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2011年9月 4日 (日)

科学とエセ科学

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科学とエセ科学の違いについて。
この両者はハッキリ区別される、と思ってる人はエセ科学にはまっている。
というより科学的思考が今ひとつできていない。
何事もそう簡単に二分出来るものでは無い、とするのが最近の科学でもあるからだ。

例えば、原子力発電所は科学かエセ科学か?これも簡単には判断できない。
もちろん、原子力で発電する理論は実証された科学的事実だろうが、故障の際のリスクや核廃棄物などの問題を考えると合理的な発電システムとは言えず、この問題から目を背け原発を実用化する事自体、エセ科学だと言えるのだ。

原発の原理を「発電機」として考えれば、その機能自体は実証されてるため科学的に真である。
しかし「実用的発電機」と考えると、福島の原発事故と、それによって明らかになった様々な問題点を考えると、エセ科学に過ぎなかったのだと判断できる。

しかし原発に限らず、あらゆる科学理論や科学技術には、エセ科学の要素が不可避的に紛れ込む可能性がある。簡単にいえば「科学」とは理念であって、その理念実行するのは人間で、人間はすぐ間違いを犯すのである。

科学には不可避的にエセ科学の要素が含まれる。
だからどんな科学も100%は信じず、その正しさが覆る可能性も考慮を考慮しながら身構える。
逆に、エセ科学と言われる理論も頭ごなしに100%否定せず、役に立ちそうな要素だけ取り入れたり、理論そのものを楽しんだりする。

311の一連の出来事によって、科学がいかに不正確で頼りないかが明らかになったが、だからこそ科学的思考がますます重要になる。
つまり科学にも、エセ科学にも、容易に惑わされてはならないと言う点は同じなのである。

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コメント

ご迷惑をおかけしております、避難所設置いただきありがとうございます。

僕の考えでは一般に疑似科学と区別して呼ぶのは、「言いたい結論」がまずあり、それに対する科学的に再現性のある検証はレトリックでなんとかしようという姿勢(笑)ですね。たとえば進化論や地球温暖化CO2説はそもそも再現するための検証が時間スケールや距離スケールがでかすぎて実権系の確立が困難、だからいいたいこというよ的な疑似科学の温床になっています。同じように放射性物質の人体への影響も再現性のある検証が困難なので、疑似科学が跳梁しやすいのでしょうね。
バスピーさんは低線量の放射線被爆は中程度の被爆より危険であるという説を唱えておられるそうです。原理的には彼の説がただしいかどうか、判断するための客観的な証拠が不十分ということになり、僕のように疑似科学と決めつける姿勢も、疑似科学的な態度と言えるかもしれません。しかし、wikiで問題とされているのは彼が客観的な根拠を示さずに「恣意的な解釈」を政治的な立場を利用して政治的な発言にすり替えようとしているようだという点です。科学的なコミュニティーで科学的ステートメントとして受け入れられるためには、2~3名のレフリーとエディター(ジャッジ)がつく投稿論文として発表する必要があります。バスビーさんはたとえば先ほどの説を「著書」やウェブサイトで公表されているらしいので客観性が低いと判断せざるを得ません。原子力そのものに関する学会は推進勢力の資金が大量に落ちているので、論文誌の評価が偏っているという可能性は否めませんが、放射線医療に関しては十分に中立な雑誌もあると推定します。

医学をはじめとして、薬学、生命科学は、全体的なフレームワークなしに、各論的に再現性のある現象を認めてきたという点で、経験科学(エンピリカルサイエンス)なので科学の範疇からは少し外れているという解釈も可能です。何かを飲んで治る人が多数だからその症状に効く薬と認める行為の積み重ねとして発達してきた過程は、糸崎さんの言われる呪術に近い物があるかもしれません、現在ではもう少しましになっていますが、そもそも人間の体の働きの全体像が分かっていないので、呪術的進歩の過程であるとも言えます。たとえばiPS細胞にしても山中カクテルが有効であることは認められても、なぜその遺伝子が必要かまでがはっきりしているワケではなく、(なにかのメドがあってやっておられる訳ですが)試行錯誤的にまぜまぜしている、という意味では錬金術師とやってること自体は変わらないとも言えますね。ただし、既知の事実と照らして体系化を図ろうとしている姿勢では、かつての単なる呪術とは一線を画しているとも言えます。

投稿: schlegel | 2011年9月 4日 (日) 12時45分

あちらで、何が言いたいのか分からないとののしられながらも(笑)中立にこだわっていたのは、
やはり振り切ってしまうと対話が成立しないからなのだと思います。
推進派とも対話がなければ何も動かせないと思うし、誰かを敵、と呼んでいるだけでは解決にはつながらないだろうと思います。
そうして見ると、小出さんは立派ですね。

311以前の反原発の人たちを思い出してみると、理性的に人間生活と相容れないことを説こうとしている方と、
なんだかイデオロギー的でよくわからないこと「も」言っている振り切った人で
後者がかなりの比率で混ぜこぜになっていたために、
反原発=変なヒト、の様に普通の人は入れない雰囲気をかもしていたように思うのです。
結果としてそれが311につながったかと思うと、反省が必要だと思っています

投稿: schlegel | 2011年9月 4日 (日) 13時13分

まぁそういいながら自分はダメだねとあらためて思った週末でした

投稿: schlegel | 2011年9月 4日 (日) 21時13分

>僕の考えでは一般に疑似科学と区別して呼ぶのは、「言いたい結論」がまずあり、それに対する科学的に再現性のある検証はレトリックでなんとかしようという姿勢(笑)ですね。

ぼくも全くそうだと思います。
科学技術の目的は、究極的には「人々を幸福にすること」にあります。
だから、エセ科学を見分けるポイントとしては、その理論を述べている人の目的が、間接的にであれ「人々の幸福」に繋がっているのか?を見極めることだと思います。

>しかし、wikiで問題とされているのは彼が客観的な根拠を示さずに「恣意的な解釈」を政治的な立場を利用して政治的な発言にすり替えようとしているようだという点です。

ハスビーさんについては専門的なことは分かりませんが、「フクシマ危険地帯で政府はそれを隠してる!」と言う論調はある種の高揚感があります。
つまり、いわゆる「放射能危険派」の人は、「大多数の人が知らない危険性を、自分たちだけが知っている」という高揚感や特権意識に酔っていて、ともすればそれ自体が「目的化」してしまいます。
これは「陰謀論」も同じで、リチャード・コシミズという陰謀論者が、「東日本に起きたのは小型核爆弾による人工地震で、福島の原発事故はそれを隠蔽するための茶番だ!」と公演する動画を見たのですが、コシミズさんが実に嬉しそうに生き生きとした口調でそれを語っている様子が印象的でしたw

しかし何にせよ自分の研究が成果を上げれば嬉しいし、興奮するし、「もうちょっとのところで失敗してしまった」と思えばその成果に向けて「偏向」してしまうこともあるだろうと思います。
ですから科学とは「理念」であって、しかしそれを実行する自分には感情もあり間違いを犯すかも知れない「人間」なのだ、と自覚すれば、それは科学的心構えの基本の一つではないかと思うのです。

と言うことでぼく自身は「放射能危険派」としてはしゃぎ気味の側面もあるのですが、いちおう「はしゃいでいる」ことは自覚し感情をコントロールしようとする意図はあります。
しかし、専門家であるschlegelさんから見て、素人のぼくの振るまいが危なっかしく見えるのであれば、そうなのかもしれませんw

投稿: 糸崎 | 2011年9月 5日 (月) 13時36分

遊星人さんのコメントにレスしないでこっち来ちゃったのが気になってますが、
僕も中立に極端にこだわりすぎたので、変なメッセージにとられているといけないので、一つだけはっきりしておくと、僕も子供や青少年の方については後悔の残らないようにもう出来る限り注意していただきたいと思っています。一方で中高年以上でもう子供を作ることもないような人は、自身の判断で前にご紹介した塩野さんが書かれていたように多少のリスクをとることも少しずつ選択肢に入れても良いのではないかというのが僕の趣旨です。

糸崎さんのコメントを見ながらすこし考えています。
自分が書いている行為にも高揚感の様な物があるのか、よくわかりません。糸崎さんとはこちらでそれほどシリアスでもないことも含めていろいろ議論させていただいてきたので、自分としてはそれほど不自然な感じはないのですが、今回は、内容自体が多くの人にとって深刻であることと、いろいろ批判的な意見もいただいたことでいつもと違う緊張感とそれに伴う高揚感のような物はあったかもしれません。自分としてはいろいろ書くことで自分の考えをまとめたり、それについていろいろ言われることで他の人の考えや考え方を理解できたりすることが目的、なのですがやはり今回のようなシリアスなテーマについて話すときはもう少し慎重になる必要があるのかもしれませんね。
それと、たとえば、糸崎さんとは科学に対する考え方が全く違うというのは薄々気づいていたものの、だいぶショックで(笑)それは自分の考え方の中枢を占めている科学的思考(科学至上主義と言ってもいいかもしれません(笑))が否定されているようなものだからなのですが、一方で、それはたとえば別の言語で話さなければならないという状況においてもお互いに理解する必要性(姿勢)があれば何とかなる、のと同程度に、思考の前提をある程度取り払ってもコミュニケーションは成立しうるという発見はあったように思います。

投稿: shlegel | 2011年9月 5日 (月) 23時03分

「科学」という概念はキリスト教の創造主の摂理の探求の延長だと思いますが、創世記が正しいという前提では神の創造は一度きりで自然界は初期入力のまま(進化論はここにひっかかる)ということになり、その探求者だったコペルニクスやニュートンは神の摂理は数学的規則性と同一視していたようでシンプルな数式で解くほど正しいと信じていたようですので、これは線形モデル以外のなにものでもありません。

その延長である古典科学は線形モデルが当てはまる領域しか扱っていなかったので科学の定義は簡単だったのですが、実際には自然現象のほとんどは非線形の要素を含んでいるので科学の領域が広がるほどに定義困難になるのはあたりまえですね。

科学と技術は分けて考えた方がいいと思います、おそらく欧米人の感覚ではサイエンスは神の摂理の領域(=nature)を調べる学問で、それを応用していてもテクノロジーは人間の意志の産物(=art)であると認識されていると思いますし、実際に科学技術の産物には科学とは無関係な人間の欲望だらけの思惑が入り込んでいます。

少なくとも神の摂理の探究であった時代の科学は自然界の事実に敬虔なものを感じていたと思うのですね、ぼくはキリスト教を信じてなどいませんが自然に対してやはり同じような思いがあるので謙虚さを失った科学技術は科学とは思いたくありません。

科学に必要なのは謙虚に自然界をもっと知りたいという思いだけであるべきで、それが何の役に立つのかという考えは文科省がカネになりそうもない基礎研究に資金を出さなくなった理由そのものです、「科学技術が進めば何でも可能になる」という宗教ほど最悪なものはありません。

投稿: 遊星人 | 2011年9月 7日 (水) 19時48分

>遊星人さん

分かりやすいまとめ、ありがとうございます。
旧約聖書にバベルの塔があるように、キリスト教は人間が高度な技術を持つことを戒めてました。
それがなぜ、今日のような科学技術の発達に至ったのかと言えば、恐らく資本主義の発展と深く関係していて、その資本主義は、プロテスタントの教えから生じた…と、小室直樹さんが書いてましたが、カラクリを忘れてしまいました。
その詳細が書かれたウェーバーの本…出先で題名忘れましたが、一応買ってはありますw

まぁ、神様なんかいるかいないか分かりませんが、人間の思い上がりを戒める効果はあったわけです。
そしてバベルの塔が御伽噺だとしても、人間思い上がるとろくなことは無いのは「事実」であり、やっぱり人間にとって神様は必要なんだと思いますw

と言うか、神様はいるかいないかてはなく、信じるか信じないかではなく、人間は神を「必要とする」。
と考えると、じゃあどんな神様が必要なのか?という話になり、そうなると宗教は哲学とつながり、科学ともつながりそうです。

投稿: 糸崎@iPhone | 2011年9月 7日 (水) 21時09分

>人間思い上がるとろくなことは無いのは「事実」であり、やっぱり人間にとって神様は必要なんだと思いますw

ほんとにそう思いますね、まず昆虫を観察して自然の偉大さを学ばねば(笑)

投稿: 遊星人 | 2011年9月 8日 (木) 18時48分

こんなのありました、
http://togetter.com/li/185291
やや一面的かもしれませんが、

ひっかかってることについて見方を変えてみると「科学的」にでも「論理的」でもいいけど「自分で考えて判断する」と「そうでない」の違いかもしれません。
そうでないというのも、たとえば「誰かの言うことを信じている」とか「神様を信じている」とか「一つの考えに固執している」とか「とにかく不安」とかいろいろあって、
また、そういうひととそうでない人がいるというわけでもなく、人によってそういう分野とそうでない分野があったりもするようです。
糸崎さんにしても遊星人さんにしても、ちょっと僕とは論理の組み立て方が違うとしても、ご自分の頭で考えておられる、そしてそのことを楽しんでおられるという安心感があります。

考えたって限界はあるので、思い上がるくらいなら考えない方がいい、というところにも真理はあるのかもしれませんが、妙なところで思考停止するよりは考え続けたいですね。

投稿: schlegel | 2011年9月 9日 (金) 09時00分

>schlegel

http://togetter.com/li/185291

素晴らしいまとめですね。
これ読んで「目から鱗!」とか思ったりしたらぼくの立場としてはヤバイですが、いちおうそんなことが無くて安心しましたw

>考えたって限界はあるので、思い上がるくらいなら考えない方がいい、というところにも真理はあるのかもしれませんが、

いやそうではなく、上記リンクの教科書にあった「科学の力を知っている科学者は、またその限界についても知っている」と同じようなことを言いたかったのです。
原発をいまだ推進しようとしている人達に、その認識は皆無のようですし・・・

>妙なところで思考停止するよりは考え続けたいですね。

「宗教=思考停止」とはよく言われる世間的イメージですが、それが間違いであることがぼくとしてはだんだん分かってきました。
宗教とは本来、科学とは異なる仕方の「思考法」の一種で、「精神の使用法」の一種だろうと思います。
宗教的思考と科学的思考は、元はキリスト教の中で一体であったのに、近代になって「宗教的思考」のみが捨てられてしまった。
現代人の多くは宗教的に思考停止状態にあり、それで「宗教=思考停止」というイメージがまかり通ってると考えることもできます。

また、宗教が「精神の使用法」なのだとすれば、現代人の多くは「思考は働いているが、精神が停止してる」と見ることもできます。
思考を働かせるとそのレベルはどんどん上昇しますが、一方で精神はあるレベルをキープしたまま上昇することはない・・・

ぼくもこれまでは「宗教なんて時代遅れなものは無くてもいい」と考えてたのですが、311以降は「宗教は本来人間に不可欠のものだったのでは?」と思うようになりました。
この場合はもちろん「宗教=思考停止」でもなく、従って進化論を頭ごなしに否定するような原理主義(と言う名の思考停止)でもありません。
「宗教とはなにか?」はぼくもまだよく分かってないのですが、それを考えるのが「宗教的思考」ですねw

投稿: 糸崎 | 2011年9月 9日 (金) 10時52分

そうですね、思考停止というのはべつに宗教についていったわけではなく、いろいろなパターンがあるという話です。

>原発をいまだ推進しようとしている人達に、その認識は皆無のようですし・・・

僕もこれが不思議だったのでいろいろと彼らが何を考えているのかをずっと考えています。
前にも書いたかもしれませんが、おそらく原発の推進が経済的なことを含めて「国益」という考えを捨てきれないのだと思います。
たとえばアメリカのように他国に戦死のリスクを承知で国民を送り込んでいる国のふるまいは、
人的損失は経済的利益を含めた国益と置き換えることが可能だと考えているように見えます。
同じ理屈で言えば、放射線による人的損失も経済的利益で置き換えられるという思考はあるのかもしれません。
そうとは決して言わないだろうけど、まだ原発は必要と言っている組織があるのを聞いたりすると、
「そういうことなの?」と尋ねてみたくはなりますね。

投稿: schlegel | 2011年9月 9日 (金) 22時13分

>schlegel さん

>前にも書いたかもしれませんが、おそらく原発の推進が経済的なことを含めて「国益」という考えを捨てきれないのだと思います。

最近『自己愛型社会』という本を読んだのですが、
http://www.amazon.co.jp/dp/4582852718
人間が共同生活でなければ生きられない動物である、と考えると「国益」は重要です。
国家がなければ個人の幸福も成り立ちませんので。
ところが国家がある程度以上豊かになると、国民は「国益」を忘れ、自分の幸福のみを追求する「自己愛」に陥り、全体が「自己愛型社会」になります。
そうすると国力はどんどん弱まり、国家は滅亡してしまう・・・という最初期の例がローマ帝国なのだそうです。
ローマ帝国の退廃ぶりは、現在の日本やアメリカの「自己愛型社会」と極めて似ていて、これからの行く末を予測する参考になるわけです。

というわけで「国益」そのものは大事な考えではありますが、果たして現在の「原発推進派」は果たして本当に「国益」を考えているのかは疑問です。
「国益」を口にしながら、その実それによって何らかの利益が得られるという「自己愛」が動機だろうと、多くの人は疑っています。
もちろん、本当に「国益」のために原発は推進すべきだと思ってる人もいるでしょう。
一方では、「国益」のために原発を停止して、未来のために子供の安全を優先すべき、と考える人もいます。
そして原発推進派にしろ、放射能危険派にしろ、「国益」を一切考慮しない「自己愛」に固執した人はどちらにもいるはずだと思います。

しかし『自己愛型社会』という本が出たのは95年ですが、今年の311によって「自己愛」と「国益」の関係について、みながあらためて考える機会になったと言えるかもしれませんね。

投稿: 糸崎 | 2011年9月10日 (土) 08時58分

本質的に考慮すべき重要なファクターかもしれませんが、政治に関わる人たちが「国益」とか言い出したらろくでもないことが起きそうですね(笑)
世界的な動向として、米露仏中などは諦めていないようだし、アジア・アフリカなどへ原発を売り込むのはかなり儲かるらしく、蓄積した技術があるのに中国や韓国や他の国にシェアを奪われるのを黙ってみていられ無いという見方はあるでしょうね。かといって、ベトナムやヨルダンが日本の原発を本当に買ってくれるかも分からなくなると思われるので、当面、経済的には苦しいかもしれないけど、早めに他の技術にシフトするのが吉なのでしょうね。

投稿: schlegel | 2011年9月11日 (日) 00時32分

古典の哲学や宗教書を読むと、どれにも「真の利益は金銭的な得ではなく、精神的な徳にある」というふうに書いてあります。
しかし実際は現代に至るまで、人々は徳よりも得に走るのは、やはり金銭的な利益の方が得やすいからなのでしょうか?
ぼくは両方とも苦手なのですが、だったらお金のかからない「徳」の方が効率が良いかな、と思ってしまうのですw

投稿: 糸崎 | 2011年9月12日 (月) 01時37分

読売に理学と工学の発想の違いについてまとめてありました、
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnscience/20110825-OYT8T00808.htm
結論はよくわかりませんが(笑)

投稿: schlegel | 2011年9月24日 (土) 17時47分

国内では新規建設は難しいと言ってたけど、輸出は推進するとも言ってるのは
全体として安全性を強化することで推進できると考えているようですね、

投稿: sclegel | 2011年9月24日 (土) 17時54分

純科学を原理宗教とすれば応用科学(工学)は御利益宗教みたいなものだと思います。

高校生のときにいちばん楽しみだったのは中平先生(http://www.chikumashobo.co.jp/author/001975/)の授業だったのですが、ある日、先生は「ヨブ記」を話して聞かせてくれました。
後になって「ヨブ記」の結末がメデタシメデタシにっているのを知って「アレ?」っと思ったところから考えると先生もその部分はどうでもいいとと思って話したのかもしれません。
なので、「ヨブ記」はひたすら神を信じるヨブが神の気まぐれに翻弄される物語りとして受け止めたのですが、これは御利益宗教が人間にとって都合のよい「神」でしかないことに気づくように考えるヒントを与えてくれたのだと思っています。

この部分はすごく大きなことで良い先生に出会えたものだと思っています。

投稿: 遊星人 | 2011年9月24日 (土) 22時05分

リンクがヘンなことになってしまいました

http://www.chikumashobo.co.jp/author/001975/

投稿: 遊星人 | 2011年9月24日 (土) 22時07分

>schlegelさん
>読売に理学と工学の発想の違いについてまとめてありました、

この記事はちょっと酷いですねw
あらためて記事にしてみます。

>遊星人さん

さりげなくエリート教育受けてらっしゃいますねw
ヨブ記は読んでない・・・と言うより、ぼくは旧約は「リビングバイブル」という訳を読んだのですが、これは超訳すぎてあんまり良くないかも知れません。


投稿: 糸崎 | 2011年9月25日 (日) 01時36分

>純科学を原理宗教とすれば応用科学(工学)は御利益宗教みたいなものだと思います
どちらがいいという訳でもなく、理念的か実利的かで考えればそういうことなのかもしれませんね、

理学と工学の発想の違いにはすこし納得しているので、どの辺りを酷いと思われてるのかわかりませんが(笑)
人工衛星が落ちてきて、人に当たる確率がどのくらいとか言うのも、工学的発想と言えるかもしれません。
プラグマティックに確率とリスクを考えたとき、リスクが限定的で、
確率が十分低ければ受け入れ可能という考えかたはあるのだと思います。

日本的発想の困るところは、起きると困ることは「あってはならない」といえば絶対に起きないかのように振る舞える
点で、これは理学的でも工学的でもなく、人間社会の中での理念的なコンセンサスにすぎませんね。
原子力については、リスクの最大値が日本の半分程度の地域に住めなくなる=事実上の国家の破綻、と考えると
国家の判断としては、確率がどんなに低くても、ゼロでない限り、無限大のリスクを受け入れるのは無理、
と判断すると思うのですが、途上国には別の価値観もあり得るだろうということなんでしょうかね?

投稿: schlegel | 2011年9月25日 (日) 09時44分

あぁすみません、輸出は推進とか言ってるのはこの人ではなく、総理大臣の方です。
なんかいろいろ考えてて断片的に書くのですごくわかりにくいですね、反省します(笑

投稿: schlegel | 2011年9月25日 (日) 13時51分

僕の理解は浅くて、申し訳ないのですが、
ユダヤ教的神の理不尽は、
自然現象は人間社会のコンセンサスを関知しない、
という解釈でも良いのでしょうか?

投稿: schlegel | 2011年9月25日 (日) 13時55分

schlegelさんの観点とはずれるかも知れませんが、読売の記事をネタに新たな記事を書きました。

ユダヤの神様は難しいので、じっくり考えてみるつもりです。

投稿: 糸崎 | 2011年9月25日 (日) 15時22分

>ユダヤ教的神の理不尽は、
自然現象は人間社会のコンセンサスを関知しない、
という解釈でも良いのでしょうか?

ぼくはそう理解しています。

ユダヤ教の「選ばれし民」というやつと「唯一絶対で普遍の神」というのはどう転んでも矛盾しているわけです、なぜなら彼らの神が世界を創始した唯一絶対の存在だったら「選ばれてない民」にとっても同じでなければならなくなるからです。
しかも、ユダヤ民族はその「選ばれていない民」に土地を乗っ取られて離散したり幽閉されたりしているわけで、その事実を認めつつもユダヤ民族だけが「選ばれた民」であることを正当化する論理は「神が我々を選んでいる理由は自分たちの願望とは無関係である」ということにするしかないからだろうと思います。
つまり、「御利益の神」であることを否定せざるを得なかったわけですから結果的にはschlegelさんの解釈になるしかありません。

しかし、そうなると御利益を期待して神を崇拝する意味もなくなるわけで、キリスト教はそれを最後の審判に先送りしてつなぎ止めたのだろうと思います。

投稿: 遊星人 | 2011年9月25日 (日) 17時26分

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