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2011年9月 6日 (火)

芸術至上主義と科学至上主義

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schlegelさんが前回記事のコメント欄で以下のように書かれてたので、それに応えるかたちで記事を書いてみる。

>糸崎さんとは科学に対する考え方が全く違うというのは薄々気づいていたものの、だいぶショックで(笑)それは自分の考え方の中枢を占めている科学的思考(科学至上主義と言ってもいいかもしれません(笑))が否定されているようなものだからなのですが、

ぼくはつい最近まで「芸術至上主義」だったのがそうではなくなり、それとともにあらゆる「○○至上主義」という考えからは自由になれた気がしている。

芸術至上主義とは、「芸術の価値こそがいちばん」とする主義ではなく、「純粋芸術」を追求する主義である。
では純粋芸術に対して不純な芸術とは何か?と言うと、例えばイラストレーションのような商業芸術がそれで、お金のために描かれているから純粋芸術ではない。
また、宗教芸術も宗教のための芸術であって、芸術として純粋ではない。
芸術至上主義にとっての芸術とは、本質的に「芸術のための芸術」でなくてはならず、それ以外の「○○のための芸術」であってはならない。

このような芸術至上主義は、ヨーロッパ発祥の近代=モダニズムの産物である。
近代以前のヨーロッパ芸術は、キリスト教と不可分に結びついていた。
ところが近代になってキリスト教を絶対視する考えが衰退すると、キリスト教から「芸術」という概念が分離し、純粋化した。
「キリスト教のための芸術」が「芸術のための芸術」になり「芸術至上主義」という概念が生じ、それが現代にまで続く芸術のイデオロギーとなっている。

しかしこの「芸術至上主義」も最近では衰退してきており、ぼく自身ももはやその立場にいない。

先に書いたように芸術至上主義は「純粋芸術」を追求するが、この言葉は「純粋」と「芸術」という二つに分解できる。
そして「純粋」という概念が一つのイデオロギーである以上、「純粋芸術」とは「純粋というイデオロギーのための芸術」なのである。
「芸術至上主義」も、まず「何か至上のものがある」というイデオロギーが「至上」なのであって、「芸術」はその付属物に過ぎない。
つまり「純粋芸術」はちっとも純粋ではなく、「芸術至上主義」は芸術を至上としていないのだ。

なぜこのようなパラドックスが生じるかと言えば、「純粋」とか「至上」という価値観には、「関係論」が含まれていないからである。
現代の「関係論」はソシュールの言語学が元になっている。
ソシュールは人間の「言語」が「関係の連鎖」で成り立っていることを明らかにした。
そして人間は「言語」をコミュニケーションのみならず、認識や思考にも使用するので、「関係論」は言語に限らず広い分野に適応されている。
つまり「芸術」も、それ以外のさまざまな概念との関係の連鎖のうちに存在しているのであり、「芸術」という概念が単独で、純粋に、至上ものとして存在する、と考える事自体がナンセンスなのである。

だから例え「純粋芸術」のつもりで描いた作品であっても、本人の意図にかかわらず「関係の連鎖」から決して逃れることはできない。
むしろ「純粋芸術」の名の下に「関係の連鎖」を考慮せずに製作された作品は、底が浅く力の弱いものとならざるを得ない。
逆に言えば「芸術の創造」とは「関係の創造」であり、芸術家は「関係の連鎖」を自覚し「芸術の外部」からより多くのものを採り入れるべきなのだ。

**

次に「科学」について考えてみると、科学的思考の萌芽はキリスト教神学にあり、完全なる「神」が、この世界をいかに合理的に創造されたのか?を解明するための学問だった。
例えばコペルニクスは天動説を否定したが、だからといって「神」の存在を否定したわけではなく、「神」がそのような合理的な世界を創造されたのだとして「地動説」を説いたのだった。
しかし「神」が創造した世界の合理性の解明が進んでいくと、そのうち「神」無しの方が合理的な世界説明ができることが判明し、キリスト教から「科学」が分離した。
また、科学は「科学技術」を産んだが、そうなると「神の奇跡」も不要になり、それも宗教から科学が分離する要因になった。

つまり「芸術」も「科学」も元はキリスト教の属性だったのが、近代以降に分離し純粋化したもので、その意味で兄弟関係にあると言える。
だから「芸術」の概念を「科学」に置き換えて考えても、ある程度は差し支えないだろうと思われる。

ということで考えてみると、「芸術至上主義」とは「純粋科学」であり「科学のための科学」だと考えることができる。
「科学のための科学」という言葉で考えると、「原子力発電所は科学技術として成立している」と言うことができるだろう。
「純粋科学」という言葉で考えると、「福島で事故があったことは別として、純粋に科学としては成立している」とも言えるだろう。

しかしこのような考え方には、「科学は人類の幸福のためにある」という観点が欠如している。
「科学は人々の幸福のために存在する」という観点で考えれば、「原子力発電所は科学として成立しいない」ことになり、「エセ科学だった」ということになる。
「科学は人々の幸福のために存在する」という思想は、「科学」よりも「人々の幸福」に重きがあって、「科学至上主義」でも「純粋科学」でもない。
いやその昔は「科学そのものが人々に幸福をもたらすはずだ」と広く信じられていたが、現代では「科学至上主義」が原発事故のような不幸をもたらす可能性があることが、ますます明らかになってしまった。

「科学は人々の幸福のために存在する」という思想は、「科学」と「科学の外部」との「関係論」で捉える思想だとも言える。
「科学」というものに「人々を幸せにする」という目的がある限り、科学とは「人間にとって幸福とは何か?」という問題と不可分に結びついており、科学者はその「関係の連鎖」の中に投げ込まれている。
だから現在の福島の原発事故をどう収束すべきか?の問題は、純粋に科学技術的困難さよりも、むしろ「人間にとって幸福とは何か?」に掛かっているのだと言える。
そして「人間にとって幸福とは何か?」はまさに人によってそれぞれなのであり、事態をますます複雑化し、深刻化させている。

もちろんぼくとしては schlegelさんご自身が、以上に述べたような冷徹な「科学至上主義者」ではなく、「科学は人々の幸福のために存在する」という立場で判断し発言されているとは思っている(それ以外の多くの科学者も)。
しかし、「科学は人々の幸福のために存在する」を突き詰めて考えると、「人間にとっての幸福とは何か?」を突き詰めて考えることになり、それは本来の「科学」の範囲から「宗教」や「哲学」などの範囲へと逸脱することになる。
つまり「科学」にとって「人間にとって幸福とは何か?」は究極的問題であるにもかかわらず、「科学」の専門から大きく逸脱しなければそれを知ることも解決することもできない。
「芸術」についてもまさに同じであって、それが「芸術至上主義」とは異なるぼくの立場なのである。

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コメント

すみません、この記事書かれていたのに気づきませんでした。
ぱっと見「幸福の科学」的な記事の中に僕の書いた文が太字になって晒されているのがショックです(笑)

太字の文ですが二回も(笑)をつけたことからも推し量っていただけるように、半分冗談的なセンテンスですみません。
科学至上主義あまりシリアスに考えていったのではないので申し訳ないですが、、僕のイメージでは冷徹なものではなく、考えるのが楽しい、
それで新しいことが見つかればなお楽しい、ついでに褒められて喜ぶ人もいる、という思考形態ではないかと思います。
楽しいことは自分の幸福につながりますが、自己愛的かもしれませんし、あまり人類の福祉とか役に立っちゃうのは面倒なので、
純粋芸術に近い物かもしれません。

もう少し真面目にショックと書いたときの心理を書くと、
放射線は自然現象なので、自然科学的解釈に基づいて対処法を探るしかないだろうと思っていたことに対するショックでしょうか。
原子力発電というのは未熟な技術であるということはご指摘の通りだと思います。個人的には可及的速やかに停止するのが吉と思っています。
科学者の中には第三世代以降の原子炉や次世代の一つとしてあげられている溶融炉のような技術はより安全なので技術開発を止めるべきではない、
という意見もあるようですが、僕はこれにも否定的です。いずれにしても自然災害に対する被害程度の上限は想定する訳だし、使用済み燃料の問題はどうやったって解決しない。
一方で科学的思考で重要な姿勢の一つはすべてのこと、特に自説を疑ってかかる態度、だと思っているので、
端から見てコイツはどっちなんだ的に分かりにくいことも言っているかもしれません。

純粋芸術と少し違うかもしれないのは、自分の研究が世の中の役に立って心外みたいなひとはあまりいないかもしれません。
むしろ、科学者の多くはいかに役に立つかをアピールすることで研究費をとってくるという仕組みになってますから、
研究費をとることが目的になっているように見えるひとがメインストリームのように見えます。
僕自身は自称科学者のレベルであまり役に立つようなことは出来てなくて申し訳なく思ってはいます、、

投稿: schlegel | 2011年9月10日 (土) 23時42分

>研究費をとることが目的になっているように見えるひとがメインストリームのように見えます。

この延長線上に原子力推進の方々が乗っかってたりしたわけですが、、

投稿: schlegel | 2011年9月11日 (日) 10時25分

>schlegelさん

>ぱっと見「幸福の科学」的な記事の中に僕の書いた文が太字になって晒されているのがショックです(笑)

ぜんぜん意識してなかったですが、「幸福の科学」って文字通り捉えると現在の状況にこそ必要な良い言葉ですね。
もちろん、その名前の宗教団体のあるおかげで、意味がすっかり固定されてしますがw

>科学至上主義あまりシリアスに考えていったのではないので申し訳ないですが、、僕のイメージでは冷徹なものではなく、考えるのが楽しい、それで新しいことが見つかればなお楽しい、ついでに褒められて喜ぶ人もいる、という思考形態ではないかと思います。

ぼくの科学的思考の弱さについては、ちょっとマジメに反省しないといけないですねw
最近は哲学や宗教の本は読む用になった反面、科学の本はしばらくちゃんと読んでないような気がします・・・

>一方で科学的思考で重要な姿勢の一つはすべてのこと、特に自説を疑ってかかる態度、だと思っているので、

つい最近、デカルトの「方法序説」をちょっと読み返したら、初っぱなに同じことが書いてありました。
自己に対する猜疑心は学問の基本であり、自惚れは全ての間違いの元ですね。

>純粋芸術と少し違うかもしれないのは、自分の研究が世の中の役に立って心外みたいなひとはあまりいないかもしれません。

純粋芸術の人も、世の中の役に立つ、すなわちみんなに評価されれば嬉しいはずだと思います。
つまり評価を拒絶してるのではなく、評価をあきらめてひねくれてるわけです。
最近そう言う人は減っていて、「売れる」ことを考えて製作する人は増えてるようですが。
しかし芸術の歴史を見ると分かるとおり、その当時人気を誇っていた芸術家の名前が歴史から消え、全く無名だった人が死後に巨匠として歴史に名を残すことが多々あります。
だから自分が生きているうちに売れることは必ずしも良いこととは言い切れなくて、事情は複雑です。

もしかすると芸術とは、科学の基礎研究に似てるのかも知れません。
基礎研究は基礎だけに偉大な研究のはずですが、すぐに実用に結びつかないため、だいぶ後になって評価されるのではないかと思います。
いや芸術も、科学と同じく基礎と実用に分けられるのかも知れません。
すぐにお金に結びつく実用芸術と、すぐお金にはならないけどエポックメーキング的な基礎芸術と・・・もちろん両者を兼ね備える場合も多いでしょうが。
この他に、売れもしないし歴史にも残らない純粋自己満足芸術もあるのですが、それは科学に置き換えると何なのか?・・・などと考えてしまいますw

投稿: 糸崎 | 2011年9月12日 (月) 12時00分

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