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2011年9月25日 (日)

科学部デスクの昆虫的習性

このブログ記事のコメント欄に、schlegelさんから以下の書き込みをいただいた。

>読売に理学と工学の発想の違いについてまとめてありました、
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnscience/20110825-OYT8T00808.htm
>結論はよくわかりませんが(笑)

ぼくの結論としてはこの記事はけっこう酷い内容で(笑)、あらためて記事にしてみる。

まず原発事故に関して、新聞社をはじめとするマスコミは事故直後に国民の生命に関わる必要な情報を一切流さなかった、と言う「大罪」を犯している。
だからそれに対する根本的な反省無くして、マスコミは誰をも非難することができない。
この記事も、そんな「自分のことは棚上げ系」「おまえが言うな系」の記事に思えてしまう。

 それに加えて、東日本大震災でおおきく揺らいだ専門知識への信頼を回復する必要もある。たとえ個々の市民が科学や技術に精通していなくても、その専門知識が社会を健全に支えていることをつねに確認できれば、市民はそれを信頼することができる。

記事にはこのように書かれているが、信頼を回復する必要があるのは新聞をはじめとする「マスコミ」も同じなのに、その視点を全く欠いている。
幸い、インターネットが発達した現代では、市民はその気になりさえすれば誰でも情報に精通できるので、市民に信頼される健全なマスコミである必然性もなくなりつつある、と言えるだろう。

 今回の原発事故を契機に、原子力開発関係者の閉鎖性が、「原子力ムラ」という言い方でしばしば指摘されてきた。顔見知りの村人なら信頼するが、それ以外のよそ者は、いい人か悪い人かを確認する以前に拒絶してしまう。自分と違う価値観を持った人たちを受けつけず、狭い自分たちの知識と慣習だけで事を進める伝統的なムラ社会の負の側面が、現在の原子力開発でも見られるという指摘だ。

まるで自分たちマスコミには、以上のようなムラ社会の負の側面が「ない」かのような書き方で、なかなか興味深い。
丸山眞男は『日本の思想』(岩波新書)の中で、日本のマスコミはそれぞれがタコツボ化し(ムラ社会化し)、相互のコミュニケーションが無いゆえに、かえって発信する情報が画一化されている、というように指摘している。
これは閉鎖的に孤立したそれぞれのムラが、同じお役人さまにお伺いを立てながらおふれを出している状態、と言えるかもしれない。
丸山眞男が『日本の思想』を出版したのが1961年なので、これはまさにマスコミの「伝統的なムラ社会の負の側面」と言えるだろう。

 過去の取材で、この例えでいえば、「なぜ2倍で十分なのか」という理学部的な質問を工学部系の人に投げかけ、「キミはまだエンジニアリング(工学)がよくわかっていないね」とはぐらかされたことが何度もある。理学部出身の筆者にとって、この工学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、工学ムラの怠慢というよりも、むしろモノを作る人の習性なのだと思う。

このくだりの「むしろモノを作る人の習性なのだと思う。」は普通にサベツ発言で(笑)、まさにムラ社会的意識の反映だと解釈できるだろう。
この記者は、人間をカブトムシやカマキリのようなものだと思っている。
カブトムシはカブトムシの習性に従って生き、カマキリの様な肉食の習性を採り入れることは絶対にしない。
そして「工学系の人間」もカブトムシがそうであるように、「モノを作る人の習性」にのみ従って生き、その枠を超えることは絶対にない、という前提でこの記事は書かれている。

 だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある。日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。

この記者はカブトムシとカマキリを区別するように、人間を「理学系」や「工学系」などの「肩書き」で判断している。
そして、「カブトムシもカマキリもテントウムシも、みなバラバラに生きるのではなく、みんなで協力してして森の自然を守ろう!」みたいな主張をしてるのである。
この提案は、人間を含めたものごとの様々を「表層」のみで判断した、場当たり的な「対症療法」であるようにぼくには思えてしまう。

**

ところで、ぼくは最近『7つの習慣』という本を読んで感銘を受けたのだが、これは1996年発刊のビジネス書の大ベストセラーで、一時期電車の吊り広告などをよく見かけた気がする。
この本の主張を端的にまとめると、ビジネスを成功させようと思ったら、まず「ちゃんとした人間」になることが基本である、と言うことだ。
現代では誰もが(広い意味での)ビジネスマンだと言えるが、その職種や肩書きや地位などにかかわらず、まず「ちゃんとした人間」にならなければ何をやっても上手くいかないだろう、という理屈は十分に納得できる。

実は、この主張は儒教の基本教典『大学』に驚くほどよく似ていて、『7つの習慣』まさにその現代版とも言える内容だとぼくには思える。
儒教の『大学』では、きちんと国を治める立派な君主になるには、まずその肩書きや立場以前に「ちゃんとした人間」にならなければいけないと説いている。
そして、現代の民主主義社会で国を治めるのは誰なのかを考えると、儒教の教えが現代にも通じてくるのである。

というふうに考えると、

浜岡原発差し止め訴訟で2007年に、当時は東大工学系の教授だった班目春樹・現原子力安全委員長が、事故につながる可能性のあることをすべて考えてはモノなど設計できない、どこかで割り切ることが必要だ、という趣旨の発言をしている。まことに工学部的な発想だ。

これは「当時は東大工学系の教授だった」という肩書きや、「まことに工学部的な発想だ」と言う職業柄の問題などではなく、「班目春樹」という人物の人間性の問題だと捉えることができる。

過去の取材で、この例えでいえば、「なぜ2倍で十分なのか」という理学部的な質問を工学部系の人に投げかけ、「キミはまだエンジニアリング(工学)がよくわかっていないね」とはぐらかされたことが何度もある。

これについてもけっして「モノを作る人の習性」などという昆虫的な性質によるものではなく、あくまでその人物が「質問をはぐらかすような問題のある性格」だったのだ、と解釈できる。
このように見ると、人間の失敗の原因を「昆虫的な性格」に求めることは「個人の責任」を問わないことに繋がる、と言うことにあらためて気付く。
しかし人間は昆虫ではないし、一人一人が「責任ある個人」であることが、民主主義の前提になっているのである。
「責任ある個人」とはつまりは「ちゃんとした人間」であるわけで、工学系であろうが、理工系であろうが、マスコミであろうが、専業主婦であろうが、それぞれの専門分野以前に各自が「ちゃんとした人間」であれば、原発事故は未然に防げただろうし、例え事故が起きても最大限に適切な処置ができたはずだとぼくは思う。
例えば、いくら工学系の人間であっても、それ以前に「ちゃんとした人間」であれば小出裕章さんのように「原発は事故のリスクが大きすぎて作るべきではない」と判断できるのだし、少なくとも事故後に「自分たちは間違っていた」と反省もできるだろう。
反対にこの記者は「理工系」を自称していながら、自分が理工系の性質として挙げた「なぜ」への問いかけが根本的にできておらず、視点が「表層」のみに留まっている。

 だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある。日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。

この提案は、「さまざまな分野の専門バカを集めれば、利口な判断ができるだろう」と言い換えることができる。
「専門バカ」とは、例えばこの記事に書かれた「モノを作る人の習性」のみに生きる昆虫的なエンジニアのことで、つまり「専門バカ」とは単なる「バカ」でしかない。
しかし人はどのように高度な専門分野に携わろうとも、まず「ちゃんとした人間」でなければならない、と言うのが文明の基本であり、それは古代から現代に至るまで綿々と語り継がれているのである。
ところが文明が高度に発達すると、つまりは世の中が安定して豊かになると、人々は「基本」を忘れても生きてゆくことができるようになる。
あらゆる専門分野がタコツボ化、ムラ社会化し「専門バカ」だらけになったとしても、システムが安定していればそれでやっていくことができる。
しかし3.11以降、世界はすっかり変わってしまい、文明の安定性が根底から揺らいでしまった。
そんな状況ではもはや「専門バカ」は通用せず、工学系であっても、理工系であっても、そしてぼくのような美術系であっても、専門以外の「基本」を身に付けることがあらためて必要になってくる。

このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。

最後に、こういう言葉遣いもどうしても引っかかってしまうのだが、この場合の「社会が決める」とはいったい何処に主体と責任があるのか判然としない。
この記者は人間の社会を、アリやハチやシロアリなどの社会性昆虫の「社会」と同じようなものと考えているのかも知れない。
という具合にこの記事はいかにも酷い内容で、「だが、これはおそらく、新聞社の怠慢というよりも、むしろ新聞記者の習性なのだと思う。」などとイヤミの一つも言いたくなってしまうのだ(笑)。

**

知の結集阻む理学部と工学部の壁

科学部デスク 保坂直紀


 東日本大震災にともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故で、なんども「想定外」という言葉を聞いた。

 これほどの巨大地震が起きることは想定外で、高さが15メートルにもなった津波も想定外。原子炉の最低限の安全を確保するための非常用電源がすべて使用不能になってしまったのも想定外だった。

 人間は、過去から学ぶ。過去に経験しなかったこと、あるいは、過去の経験や知識から類推できないことを想定するのは、たしかに難しい。問題は、今回の「想定外」が、最善を尽くしたうえでの想定外だったのかという点だ。

 今回の原発事故を契機に、原子力開発関係者の閉鎖性が、「原子力ムラ」という言い方でしばしば指摘されてきた。顔見知りの村人なら信頼するが、それ以外のよそ者は、いい人か悪い人かを確認する以前に拒絶してしまう。自分と違う価値観を持った人たちを受けつけず、狭い自分たちの知識と慣習だけで事を進める伝統的なムラ社会の負の側面が、現在の原子力開発でも見られるという指摘だ。

 価値観の違う人たちが理性的に討議を重ね、ベストの結論に達する。そうあるべきなのだろうが、現実には価値観を隔てる壁は高く、容易には越せない。

 たとえば、おなじ理系にくくられる工学部と理学部の壁。東京大学の原子力関連学科が工学部に属していることからもわかるように、原発関係は工学部の世界だ。工学部は、モノを作る人たちの集まり。とにかくモノができなければ満足しない。浜岡原発差し止め訴訟で2007年に、当時は東大工学系の教授だった班目春樹・現原子力安全委員長が、事故につながる可能性のあることをすべて考えてはモノなど設計できない、どこかで割り切ることが必要だ、という趣旨の発言をしている。まことに工学部的な発想だ。

 工学部の人たちは、たとえば「この建物は、過去に起きた地震の2倍の揺れに耐えられるから十分に安全だ」という。では、なぜ2倍で大丈夫なのか。3倍、いや5倍にしなくて大丈夫なのか。モノを作ってきたかれらの発想の根っこには、2倍の耐震性でこれまで大きなトラブルに見舞われたことがないという現場の経験知がある。

 その点、理学部の人たちは違う。なぜ「2倍」なのかが気になる。「2倍」と結論できる根拠と原理を知りたい。理学では、目の前の現象を見て、それがどのような原理で起きるのかを問う。それがわかれば満足する。一方の工学は、目の前にないものを夢見て、なぜそんな便利なものが存在しないのかを問う。そして作りたいとなれば、頭脳と腕力で作ってしまう。

 過去の取材で、この例えでいえば、「なぜ2倍で十分なのか」という理学部的な質問を工学部系の人に投げかけ、「キミはまだエンジニアリング(工学)がよくわかっていないね」とはぐらかされたことが何度もある。理学部出身の筆者にとって、この工学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、工学ムラの怠慢というよりも、むしろモノを作る人の習性なのだと思う。

 だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある。日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。

 原子力だけでなく、医療にしても新技術の開発にしても、現代の社会は専門家のもつ知識なしには動いていかない。科学や技術に関する知識と社会の関係はどうあるべきなのか。専門家のいうとおりに社会を作ればよいのか。専門知識を生み出すときにも市民参加が望ましいのか。専門知識の生産と政策決定に果たす市民の役割は、具体的にどう違うのか。あちこちに分散している知識を統合するには、どうすればよいのか。専門知識と社会をめぐる議論にも、このようなさまざまな論点がある。

 それに加えて、東日本大震災でおおきく揺らいだ専門知識への信頼を回復する必要もある。たとえ個々の市民が科学や技術に精通していなくても、その専門知識が社会を健全に支えていることをつねに確認できれば、市民はそれを信頼することができる。専門知識へのこのような信頼が、近代以降の社会には欠かせない。社会学者のアンソニー・ギデンズは、『近代とはいかなる時代か?』(而立書房)でそのように述べている。

 科学や技術を社会に埋め込む際に、さまざまな側面からの専門知識を結集する仕組みがいまの日本にできているのか。そのためにベストな人材が広い範囲から集められているか。工学部でも理学部でもいい。文理融合などという古臭い言葉を使うまでもなく、そこには社会学や政治学の知も必須だろう。東日本大震災からまもなく半年。あちこちに昔のようなムラができる前に、多様な専門知を十分に信頼できる形で生かす新しい日本に向けて踏み出したい。
(2011年8月26日  読売新聞)

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

あらら、完膚無いですね、、

半年経つとみんな忘れかけてるかと思うのですが、直後の二週間からひと月くらいは先の見通しすら立っておらず、
僕自身今よりもっと悪い事態を想定していましたが、
社会的な立場を超えて本当のことを言っていたのは時の総理大臣とAERAくらいで(誇張ですw)
総理大臣の方はフルボッコにされ、AERAも人気コラムニストの野田秀樹さんに「煽ってるの?」と縁を切られました。
という具合に本当のことを言うのは社会的にはとてもリスキーな状況だったので、(ある意味今の方が悪いかも)
保坂さんだけを責めるのも可哀想な気もしますね、

引っ張りだした責任を感じたので、弁護してみましたが弁護になって無いような気もするのでもう少し頑張ってみますw、、

>理学部出身の筆者にとって、この工学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、
>工学ムラの怠慢というよりも、むしろモノを作る人の習性なのだと思う。

この辺りで保坂さんが言いたいところは僕は理解できるので引用したのですが、
たしかに言葉遣いに問題があるかもしれませんね。

先のコメントでも書きましたが、僕の言いたかったのは功利主義的なリスク対コスト計算が工学的発想の基本にあり、
一般的な建築物や構造物では、安全第一と言ってみても、無限のコストをかける訳には行かないので妥協点を
見つけるという発想をするのだろうということで、班目さんもその趣旨のことを言ってたわけです。
保坂さんの結論はたしかにわかりにくいのですが、
そのどこに問題があったかということを考えずに先に進むのはどうなの?
と言おうとしているのかな、と、勝手に解釈したのでした

投稿: schlegel | 2011年9月25日 (日) 22時26分

>あらら、完膚無いですね、、

確かに一般的に言って、この記事は特に攻撃すべき内容ではないかもしれません。
実際、「工学部と理学部の違い」なんて、ぼくもそうですが普通に知らない人は多いはずで、だからこの記事はユニークな切り口として評価できるだろうと思います。
この記者自身が理学部の出身であり、自身の体験にも根差した主張であり、その意味で説得力があります。
従って「工学部=モノを作る人の習性」という指摘もあながち的外れとは言えず、「モノを売る人の習性」とか「モノを書く人の習性」などと同じく、一般的傾向を言い当てることはできるだろうと思います。
ポイントは、「モノを作る人の習性」と言う概念が、「特定の業種(この場合は原発のエンジニア)を責めることは何ら問題解決には結び付かない」と言う論旨を導いていることです。
そしてそれを受けるかたちで「業種の違う人々がそれぞれの性質の違いを乗り越え、お互いの違いを理解し尊重しながら協調することが必要である」とこの記事は提案してるわけです。
これまでの日本社会では何か問題が起きると、ともすれば「責任者の追求」という不毛な争いに終始して、本来の問題が置き去りになる傾向がありました。
と考えるとこの記事は、今後の日本のあり方を見据えながら、極めて良識的で有意義な提案をしていることが分かります。

>引っ張りだした責任を感じたので、弁護してみましたが弁護になって無いような気もするのでもう少し頑張ってみますw、、

と言うわけで、schlegelさんの返信のどこまでが本心で、どこまでディベートなのかふと分からないことに気付いたので、自分でもディベートの練習をしてみましたw
いや実際、この記事は常識的には良心的な記事だろうと思います。
しかしぼく自身はその前提である「常識」を疑っているわけです。
ぼくは震災が起きた当時はプラトンの『国家』を読みかけていたのですが、この本はギリシアの都市国家を題材に「常識を疑うこと」が説かれています。
そうしたら自分の属する国家も「常識を疑う事態」に巻き込まれて、その印象はさらに鮮烈なものとなりました。
この場合の「常識を疑う事態」とは原発事故そのものと言うより、それにまつわる人々の反応で、まさにプラトンが指摘した通りで驚きました。
という視点で上記の記事を読むと「けっこう酷い内容」と判断できるわけです。

投稿: 糸崎 | 2011年9月26日 (月) 00時55分

いろいろ考えすぎて、何も言えなくなってしまっていました(笑)

僕はディベート的に逆の立場で考えることが好きなので、察していただいてありがとうございます.メディアも含めていろいろな社会の認識と、自分の認識の齟齬には慣れてしまい、この記事の本文にたいしては、まぁ「この人だけじゃない」というのが第一印象ですね(笑)
でも仰るように、保坂さんは、たとえば、想定は2倍でいいのかという、質問に対して自分の考えを述べていない、さらに科学的知識を必要とする案件に着いても「社会の判断だ」と他人事のように言われている、この意識の低さはどうなのかと思われますね.
最近の事例では花火ですが、僕から見ると、花火に放射性物質が大量に混入している確立は極めて低く、科学的に問題になる様なことは何も無いわけですが、不安だという一部の市民の声を聞いて、自治体なりが打ち上げを中止するのも「社会の判断」だと思われるのですが、科学部デスクの良識はそうした「社会の判断」も受け入れるのだろうかという疑問も湧いてしまいます.
あの日以来、僕自身限られた科学的知識に基づいて自分なりにいろいろ考えてきたのですが、個人的に周囲に正しいと思うことを言ってもも受け入れられないことも多々あり、それは科学的な認識のレベルの相違に帰するべき部分もあるし、世の中の常識や社会の秩序が最も重要とする立場によるものもあるし、単に嫌な話は聞きたくない、不都合なことがあると、何も無かったかのように振る舞いたいという人間自身の習性、に帰すべき部分もあると感じています.そういう環境に合わせたり、諦めたりしているうちに、僕自身、保坂さんの感覚を
糸崎さんのように素直に、酷い、と感じることが出来なくなってるのかもしれません(笑)

今一番、懸念されるのは、原発自体の問題が収束に向かっているように見える(見せている)ことからくる、弛みの様な空気ですね、
いちばん本質的なのは再稼働へ向けての動きですが、
被災者の方には本当に申し訳ないのですが、除染についても政治や行政の都合による楽観論がゆきすぎている様にも思います。
また、客観的にみて、早ければ1年後、遅くとも5年後には、放射性ヨウ素の帰結としての甲状腺障害があらわれるのはほぼ間違いないのに、そのことを誰も言わないのは、気づいていないだけなのか、考えたくないなのか、言っても仕方がないと思っているのか、僕には判断がつかないでいます。僕はこのことに限らず悲観論者なので規模の予測は控えますが、早期発見や治療体制の整備に向けて、想定される数値を出来るだけ正確に予測して警鐘を鳴らすのも、科学部デスクの方の責任といえるのかもしれません。とりあえずAERAには期待したいと思います。

投稿: schlegel | 2011年10月 1日 (土) 10時57分

>だからそれに対する根本的な反省無くして、マスコミは誰をも非難することができない。
>この記事も、そんな「自分のことは棚上げ系」「おまえが言うな系」の記事に思えてしまう。

最近シュールな光景を見ました(笑)テレビでちらっと見ただけなので正確さにかけるかもしれませんが、、
まさしく、震災後の報道に関するメディアのあり方に関する反省会、が先週あったようなのです。
刻々とかわる政府や保安院などの情報で手一杯で独自の情報を出せなかったのはどうか、といったことについて反省しました、という解説がそういう解説もしていたアナウンサーの声で流れていたのですが、第三者で意見を提供する方の一人が福島4号機の設計者の技師の方とのことで、思わず、引用させていただいたツッコミが頭に浮かびました(笑)
ながらく、製造者責任(?)というクェスチョンマークは頭の中にあり、これも工業立国ニッポンとしては今後の原発輸出事業の推進という意味でもタブーっぽいのですが、法的には原子力なんとか法で、賠償責任は事業者としての東京電力のみが負い、製造者は責任を問われないと言う規定があることを最近知りました.しかし、社会的あるいは技術的責任という物は作った人自身が一番強く感じるべきではないかとおもわれ、この方がどういう立場でどういう意見を述べられたのかよくわかりませんが、メディアに反省を促すにはいかにも不適切な人選に思われたのです.
オリジナルのGE製一号機にはついていた電源喪失後もある程度自発的に冷却水を循環させるシステムが国産化した2号機以降では不必要と判断して外されていたとか(結果として一号機も手動で解除して機能しなかった訳ですが)、最近まで圧力抑制のためのベントのバルブが着いてなかったとか、そもそも水素爆発を想定していないので排気システムがなかったとか、稼働していなかった4号機も水素爆発したのは3号機からのダクトを通して水素がうつってきてたりとか、反省点、山盛りなんですが、、

投稿: schlegel | 2011年10月 1日 (土) 11時21分

よみかえすと、誤字と悪文、ひどいですね、反省、、

投稿: sclegel | 2011年10月 1日 (土) 11時46分

>僕はディベート的に逆の立場で考えることが好きなので、

実に考えることの基本ですね。
プラトンの著作が「対話形式」で書かれている意味もそこにあります。
中国でも論語と共に、孔子に否定的な荘子が読み継がれてきたわけです。

最近、師匠(と言ったら否定されるかも知れませんがw)の彦坂尚嘉さんのお話で納得したのは、「世界の二重性を理解できる人と、一重だけの世界に生きる人の二種類がいる」ということです。
世間の人の多くは楽観論の「一重性」だけの世界に生き、何か不幸が起きると悲観論に転じますが、それも一重性の悲観論です。
しかしぼくが震災と原発事故を経てあらためて意識したのは、自分の中の悲観論と楽観論の二重性です。

例えば福島市内で自分で放射線測定すると、東京の10倍もの数値が出て驚きます。
にもかかわらず日本政府は何ら有効な対策をせず、人々は当たり前のようにそこに生活し続けていて、その事実を目の当たりにするぼくは非常に絶望的な気分になってしまいます。
ところが一方で、ガイガーカウンターの数値が高まるごとに興奮し、面白がったりもしています。
こういう事を書くと「不謹慎だ」と思われる方は多いと思いますが、それこそが「一重性」の判断です。
ぼくは友人の写真家に「深く絶望するからこそ、新たな希望が生まれる」と言ったら「それは単なる絶望でしょ」と相手にされませんでしたが、これも一重性の判断です。

最古の仏典と言われる『スッタニパータ』には「結婚してはならないが、良い相手がいれば結婚すべきだ」「友達は不要だが、良い友がいれば一緒に歩むべきだ」と書かれていますが、これも一重性で判断すれば単なる矛盾としか思えないでしょう。

**

最近『7つの習慣』という本を読んで影響を受けてるのですが、これによると世の中には「反応的」に生きる人と、「主体的」に生きる人の二種類がいるそうです。
「反応的」とは、周囲の人間や環境に反応しながら生きる人です。
このような人にとって、自分の内面と外部世界が一体化しており、つまり「一重世」の世界に生きているわけです。
これに対し「主体的」な人は、自分の内部に確固たる「主体」を持ち、さらに外部世界を認識する、と言う「二重性」を生きています。

>そういう環境に合わせたり、諦めたりしているうちに、僕自身、保坂さんの感覚を
糸崎さんのように素直に、酷い、と感じることが出来なくなってるのかもしれません(笑)

「主体性」を確立していれば、「周囲に合わせながらも、自分の良心は保つ」、と言う「二重性」を確保できると思います。
この方法は自分でも研究中ですが、少なくとも以前のぼくは「自分の信念を貫くため、周囲に合わせない」という一重性の方法により大失敗してましたw

投稿: 糸崎 | 2011年10月 1日 (土) 12時35分

>最近シュールな光景を見ました(笑)テレビでちらっと見ただけなので正確さにかけるかもしれませんが、、まさしく、震災後の報道に関するメディアのあり方に関する反省会、が先週あったようなのです。

「反省」も自分でやってみると分かりますが、「反省前」と「反省後」で明確に異なる自分という「二重性」があるわけです。
反省しない人は「自分のことは棚に上げる」という二重性を使いますが、しかしこの二重性は自分で自覚しコントロールしてるわけではなく、恐らく環境に対する「反応」の一種ではないかと思います。
世界とは多次元的な重層性がありますが、それを「二重性の入れ子構造」として捉えるか、「一重性のシンプルな構造」に置き換えて捉えるか、あくまで「認識の違い」の問題ではないかと思います。

>今一番、懸念されるのは、原発自体の問題が収束に向かっているように見える(見せている)ことからくる、弛みの様な空気ですね、

そんな空気があるんでしょうか?と思うくらい世間ズレした自分ですがw、小出裕章さんは最近も「戦争より酷いことが起きてると思います」と発言してました。
「戦争より酷いこと」とは例えば「最終戦争ハルマゲドン」ですが、その昔オウム真理教がそれを口にしたとき、「オウムごときの小集団でそんなことができるわけがない」とみんなバカにしてましたが、「日本国」くらいの大集団ならそれも可能なわけで、全く誇らしいですw
というのはもちろんジョーダンですが、しかし冗談にもならない悲観論でもあり、それもまた二重性なわけです。

投稿: 糸崎 | 2011年10月 1日 (土) 19時13分

>>僕はディベート的に逆の立場で考えることが好きなので、
>実に考えることの基本ですね。

ただのあまのじゃくです(笑)

AERAにもありましたが、事故後の1ヶ月影響がまず大きいので、彦坂さんや糸崎さんのように一時的な避難というのが
結果として最も効果的だったと言えます、自分も親戚・知人には薦めましたが殆ど聞き入れられず残念でした。
殆どの突発事象はまず慌てずに様子を見るというのが正解の場合が多いですが、地震があったらまず津波の影響の無いところへ逃げる、
のとおなじように、原子力施設の事故の場合には、まずヨウ素の影響が少ない地域へ逃げる、
ということが教訓として受け入れられるまで、数年かかるということかもしれません。
飯舘村が計画的避難区域になったのはひと月がすぎた頃だったと記憶していますが、
そのときテレビで幼児を抱いたお母さんがこれから避難という光景がかなりショックで、
それに比べると、という感覚があちらで批判されるような態度に出てしまっていたかもしれません.

>例えば福島市内で自分で放射線測定すると、東京の10倍もの数値が出て驚きます。
そのとおりですね、しかし人口比でいうとたとえば福島県の人口が200万程度にたいして首都圏は2~3千万はあって、
その積を取ると絶対数は同程度になる可能性もあります。

>小出裕章さんは最近も「戦争より酷いことが起きてると思います」と発言してました
戦争もたいそう酷いものらしいので、このたとえは小出さんらしからぬ、と言えるかもしれませんね.
そのうえで戦争との違いを考えてみると、明確な敵意という物はどこにもないのに一般市民にCasualty が生じる点などが思いつきます。
また、繰り返しになりますが、影響が、早い物で数年、遅い物で数十年の遅発性すなわち「直ちに影響は無い」という点も戦争に無い残酷さと言えるかのもしれませんね。

投稿: schlegel | 2011年10月 2日 (日) 14時57分

>ただのあまのじゃくです(笑)

本当の「ただのあまのじゃく」は無意味でしかないので、この答えそのものが「あまのじゃく」と受け取っておきますw

>殆どの突発事象はまず慌てずに様子を見るというのが正解の場合が多いですが、地震があったらまず津波の影響の無いところへ逃げる、のとおなじように、原子力施設の事故の場合には、まずヨウ素の影響が少ない地域へ逃げる、ということが教訓として受け入れられるまで、数年かかるということかもしれません。

災害によって非難の仕方にも違いがある、という「二重性が」が理解できない人も多いのかも知れません。
学校の勉強は「正解は一つ」という「一重性」の思考法で、みなさんそれに慣れてるのかもしれません。

>>例えば福島市内で自分で放射線測定すると、東京の10倍もの数値が出て驚きます。
>そのとおりですね、しかし人口比でいうとたとえば福島県の人口が200万程度にたいして首都圏は2~3千万はあって、
その積を取ると絶対数は同程度になる可能性もあります。

これちょっと、意味が分からないのですが・・・何の絶対数でしょう?

>>小出裕章さんは最近も「戦争より酷いことが起きてると思います」と発言してました
>戦争もたいそう酷いものらしいので、このたとえは小出さんらしからぬ、と言えるかもしれませんね.

戦争とは何か?という定義にもよるかも知れませんが、ぼく自身戦争が何なのか理解が不十分なところがあります。
ぼくは学生時代、本多勝一さんの『殺す側の論理』などの戦争ルポを読んで、「平時には善良な人間が、戦争で残酷なことをする」ということを知ってショックを受けました。
ところが3.11の原発事故では、戦争とは関係なくダイレクトに「善良な人々の残酷さ」を目の当たりにして、さらにショックを受けたわけです。
人間というのは多かれ少なかれ、誰もがある種の残酷さを秘めているものだとは思ってましたが、これほどまでにダイレクトに「残酷さ」が剥き出しにされるとは思ってもみませんでした。

本多勝一さんについては、著書で引き合いに出されていた「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」はでっち上げだったのでは?という見解が出てきて、その主張も疑問視されるようになりました。
しかしぼくとしては、南京大虐殺が事実であろうが無かろうが、「平時には善良な人間が、戦争で残酷なことをする」という事実においては変わりはないと、感覚的には思ってました。
そしてその感覚の正しさは、残念なことに実証されてしまったわけです。

ぼくとしては今回の件でものすごく深い絶望を感じてしまったのですが、その絶望の深度が、認識世界を広げたと言えるかも知れません。
だからぼくは逆説的ですが非常にすがすがしく前向きな気分で、人々に対しては以前より格段に広い心と深い愛情で接することができるようになったと思ってるし、そうありたいと思っています。

投稿: 糸崎 | 2011年10月 3日 (月) 22時23分

テレビや新聞の報道を見ていて感じるのは、事実だけを伝えるのではなく、勝手な解釈が付いてくるのですね.NHKのニュースなどでもこれは顕著なように思われます。事実だけを見て判断することが大事だと思いますが、必ずしも容易ではないようですね.

>これちょっと、意味が分からないのですが・・・何の絶対数でしょう?

わかりにくくてすみません、、
まず、仮定として被爆量とそれによる影響は比例するとすると、放射線量が10対1の場合、症状の出る確立も10対1、「仮に」一方が1%とすると他方が0.1%となります。そして、量の多い地点の人口が100万人とすると1%ならば1万人、量の少ない方では率が0.1%と少なくても総人口が1000万人いれば症状の出る人数はやはり1万人と同人数になるという意味です。最初の仮定については、一定量未満であれば殆ど発症しなくなる閾値があるという説もあります。

投稿: schlegel | 2011年10月 5日 (水) 19時48分

>テレビや新聞の報道を見ていて感じるのは、事実だけを伝えるのではなく、勝手な解釈が付いてくるのですね.NHKのニュースなどでもこれは顕著なように思われます。事実だけを見て判断することが大事だと思いますが、必ずしも容易ではないようですね.

事実に対しても報道に対しても、それをどう判断するかのリテラシーが重要ですね。
もっとも、事実を照合しなければ、報道のリテラシーも上達しようがないのですが。

絶対数についてはよく分かりました。
いずれにしろ津波の被害で亡くなる人よりは格段に割合が低くて、「この程度なら安心」と思う人は多いのかも知れません。

投稿: 糸崎 | 2011年10月 5日 (水) 20時51分

臨界事故のような中性子の被曝の場合と、α線被爆とβ腺被爆とγ腺被爆では影響はどう違うのでしょうかね?

ひとまず強烈な外部被爆は原発作業者でなければ心配する必要はないと思うのですが、少量の内部被爆で問題になるのは癌だと思います。

癌細胞が出現するには確か三つの要素が必要だったはずで、ひとつは「遺伝子の破損」で放射線はその原因の代表だったと思います。
もうひとつは、その破損した遺伝子のアクチノイド塩基の部分に置き換われる擬似物質「発癌物質」の存在だと理解しているのですが間違っているかもしれません。

最後は、その発癌物質が遺伝子に組み込まれた細胞が増殖可能であることではなかったっけ?

核実験で世界が放射能汚染された頃から肺癌患者が増えたのは合わせ技で一本みたいなことなのではないかと思っていたりします、なのでアスベスト吸引歴があり喫煙者でもあるので老齢であっても汚染地域の食材は極力避けています。

原発事故処理のひどさは内田樹さんも戦争当時の軍首脳部との類似性を指摘していたと思います、原発も戦争も世に出回っている情報は左か右のイデオロギーに偏ったものばかりで、これが嫌いで調べることも考えることを避けてきました。

しかし、3.11でこれは自分なりに考えなきゃいけないなと思った次第で、まず考えたのは二度も戦争に徴収された父がどう考えていたのかです。
なので父の遺稿を掘り返していたわけで、知らなかったことがゾロゾロ出てきたので糸崎さんへのコメントに書き込んだりしたのですが脈絡不明であったのではないかと反省しております。

なぜ当時の軍首脳や政府が勝てるはずのないアメリカに戦争を挑みボロボロに負けていたのにウソの大本営発表をしてまで戦争を止められなかったのは先生に褒められる方法しか知らない優等生(エリート)ばかりだったからだという意味のことが書いてあります。

これはオウム事件が何だったかのかとも関連がありそうで、もう少し調べて考えてみたいと思っています。

投稿: 遊星人 | 2011年10月 5日 (水) 21時27分

>いずれにしろ津波の被害で亡くなる人よりは格段に割合が低くて
必ずしもそうとは限らないですね。すくなくとも「今」結論できることではなく数年待たなければわかりません、.
>少量の内部被爆で問題になるのは癌だと思います。
不妊の問題もありますが、影響は客観的にわけて評価できないのが実情で、
仰るように合わせ技の可能性もあり、だからといって問題ではない、と主張するのは問題(笑)と思っています.

投稿: schlegell | 2011年10月 5日 (水) 21時39分

>遊星人さん
>先生に褒められる方法しか知らない優等生(エリート)ばかりだったからだという意味のことが書いてあります。

そもそも人間の優劣を「数字」に置き換える学校教育のシステムに無理がありますね。
思えば、これも原発と源を同じくする、前時代的な「単純系科学」の弊害ですね。
学校の点数とか、給料などの数字で人間の価値が分るとする考えは「還元主義」の一種でもありますが、それでは複雑な現実世界には対応できないことが、現代の「複雑系科学」では分かっているわけです。
そもそも「人を見る目」がある人は、文字通り見ただけでその人の価値を見抜いてしまうのでしょうが、そう言う「勘」の育成がないがしろになっているとも言えます。

>必ずしもそうとは限らないですね。すくなくとも「今」結論できることではなく数年待たなければわかりません、.

死ぬことや障害が出ることにタイムラグがあったり、確率の問題だったり、ことが複雑なだけに「単純系科学」の思考では対応できない、と言えるかも知れませんね。
と、最近あらためてアフォーダンス理論に興味を持ってる自分としては、なおさらそう思ってしまいます。

投稿: 糸崎 | 2011年10月 5日 (水) 22時09分

酷いと言えば、僕も見方によってはずいぶんと酷いことを言っているのは自覚はしています。
既に受けた放射線について、今後数年から何年もの潜伏期間を経てようやく効果が顕れるのに、今から考えてもどうしようもない心配をくよくよするよりは、前向きに今できる除染をするのが、明らかな被害を受けている地域にあっては正しい振る舞いだし、僕だってそうすると思います。
実際のところ、どの程度の影響が出るのかは今どんなにがんばって予測しようとしても正確には判らない訳だし、何十年かが過ぎた後でも放射線の影響とそうでない物を分離して考えることは事実上出来ない。その意味でも、ほぼ唯一因果関係を特定できる今後数年のヨウ素の甲状腺への影響からは目をそらすことが出来ない、と思っています。
別に僕が言わなくてもみんなが判ってるのならいいのだけど、想像したくない未来から目をそらしたい被害者の立場の方々の感情を汲むことで、すべての国民を含めた今後の原子力政策に関わる意思決定に責任を持つ立場の人間が、起きてほしくはないけれども起こりうる結果の想定から目を背けてはならない、と思うのです。

今日、下の記事を見て、ちゃんと考えてくれている方たちいるとわかりました。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011100901000106.html

投稿: schlegel | 2011年10月 9日 (日) 18時57分

>schlegelさん

>すべての国民を含めた今後の原子力政策に関わる意思決定に責任を持つ立場の人間が、起きてほしくはないけれども起こりうる結果の想定から目を背けてはならない、と思うのです。

他人が頼りにならないときは、まさに自分だけはしっかりしないと・・・と最近特に思うようになりました。
ところで、メールアドレスを教えていただけますでしょうか。
コメント欄じゃ話が収まらないんじゃ( ゚Д゚)ゴルァ !
じゃなくてw、以前のアドレス帳がHDDのクラッシュで失われてしまったので・・・

投稿: 糸崎 | 2011年10月10日 (月) 14時10分

>>今一番、懸念されるのは、原発自体の問題が収束に向かっているように見える(見せている)ことからくる、弛みの様な空気ですね、
>そんな空気があるんでしょうか?と思うくらい世間ズレした自分ですがw

僕だけかと思いましたがw、同じように「根拠のない楽観的空気」を感じているらしいヒトを見つけました。
長くてすこしだらける感じがしますが、全体にもっともな事が書いてあると思います。

投稿: | 2011年10月23日 (日) 10時43分

あ、名前かきわすれました、間違えられないとは思いますが(笑

投稿: schlegel | 2011年10月23日 (日) 10時44分

あ、URLも忘れました(爆)
http://p.tl/g87y

投稿: schlegel | 2011年10月23日 (日) 10時45分

>schlegelさん

そろそろ一月前の記事ですねw
いま福島駅前で、これから東京に戻りますが、さすがこちらの方々は東京とは意識が違うようです。
テレビにも各地の空間線量がテロップで表示されるし…
いずれにしろ難しい問題で、いろいろ話を聞いたり、現地の様子を見ると訳が分からなくなります。
何も知らずにもっともらしい事言ってるだけなのを痛感します。
リンク先は斬新な形式の表示ですが、帰ってらゆっくり読みます。

投稿: 糸崎@福島駅前 | 2011年10月23日 (日) 18時22分

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