共同制作で発揮される個性
前回の記事に遊星人さんがコメントを下さったので、記事でお応えします。
実のところ、ぼくはアートに関する知識が不足しすぎているので、あらためてジェフ・クーンズについて検索して、資料としてリンクを貼ったのでした。
>浮世絵師が実際の制作は「彫り師」や「刷り師」に任せていたのと同じようなものでしょうかね?。 映画や演劇やバレエのようないわゆる総合芸術も監督はコンセプトの指示をするだけで実制作はそれぞれのプロに任せていたりしますからね、欧米的な考え方ではアートの中心はプロデュースでテクニックは二の次という感覚があるのかも。。。
どうもぼくは「芸術=個人制作」という先入観に囚われていたようです。
ご指摘のようにこれには歴史的な根拠がなく、まさに先入観にすぎないようです。
むしろより強い個性を発揮するためには、個人制作には限界があり、より大勢のプロフェッショナルたちの助けが必要になります。
例えばタランティーノの映画にはタランティーノの強烈な個性が現れていますが、それも「個人制作」では表現し切れないものです。
個人の力には限りがありますから、その意味で個人制作には限界があり「創造の自由」が阻害されているとも言えるのです。
別の見方をすると、純粋な個人制作は成立し得るのか?という疑問も出てきます。
例えば自分ひとりで絵を描いているつもりの人も、絵の具や絵筆や紙は誰か他人に作ってもらっているのであり、その意味では共同製作なのです。
また、絵の描き方も必ず何らかの形で誰かに教わっている(誰かの影響を受けている)のであり、その意味でも共同制作なのだと考えることができます。
という具合に、そもそも個人制作なるものが成立し得ないのですから、より優れたアーティストほど、より多くの製作協力者を集めることができる、と定義できるかもしれません。
他人を集める力=人間力であるならば、より優れたアーティストがより大きな人間力を身につけていることは、当たり前だと言えます。
もちろん、お金と人手をかければ良い作品ができるとは限らず、そのことはハリウッド映画なんかが示してます。
また、多くの人々が大して価値のないものや人物に魅了されることもあります。
ですので「他人を集める力」も人間力を形成する要素の一つ、と考えた方が良さそうです。
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