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2011年11月19日 (土)

デュシャンと神様

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●宗教上の神様とは、子供の「ぼくがかんがえたすごいかいじゅう」みたいなもので、お互いの考えた「すごいかみさま」がエスカレートし、その結果「ひとりだけのすごいかみさま」と「かみさまよりすごいりんねこえたひと」の二極が見出された。

●「すごいかみさま」のすごさは、人類の長い歴史を積み重ねによって見出された高度なすごさだから、なかなか簡単には理解できないし、普通には想像すら出来ない。だからお手軽に「あんまりすごくないかみさま」で代用したり「かみさまなんていない」で済ませたりする。

●今はもう、宗教の時代はとっくに終わってるが、芸術とは「すごい」を扱う分野であって、だから同じく「すごい」を扱う宗教や神様の問題が気になってしまう。

●強い精神の持ち主が、弱い精神の人間を打ち負かすように、より強い社会はより強い<神>を必要とする。強い<神>を持つ社会は、体がボロボロになっても精神だけは明晰に統一される。

●人間の手足は、いわば精神の言いなりに奴隷となって働く。もし手足に精神が宿り自己主張を始めたら、多細胞生物として成り立たず個体が死んでしまう。同じく人間社会も、各自が自己主張すると集団として成立せず皆滅びてしまう。だから「精神機能の外部化」としての<神>が必要になる。

●アフォーダンス理論の本だったか、脳は司令塔ではなく反射鏡のようなものだと書いてあった。だとすれば、脳機能の外部化である<神>とはそれ自体が司令塔なのではなく、人々の想いの反射鏡だと言えるかもしれない。

●デュシャンのレディ・メイドの「任意の選択」って、旧約聖書の預言者や、新約聖書の使徒の「任意の選択」と重なってるのか…あっちじゃ当たり前過ぎて誰も話題にしないのかも?

●デュシャンは神様でもないのに任意の物体を「芸術」として聖別したりして、そんなキリストのような行いに、当時の人は驚いたり恐れたりしたのか…さすがに死刑にはならなかったが、永遠の命は得たっぽい?

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