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2011年10月

2011年10月20日 (木)

カメラの自動化と語る能力

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写真家の(と言うのは便宜上で、本人は「脱写真宣言」をされている)平井正義さんが、ブログで興味深い指摘をされている。
ちょっと長くなるが、以下引用。

かつて演歌的・浪花節的、湿っぽい、情緒過多といった語り口は忌避される傾向が強かった。そのようなトライブもむろんあったが、鑑賞対象としての写 真のジャンルの大勢としては、情緒的ないし物語依存型の言辞は一段低く見られ、もっと硬質で冷徹な口調や文体や内容をよしとする層が確実にいたように思 う。それは写真自体の傾向についてもあてはまる。

90年代、写真の主流が物語偏重に大きく舵を切ったことで、写真を語る言説にも変質がもたらされたと思われる。その原因として、若い女性への 写真撮影習慣の浸透、風俗写真家の大ブレイク、母親の死を嘆くフランス人の言説の流行などが考えられるが、それらを準備したひとつの大きな要因として、当 日誌ならではの解釈を述べてみたい。

それは、カメラの自動化である。かつて写真撮影には露出に関する知識や焦点距離と画角の関係の理解などが必須であり、合理的にものを考える能力と最低限の科学的素養が不可欠だった。また金もかかったため、教育程度と所得水準が高い層のたしなみであった。

ところが、ここでも何度も述べているように、カメラの自動化が進んでそのような知識なしでもそこそこに撮影できるようになり、またカメラや関連品の単価や税金が下がって贅沢品ではなくなり、プリントも安く行えるようになった。

参入障壁が年々低くなって誰でも写真が撮れるようになり、鑑賞対象の写真のジャンルにもそういった層が大量に流入した。かくして、かつては多 かった、ものを合理的に考え、理詰めでものごとを組み立てるという思考様式のプレイヤーが相対的に減少し、そうではないひとびとの比率が増加した。その結 果、写真へのかかわりかたが総じて情緒的となり、物語偏重に傾いたのではないだろうか。

なお、ここでいう物語とは、metanarrativeのようなたいそうなものではなく、個人史とか生活経験といったベタなナラティヴのことである。

カメラの自動化と、語る能力の関連性の指摘はなかなか面白い。
写真技術がイージーになっただけに、みなイージーにものを語ろうとする、という考えは納得できるものがある。
さらに写真の技術はカメラがアシストしてくれるけど、語る技術はマシンがアシストしてくれるわけではなく、そこにある種の「ズレ」が生じているとも言えるだろう。

結局は日常会話とは異なる次元の「語り」をするにはそれ相応の「技術」が必要で、それは日常的な記念写真とは異なる次元の「作品」を撮るにはそれ相応の「技術」が必要なのと、同じことなのかも知れない。
単なる記念写真ではなく「写真に何が出来るか」に踏み込むと言うことは、作品を「作る」ことであって、それは言葉を組み立ててコンセプトを「作る」ことと連動してるわけである。

実のところ「技術」とは「自動化」と不可分ではなく、ある意味で「技術を身に付ける」とは「そのことが自動的に行える」と同じことだ。
カメラをマニュアルで操作する技術を身に付けた人は、マニュアルカメラを自動的に操作することが出来る。
大工さんやパン屋さんなどの職人さんは、自分が身に付けた技術によって自動的に的確な仕事をこなすことが出来る。
職人やアーティストが修行するのは、自分の身体に、ある技術に特化した「オードモード」を装備するためだと言えるだろう。

しかしカメラという道具は、カメラ自体の中に「オートモード」を組み込むように進化してきた。
1929年製の「ライカA」でさえ、その当時は画期的な自動カメラとして登場している(セルフコッキング、セルフキャッピング機能など)。
カメラに限らず、近代という時代はあらゆる道具が「機械」というかたちで自動化し、つまり本来人間に具わっていた「自動化」という機能が道具として「外部化」されている。
そうなると人間の方は自分がわざわざ「自動化」する必要がなくなり、本来備わっていた能力を蔑ろにするようになった、と言えるだろう。
最近は企業でも「技術」を身に付けた職人の需要が減り、技術がなくいくらでも交換の利く派遣社員に置き換わっているようだが、それも「自動機能の外部化」のあらわれだと見ることが出来る。

話題を「語る能力」に戻すと、何かを語ることもまた一種の「自動機能」による。
言葉や文字はランダムに組み合わせても意味が通じることはなく、順列組み合わせの法則によって、ある程度自動的にしゃべったり書いたりしている(シニフィアン連鎖)。
人は語る内容をあらかじめ決めてからその通り語るのではなく、語りながら次の言葉が連鎖して半ば自動的に出くる、というかたちで語り続ける。
普通の人は日常会話のための「オートモード」を供えていて、自動的にコミュニケーションをはかっている。

しかしぼくのブログなどの文章は、日常的なコミュニケーションとは違う感覚で書いており、そのためのオートモードは通用しない。
つまり日常感覚とは異なる理論を「作る」ためには、それを実現させるための「オートモード」が必要で、そのためには読書をしたり、他人と議論をしたり、理論を実践してみたり、いろいろ努力する必要がある。
いやぼくの「オートモード」などたいした機能はないのだが、本当にスゴイ理論家はさまざまなフルオート機能を装備して、何でも自在に語ることが出来る。
頭のいい人、能力の高い人はさまざまな機能が高度に自動化されている。
まぁ、上を見ればキリがないのだが、ぼくは自分なりに作品を「作る」ことと、考えを「作る」ことと、人核(人格)を「作る」ことを、連動させているつもりでいる・・・
というようなことを、書きながら自動的に思ったのだった(笑)

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2011年10月18日 (火)

アシストフォトモとワークショップ(改題再投稿)

前回投稿した記事のタイトルを変えて再投稿してみるのだが、10月2日に「しんじゅくアートプロジェクト」の一環として行われたフォトモワークショップの2回目について。
自分はなぜワークショップを開催するのか?を考えたことがあって、それが「アシストフォトモ」という概念だったのだが、自分で忘れてしまっていた(笑)

以下の動画はワークショップの当日、参加者にフォトモを教えながら自分で撮影してるので、カメラがずれて見づらいかも知れませんが・・・


「非人称芸術」というコンセプトに基づいて考えると、「フォトモ」の本来的なアートとしての価値は、フォトモという作品にではなく、被写体である「非人称芸術」そのものにある。
これは科学的記録写真と同じ考え方で、例えば記録として撮影された昆虫写真は、写真そのものよりも、被写体の昆虫そのものに価値がある。

以前ある昆虫写真家が、非常に高精細な昆虫写真の巨大プリントと、実物の昆虫標本を比較展示していたが、やはりどれだけ写真が素晴らしくとも、実物が置いてあるとどうしてもそっちの方に目が行ってしまう。
また小学生の甥っ子がぼくの昆虫写真の個展に来てくれたことがあったが、どうも今ひとつつまらなそうにしていたのだが、どうもその理由が「その前に品川水族館に行ってきたから」のようで(笑)やはりこの手の写真は基本的に、実物のインパクトにはかなわないのである。

これと同じ意味で、「非人称芸術」のコンセプトに基づいて考える限り、作品としてのフォトモは、実物である「非人称芸術」のインパクトには及ばない。
いや一般のお客さんは、「実物よりフォトモの方が良い」と言ってくれるかも知れないが、それは「非人称芸術」と言うものを知らない人の意見に過ぎないと考えることが出来る。



「非人称芸術」とは何なのか?は、端的に言えば「作者不在で鑑賞者が創造する芸術」である。
何でもない街並みが、見る人が見れば「非人称芸術」になるし、そうでない人が見ればそれは単なる街並みに過ぎない。
あらゆる街並みのオブジェクトは「非人称芸術」の「可能態」であって、原理的には何でもその気になれば「非人称芸術」として鑑賞できる「可能性」を秘めている。

だから例えばぼく以外の、「非人称芸術」のコンセプトを全く理解していない人が、表面的にぼくの真似をして適当な街並みのフォトモを作ったとしても、それは必然的に「非人称芸術」の価値を表現した作品になってしまう。
「非人称芸術」としての価値は、「可能態」として街並みのあらゆるところに埋め込まれているため、街中のどこかを任意に切り取ると、それは必然的に「非人称芸術」の表現になってしまう。
いやもっと正確に言えば、「見る人が見れば」あらゆるフォトモは「非人称芸術」の表現として鑑賞できてしまう。

そして「非人称芸術」のコンセプトに基づく限り、フォトモはぼく自身が作る必然性はなく、誰が作っても同じことになる。
そこでワークショップを開催し、参加者にフォトモを作ってもらうことの必然性が出てくる。
ぼくとしてはフォトモの新作を見たいのだが、自分で作るだけでは面倒なので、ワークショップの参加者にそれを作ってもらう、ということには必然がある。



ところで、フォトモを作るには大変な技術が必要で、一日や二日でその全てをキチンと教えることは出来ない。
だからぼくのワークショップは技術を教えると言うよりも、参加者のフォトモ制作の「お手伝い」をしている、という感覚でやることになる。
センスがあって器用な人は一部にはいるが、たいていの参加者はぼくに言われたとおり写真を撮ってもどのようにフォトモにしたら良いのかが分からず、そこをぼくがお手伝いして立体のフォトモに仕上げる。
上記の動画を見てもらうと分かるが、ぼくは子供達一人一人を巡回しながら、写真をフォトモにする手順についての指示を与えている。
そのようにして作られたフォトモは参加者自身の作品というよりも、ぼくと参加者の共同製作ということになる。

もっと言えば、参加者が「非人称芸術」のコンセプトを理解していないとすれば、そのフォトモはワークショップを開催したぼく自身の作品だという解釈も成立する。
これは過去に他人が撮影した写真をフォトモに加工する「復元フォトモ」とも共通するコンセプトで、実際ぼくのフォトモワークショップでは「復元フォトモ」で培った技術も投入されている。
ワークショップの参加者はともすればフォトモとして立体化することを全く考慮せず素材写真を撮ることがあり、そうなると「復元フォトモ」の感覚で頭をひねってフォトモに仕上げる必要がある。
ワークショップはいちおうサービス業なので、「フォトモが出来ませんでした」と参加者にガッカリされるとマズイので、その意味でのプレッシャーはある。
しかしそれだけに、ワークショップでは自分だけで作るのとは違った、思わぬ発想によるフォトモが出来たりして、なかなか楽しい。

というわけで、ぼくはワークショップのフォトモを自分がお手伝いした「アシストフォトモ」として位置づけているのであった。
が、ワークショップの参加者においてこの「アシストフォトモ」というコンセプトは全く無関係であり、講師としてもそのコンセプトを意識しようがしまいが実質的に無関係なので、つい忘れてしまっていたのだ。
しかしぼくもいちおう「非人称芸術」を基盤に据えたコンセプチュアル・アーティストなので、折に触れてそのコンセプトを確認したり、修正したり、発展させる必要があることを思い出したのだった。



以上の「アシストフォトモ」のコンセプトは、実のところぼくの個人的な事情であって、ワークショップの参加者や主宰者にとってはまったくの無関係である。
ぼくはフォトモを「非人称芸術」と結びつけて考えているが、それはぼく個人の問題であり、フォトモそれ自体をどう解釈するかはそれぞれの鑑賞者に委ねるしかない。
ワークショップについても同じで、参加者それぞれの立場でフォトモを作ることを楽しんでもらえれば良いだろうし、そもそも楽しんでもらえなければワークショップとしては失敗だとぼくは思っている。
今回の大久保でのフォトモワークショップは子供対象だが、子供に「非人称芸術」のコンセプトは教えられないし、写真の撮り方もままならない子供にフォトモの技術をどれだけ教えられるかは疑問だが、何だか知らないけど楽しんでもらえればそれで良いと思っている。

いや子供にフォトモを教えることについてもコンセプトが固まりつつあるのだが、つまりなんでも良いとは言え無秩序では「教えること」は成立しない。
「しんじゅくアートプロジェクト」の主宰者は、ワークショップに参加する子供達の「自由な創造性」に期待しているようだが、「自由」とはともすれば「無秩序」の別名になりがちなのである。
だからぼくはあくまでフォトモの「基本」に忠実に、子供の「自由な創造性」は押さえる方向で、しかしハミ出してしまう分を押さえ込んでも仕方ないので、ある程度の自由は許容しながらバランスを取ってるつもりだ。
まぁ、大人が何か分けの分からないことを教え、それをただなぞるのが楽しい、というのが「教わること」の基本ではないかと思うし、ぼくもとりあえずはそれに従うことにしているのだ。

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2011年10月12日 (水)

愛される詐欺師

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●詐欺師に誰も引っかからなければ、詐欺師は誰にでも愛される。

●敵に目を奪われてる隙に「自分という敵」を見失っていた…!

●「先送り」は「人頼み」と同じ。いくら待っても誰も助けてくれない。

●叱ってばかりの親に育てられた子は、自分を責めてばかりの大人になる。子供を上手に育てる様に、自分の良いところを発見できなければ成長出来ないまま。

●「あの人は自分の表面しか見てくれない。」と嘆く人は、自分もまた相手の表面しか見ていない。なぜならば、相手の事がお見通しならそんな事は問題にならないはずだから。

●「自分」が変われば友達も変わる。二つの意味で…

●アフォーダンス理論は常識的な認知論のまったく逆を語っているが、これを知ると、人間は無知か騙されてるか、どちらの状態しか無いと思ってしまう。

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彦坂尚嘉との対話編

彦坂尚嘉さんのブログに「『美術の一万年』/彦坂尚嘉と糸崎公朗対談1~4」というタイトルで、skyp録音による音声ファイルがアップされてます。
「対談」とは言いながら、彦坂さんが一方的にしゃべって、ぼくは所々頷くだけですが(笑)。
まぁ、プラトンの「対話編」を読むと、対話と言いながらソクラテスがほとんど一人でしゃべってますから、そんなもんです。


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2011年10月11日 (火)

味の素の素

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● 優れた芸術家としてデビューした人も、そのうち作品に「味の素の素」を振りかけるようになり、晩年になるに従いその量は増える。http://t.co/lhMaBA29

● 猿山の中に放り込まれた人は、自分が弱者であることを自覚しなければ、即殺されてしまうだろう。

●単なる楽観主義でもなく、悲観主義でもなく、悲観的楽観主義が現実に対応する力になる。

●自分のアイデアに酔う犯罪者は失敗する。

●効率とは道具であり、時間をかけて作り上げれば、それ以後何度でも使う事ができる。つまり、効率のため以外に時間をかける必要は無いのである。

●子供は本来、自分内部の「子供」を徐々に追い払いながら、人格ある大人へと成長し、それを促すのが子育ての役目である。だから大人になっても内部に「子供」が残留している人は、意識してそれを追い払う必要がある。いわば自分に対する「子育て」が必要。

●文明は数千年もの歴史の積み重ねの上に成立しているが、個人の寿命は短いので、ついそれが見落とされてしまうのである。

● 神の律法(原則)を破ることはできない。それを破ろうとすれば自分自身が破れるだけだ。(セシル・B・デミル 映画監督)

● 我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じレベルで解決することはできない。(アルバート・アインシュタイン)

● 世界は自分自身の反映であり、自分自身が改善されれば、世界は改善される。

●「自分」は周囲との関係性として成立する。もし、不安定な周囲と関係しているなら「自分」も不安定になり、普遍の周囲と関係するならば「自分」も普遍になる。

●偽物を求める人の満足感とそのニーズに応える善意について、真剣に考える必要はある。必要なのは、悪魔に魂を売らずに商品を売る方法。

● 他人を変えることは出来ないが、自分だけは変えることができる。変わらない他人を呪うことは悪であり、ただそれを祝福することが善である事を知って、自分を変えなければならない。

●駅前で配ってた『目ざめよ!』に、「どのようにお金を管理しますか」という特集記事として「高額の物を購入する前に、それが本当に必要かどうか考えてください」「値引きされた新品や、程度の良い中古品を探してみましょう」「衝動買いはせずに、一晩考えてください」「外食するより材料を買って自分で食べる方が割安です」などと常識以前の事が書いてあった。これを読む限り常識しか書いてないので害はないと言えるが、それだけにどういう人を対象に勧誘してるのかが推測できる。しかしこれもまた「善意」の一形態と言えるかもしれない。

●偽物を求めている人に、偽物と知ってそれを売ることは、ニーズに応えた善行であって悪行ではない。偽物を求めている人に、善意から本物を勧めることは、自分のおごりから来る悪行であり、実際に相手から恨みを買ってしまう。

●頭の良さだけが取り柄の人と、頭が悪さだけが欠点の人。

●自分が利口だと思ってる人は実はそれほど利口ではなく、自分がバカだと思ってる人は実はそれほどバカではない。

●人は自分が思っている以上にバカであり、自分が思うほどにはバカではない。

●がむしゃらに頑張る人だけの人は、考える事をサボっている。サボる事ばかり考えている人は、無駄な時間を過ごす事を頑張り過ぎている。

●考える事が少ない人は、そのかわりにやる事を増やす。

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大谷佳写真展 『Esquisse』インタビュー


清澄白河のTAPギャラリーにて開催中の、大谷佳写真展 『Esquisse』 にてインタビュー。
オープニングレセプションの最中で、前半は周囲の音がデカイですw
そのあと静かな屋外で大谷圭さんにインタビューを試みますが、大物過ぎてぼくなどは相手にされず・・・
変わりに『アスファルト 8号』に作品が掲載された須藤朗子さんが応えてくださってます。

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大谷佳写真展 『Esquisse』

2011/10/4(tue)-10/16(sun)     

TAP Gallery

〒135-0022 
東京都江東区三好3-2-8
Tel/Fax 03-3643-6885 
OPEN 13:00-19:00 月曜定休

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2011年10月 8日 (土)

言語とアフォーダンス

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●アフォーダンスと「言語」が一体化した「一重性」を生きる人と、アフォーダンスと「言語」が分離した「二重性」を生きる人がいる。
<言語>を組み替えると思考になり、<言語>をなぞるとアフォーダンスになる。

●主体的な人間は「大文字の他者」と向き合い、反応的な人間は「目の前の他者」というアフォーダンスに向き合っている。
「目の前の他者」とは、言語がアフォーダンスにくっついた状態であり、アフォーダンス化した言語である。

● 動物は環境を満たす「白い光」に包囲され、人間だけが「白い言語」に包囲されている。
「白い言語」を満たす媒体は、人間間の言語のネットワークである。
「自分の考え」は自分の脳内に保存されているのではなく、「言語のネットワーク」に存在し、そこから引き出されるのである。
パソコンに保存された文書も、実はパソコン内部に存在しているのではなく、「言語のネットワーク」の一部としてその内部に含まれているのである。

●人間の<言語>はアフォーダンスにくっつく作用があり、アフォーダンスと共に視覚的に人間を包囲する。
物の名前を言い当てることとは、<言語>をアフォーダンスにくっつける行為である。

動物はアフォーダンスを直接知覚するが、人間は間に<言語>を差し挟んで間接的に知覚する(これを認識と呼ぶのかも知れない)。
人間は「地面のアフォーダンス」を直接知覚すると共に、「道路」とか「アスファルト」などの<言語>を挟んだ間接知覚も同時に行う。
アフォーダンスの直接性を<言語>で緩衝し、認識に「幅」を持たせる。

<言語>はアフォーダンスの直接性を緩衝するが、言語にはアフォーダンスにくっつきやすい性質もある。
アフォーダンスにくっつき一体化した言語は緩衝機能を失い、言語そのものがアフォーダンスとしての直接性を持つようになる。
つまり人間はアフォーダンスと、アフォーダンス化した言語の中を生きる。

<アフォーダンス化した言語>の直接性から逃れるには、さらに緩衝材としての<言語>を知覚との間に差し挟む必要がある。
人間の「思考」とは、緩衝材としての<言語>を常に更新し続ける行為だと言える。
更新が止まると<言語>はアフォーダンスと一体化し、思考の無い直接性を生きることになる。

アフォーダンスは環境から「与えられるもの」と、それに対する「直接反応」との関係で成立する。
人間は環境以外に、他の人間から「与えられるもの」を受け取るが、それに対し調節反応した場合、そこに「アフォーダンス的人間関係」が成立する。

ある種の精神病は、意識でせき止められていた無意識の言語(シニフィアン連鎖)が、意識の言語(シニフィエ連鎖)に混入し、現実認識に妄想が混入する。
というか、この時<言語>がアフォーダンスとくっ付いて自明化してると、精神病になる。
だから「異常な言語」と一体化したアフォーダンスと、認知の間にあらたな<言語>を差し挟むと、それが「物語セラピー」という治療になる。
つまりどんな場合でも、主体的に<言語>を差し挟んで認識する習慣があると、精神を患う事も無いのである。

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アフォーダンスと行動プログラム

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アフォーダンス理論を採用すると、ぼくが傾倒していた動物の「行動プログラム」という概念は無効になってしまうかもしれない。
結局のところ「行動プログラム」という概念は「本能」という古い概念の枠組みに留まっており、アフォーダンス理論だけがそれを乗り越えることができる。

行動の際に「行動プログラム」を使用するのは人間だけということになるかもしれない。
人間だけが、コンピューターのような「計算能力」を持つと言えるのかも知れない。
動物の行動は身体構造とアフォーダンスとの協調によって規定され、そこに「プログラム」の出る幕はない。
プログラムは言語的概念であり、アフォーダンスは非言語的概念なのである。

動物のプログラムは「身体形成プログラム」としてのみ存在する。
なぜならDNAは言語だからである。
そして人間だけが、行動の規定にDNA由来の「言語」を使用する。

知性を外部に委ねる行為が「反応」であり、動物の知性はそのようなあり方をしている。
情報とは「差異」であり、動物は外部環境の「差異」を利用しながら生きている。
そして人間だけが、内部に「言語」という差異を持っている。
動物はアフォーダンスという一重性を生き、人間だけがアフォーダンスと「言語」の二重性を生きる。

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アフォーダンスと還元主義

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知性が人間の外部(環境)に存在するのなら「モノを作る」とは「知性をある場所から別の場所へ移動させる」と言い換えることができる。

と、考えてみたのだが「知性は外部に存在する」という捉え方そのものが、時代遅れの「還元主義」でしかない事にふと気がついた。
アフォーダンス理論はそもそも「関係論」なので、それを正反対の「還元主義」で理解する事は単なる間違いでしかない。

「情報と知性の違いは何か?」とか「知性とは何か?」などという問いの形式自体が、還元主義的な考え方のあらわれなのである。
「関係論」で考えると知性とは関係であり、関係の一方が失われると知性もまた失われる。

知性は知覚とアフォーダンスの関係として、または意識と無意識の関係性として存在する。あるいはそれらの接触点として存在する。
いや無意識はアフォーダンスの一種だとも言えるかもしれないが、アフォーダンスは非言語であり、言語で構成された無意識とは異なってる。

「還元主義」では、知性というものを「栄養消化」のイメージで捉えてきたのかも知れない。
食べ物は消化され体内物質へと変換されるが、同じように環境の情報が脳内で「知性」に変換されるというイメージは、アフォーダンス理論からすれば間違っている。
環境の情報は変換されずに脳内に取り込まれ、それ自体が「知性」として機能する。

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