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2012年2月

2012年2月22日 (水)

芸術と完全犯罪

文明社会は、根源的に「暴力」に支えられてる。
社会を成立させるためのルールとは、本質的に「暴力を抑えるための暴力」であり、「暴力はいけない」というルールも「暴力」によって支えられている。
つまり「暴力はいけない」という言葉は、「国家に管理されない暴力はいけない」という意味を示している。

文明の本質が暴力なら、文明の産物である芸術もまた、暴力と言えるのかも知れない。

野蛮な暴力は直接的で小さな暴力しか生み出さないが、文明的に高度な暴力は間接的により大きな暴力を生み出す。
暴力としての芸術にも、同じことが言えるかもしれない。
野蛮な方法の手作りでは「小さな芸術」しか生み出せないが、文明的に高度な方法はより間接的に大きな芸術を生み出す(例えば建築や映画など)。

芸術は本質的に暴力であり、だから暴力それ自体は芸術にならない。
芸術には暴力的な芸術と、非暴力的な芸術が存在する。
「非暴力的な芸術」とは、大人しく、平和で、人に癒しをもたらすが、箸にも棒にもかからない芸術でもある。

芸術はまた、本質的に犯罪でもあり、だから犯罪そのものは芸術になりえない。
芸術としての犯罪は「芸術としての法」を犯すことであり、だから「芸術としての法」をまず学ばなければ、犯罪のしようがない。
何も知らずにデタラメをしても「芸術としての法」の範囲内に収まるだけで、例えば芸術を爆破しても、凡庸な芸術にしかならない。

完全な芸術を成すことは、誰にもバレない完全犯罪を成すこと同様に難しい。
そして、高度に仕組まれた完全犯罪が、犯罪だと誰にも気付かれないように、高度な芸術もまた、多くの人に芸術だとは気付かれることはない。

安易な、誰にでもすぐそれと分かるような芸術は、犯罪としては中途半端で、犯罪のフリをした小心者の善良な振る舞いにすぎない。
「芸術は、爆発だ!」と叫んだ岡本太郎は、誰もが思い描く「非常識」を演じた常識人だったのであり、芸術的には犯罪者ではない善人に過ぎない。
警察が無能だと安易な犯罪が横行するように、評論家が無能だと安易な芸術が横行することになる。

完全犯罪を計画するように、完全な芸術を計画すること。
「そんな計画は思いつかないよ!」と思うアーティストは、善良な小市民に過ぎないのである。

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構造と歴史

カメラというのは、元はカメラオブスキュラという絵を描くための道具で、だから写真は元々絵画だったのだ。
その意味で現代においても「絵画」の意識の無い写真は写真じゃないし、画家の意識の無い写真家は写真家ではない。
つまり写真の表面をなぞった写真と、写真の元の絵画を含む写真との違いである。

と考えると、構造主義の《構造》とは《歴史》のことだったのか!と気付くのである。
レヴィ=ストロースの《親族の基本構造》も過去から連綿と受け継いできたものだし、フロイトの《無意識》にも意識できない歴史が隠れてる。
目に見える表層は《現在》で、目に見えない《構造》は《歴史》だったのである。

歴史が《構造》だとすれば、歴史を意識してない写真には《構造》が無く、《現在という表層》だけで出来ている。
つまりぼくの作品『反ー反写真』も、我ながら今ひとつ捉えどころが無いと思ってたが、それは自分の中に写真の《構造》が、十分形成されてないためだったのだ。

そう考えると、自分はどうも、これまで「印象派」という言葉が揶揄するところの、本当の意味を理解してなかった。
念のため解説すると、「印象派」という名称は、発表当時のモネやルノアールの絵を評して、新聞記者が「印象しか描かれていない」と揶揄した言葉が元になっている。
つまり《印象》とは目に見える表層だけで、見えない《構造》すなわち《歴史性》を欠いている事が非難されたのだった。

だが結局は「印象派」がメジャーになり、近代において《構造=歴史》を欠いたアートこそが、新たな時代に相応しいとされたのだった。
そして現代日本においては、「《構造》が無いのが現代アート」という概念が疑う余地なく自明化され、だからアーティストも《歴史》を学ばないのである。
だが実際はアートは《構造》によってのみ新しくなるのであり、《構造》を欠いた表層がいくら変わっても、本質はどれも同じに過ぎないのだ。

まさに、自分に足りないのは《構造》だったのだ!
自分は「構造主義者」を自称していたのに、何とも情けない話だが、でもそれに気づけたのも《構造》のおかげなので、まぁとしよう(笑)

しかしぼくはカメラの歴史は知っているので、カメラについては《構造》が認識できる、と言えるかも知れない。
例えば、戦前のライカにはカメラとしての《構造》があるが、ライバルのコンタックスはメカに凝りすぎてカメラの《構造》がおざなりにされてる。
オリンパスのフィルム一眼レフOMはライカから《構造》を引き継いでるが、デジタルのOMは表層をなぞっただけで《構造》が無い。
一般には見分けは付かないだろうが、《構造》が認識できるカメラマニアには、この微細な違いがどうしても期になってしまうのだ。

あと、ぼくは『五つの王国―図説・生物界ガイド』や日高敏隆『動物という文化』など読んで、生物の歴史はだいたい把握してるから、その意味での《構造》は理解してるつもりだ。
しかし、アートや写真については、そのように言い切れる自信が全くなく、まぁ、色んな事情もあって遠回りしながら考えているのだった(笑)

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2012年2月21日 (火)

ソシュールの連辞と連合

スイスの言語学者、ソシュールが説いた「連辞」と「連合」について、辞書的な説明と http://t.co/lUi5bbcv 彦坂尚嘉さんの説明 http://t.co/2REswtkcを読んだ 。
自分が理解したところによれば、「連辞」とは言葉の法則や常識など絶対的な連なりで、「連合」とは喚起されるイメージによる連なり。

もっと分かりやすく言えば、「連辞」は、言語の法則に従ってきちんと話される言葉であり、常識的に内容が伝わる言葉であり、まともな人なら誰もが共有できる言葉の領域である。
対して「連合」は法則や常識にとらわれない、イメージの喚起による自由な連なりで、夢や無意識の荒唐無稽な世界は「連合」の領域だと言える。
さらに意識の覚醒時、この「連合」の豊かさがその人の個性となり、質となり、そのことは学問やアートにとって非常に重要なのである。

つまり「連合」が貧弱な人は、「連辞」に依存し、常識的な思考をするから無個性になる。
反対に「連合」が豊かな人は、「連辞」に縛られることなく、創造的な分野で個性を発揮し成果を出すことができる。

「連合」を強化するにはどうすればいいのか?
「連合」とは先に書いたように「無意識」の領域であり、無意識とは「象徴界」という言葉の連なりであるから、結局はたくさんの言葉を学ぶと「連合」は強化される。
つまりは出来るだけたくさんの本を読んで、アートも優れた作品をたくさん見て、勉強することである。
そう考えると、自分自身はアートについて「連合」で語れるほど豊かに成熟してないことに思い当たるのだった。

という自分の立場を棚に上げて考えると、例えばアートについて、あるいは写真について、その人が「連辞」で語っているのか、「連合」で語っているのか、その見分けによって不毛な議論を回避することができるだろう。
一般に、多くの実作品を知る専門家はアートについてのイメージが豊かで「連合」によって言葉を連ねる。
対して素人は通俗的で杓子定規的な「連辞」でアートを語るから、話が噛み合わなくなる。
また、当初は豊かな「連合」であったものが、語り継がれる度に収縮し、凝り固まった「連辞」へと変化する場合もある。
だから専門家が素人に分からない言葉で語っていたとしても、それが「連合」であるとは限らないのである。

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ユニクロとメディアリテラシー

ベンジャミン・フルフォード『騙されるニッポン』読んだが、彼がメキシコに住んでた小学生時代、午前中はメキシコの教科書、午後はアメリカの教科書を使って同じ「アメリカ=メキシコ戦争・1846〜1848」の授業を受け、その記述の違いに驚いたそうだ。これぞ、まさにメディアリテラシー教育の見本である。

人間は自分が持っている情報でしか物事を考えられない。
そもそも「考え」とは「情報の編み物」である。
高度な考えとは多様な情報が複雑に、そして独自の仕方で編まれている。
物事を深く考える人は、そのように複雑に編まれた、高級なオーダーメイド服を着ているようなものである。
一方、自分ではあまり物事を考えない人は「常識」で物事を判断するが、その状態は、みんなと同じでお手軽なユニクロのセーターを着てるようなものだと言える。

メディアリテラシーを高めることは、有り体に言えば、大人として成長することである。
子供はリテラシーが未発達なのであり、大人になってもリテラシーが不十分な人は、子供と同じである

仕事が忙しい大人は、勉強する暇がなかなか取れず、勉強しても頭が固くなっていて、なかなか覚えられない。
だから子供のうちにできるだけ多くの知識を吸収すれば、それらは大人になってからメディアリテラシーの重要な「資源」になる。

メディアリテラシーにとって、「選択の結果を悔やまない」という心構えも必要と言えるかもしれない。
例えば、放射能を危険視したため職や家族を失っても、放射能を安全視したため癌になっても、自分で調べ自分で決断した結果を悔やまない。
例え情報を読み誤ったとしても、その失敗を受け入れ、次の対策を立てるためのリテラシーこそが大事なのである。
その心構えがない人は、情報を集めてもただそれに振り回されることになる。

メディアリテラシーは、自分の中の、知識のネットワークを広げることで強化される。
ネットワークの広がりが一定方向に偏ると、得られる情報も偏りリテラシーが損なわれる。
全方向に広くネットワークを広げる人ほど、高いリテラシーを獲得できる。
結局、努力無しにリテラシーは得られないし、リテラシーもまた人格の反映だと言えるのだ。
「普通で満足」と思う人は、分相応にユニクロ的リテラシーを身にまとうことになる。

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子供とメディアリテラシー

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「子供の科学4月号」に掲載予定の記事の、下書きのそのまた下書きのtweetをまとめてみた。
2011年12月27日の投稿。

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メディアリテラシーを身に付ける基本は、「反対意見にも目を通し、両者の考え方を比較する」「なるべく広い分野の知識を身に付ける」「常に自分が間違っている可能性を考慮する」かな?
逆にリテラシーがない人は、自分の賛成意見だけに目を通し、狭い分野だけの知識を身に付け、常に自分は間違ってないと信じている。
自分を過信して勉強しない人は、結局は他人に騙され、情報に振り回される。
メディアリテラシーの基本は、あらゆる問題に「客観的な正解」が存在し得ないことを理解して、あえて「自分なりの正解」を創造することにあるのではないかと思う。
だとすれば、これを学校で「正解」を学んでいる最中の子供に教えることは可能なのだろうか?
義務教育はさまざまな事柄の「正解」を子供に学ばせる。そのように身に付けた知識の「応用」として、メディアリテラシーはあるのかも知れない。
だとすれば子供にそれを教えるのは困難だろう。
しかし特に放射能に関しては、メディアリテラシーに無頓着な大人は子供を守ってくれないのだ。
人間は「不安」を抱くことで知恵を使い危険を回避することが出来る。
しかしそれは知恵を付けた大人だから出来ることで、子供には不可能だ。
だから大人は子供を不安にさせないよう、危険な情報を隠蔽して安心させる。
その上で大人は責任を持って、子供の安全を守ろうとする。
ところが、現在の日本政府は「庶民」を子供扱いして、だから危険な情報を隠蔽して安心させようとする。
しかし当然のことながら、政府には人々を守る力も責任感も無い。
「君主は無垢な庶民を子供のように守らなければならない」という儒教の教えが都合良く変形したかたちで残されている。
民主主義国家の市民は政府による保護なんか当てにせず、自分の身は自分で守るのが基本で、そのための武器のひとつがメディアリテラシーだ。
と捉えれば子供にだってメディアリテラシーを教えることは出来る。
子供は親の保護下にあるけれど、いつか自立しなければならない、と教えるのも教育だから。
メディアリテラシーって何歳くらいの子供から教えられるんでしょうか?ぼくは子供はいないし、自分の記憶も定かではないですが…でも「子供とメデイアリテラシー」は現代的テーマだと思う。
なぜって大人が頼りにならないからw
しかしそもそも「子供にメディアリテラシーを教えるのは無理」と考える事は「庶民に本当のこと知らせるとパニックになる」と考えること根っこが同じ。
どちらも相手を一律に捉え信用してない。子供も大人も「人それぞれ」だから、わかる人にはわかるし、そうでない人なそれなりに…w

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2012年2月20日 (月)

「路上ネイチャー」から見た放射能問題・自然のリテラシーから情報リテラシーへ

ぼくは月刊誌『子供の科学』に連載してるのだが、これとは別に「3.11から1年、と言うテーマで何か書かせて欲しい。」と編集部にお願いしたところ、「では糸崎さんの書きたいことを、企画書にして下さい。」と言われたので、とりあえず下書きのつもりで文章を書き提出した。

で、実際の「子供の科学4月号」(3月10日発売)には、「子供からの質問に答える」というかたちで400字ほどのテキストを依頼され、既に入稿を終えた。
提出した企画書から文字数は大幅に減ったが、その分圧縮率も高く、それなりに気に入った文章にはなった。

しかしせっかくなので、『子供の科学』には絶対に載らない長文の企画書を、ここに掲載してみる。

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「路上ネイチャー」から見た放射能問題・自然のリテラシーから情報リテラシーへ

ぼくは人間が住む都市環境に生息する生き物を観察し続けています。
しかし3.11の原発事故によって、日本の環境は放射能に汚染されてしまいました。
それ以来ぼくは、環境を考える視点の延長で、自分なりに放射能汚染について考えてきました。
ぼくは放射能の専門家ではありません。
しかし放射能は人体に悪影響を与えると言われています。
だから自分なりに放射能について勉強しなければ、自分の健康を守り、これからの日本を守ることは出来ないだろうと思ったのです。

原発事故による放射能汚染は日本人にとっても初めての体験です。
だからぼくだけでなく、大人の大半はそれについての知識が無く、ゼロから勉強を始めるしかありません。
逆に言えば、子供も放射能について勉強すれば、大人と同等の知識を身に付けることが出来るかもしれません。

ところが実は、放射能の危険性は科学的に解明されていないことが多く、専門家でも意見が分かれています。
つまりある専門家が「非常に危険です」と言っているのに対し、別の専門家は「それほどの心配はありません」と言っているように、意見がさまざまなのです。
だからテレビ、新聞、雑誌、書籍、インターネットなどには、さまざまに異なる情報や意見があふれています。
放射能の危険を煽る情報は「デマ」だという意見から、そのような情報こそ「安全デマ」だという意見まで、さまざまです。
そのようなときに大事なのは、自分なりに情報を集め、自分なりの考えを組み立てる能力です。
また情報を示す言葉の表面に囚われず、その裏の意味を読み取って解釈する力も必要です。
このような能力を一般的に、情報のリテラシー(読解力)と言います。

そもそもリテラシーは、自然観察の基本でもあります。
虫や鳥や植物は何も言いませんから、人間がその意味を読み取って解釈するのが自然観察です。
このとき大切なのは、例えば目の前のチョウを見るだけではなく、チョウが蜜を吸う花や、その花が咲いている環境も含めて観察することです。
もちろんチョウの種類を図鑑で調べて、その生態などを学ぶことも必要です。
そのような観察や勉強を積み重ねることで、自然についてのリテラシーが身に付くのです。
一方、世の中にはマスコミやインターネットを通じてさまざまな情報があふれ、その様子は自然の森のようにごちゃごちゃとしています。
ですから自然観察についてと同じように、情報のリテラシーが必要になるのです。

さて、放射能の情報について、どのようにリテラシーを身に付ければいいのか?ぼくなりの方法を紹介します。
ぼくは原発事故直後「放射能は人体に害があって怖い」と何となく感じていました。
こそでまず、書店やインターネットなどで調べ、自分が信用できそうだと思う「放射能の専門家」を探しました。
しかし自分が納得できる意見だけ集めても、情報が偏ってしまいます。
これは例えば自分が好きなチョウだけを見ていても、自然のリテラシーが身に付かないことと同じです。
だからぼくは、放射能について「自分は納得できない」と思えるような専門家の意見も、あえて知るように心掛けました。
また、ぼくと同じ一般の人々はどう思っているのか?を知るために、さまざまな友達と意見や情報の交換をしました。
この場合も自分の賛同意見ばかり聞くのではなく、人によってさまざまに異なる考えがあることを知るのが重要です。

例えば現在、多くの人が心配している問題のひとつが、放射能の「内部被曝」です。
放射能汚染された食品を食べると、放射能が人体内部に蓄積して内部被曝し、特に子供が癌にかかりやすくなると言われています。
しかし内部被曝はそれほど恐ろしいものではなく、「どの食品に放射能が含まれているのか?」に神経質になりすぎて、子供の健康をかえって損ねることの方が問題だ、と指摘する意見もあります。
このように異なる意見のどちらにも、それなりに納得できる根拠があり、それを知ることが大事なのです。

もう一つ、ぼくは原発事故のあと、放射線を測定するガイガーカウンターを買いました。
放射能が発する放射線は、目に見えないところが不安だったので、自分でそれを測定したかったのです。
ぼくは自分が住む関東各地、事故現場に近い福島市、遠く離れた関西などいろいろな場所で放射線測定しました。
その結果、現在の日本は場所によって放射線量が大きく異なり、放射能汚染が確かにあることが分かりました。
しかしそのような放射線測定値が、実際どれだけの危険度を示しているのか?それも専門家によって意見が分かれるのです。
だからこれについても自分なりに勉強し、判断する必要があるのです。

このように、ぼくはさまざまに異なる見解や知識を知り、ガイガーカウンターの数値も参考にしながら、自分なりの情報リテラシーを身に付けてきました。
もちろん、放射能対策についての「正解」を見出すことは簡単ではありません。
でもリテラシーを身に付ければ、より正解に近く、自分でも納得できる対処法が見つかるようになるのです。
これに対し、何も調べずにただ「何となくそう思うから」と言う判断を繰り返すと、情報に取り残されたり、情報に振り回されたりするのです。

実は学校の勉強は、キチンとすれば自然とリテラシーが身に付くように出来ています。
そのために国語、算数、理科、社会などさまざまに異なる分野の勉強をするのです。
特定の偏った知識だけでなく、さまざまに異なる分野の知識を組み合わせることで、情報リテラシーは発揮されます。
3.11に起きた東日本大震災と大津波、それに伴う原発事故に見舞われた日本は、大変な状況に置かれていると言えます。
だからこそ勉強して自分や家族の健康を守り、日本の未来のために役立てる必要があるのです。
別の見方をすれば、「なぜ勉強するのか?」の目的がハッキリし、勉強のしがいのある時代になったと言うことも出来ます。
その意味で、日本の未来は大変に明るいとも言えるのです。
勉強をしてリテラシーを身に付けることは、大人のぼくでも大変なことですが、読者のみなさんと一緒にがんばれればと思います。

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フランスに向けて「昆虫と原発事故」のメッセージ

フランスの「SOLDES」というアート雑誌に、自分の作品「東京昆虫デジワイド」が掲載されたのだが、そこに寄せた文章を以下掲載する。
誌面では仏・英・日のバイリンガルで表記されている。
内容は、以前このブログに書いた記事が元になっているが、いちおう翻訳のしやすさを考えて、日本語訳っぽい文体で書いてみたw
全掲載ページはこちらのブログを参照のこと。

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昆虫と原発事故

 『東京昆虫デジワイド』の写真の多くは私が地面にしゃがみ込んで撮影したものだ。しかし現在の東京は地面から通常の約1.5~2倍、一部の多い地域では通常の約4〜5倍の放射線が検出できる(私は自分のガイガーカウンターを持っている)。その原因はもちろん、2010年3月11日に日本を襲った大地震がきっかけで起きた、福島の原発事故から放出された放射能にある。この事態は一体何を意味しているのか?昆虫観察の立場から考えてみたい。実は昆虫観察を続けていると、それが期せずして「人間とは何か」ひいては「自分とは何か」を知ることに通じるときがある。今回の福島の原発事故をきっかけに、このことが自分の中で起きたのだ。

1:「プリセットされた思考」と「創造的思考」

 昆虫を観察していると、彼らは「遺伝的プログラム」に従って的確に作業(餌取り、巣作り、求愛、産卵など)をしているのが理解できる。だから人間も、ルーティンワークをこなしている時の意識は、実は昆虫と同じではないかと思える。昆虫の姿と人間の姿はずいぶん異なっているが、進化の系統樹ではつながっている。だから人間の意識の内にも、昆虫と共通の意識が含まれている、と考えることができる。

 昆虫の行動を支配する「遺伝的プログラム」とは、言い換えれば「プリセットされた思考」である。「プリセットされた思考」に従う昆虫は、何も考えずに効率よく生きていくことができる。しかし人間も、常に自分で考え行動しているとは限らない。ルーティンワークのほか、人間の行動の多くは「常識」や「習慣」や「思い込み」に基づいている。これらもまた「プリセットされた思考」であり、「自分で考えること」を省略する作用がある。このような「プリセットされた思考」は人間の生活を円滑にし、仕事の効率を高める。「プリセットされた思考」を利用するという点で、人間は昆虫の精神のあり方を受け継いでいる。

 昆虫の「プリセットされた思考」は環境に合わせて遺伝的に固定されている。だから昆虫の生存は、環境の状態に左右される。一方、人間の「プリセットされた思考」は遺伝的に固定されていない。そのかわり人間は「言語」というツールを使用し、「創造的思考」によってそれぞれの環境に適応した内容の「プリセットされた思考」をプログラムする。人間の「プリセットされた思考」は文化であり、それぞれの環境に適応するかたちで独自の文化が形成される。いっぽう「創造的思考」は既存の「プリセットされた思考」を疑う思考でもあり、これによって人間の文化は発展してきた。また天変地異などで環境が激変した場合、人類は「創造的思考」により絶滅の危機を逃れてきた。平和な時代においても、人間は昆虫的な「プリセットされた思考」と、人間的な「創造的思考」のバランスを取りながら生きている。

2:原発事故に対する日本人の反応

 以上の観点で福島の原発事故を考えると、これは間違いなく環境の激変だと言える。この原発事故いまだ収束の目処が立たず、発生した大量の放射能は周辺の福島はもちろん日本全土を汚染し、世界中に拡散しつつある。

 このような状況に対し、事故直後の日本政府は「ただちに影響はない」と国民に呼びかけ安心させ、「パニックを恐れて」という理由で情報を隠蔽した。日本国民は環境が激変した事実を知らされず、それに対応する手段を封じられてしまった。このため事故直後に周辺住民は大量の被曝をし、現在でも高濃度汚染地帯に多くの人々が暮らしている。日本政府は、放射線の影響を大きく受ける子供たちを疎開させず、そのかわり放射線の年間許容量を従来の基準から一気に20倍引き上げた。原発事故に対し日本政府は有効な対策をほとんどしないままに、国民に対し「これまで通りの生活」を強いている。また原発を運営する東京電力も、その監督責任者である原子力安全保安員も事故を過小評価し、テレビや新聞などのマスメディアも政府や東京電力それに同調し適切な報道をほとんど行っていない。日本のエスタブリッシュメントは「プリセットされた思考」に依存するあまり、「創造的思考」を失ってしまったかのようだ。実際、彼らは「自分で考えていない」ために当事者意識や責任感もなく、事態はますます悪い方向へ傾いてゆく。日本は昆虫の精神のみで運営され、近代国家としての体を成していないように私には思える。

 これに対する日本国民の反応はどうか?私が原発事故の危機感を訴えると、たいていの友人や知人たちは「心配し過ぎだよ」と笑ったり、「危険を煽るのは良くない」などと注意したり、何も返さず話を逸らしたりする。私と問題の共有ができる数少ない友人たちも、皆一様に「自分の周囲では原発事故の話がまともにできない」と漏らしている。現在、日本のインターネットでは原発事故や放射能に関する意見や情報が活発に行き交っている。しかしそのような問題に関心を持つ日本人は少数派で、大多数は楽観的で無関心であるようだ。「国家の性格は、その国民の性格が反映されている」とプラトンは述べているが、その指摘は現在の日本にも当てはまるようだ。もちろんこれは私にとっても他人事ではない。思えば私も、原発事故が起きるまでは、それがどんなに危険か知らなかったし知ろうともしなかった。私自身もこの国の「プリセットされた思考」に依存しきっていたのである。

3:人間の中に棲む「昆虫」の未来

 人間の思考が昆虫と同じように固定され、激変する環境に対応できないのだとすれば、その先の未来はどうなるだろうか?昆虫の場合は、環境が放射能で汚染されても、案外平気ではないかと私は思う。例え放射線で昆虫たちが癌や奇形になっても、昆虫自身は気にもせずただ生きるだけだろうし、世代を重ねれば全ては正常に戻るだろう。そもそも昆虫にとって、すでに環境は都市化により大規模破壊されている。そしてわずかに残った「変わらない環境」に適応した昆虫のみが生息しているのであり、その状況はこれからも変わらない。

 人間もホモ・サピエンスという「種」で考えた場合、今回の原発事故で絶滅するとは思えない。しかし人間が癌や奇形になってしまったら、その苦悩は「個人」が負わなくてはならなず、「種」が生き残ればいいという問題ではない。特に放射線は、大人よりも細胞分裂が活発な子供たちにより大きな影響を与えると言われている。現在は特に被害がないように思えても、数年後には日本中のあちこちで深刻な事態が頻発し始めるだろうと予測されている。また被害が世界中に拡大すれば、日本人はこれまでのように世界の人々から尊敬されなくなるかも知れない。とは言え私は原発や放射線の専門家ではなく、何も確定的なことは言えない。放射線の人体への影響は、医学的にも分かってないことが多いらしい。もしかすると大多数の日本国民の方が正しくて、私が事態を深刻に捉えすぎているだけなのかも知れない。

 ともかく、私は今回の原発事故がきっかけで、人間の中に棲む「昆虫」を発見した。もちろん自分の中にも「昆虫」は棲んでいるし、日本人以外の人々の中にも棲んでいるだろう。そのような「昆虫」と私はどう向き合えばいいのか?それを知るには、街中の昆虫観察をするように、人間の中の昆虫観察を続けるしかないだろう。

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IInsects and Fukushima Disaster

For many of the photos for Tokyo Insects DigiWide, I took pictures crouching on
the ground. But today, generally 1.5-2 times, or 4-5 times in some area, as high level
of radiation as usual can be detected on the ground of Tokyo (I have my own Geiger
counter). Needless to say, that is because of the radiation emitted from Fukushima
nuclear power plants, which was damaged by the earthquake on March 11. Here, let me
consider, from the point of view of insects, what this situation means. For me, observing
insects sometimes lets me think what human beings are and what I am. The accident of
Fukushima also made me think about that.

1. “Preset thinking” and “creative thinking”

Observing insects, we find that they do their work –feeding, nesting, building nests,
act of courtship and egg laying- precisely according to their genetic program. Talking about
human, I think we do routine works with the same feeling as that of insects. Although
human and insects appears very different, we share the same root of the evolutionary tree.
So, here, I say that human and insects have something common in their mind.
The genetic program which controls insects’ behavior is, in other words, the preset
thinking. As insects follow the preset thinking, they can live efficiently without thinking on
their own. As for humans, they don’t always act in their own will. Routine works and many
other human acts are based on the common knowledge, the custom and assumptions.
Those are also kinds of the preset thinking, which let us avoid thinking on our own. This
preset thinking makes our life smooth and enhances the work efficiency. In this regard,
humans inherit insects’ way of thinking.
The preset thinking of insects are genetically fixed in accordance with the
environment to live in. So, life of insects depends on the environment. On the other hand,
the preset thinking of human isn’t genetically fixed. Instead, we program our own preset
thinking which fits to the environment, with the creative thinking and the language. That
is to say, the preset thinking of human is culture; each unique culture is made in each
environment. On the other hand, the creative thinking can criticize the existing preset
thinking, and this exercise developed human culture. In case of natural disaster, human
has avoided extinction by the creative thinking. Humans use both the preset thinking
inherited from insects and the creative thinking, in peacetime too.

2. Reaction of Japanese to Fukushima disaster

No doubt Fukushima disaster has changed, and is changing, our environment
dramatically. The disaster doesn’t seem to be calming down, and the massive radiation
given off from the site is spreading around Japan and the world, not to mention Fukushima.
In such a situation, Japanese government explained that “this won’t exert influence”
and they hid the information for fear that the disclosure of the shocking information
might cause a panic. Japanese, who weren’t informed of the fact of the great change of
our environment, couldn’t deal with the problem appropriately. That is why residents in
Fukushima were forced to be exposed to massive radition, and still, many people lives in
highly polluted areas. Our government hasn’t evacuated the children, who are vulnerable to
radioactive exposure, and they suddenly raised the exposure limit to 20 times higher. They
are forcing people to lead an ordinary life, while making no effective countermeasures.
Both the Tokyo Electric Power Company, which runs Fukushima plants, and Nuclear and

Industrial Safety Agency, which supervises TEPCO, underestimate the accident. Mass
media like newspapers and TVs go along with them and dare not report the truth. Those
in charge seem so dependent on the preset thinking that they forget to use the creative
thinking. They neither think on their own nor have a sense of responsibility, which is
causing the situation worse and worse. This country is run by insects’ mind, and this can no
longer be called as a modern nation.
How about the Japanese people’s reaction to this problem? When I talk about the
danger of the nuclear accident, many of my friends laugh at me saying “you are afraid too
much”, or warn me saying “don’t inflame the sentiment of fear”, or ignore me. Whereas,
all of the friends who can share the sense of danger with me complain that they can talk
about the nuclear problem with very few people around them. Today, the nuclear plant
accident and radiation matters are becoming the hot topic of discussion. But Japanese who
are interested in those problems are in minority, and most of Japanese are optimistic and
indifferent. As Plato pointed out, the characteristic of a state reflects that of the people; this
can be said about Japan. This concerns me too, of course, as I hadn’t known, or hadn’t
tried to know, how dangerous nuclear plants are until the accident. In that sense, I was no
less dependent on the preset thinking than this country is.

3. Future of insects in human

If the thought of humans are fixed and cannot be adapted to the changing
environment, what will be the future of us? Talking about insects, I think they can survive
the radiation-contaminated nature. Even if they get cancer or deformed, they will lead a
usual life and they will be normal after some generations. For them, the environment has
already greatly changed by urbanization. There survive only insects which adapted to small
unchanged areas, and this situation won’t be changed.
As to humans, when we think about the whole human beings, I don’t think we will be
extinct because of the Fukushima disaster. If someone get cancer or deformed, we have
to think about the individual, not only about human being as a species. Radiation is said
to have more influence on children, whose cell division is more active than grown-ups.
Although the situation seems all right today, it is predicted that many serious problems will
happen around Japan in several years. But I cannot be sure about these matters, for I am
not an expert of nuclear engineering. The influence of the radiation may not be clear for the
experts, neither. It can be true that the majority of Japanese are right, and I am taking the
situation too seriously.
I have found insects in human while thinking about the nuclear accident. Of course, I
have a kind of insects’ thinking in my mind, and so do people around the world. How should
I deal with insects in our mind? In order to know that, I will continue to observe insects in
humans, just as I observe insects in the city.

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