも酷い内容で、「だが、これはおそらく、新聞社の怠慢というよりも、むしろ新聞記者の習性なのだと思う。」などとイヤミの一つも言いたくなってしまうのだ(笑)。

**

知の結集阻む理学部と工学部の壁

科学部デスク 保坂直紀


 東日本大震災にともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故で、なんども「想定外」という言葉を聞いた。

 これほどの巨大地震が起きることは想定外で、高さが15メートルにもなった津波も想定外。原子炉の最低限の安全を確保するための非常用電源がすべて使用不能になってしまったのも想定外だった。

 人間は、過去から学ぶ。過去に経験しなかったこと、あるいは、過去の経験や知識から類推できないことを想定するのは、たしかに難しい。問題は、今回の「想定外」が、最善を尽くしたうえでの想定外だったのかという点だ。

 今回の原発事故を契機に、原子力開発関係者の閉鎖性が、「原子力ムラ」という言い方でしばしば指摘されてきた。顔見知りの村人なら信頼するが、それ以外のよそ者は、いい人か悪い人かを確認する以前に拒絶してしまう。自分と違う価値観を持った人たちを受けつけず、狭い自分たちの知識と慣習だけで事を進める伝統的なムラ社会の負の側面が、現在の原子力開発でも見られるという指摘だ。

 価値観の違う人たちが理性的に討議を重ね、ベストの結論に達する。そうあるべきなのだろうが、現実には価値観を隔てる壁は高く、容易には越せない。

 たとえば、おなじ理系にくくられる工学部と理学部の壁。東京大学の原子力関連学科が工学部に属していることからもわかるように、原発関係は工学部の世界だ。工学部は、モノを作る人たちの集まり。とにかくモノができなければ満足しない。浜岡原発差し止め訴訟で2007年に、当時は東大工学系の教授だった班目春樹・現原子力安全委員長が、事故につながる可能性のあることをすべて考えてはモノなど設計できない、どこかで割り切ることが必要だ、という趣旨の発言をしている。まことに工学部的な発想だ。

 工学部の人たちは、たとえば「この建物は、過去に起きた地震の2倍の揺れに耐えられるから十分に安全だ」という。では、なぜ2倍で大丈夫なのか。3倍、いや5倍にしなくて大丈夫なのか。モノを作ってきたかれらの発想の根っこには、2倍の耐震性でこれまで大きなトラブルに見舞われたことがないという現場の経験知がある。

 その点、理学部の人たちは違う。なぜ「2倍」なのかが気になる。「2倍」と結論できる根拠と原理を知りたい。理学では、目の前の現象を見て、それがどのような原理で起きるのかを問う。それがわかれば満足する。一方の工学は、目の前にないものを夢見て、なぜそんな便利なものが存在しないのかを問う。そして作りたいとなれば、頭脳と腕力で作ってしまう。

 過去の取材で、この例えでいえば、「なぜ2倍で十分なのか」という理学部的な質問を工学部系の人に投げかけ、「キミはまだエンジニアリング(工学)がよくわかっていないね」とはぐらかされたことが何度もある。理学部出身の筆者にとって、この工学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、工学ムラの怠慢というよりも、むしろモノを作る人の習性なのだと思う。

 だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある。日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。

 原子力だけでなく、医療にしても新技術の開発にしても、現代の社会は専門家のもつ知識なしには動いていかない。科学や技術に関する知識と社会の関係はどうあるべきなのか。専門家のいうとおりに社会を作ればよいのか。専門知識を生み出すときにも市民参加が望ましいのか。専門知識の生産と政策決定に果たす市民の役割は、具体的にどう違うのか。あちこちに分散している知識を統合するには、どうすればよいのか。専門知識と社会をめぐる議論にも、このようなさまざまな論点がある。

 それに加えて、東日本大震災でおおきく揺らいだ専門知識への信頼を回復する必要もある。たとえ個々の市民が科学や技術に精通していなくても、その専門知識が社会を健全に支えていることをつねに確認できれば、市民はそれを信頼することができる。専門知識へのこのような信頼が、近代以降の社会には欠かせない。社会学者のアンソニー・ギデンズは、『近代とはいかなる時代か?』(而立書房)でそのように述べている。

 科学や技術を社会に埋め込む際に、さまざまな側面からの専門知識を結集する仕組みがいまの日本にできているのか。そのためにベストな人材が広い範囲から集められているか。工学部でも理学部でもいい。文理融合などという古臭い言葉を使うまでもなく、そこには社会学や政治学の知も必須だろう。東日本大震災からまもなく半年。あちこちに昔のようなムラができる前に、多様な専門知を十分に信頼できる形で生かす新しい日本に向けて踏み出したい。
(2011年8月26日  読売新聞)

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2011年9月24日 (土)

110922新・港村

横浜市の「新・港村」というアートイベントにて、彦坂尚嘉さんが描く壁画の手伝いをしている様子の自分語り。


壁画をペイントする彦坂尚嘉さんにインタビュー。


壁画の最後の部分をペイントする栃原比比奈さんにインタビュー。

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2011年9月16日 (金)

「自分撮り動画」の批評


彦坂尚嘉さんのブログ記事で、ぼくの一連の「自分撮り動画」についての批判について触れられているが、どうも評価が低い模様・・・ それに対して、また歩きながらしゃべってみたのだが、今ひとつ頭が回らず、口も回らず、以前と同じ繰り返しもあったりしてグダグダになってしまってるw
しゃべるというのは、下書きもせず推敲もせずに原稿を仕上げるのと同じで、上手くいかないとなかなかつらいものがあるが、何事も練習と言うこともあり、悪い見本として掲載してみる。
ぼくとしては自分に対する批評は大歓迎で、むしろ表面的で社交的な褒め言葉の方を警戒してしまう。
彦坂さんの批評行為は、芸術の認識の一環として行われ、自分の作品がその「素材」に使われて役立つなら嬉しいことだし、他のアーティストのみなさんにも、そのような使い方をしていただければとも思っている。

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110917『ファットフォト』取材

『ファットフォト』の取材で、ツギラマの被写体選びについて編集者に説明する。

『ファットフォト』の取材を終えて、感想を述べながら東京駅構内を歩く。

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110914バニシングポイントとデスプルーフ


朝、出がけにしゃべってるが、頭も口も今ひとつ回らずにグダグダに・・・
まぁ、そう言うのも面白いかも知れないので公開するw
映画に出てきた地名をちゃんと言えてないが、正確には「コロラド州デンバーから、カリフォルニア州ロサンゼルス」。

先の動画の続きだが、こちらは映画のネタバレを含んでいる。

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2011年9月15日 (木)

110913言葉のセットについて

夜になっても止まらずにしゃべり続けるが、「言葉のセット」というこれまで自分が使ったことのない言葉が出てきて我ながら驚くw

さらに止まらずにしゃべり続けるが「一人でしゃべることについて」

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110913ジャンクアートとタランティーノ映画

DVDショップからの帰り道、タランティーノ映画について語る。
が、iPhoneの操作間違いで途中で切れてしまった。
のでつづく。

先ほどの続きだが、『グラインドハウス』と『プラネット・テラー』という大事な言葉を忘れてしまって言えてないw
しかしまたしても途中で切れたので続く・・・

先の動画が途切れてしまい、話を続けるハメになったので、ヒッチコックと大衆映画について、プラトンを引き合いに出して語る。

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110913非人称芸術の「外」に出る

レンタルショップにDVDを返しに行く途上で「映画について語る練習」。しかしビートたけしの『みんな〜やってるか!』のタイトルを途中で言い間違えたりしてるw


「非人称芸術の外に出る」について語る。これくらいからしゃべりの調子が出てきた感じ?

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2011年9月14日 (水)

110913初めての「自分撮り」動画


はっきり言って彦坂尚嘉さんのこの動画の真似をしてみたのだが、「真似ることと学ぶこと」について語っている。
しかし早々に言葉に詰まり、3分で終了w


次は頑張って7分しゃべったのだが、さらに頑張って「非人称芸術と教養」について語っている。


「話すことの慣れ」について語りはじめたが、途中から何を言おうとしてるのか分からなくりグダグダになっているw

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2011年9月12日 (月)

古典を読むのはナンセンスか?


9月5日に清澄白河のTAPギャラリーで行われた雑談の続き。
動画の終わりが中途半端なのは、酔っぱらっていたせいかもしれないw

概要は、ぼくがプラトンの『法律』を差しだし「こういう本を読んだ方が良い」というのに対し、写真家の緒方くんが「そんなのナンセンスだと思う」と切り返している。
また緒方くんが提示した「要領の良い読書」という指摘も興味深い。

こうして見ると、糸崎さんが半ばバカにされながらも、少しくらいは一目置かれており、トータルで愛されてることがよく分かるw

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動画には収録しそびれたが、緒方くんはこんな本を読んいた。
レヴィ=ストロースは「どんなデタラメな分類も、何も分類しないよりもまし」と言うように書いていたが、それに従うとどんな本を読んだとしても、何も読まないよりはましなので、何でもどんどん読めば良いんだと思う。
実際緒方くんは「オレ、めちゃめちゃたくさん読書してますよ」と言っていた。

もちろん、緒方くんの読書法がデタラメと言うつもりはなく、最新の書物は古典の上に成立しているので、今さら古典を読む必要ないという主張も一理ある。
しかし最新の書物は古典的基礎を「以下略」にしてしまってる面があり、だから古典に何が書かれているのか確認することは無意味ではない。

などともっともらしく主張しているが、この日は酔っぱらいすぎて読みかけの『法律』を帰りの電車内に置き忘れてたりとか、そんな糸崎さんなのでしたw

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フォトモワークショップ講評会インタビュー


「しんじゅくアートプロジェクト」の一環として、9月4日に開催されたフォトモワークショップの講評会。
ぼくが撮った動画をスタッフの方が編集してくれました。
この活動は果たして芸術なのか?という疑問はさておき、我ながら子供相手にちゃんとサンビスしてますw

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2011年9月 9日 (金)

監視カメラ

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久々のネタ写真。
監視カメラがこちらを見ているが・・・

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どう見ても35mmフィルムカメラ、恐らく初代キヤノンオードボーイ

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背面から・・・後ろ手に縛られたボンテージな感じw

国分寺市
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2011年9月 8日 (木)

大和田良個展『FORM』インタビュー




南麻布のEMON PHOTO GALLERYで開催中の大和田良写真展『FORM』のオープニングパーティーにて、大和田さんにインタビュー。
はじめに撮ったデジカメのメモリーが途中で切れてしまったので、二本に分かれてますw

開催概要

1.B GALLERY
 新宿区新宿3-22-6 ビームス6F
 電話03-5368-7309
 http://www.beams.co.jp/b-gallery/

   2011年9月7日(水)~10月3日(月)
 11時~20時(会期中無休)

2.EMON PHOTO GALLERY
 港区南麻布5-11-12 togoBldg,B1F
   電話03-5793-5437
 http://www.emoninc.com/

   2011年9月7日(水)~10月7日(金)
 11時~19時(日曜・祝日休廊)

日本的なるものとはなにか。
その探求の中で出会った「盆栽」。
そこには日本の伝統的美意識と自然の縮図としての姿があった。
そして、僕自身の思う写真というものに、
最も近しいといえる被写体のひとつであると気付かされた。
大和田良

さいたま市盆栽美術館の個展も記憶に新しい、本作品のシリーズ。
“大和田良が、盆栽?”と、好奇心満々で出かけ拝見したときには、なんとも不思議な親和性を持って壁にかかる作品に驚かされた。
盆栽という強烈な存在もしっかり大和田良に取り込まれ、彼の世界観によって再構築されている。
見逃した方は、この機会にぜひご覧になることを薦めます。

文責・水谷充

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2011年9月 7日 (水)

斎藤明彦/林隆文/山方伸 写真展インタビュー


清澄白河のTAP Galleryで開催中の、斎藤明彦/林隆文/山方伸 写真展『STREET PHOTOGRAPHS』での作家インタビュー。

TAPは5人の写真家が運営する写真自主ギャラリー。
今回はTAPメンバーの斉藤昭彦さんと、メンバー以外の林隆文さん、山方伸さんとのグループ展。

インタビューのはじめは山方伸さんで、「コニカフォトプレミオ大賞」の経歴を持ち、地方の街並みをスナップしたモノクロ写真で定評がある。
しかし今回は趣向を変えて、「人物の隙間」を意識した人物スナップを展示している。

林隆文さんは、今回ぼくとは初対面で作品も初めて拝見したが、スナップ写真を画用紙に4分割してプリントしピン留めした、意欲的な実験作。

斉藤昭彦さんは、ご自身が東京出身ということで「ふるさととしての東京」をテーマに撮影されたとのこと。


次いで写真家たちが雑談、テーマは「パクリ」w
最初のインタビュー時よりもお客さんが増えて、だいぶ賑やかになっている。

というわけで、TAPのブログにあった展覧会情報は以下の通り。

新しい展示のお知らせ STREET PHOTOGRAPHS

9/6(火曜)より9/18(日曜)までの期間、 山方伸・林隆文・齊藤明彦 3人展 STREET PHOTOGRAPHSを展示します。

9/6にはオープニングパーティー(無料・申し込み不要)、9/17日にはトークショー(参加費300円・ワンドリンク付)も開催しますので、

是非お立ち寄り下さい。

ギャラリー当番

齊藤(6,9,13,18)林(8,5,17)山方(7,10,14,16)

11はメンバーの佐久間の在廊となっております。

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2011年9月 6日 (火)

門田光正「Mimic」インタビュー


門田光雅さんの個展「Mimic」の会場SATOSHI KOYAMA GALLERYで、ご本人にインタビューしてみた。
こういうことも慣れないのだが、何事も練習ですw

この日は何件かギャラリーを見て回ったがまず、コニカミノルタプラザ。
ギャラリーA中内美帆 写真展「Senegambia Dining」は被写体と写真家の距離感が中途半端で分かりにくい気がしたのだが、そう感じるのはぼくがこの手の写真に対し目が肥えてないせいもあるだろうw

ギャラリーB、野口博行 写真展「静止する川」はコンセプトがシンプルで分かりやすくおもしろい。
川面が静かでないと風景がきれいに写り込まず、時間帯や天候などいろいろ工夫されているとのこと。

ギャラリーC、齋藤亮一 写真展「佳き日 A Good Day」は、自分で「写真」を撮るようになって分かったのだが、人物の配置やポーズが秀逸で決まっている。
もっともご本人のポイントはそこじゃない、というかも知れないが・・・

次いで、某雑誌編集長と打ち合わせのあと、BEAMS 「B GALLERY」の空山基 展覧会 『ネオ・ジャポニズム & オブセッション展』
会場そのものが18禁で入り口に幕が張ってあって、DVDショップのアダルトコーナーみたいw
しかし空山さんの絵をあらためて見ると、やはりファインアートではなくあくまでもイラストであり、特有の軽さがある。

そのあと新宿高島屋美術画廊で、松山 賢「絵の具の絵」
松山さんはリアリズム絵画を得意としているが、今回は文字通り皿に盛った絵の具を写実的に描いた絵で、自己言及的な「メタ絵画」としての要素のある意欲作。

さらに次の日に行われるワークショップの打ち合わせのあと、門田さんの個展会場へ。
という一日でした。

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芸術至上主義と科学至上主義

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schlegelさんが前回記事のコメント欄で以下のように書かれてたので、それに応えるかたちで記事を書いてみる。

>糸崎さんとは科学に対する考え方が全く違うというのは薄々気づいていたものの、だいぶショックで(笑)それは自分の考え方の中枢を占めている科学的思考(科学至上主義と言ってもいいかもしれません(笑))が否定されているようなものだからなのですが、

ぼくはつい最近まで「芸術至上主義」だったのがそうではなくなり、それとともにあらゆる「○○至上主義」という考えからは自由になれた気がしている。

芸術至上主義とは、「芸術の価値こそがいちばん」とする主義ではなく、「純粋芸術」を追求する主義である。
では純粋芸術に対して不純な芸術とは何か?と言うと、例えばイラストレーションのような商業芸術がそれで、お金のために描かれているから純粋芸術ではない。
また、宗教芸術も宗教のための芸術であって、芸術として純粋ではない。
芸術至上主義にとっての芸術とは、本質的に「芸術のための芸術」でなくてはならず、それ以外の「○○のための芸術」であってはならない。

このような芸術至上主義は、ヨーロッパ発祥の近代=モダニズムの産物である。
近代以前のヨーロッパ芸術は、キリスト教と不可分に結びついていた。
ところが近代になってキリスト教を絶対視する考えが衰退すると、キリスト教から「芸術」という概念が分離し、純粋化した。
「キリスト教のための芸術」が「芸術のための芸術」になり「芸術至上主義」という概念が生じ、それが現代にまで続く芸術のイデオロギーとなっている。

しかしこの「芸術至上主義」も最近では衰退してきており、ぼく自身ももはやその立場にいない。

先に書いたように芸術至上主義は「純粋芸術」を追求するが、この言葉は「純粋」と「芸術」という二つに分解できる。
そして「純粋」という概念が一つのイデオロギーである以上、「純粋芸術」とは「純粋というイデオロギーのための芸術」なのである。
「芸術至上主義」も、まず「何か至上のものがある」というイデオロギーが「至上」なのであって、「芸術」はその付属物に過ぎない。
つまり「純粋芸術」はちっとも純粋ではなく、「芸術至上主義」は芸術を至上としていないのだ。

なぜこのようなパラドックスが生じるかと言えば、「純粋」とか「至上」という価値観には、「関係論」が含まれていないからである。
現代の「関係論」はソシュールの言語学が元になっている。
ソシュールは人間の「言語」が「関係の連鎖」で成り立っていることを明らかにした。
そして人間は「言語」をコミュニケーションのみならず、認識や思考にも使用するので、「関係論」は言語に限らず広い分野に適応されている。
つまり「芸術」も、それ以外のさまざまな概念との関係の連鎖のうちに存在しているのであり、「芸術」という概念が単独で、純粋に、至上ものとして存在する、と考える事自体がナンセンスなのである。

だから例え「純粋芸術」のつもりで描いた作品であっても、本人の意図にかかわらず「関係の連鎖」から決して逃れることはできない。
むしろ「純粋芸術」の名の下に「関係の連鎖」を考慮せずに製作された作品は、底が浅く力の弱いものとならざるを得ない。
逆に言えば「芸術の創造」とは「関係の創造」であり、芸術家は「関係の連鎖」を自覚し「芸術の外部」からより多くのものを採り入れるべきなのだ。

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次に「科学」について考えてみると、科学的思考の萌芽はキリスト教神学にあり、完全なる「神」が、この世界をいかに合理的に創造されたのか?を解明するための学問だった。
例えばコペルニクスは天動説を否定したが、だからといって「神」の存在を否定したわけではなく、「神」がそのような合理的な世界を創造されたのだとして「地動説」を説いたのだった。
しかし「神」が創造した世界の合理性の解明が進んでいくと、そのうち「神」無しの方が合理的な世界説明ができることが判明し、キリスト教から「科学」が分離した。
また、科学は「科学技術」を産んだが、そうなると「神の奇跡」も不要になり、それも宗教から科学が分離する要因になった。

つまり「芸術」も「科学」も元はキリスト教の属性だったのが、近代以降に分離し純粋化したもので、その意味で兄弟関係にあると言える。
だから「芸術」の概念を「科学」に置き換えて考えても、ある程度は差し支えないだろうと思われる。

ということで考えてみると、「芸術至上主義」とは「純粋科学」であり「科学のための科学」だと考えることができる。
「科学のための科学」という言葉で考えると、「原子力発電所は科学技術として成立している」と言うことができるだろう。
「純粋科学」という言葉で考えると、「福島で事故があったことは別として、純粋に科学としては成立している」とも言えるだろう。

しかしこのような考え方には、「科学は人類の幸福のためにある」という観点が欠如している。
「科学は人々の幸福のために存在する」という観点で考えれば、「原子力発電所は科学として成立しいない」ことになり、「エセ科学だった」ということになる。
「科学は人々の幸福のために存在する」という思想は、「科学」よりも「人々の幸福」に重きがあって、「科学至上主義」でも「純粋科学」でもない。
いやその昔は「科学そのものが人々に幸福をもたらすはずだ」と広く信じられていたが、現代では「科学至上主義」が原発事故のような不幸をもたらす可能性があることが、ますます明らかになってしまった。

「科学は人々の幸福のために存在する」という思想は、「科学」と「科学の外部」との「関係論」で捉える思想だとも言える。
「科学」というものに「人々を幸せにする」という目的がある限り、科学とは「人間にとって幸福とは何か?」という問題と不可分に結びついており、科学者はその「関係の連鎖」の中に投げ込まれている。
だから現在の福島の原発事故をどう収束すべきか?の問題は、純粋に科学技術的困難さよりも、むしろ「人間にとって幸福とは何か?」に掛かっているのだと言える。
そして「人間にとって幸福とは何か?」はまさに人によってそれぞれなのであり、事態をますます複雑化し、深刻化させている。

もちろんぼくとしては schlegelさんご自身が、以上に述べたような冷徹な「科学至上主義者」ではなく、「科学は人々の幸福のために存在する」という立場で判断し発言されているとは思っている(それ以外の多くの科学者も)。
しかし、「科学は人々の幸福のために存在する」を突き詰めて考えると、「人間にとっての幸福とは何か?」を突き詰めて考えることになり、それは本来の「科学」の範囲から「宗教」や「哲学」などの範囲へと逸脱することになる。
つまり「科学」にとって「人間にとって幸福とは何か?」は究極的問題であるにもかかわらず、「科学」の専門から大きく逸脱しなければそれを知ることも解決することもできない。
「芸術」についてもまさに同じであって、それが「芸術至上主義」とは異なるぼくの立場なのである。

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2011年9月 4日 (日)

科学とエセ科学

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科学とエセ科学の違いについて。
この両者はハッキリ区別される、と思ってる人はエセ科学にはまっている。
というより科学的思考が今ひとつできていない。
何事もそう簡単に二分出来るものでは無い、とするのが最近の科学でもあるからだ。

例えば、原子力発電所は科学かエセ科学か?これも簡単には判断できない。
もちろん、原子力で発電する理論は実証された科学的事実だろうが、故障の際のリスクや核廃棄物などの問題を考えると合理的な発電システムとは言えず、この問題から目を背け原発を実用化する事自体、エセ科学だと言えるのだ。

原発の原理を「発電機」として考えれば、その機能自体は実証されてるため科学的に真である。
しかし「実用的発電機」と考えると、福島の原発事故と、それによって明らかになった様々な問題点を考えると、エセ科学に過ぎなかったのだと判断できる。

しかし原発に限らず、あらゆる科学理論や科学技術には、エセ科学の要素が不可避的に紛れ込む可能性がある。簡単にいえば「科学」とは理念であって、その理念実行するのは人間で、人間はすぐ間違いを犯すのである。

科学には不可避的にエセ科学の要素が含まれる。
だからどんな科学も100%は信じず、その正しさが覆る可能性も考慮を考慮しながら身構える。
逆に、エセ科学と言われる理論も頭ごなしに100%否定せず、役に立ちそうな要素だけ取り入れたり、理論そのものを楽しんだりする。

311の一連の出来事によって、科学がいかに不正確で頼りないかが明らかになったが、だからこそ科学的思考がますます重要になる。
つまり科学にも、エセ科学にも、容易に惑わされてはならないと言う点は同じなのである。

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2011年9月 2日 (金)

彦坂尚嘉とタムラサトル


横浜市で開催中のアートイベント「新・港村」に壁画を描く予定の彦坂尚嘉さん。 を取材しようと思った矢先、友人のアーティスト、タムラサトルさんを見つけてしまったという、グダグダ動画w

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